夢幻コラム]【京都高瀬川源頭チャリテチ探訪】
高瀬川 舟入の 灯影に明るく 春の雪 乙郎
旧高瀬川、東高瀬川〜鴨川〜高瀬川の源頭チャリテチ探訪
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高瀬川(たかせがわ)の沿革図 |
曳子(舟曳き人夫)が高瀬舟を人力でホ〜イ、ホ〜イと発声しながら曳いた・・・ |
高瀬川(たかせがわ)の沿革 |
慶長15年(1610年)、方広寺大仏殿の再建において、角倉了以、素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行った。 その後、慶長19年(1614年)、角倉父子によって、京都〜伏見の恒久的運河として高瀬川が開削された。水深は数十cm程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。 二条〜四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための船入が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡・一之船入を残すのみ)。 七条には内浜(うちはま)とよばれる船溜まりがあった(内浜の設置は、慶安元年:1648年)からの枳殻邸(渉成園)の建設などに合わせて、御土居の付け替え、高瀬川の流路の変更と共に行われた。内浜の名は御土居の内側に位置したことに由来する。 川沿いには、曳子(舟曳き人夫)が高瀬舟を人力でホ〜イ、ホ〜イと発声しながら曳いて歩くための曳舟道が設けられた。江戸時代を通じて、京都と伏見とを結ぶ主要な物流手段として多くの舟が行き交っていた。 明治時代に入り、明治27年(1894年)に琵琶湖疏水(鴨川運河)が通じると、輸送物資の役割分担によって共存を図ろうとしたものの物資輸送量は減少し、大正9年(1920年)に水運は廃止されることになった。 また、この頃に高瀬川を暗渠化し、路面電車の木屋町線を拡幅する都市計画道路が検討されたが、地元住民の反対により、河原町通に変更された。昭和10年(1935年)に起きた鴨川大洪水のあと、鴨川の河川改修の一環として鴨川の川底の浚渫が行われ、鴨川の川底が2m程度低くなった。そのため、高瀬川が北から鴨川に流入する地点は十条通付近まで移され、また一方で鴨川横断点の下流側(東高瀬川)では鴨川からの取水が不可能となり、高瀬川は分断されることとなった。 |