宇治の里山ポタリングU

 

さびしさは 忍びこそせめ 厭いとひ来て 世を宇治山の 峯の松風 頓阿

 

寺田屋西国三十三所第十番札所 宇治・三室戸寺〜志津川(神女神社)〜天ヶ瀬ダム〜浮島(塔ノ島)

 

志津川

三室戸より東へ約1km、天ヶ瀬より志津川の渓流に沿って約1kmで達する山間地域で口碑によると、この地域の祖先は、平家の落ち武者で、その子孫は山林伐木を業として一村を成したと伝えます。神女神社の前に、その旨を記した「志津川村碑」が建っています。ひと昔前まで、村の長老十人を選び十老によって諸事万端を執り行ったとも伝えます。以前は山林や茶樹の栽培を主な生業としたが、近年は、道路整備によって交通も便利になり街へ勤める人が多くなりました。また三室戸寺が、はじめ志津川にあったことは「山城名勝志」に記すところですが、その寺跡については明らかにせず、おそらく志津川地域の東北、志津川に臨む山麓のやや平坦な所と推察され、そこは寺名の起こりとなった御諸(みもろ)山と呼ぶに相応しい巨大な岩山が背後に突兀と聳えています

坂本龍馬、お龍ゆかりの旅籠・寺田屋 柳と紫陽花が美しい宇治川派流と酒蔵
伏見の弁天さん・長建寺 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) 平戸樋門と観月橋
宇治川右岸堤防・・・(;´д`)ゞあちぃ。。。 木幡池
隠元橋 宇治川右岸堤防・・・間もなく京滋バイパス
西国三十三所第十番札所 宇治・三室戸寺

西国三十三所第十番の観音霊場(札所)として古来、寺名は世に名高く、明星山と号し元は天台宗寺門派(三井寺)に属したが今は、本山修験宗の別格本山です。寺伝によると光仁天皇の宝亀年間(770〜80年)、禁中に奇端があり右少弁・藤原犬養は勅命によって当地を探ったところ菟道(うじ)山の奥、志津川上流(岩淵)において一体の黄金の仏像(千手観音菩薩)を得ました。光仁天皇は叡感のあまり御室を移して尊像を安置し御室戸(みむろど)寺と名付けたのが当寺の起こりと伝えます。開創以来、天皇、貴族の崇拝を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わう事となりました。宝蔵庫には平安の昔を偲ぶ五体の重要文化財の仏像が安置されます。現在の本堂は文化2年(1805年)に建立された重層入母屋造りの重厚な建築で、その背景には室町時代の十八神社、東には鐘楼、三重塔があります。

京阪宇治線・三室戸駅 三室戸寺 山門
えぇなぁ〜(*^▽^*) 歌碑
一万株の紫陽花苑(三室戸寺 与楽苑) Wonderful! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
えぇなぁ〜(@^▽^@)
えぇなぁ〜(@^▽^@)
えぇなぁ〜(@^▽^@)
えぇなぁ〜(@^▽^@)
えぇなぁ〜(@^▽^@)
本堂への階段 7月頃にハスが見頃の境内
霊泉・不動水 芭蕉句碑 スイレン
若貴兄弟(若乃花、貴乃花)の手形 勝運祈願の宝勝牛(牛玉) 本堂
浮舟の古跡

浮舟は「源氏物語・宇治十帖」の主人公です。昔は奈良街道沿いに浮舟社という社があり水上交通の守り神でした。幾度かの移転をへて、現在地に置かれました。

祈願線香を3本点して3つの願掛けと感謝 [第五十一帖・浮舟(うきふね)]之古跡
親鸞の父・日野有範の墓と伝える阿弥陀堂 有範の居住したという四十八願寺の額 境内
三重塔
元禄17年(宝永元年:1704年)に建てられたものですが、元は兵庫県三日月町の高蔵寺にあったもので、明治43年(1910年)に移建されました。
梵鐘 三重塔 十八神社本殿(重文:室町期)
もう紅葉(@_@;) 十三重石塔 ガクアジサイ(額紫陽花)
テマリアジサイ 池泉回遊式庭園
ハナショウブ・・・多分(^▽^;) 枯山水石庭 一万株の紫陽花苑(与楽苑)
キララくん、暑いけど志津川へ行こっか(^▽^;) 志津川へ・・・(;´д`)ゞあちぃ 峠ピークo(*^▽^*)o
神女(しんめ/しんにょ)神社

