洛南の春爛漫

 

散る桜 残る桜も 散る桜  良寛

 

西岸寺(油懸地蔵尊)〜宇治川派流〜長建寺〜伏見港〜三栖閘門〜久御山町・前川堤〜八幡市・背割堤〜淀

 

今年で何度目かな?・・毎年、久御山・前川、八幡・背割堤へ花見に出かけますが度々に素晴らしい春爛漫を満喫させてくれます!(^-^)v

淀川河川公園背割堤(剣先/淀川三川合流域) ☆地図

背割堤は京都府八幡市の北辺に位置し宇治川と木津川を分ける細長い桜堤の堤防です。明治初期、木津川の付け替え工事に伴ってできた宇治川左岸、木津川右岸の堤防の一部です。明治30年(1897年)から宇治川の改修工事が始まり日露戦争による中断もあったものの明治43年(1910年)に完成し現在の姿となり「背割堤」と呼ばれるようになりました。両河が合流(淀川)する先端が剣の様な形をしている事から「剣先」とも呼ばれています。平成元年(1989年)4月、「淀川河川公園背割堤地区」が開園され毎年、この辺り一帯において八幡市、八幡商工会議所などが後援して『背割堤「やわた桜まつり」』を開催しています。この辺り一帯の河川敷にはヨシなどが茂り多種の野鳥や昆虫を見る事ができる都市近郊では貴重なエリアになっています。

かつて伏見城の外堀だった濠川 朝ドラ・カーネーションに登場していた酒蔵 ユキヤナギ
ここのマンションの桜も毎年、見事な桜花繚乱を楽しませてくれます!今年も見事な桜花繚乱!!! ☆⌒(*^∇゜)v
西岸寺(油懸地蔵尊) ☆地図

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

西岸寺(油懸地蔵尊)・・寺田屋で幕吏に襲撃された龍馬が、ここに身を隠したという伝承がある。 松尾芭蕉句碑
油掛地蔵尊堂 本堂
日本の春と言えば・・・やっぱ桜やね〜\(●⌒∇⌒●)/
えぇなぁ〜(●⌒∇⌒●)
角倉了以水利功碑 宇治川派流と旧高瀬川合流地点
であい橋(濠川・宇治川派流合流地点)
・・・ 宇治川派流の桜も、えぇなぁ〜o(*^▽^*)o
(*^▽^*)v 宇治川派流沿いをテクテク・・・
Deep Impact! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
Beautiful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! 幕末維新のステージ・寺田屋
坂本龍馬とお龍@寺田屋浜 桜満開の宇治川派流をいく十石舟
桜と雪柳と柳と酒蔵そして、水辺のコラボレーションが美すぃ〜☆⌒(*^∇゜)v
宇治川派流の桜と柳と三十石船も、えぇなぁ〜(@^▽^@)
十石舟弁天橋乗り場界隈の桜、ユキヤナギも満開や〜\(●⌒∇⌒●)/
伏見五福の一・長建寺(弁財天/開運・商売繁盛の神) ☆地図

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)、時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は「伏見の弁天祭」と言われます

島の弁天さんと親しまれる長建寺 境内 かつては三十石船に時を告げていた梵鐘
弁天型灯篭(伏見奉行・建部内匠頭奉納) ・・・ 糸桜も美しい・・・
本尊・弁才天は、音楽を司る神とし古来、花柳界の信仰を集め境内は桜と椿の花名所
えぇなぁ〜(●⌒∇⌒●) 伏見名水「閼伽水:あかすい」
・・・ 長建寺をあとに・・・
今年も桜の季節になって巡航している十石舟
えぇなぁ〜(@^▽^@)
Wonderful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
秀吉が築いた河川内陸港・伏見港、伏見ょ水害から守るために建造された三栖閘門 ☆地図

☆伏見港・・・文禄3年(1594年)豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。☆三栖閘門・・・伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

豊臣秀吉が開いた河川内陸港の伏見港 ・・・ 三栖閘門
三栖閘門閘室沿いの桜並木
(*^-^*) 三栖閘門動力モニュメント ・・・
宇治川右岸堤防 ・・・ 1号線・宇治川大橋を久御山へ・・
万葉の蓮見池・巨椋池(おぐらいけ)

