都を守護した将軍塚チャリテチ探訪

 

ことはりや 夢の浮橋心して 還らぬ御幸 志ばし止めむ   僧・道円

 

西方寺〜撞木町遊郭跡〜東福寺〜建仁寺〜祇園社(八坂神社)〜円山公園〜将軍塚〜安井金比羅宮

 

将軍塚

桓武天皇は都を奈良から京都の南方、長岡に移されたが、いろいろと事故が続いた。この時、和気清麻呂は狩に事寄せて天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨進言した。天皇はその勧めに従って延暦13年(794年)、整然とした区画の大規模な建都に着手された。天皇は、京都盆地が三方が山に囲まれ、帯のように河も流れて自然の城のような地形をしているので山背の国を山城の国と定め、都を平安京と呼べと申された。永くこの都を護るようにと祈りをこめて高さ2.5m程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられ、この塚を「将軍塚」という。
この「将軍塚」は、国家の大事が起ころうとする時は鳴動して青空がたちまちかき曇り、道行く人の顔がはっきり見えぬくらいに暗くなったり、夜空に兵馬が駆ける音がしたことなどが、源平盛衰記や太平記に残されいる。また、延元年間(1338年頃)には新田義貞がここに陣を敷いて足利尊氏の軍を敗り、また近くは太平洋戦争にここが高射砲の陣地にもなりました。将軍塚は、「強者どもが夢の跡」でもある。
平安遷都(794年)〜明治元年(1868年)に都が東京に移るまでに千有余年の間、京都は日本の政治、文化の中心地であったので、将軍塚の辺から眼下に広がる京都の街を眺めるとき栄枯盛衰の永い歴史が思い出されて感慨深いものがある。     青蓮院門跡 別院・大日堂パンフより

西方寺

もと久米寺(天台宗)と号し、旧久米村の金札宮境内にあったが、元亨2年(1322年)、金松弥三郎(北条継貞従族)が、覚如上人に帰依して出家剃髪し久米寺を再興して存覚上人(覚如子)に寄進した事から真宗となり寺名も光明山西方寺と改められた。因んで金松御坊と言います。文禄年中、伏見築城にあたって久米町に移り、慶長初年に風呂屋町に移った。寺宝に後伏見、光厳、後崇光、後陽成各天皇の辰翰と伝える古文書を有する。

西方寺 境内
鐘楼 本堂 酒蔵
撞木町遊郭跡

慶長9年(1604年)、渡辺掃部、前原八右衛門の両名により開設されました。伏見の発展と共に元禄期(1688〜1704年)全盛を迎え、元赤穂藩家老・大石良雄(内蔵助)が敵の目を欺く為、この地で遊興した事で知られます。

旧奈良鉄道の鉄橋橋脚跡(レンガ部分) 撞木町遊郭跡 大石良雄(内蔵助)遊興の地記念碑
撞木町遊郭遊郭之碑 写真左奥の溜まり場が墨染インクライン跡 疎水右岸を北上・・・
東福寺塔頭・正覚庵(筆寺) 廃筆の労を謝する塚を築いた筆塚 高名な書道家や画家の筆塚
東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。6万坪(約20万u)に及ぶ広大な境内には本堂以下、幾多の堂舎が甍を並べています。当寺は平安中期以来、藤原氏の氏寺として藤原忠平が建立した法性寺(ほっしょうじ)に関白・九条道家(藤原道家)が聖一国師を請しで開山とし、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に創立にかかり、19年後の建長7年(1255年)に竣工した九条家の氏寺で奈良の東大寺と興福寺の一字づつを採って東福寺と名付けました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり、室町時代には禅宗五山の一に数えられる大寺となり塔頭子院37宇に及び壮観さは俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と言われました。中世の兵火にしばしば、罹災し大半を焼亡しました。更に明治14年(1881年)12月、方丈からの失火によって惜しくも仏殿、法堂、方丈などを焼失しましたが、三門、東司(とうす)、禅堂は類焼を免れました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と失火で荒廃しましたが、現在の仏殿が竣工したのは昭和9年(1934年)で法堂は未だ再建に至っていません。塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は応永年間(1394〜1428年)の再建で禅宗寺院三門中では、最古です。