志津川に住んでいた平家の落武者の子孫が祀っていた祠が幾つかあり、明治に入ってから、これらの祠を一つに合祀した神社を作り、祭神が女性であることから、「神女神社」と名付けた。安芸の宮島にある平家ゆかりの厳島神社と同じく市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする志津川地域の産土神です。元は志津川地域の西南にあったが明治6年(1873年)、当地に移したと伝え、八幡神と三輪明神を合祀しています。境内の背後には、俗に伊勢講山と称する巨大な岩山がそそり立ち、前方は仙郷川の渓流に臨んですこぶる幽邃に富んでいます。この社前の渓谷を竜ヶ壷といい、喜撰法師が行を営んだ所とも伝えます。昔は、奇岩、怪石が渓流に横たわり水は数丈の滝となって奔流していたと伝えるが、今は道路改修などにより往時の面影はまったく見られません

喜撰法師が行を営んだと伝える竜ヶ壷 神女神社
志津川村碑 瀟洒な境内 伊勢講山と称する巨大な岩山
本殿 里山の風情を醸し出している志津川
・・・ えぇなぁ〜(*^▽^*)
志津川を抜けて・・・ 天ヶ瀬へ・・・ 清流・志津川
ダウンヒルやんか〜♪♪v(⌒o⌒)v♪♪ 白虹橋に到着 旧志津川発電所
天ヶ瀬(あまがせ)ダム

宇治橋の上流約2.5km、宇治川天ヶ瀬に水害防止と発電の二つを主目的に建造されたダムで高さ73m、長さ254mのアーチ式ダムで2000万㎥(東京ドーム7杯分) の貯水量で下流域の洪水を防ぎ新たに発電所を設け92000kwの電力を宇治市、城陽市などに送電し併せて宇治、城陽、久御山、八幡市など山城地域へ上水道(府営)の取水口も設けられています。総工費66億円と言われ当時、我が国土木技術の粋を結集して昭和32年(1957年)〜7ヵ年半の歳月を費やして同39年(1964年)11月に一応完成しました。ダムの完成により宇治川に延々24kmに渡って一大人造湖が出現し他所に見られない水上公園とされ鳳凰湖と名付けられました。