かつて、京都市南部の宇治川左岸に広がっていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池がありました。巨椋池は、太古の時代に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残とされます。洪積世第三期末〜第四期にかけての大規模な地殻変動によって出来た凹地に水が溜まり、やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、湖水は次第に狭められ、一番低地だった所が巨椋池として残りました。巨椋池の特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池という事です。巨椋池の由来は「大椋」、「巨椋」と称する部族がいたとか、巨椋神社の社号が地名となり、池名に転用されたとも伝えます。巨椋池は河川交通の中心であったのは勿論、魚貝類や水生植物の宝庫で、夏には蓮の花が咲き乱れるという自然の恵みに洪水の脅威があるにも関わらず、人々は沿岸に定住し農業、漁業や狩猟などを生業としました。明治後期、宇治川(澱川:よどがわ)などと分離され池の水位は著しく低下し、マラリアなどの疫病発生や水害が繰り返された為に昭和8年(1933年)、我が国初の国営干拓事業として着工され、昭和16年(1941年)に巨椋池干拓田が完成しました。戦中戦後は農地として貢献し近年は近隣の都市化が進み、交通の要衝ともなり、干拓田の様相も様変わりしてきました。巨椋池が干拓される迄は、初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。当時の蓮を彷佛させてくれるのが、地元の蓮愛好家の内田蓮園です。蓮園は大池神社の北側、東一口野菜洗場付近にあり、7〜8月の開花時期には巨椋池に自生していた品種や各地の蓮、200種以上が見事な花を咲かせます。

宇治川の葭原は野鳥の楽園(巨椋池跡) かつて広大な巨椋池が広がっていた干拓田 巨椋池の動植物を鎮魂する「大池神社」
大池神社 ☆地図

巨椋池に生息していた全動植物の鎮魂と農業の安全と繁栄を願って創建されました。昭和28年(1953年)に襲来した台風13号で宇治川左岸が決壊し、境内にある大池漁業記念碑の上端は、当時の洪水浸水線と伝えます。

巨椋池碑 先端が洪水浸水線と伝える大池漁業記念碑 本殿
改修工事では、地元の要望を踏まえて桜を現状のまま残し、桜の手入れや水路のごみの回収もできる遊歩道が新設される。
「京都の自然200選」に選定されている前川堤の素晴らしい桜並木 (@^▽^@)
巨椋池排水幹線(前川)の桜並木・・・何回訪ねても、えぇなぁ〜 (@^▽^@)
えぇなぁ〜(@^▽^@)
Beautiful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
Wonderful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! 前川橋
山田家の長屋門 こま札
安養寺 ☆地図

久御山東一口 (ひがしいもあらい)にある紫金山と号する浄土宗知恩院派の寺。本尊・十一面観世音菩薩は鎌倉時代初頭に弥陀次郎という漁師が夢のお告げで淀川の神の木淵(伏見区淀町付近)から引きあげた仏像であるという弥陀次郎(みだじろう)伝説を今に伝え、奉賛する祭りは、彼岸の入り前の土曜日、日曜日におこなわれます。初日の午後10時半からの初夜の前鐘、勤行から始まり、翌朝の御開帳、日中、そして閉帳と計8回、荘厳な鐘とともに、六字詰念仏が奉納されます。集落に鳴り響く鐘の音は、久御山東一口の人たちに春の訪れを告げると言われます。

弥陀次郎(みだじろう)伝説を今に伝える浄土宗知恩院派紫金山・安養寺
・・・ 集落にひっそりと鎮座する豊吉稲荷 見事やな〜(*^▽^*)/
巨椋池排水幹線(前川)の桜並木
排水機動力 巨椋池(前川)排水機場 ・・・
淀川渡船所 ☆地図

明治36年(1903年)、淀川改良工事により宇治川流路は淀城の北を通り桂川に合流する流路から現在の流路に変更されたことで巨椋池の漁村であった一口(いもあらい)と淀が宇治川によって隔てられた。そのため淀〜西一口(にしいもあらい)へ渡し船が運航された。この渡し船は淀大橋を経由して淀と結ぶバス路線が開設されることにより昭和30年に撤廃された(『久御山町の今昔』1981年久御山町郷土史会刊)。この碑は西一口側のかつての渡し場があった所を今に伝えている。