本堂 東福寺・六波羅門 手前から三門、仏殿(本堂)
禅宗寺院便所の古形式を伝える珍しい遺構の東司(重文・室町期)
禅宗三門最古の三門(国宝:室町期) 五社明神(成就宮)
比良明神(天狗)を祀る魔王石、十三重石塔(重要文化財:吉野期)

五社明神(成就宮)境内にあり、現在は東福寺鎮守ですが、元は法性寺の鎮守と伝えます。十三重石塔(重文:吉野期)は、かって「比良山明神塔」と呼ばれ、傍にある魔王石と一対とされます。東福寺を建立しようとした九条道家が病になった時、藤原家先祖という比良の魔王(比良明神:天狗)が家来の女御に降臨し、道家に祟っている怨霊の鎮め方を魔王に教えられ病が完治し、道家が当寺建立の決心をした時に比良明神のお告げで十三重石塔を建立したと伝えます。

十三重石塔(重文:吉野期)と藤原家先祖の天狗(比良明神)を祀る魔王石 本殿
昭和9年(1934年)再建の仏殿(本堂) ・・・ (*^▽^*)
東福寺三名橋の一・通天橋 曼殊沙華(まんじゅしゃげ:彼岸花)
同聚院(どうじゅいん:東福寺塔頭)

室町時代中期の文安年間(1444-1448)に東福寺第129世が開山した塔頭で、定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像(重文)は、寛弘3年(1006年)に藤原道長が旧法性寺に建立した五大堂の中尊と伝える。

同聚院 こま札 不動明王
本堂 ・・・ 伏水第ニ橋跡
瀧尾神社

「源平盛衰記」にその名を残す事から、創建は平安期とされます。元、洛東聾ノ谷にあり、武鶏(たけう)の社と称され、応仁元年(1467年)に兵火にかかった為に移転し多景(たけ)の社として再建されました。後の天正14年(1586年)、豊臣秀吉が東山に方広寺大仏殿を建立するにあたり、現在地に移されました。宝永年間(1704〜11年)に社殿を修理し、瀧尾神社と改称して今日に至っています。

瀧尾神社 境内 本殿
伏水街道一の橋旧址 伏水第一橋跡(一橋小学校校庭内)
夢の浮橋跡

北より南流する一ノ橋川(今熊野川)が流れていて、ここに長さ四間(約7.3m)巾二間一尺の「夢の浮橋(別名:大路橋・落橋)」が架かっていました。鎌倉時代の仁治3年(1242)、四条天皇が没したのを始め歴代の天皇、皇后を多く葬る泉涌寺に至る道に架けられた。古来、大路橋とも落橋とも呼ばれた。夢の浮橋とは、源氏物語・宇治十帖「夢の浮橋」の、この娑婆世界の無常のさまが夢の如く、また波に漂う浮橋の如くはかないものだという喩えから名づけたと伝える。現在、川は暗渠となり橋は取り外されている。

夢の浮橋跡 こま札 泉涌寺の僧だった道円の歌碑
おけいはん地下線口 宮川町筋
日本最古の禅宗本山寺院・・・建仁寺

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山です。開山・栄西禅師は鎌倉時代の建仁2年(1202年)、源頼家(開基)の帰依を得、中国の百丈山の殿舎を模して建立したのが起こりで土御門天皇は勅願寺とされ、当時の年号によって建仁寺の号を賜りました。創建当時は天台、真言宗の旧仏教勢力が強く天台、真言、禅の三宗兼学を建前とし比叡山の末寺という形で止観院、真言院を設けたが大覚禅師(蘭渓道隆)の時に禅宗のみの寺に改めました。以来、武家の信仰を集め足利義満が五山制度を設けると当寺は第三位となったが中世の兵乱にしばしば罹災しました。天正年間(1573〜1592年)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺の恵瓊(えけい)によって復興されましたが仏殿は未だに再建に至らず法堂(はっとう)との兼用になっています。