旧志津川発電所 天ヶ瀬ダム@白虹橋
プロペラ船などの乗船場遺跡 天ヶ瀬ダム、発電所 旧志津川発電所
おとぎ電車、宇治川ライン 

大正13年(1924年)、宇治川電気によって志津川発電所が建設された際、発電所に先だって大正9年(1920年)に建設された大峯堰堤(ダム)と発電所との間を結ぶ3.6kmの資材運搬鉄道が建設されました。軌間・610mm(狭軌)、直流600Vで電化された本格的なものでした。戦後、この路線を観光用に活用することが立案されました。宇治川には「宇治川ライン」と呼ばれる観光船が大正15年(1926年)から宇治川汽船により就航、昭和50年(1975年)に廃止されたが、観光船は大峯堰堤(ダム)よりも宇治寄りには運行することができず、そこまでのアクセスが問題となっていました。この為、早くからこの専用鉄道の転用案が出ていました。遊覧鉄道への転用に当たり、地方鉄道法や軌道法といった運輸事業目的の鉄道として事業申請を行う場合、手続きが煩雑になり、法定対応の為に必要なコストや租税額が大きい事が判明。そこで児童福祉法に基づく遊戯物(遊園地と同じ扱い)にする事で、これらの問題を回避しました。この方針に沿って必要な設備の整備が行われ、昭和25年(1950年)10月11日、「おとぎ電車」として開業しました。運営は京阪電気鉄道が行ない、車両は凸型車体の電気機関車(25HP×2)に客車7両1編成が充当されました。志津川発電所側は「天ヶ瀬駅」、上流の大峯堰堤(ダム)側は「堰堤駅」と決まり、途中駅はなし。参考までに運賃は大人40円、小人20円でした。当初は1編成のみで、冬季は運休しました。翌年、春の運行再開に際して客車1編成が追加されました。遊覧鉄道でしたが、観光客の少ない平日は地元民の足としても利用されました。おとぎ電車は人気を集め、行楽シーズンの休日には乗り場に乗車を待つ観光客の長蛇の列ができました。当初、宇治方面から、おとぎ電車乗り場まで十分なアクセスがなかったので昭和28年(1953年)4月、京阪電鉄は平等院近くの塔の島〜電車乗り場までプロペラ船を就航させました。しかし、同年8月14〜15日にかけての「南山城水害」で宇治川の河床や流路が変わり、プロペラ船が運行できなくなり、追い打ちをかけるように9月25日、台風13号の豪雨でおとぎ電車の線路冠水や車両の流失を含む大きな被害を受け、運行停止状態となりました。地元から京阪電鉄に対しておとぎ電車とプロペラ船の復活を求める要望が強く出され翌、昭和29年(1954年)4月、おとぎ電車が運行再開されました。このとき新調された客車はタルゴ式を取り入れた6車体連接式(通称・むかで号:昭和29年3月30日竣工)でした。しかし、プロペラ船は復活されませんでした。この台風被害によって、防災の観点から、当時存在していた大峯堰堤(ダム)に代わる新たに天ヶ瀬ダム建設計画が浮上しました。これにより、おとぎ電車の線路はほぼ水没する事になり、昭和35年(1960年)5月31日を最後に、10年間の運行に幕を閉じました。宇治川の観光船は天ヶ瀬ダム完成後、天ヶ瀬ダムを発着点とする形となったが、昭和50年(1975年)11月限りで廃止されました。※参考:宇治市歴史資料館・昭和の子どもたち

おとぎ電車の天ヶ瀬駅、線路かあった所・・・大峰堰堤(ダム)までの3.6kmの遊覧鉄道でした。 天ヶ瀬吊橋
天ヶ瀬吊橋を左岸〜右岸〜左岸・・・往復しました☆⌒(*^∇゜)v
この辺りにおとぎ電車のゲートがあった 天ヶ瀬をあとに・・・ 蛍塚
・・・ 天橋立?(^∀^ヾ 喜撰橋方面
浮島十三重石塔(重文:鎌倉期)

塔ノ島中央にあり花崗岩製で高さ15m、我が国現存中最大の十三重石塔です。弘安9年(1286年)、奈良西大寺の僧・叡尊(興正菩薩)が宇治橋の架け替えに際して建立したもので上人は橋の流失は乱獲される魚霊の祟りであるとし殺生の罪を戒め網代を捨ててこの地に経巻共に埋め供養塔としたものと伝わります。石塔は宝暦6年(1756年)の大洪水で倒れ、約150年間埋没していたものを明治41年(1908年)に発掘されて再建されました。一説に上から五番目の塔芯を石川五右衛門が盗み出し伏見の藤森神社の手水鉢の台石であると伝えます。

浮島(塔ノ島)、朝霧橋方面 日本最大の浮島十三重石塔(塔ノ島) 喜撰橋と浮島(塔ノ島)
えぇなぁ〜(*^▽^*) [第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡 紫式部と宇治橋
橋から飛び出た部分が三の間 巨椋池水の道
・・・ (*^-^*) 京滋バイパス側道を左岸〜右岸へ
宇治川 隠元橋 観月橋
近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) 宇治川派流 酒蔵
黄桜記念館

伏見名水「伏水」

何を買ったかは・・・ヒ・ミ・ツ?!(^∀^ヾ

Tourist  2009.06.15(M)

 

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