かつての西一口側渡し場を示す淀川渡船所碑 宇治川左岸堤防を疾走ing・・・
京阪電車澱川(よどがわ)鉄橋 男山遠望 御幸橋(宇治川)か゜見えてきました・・・
洛南随一の桜並木・背割堤 ☆地図

宇治川と木津川の合流地点迄、約1.4kmの堤に約250本の桜並木(ソメイヨシノ:バラ科)が続きます。京阪電車の車窓からも美しい桜並木を見る事ができます。目の前に広がる桜のトンネルは格別で桜花とホトトギスなど野鳥のさえずりに包まれた桜の花繚乱の見事さは、洛南随一だと思います。昭和50年代始めまで松並木で「山城の橋立」と称されていましたが害虫被害で松が枯れ昭和53年(1978年)3月、当時の建設省が桜(ソメイヨシノ)に植え替えて今日に至っています。府道・京都守口線(旧国道1号線)の御幸橋(ごこうばし)から下流方向に1.4kmの桜並木になっています。ソメイヨシノ約250本、ハナミズキ52本が植栽されています。

天王山と御幸橋(宇治川) 男山と御幸橋(木津川)

洛南随一の桜並木・背割堤

背割堤入口から約1.4km続く見事な桜並木
・・・ 駐輪場へ・・・ 花見船のEボート
たくさんの花見客で繁盛している露店・・寿司や弁当、フルーツの店もあります!(*^-^*) 御幸橋(宇治川)
俳人・荷兮(かけい)、基角(きかく)の歌碑 約250本の桜並木(ソメイヨシノ:バラ科) 花見船乗り場@宇治川
今年も見事な桜のトンネル(^-^)v 木津川は、この先で宇治川と合流
昭和50年代始めまで見事な松並木で「山城の橋立」と称されていましたが害虫被害で松が枯れてしまった・・・
昭和53年(1978年)3月、当時の建設省が桜(ソメイヨシノ)に植え替えて今日に至っています。
光秀と秀吉が戦った天下分け目の天王山 Wonderful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
Beautiful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! 桜並木が1.4km続く背割堤西端
お〜宇治川をいくEボート! ズ〜ム!(^-^)v 西端から見た背割堤の桜並木
今年も見事に咲き誇ってくれた背割堤の桜並木!\(●⌒∇⌒●)/
日本の春と言えば・・・やっぱ、さくら、サクラ、桜やね!\(●⌒∇⌒●)/
華やかさと儚さを併せもつ桜・・・やっぱり最高〜(*^▽^*)えぇなぁ〜
毎年の春に約250本の桜(ソメイヨシノ:バラ科)が満開になり訪れる人々を楽しませてくれる。♪♪v(⌒o⌒)v♪♪
さくらのトンネルを抜けると・・・出口だった?!(≧▽≦)ぷっ 宇治川をいく花見船
・・・ ・・・ ・・・
背割堤をあとに・・・ 御幸橋(宇治川) 御幸橋(木津川)と男山
洛南随一の桜並木の名所・背割堤と天王山
背割堤の桜並木と宇治川をいく花見船 ズーム!(^-^)v 御幸橋(宇治川)
淀へ・・・ 早咲きの河津桜 淀在住の元・YTVのお天気おじさんK氏の店
与杼(淀)神社 ☆地図

豊玉姫命・高皇産霊(たかみむすび)神・速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年〜63年)僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝えます。

淀の産土神として鎮座する與杼(与杼:よど)神社
えぇなぁ〜(●⌒∇⌒●)/ 本殿 JRA京都競馬場の桜も見事なり!(^-^)v
京阪電車・淀駅が移転したので淀本町商店街の人通りに変化?・・地元商店街が元気だと町に活気が出ます!がんばれ商店街!!o(*^▽^*)o
千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 ☆地図

淀千両松堤の戦いで戦死した東軍(新撰組隊士など旧幕府軍)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。花なども毎日取り替えられ綺麗に手入れされています。・・・この埋骨地には幽霊伝説があります。千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と旧幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。傍に建立された記念碑に「・・・一瞬の時差により、或る者は官軍となり或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。」と記された一説が鳥羽・伏見の戦の本質だとも言われます。

・・・ 新撰組隊士の幽霊伝説がある千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」
戊辰戦最大の激戦だった薩長軍と土方歳三率いる新撰組(旧幕府軍)が激戦を交わした千両松 国道1号線を北上・・・

Tourist.2011.4.11(M)

 

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