・・・ えぇなぁ〜(*^▽^*) 建仁寺
こま札 (#^.^#)えへっ♪ 寛永5年(1628年)に創建された浴室
山門 明和2年(1765年)に創建された法堂(はっとう) 茶碑
栄西禅師墓所の開山堂山門 建仁寺をあとに・・・ 祇園新地(甲部)歌舞練場など
祇園と言えば・・・花見小路界隈 ・・・
祇園社(八坂神社)

当社の創建は甚で古く諸説が多く定かではありません。斎明天皇2年(656年)8月、我が国に来朝し高句麗の調進副使・伊利支之使主(いりしのおおかみ/八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(ごずやま/曽尸茂梨:そしもり)に祀る素戔鳴尊(すさのおのみこと)の神霊を移し子孫代々当社の祀官として奉仕し八坂氏の氏神として創祀されたと伝わります。天智天皇の御代、社号を感神院と名付けられて以来、明治元年(1868年)、八坂神社と改名される迄この称を用いました。平安初期の貞観年中に僧・円如が播磨国広峰より牛頭天王を勧請し下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と称し朱雀天皇の承平4年(934年)、その傍らに薬師堂を創建し観慶寺と言い別に祇園寺とも呼んだ為に両者混同され紛らわしくなりました。その後、八坂氏が哀徴し中世には感神院は延暦寺の別院となり祇園社は日吉の末社となり叡山の僧徒が日吉の神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地ともなりました。当社は古来、疫病除けの神として朝野の崇敬が篤くその祭礼は祇園祭りとして世にも名高く社殿も壮観を極めました。延喜の式外社ですが二十二社に列せられました。神領は60余ヶ所の多きに及びましたが明治の神仏分離にあたり寺院を廃し神社のみが残った旧官幣大社です。

祇園社(八坂神社)一の鳥居@南参道 南楼門 境内
本殿 忠盛灯籠 円山公園と言えば・・・枝垂れ桜
円山公園 坂本龍馬、中岡慎太郎像
京都方広寺、奈良東大寺と並ぶ日本三梵鐘の一・知恩院の大釣鐘 将軍塚へ・・・
歓喜天(六聖歓喜天尊)
・・・ 小群塚?(^^ゞ ・・・
青蓮院門跡 別院・大日堂

将軍塚一帯の山頂にあり、現在の堂宇は篤志家の寄進されたもので本尊は平安時代に作られた石造の胎蔵界大日如来で、碑のあるところに埋もれていたものを、お堂を造り安置しています。風雨で削られたお姿は、歴史を感じさせます。古来より「将軍塚の大日さん」として信仰されており、幕末勤王の志士は、身の安全をこの像に謝しする事が多かった。大日如来の前の小さな石仏は阿弥陀如来です。また大日堂北面の枯山水庭は、造園家 中根金作氏の作庭です。

青蓮院門跡 別院・大日堂 こま札 ・・・
・・・ 大日堂 ・・・
大隈重信お手植えの松 一念松(人の一念岩をも通す) 枯山水庭と北展望台
造園家・中根金作氏の作庭の枯山水庭 ・・・ ・・・
北展望台からは、愛宕山〜比叡山、京都市街地もバッチリ一望できます!☆⌒(*^∇゜)v
御所 ・・・ 将軍塚
都を守護する将軍塚

桓武天皇は都を奈良から京都の南方、長岡に移されたが、いろいろと事故が続いた。この時、和気清麻呂は狩に事寄せて天皇をこの山上にお誘いし、京都盆地を見下ろしながら、都の場所にふさわしい旨進言した。天皇はその勧めに従って延暦13年(794年)、整然とした区画の大規模な建都に着手された。天皇は、京都盆地が三方が山に囲まれ、帯のように河も流れて自然の城のような地形をしているので山背の国を山城の国と定め、都を平安京と呼べと申された。長くこの都を護るようにと祈りをこめて高さ2.5m程の将軍の像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させ、塚に埋めるよう命じられ、この塚を「将軍塚」という。

将軍像を土で作り、鎧甲を着せ鉄の弓矢を持たせ、太刀を帯させて西向きに埋められたと伝える将軍塚は直径約20m、高さ約2mの塚
西展望台からは、大阪市街地のビル群〜天王山〜西山〜愛宕山〜北山、京都市街地も俯瞰できます!\(●⌒∇⌒●)/
二条城〜愛宕山 御所 赤い鳥居は平安神宮、下賀茂・上賀茂神社
絶景かな〜絶景かな〜 桓武天皇がここからの眺めて平安遷都を決断されたことに納得できます!
御所 緑は平安神宮、下賀茂・上加茂神社の杜 ・・・
もう色づき始めている木々・・・(*^-^*)
東郷元帥お手植えの松 えぇなぁ〜(*^▽^*)
嵯峨野・厭離庵(えんりあん)を彷彿させます・・・
大日堂 本尊・胎蔵界大日如来石像と阿弥陀如来 ・・・
東山々頂公園の展望台からの眺め・・・えぇなぁ〜(*^▽^*) 現在地
下山開始o(*^▽^*)o 石仏さま
石仏さま 石仏さま ・・・
弁天社

安養寺の飛び地境内にあって弁財天女を祀る。慈鎮和尚が比叡山より勧請したと伝え、技芸上達祈願の信仰があり祇園花街などの信仰を集めている。刀工・粟田口藤四郎吉光は当社に祈誓し当山の石をもって鑢盤とし、吉水をもって刀の水として名剣を作ったと伝え、社壇の下に彼が用いた鉄砧(かなとこ)石がある。

キララくんo(*^▽^*)oあはっ♪ 吉水弁才天社
吉水弁才天社 ♪♪v(⌒o⌒)v♪♪ ご神水
安井金比羅宮

社伝によると天智天皇の御代、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が一堂を創建し、紫色の藤を植え藤寺と号して、家門の隆昌と子孫の長久を祈ったことに始まります。崇徳天皇(すとくてんのう)はこの藤を好まれ、久安2年(1146年)に堂塔を修造して、寵妃烏丸殿(からすまどの)を住まわされました。崇徳上皇が保元の乱(1156年)に敗れて讃岐(香川県)で崩じられた時、烏丸殿は寺中の観音堂に上皇より賜った自筆の御尊影をお祀りされました。治承元年(1177年)、大円法師(だいえんほうし)が御堂に参拝されたとき、崇徳上皇がお姿を現わされ往時の盛況を示されました。この事を直ちに後白河法王に伝え、詔によって建治年間(1275〜77年)に建立された光明院観勝寺が当社の起こりと伝えます。光明院観勝寺は応仁の乱(1467〜77年)の兵火により荒廃しましたが、元禄8年(1695年)に太秦安井(京都市右京区)にあった蓮華光院が当地に移建された時、その鎮守として崇徳天皇に加えて、讃岐金刀比羅宮より勧請した大物主神と、源頼政を祀ったことから安井の金比羅さんの名で知られるようになりました。明治維新後、院を廃して安井神社と改称しましたが、第二次大戦後に安井金比羅宮となり現在に至っています。

(●^o^●)ゲット! 身も心も美しくなる美容水V(○⌒∇⌒○) 安井金比羅宮
縁切り縁結び碑(いし)

高さ1.5m、幅3mの巨石で、中央の亀裂を通して神様の力が下の円形の穴に注がれています。「○○君と幸せな結婚できますように・・・」、「夫と浮気相手との縁を切って下さい・・・」といった様々な願い事を書いた形代(かたしろ、身代わりのおふだ)が張ってあって、碑が見えないカマクラ状態です。まず、形代に願い事を書いて、碑の表から裏へ穴を通って悪縁を切り、裏から表へ通って良縁を結びます。最後に形代を碑に貼って祈願するそうです・・・(@_@;)

参道(絵馬の道) 縁切り縁結び碑(いし) 女の子ばかり(@_@;)
本殿 鴨川 京都タワー

Tourist 2009.9.21(M)

 

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