夢幻コラム]【京都高瀬川源頭チャリテチ探訪

 

高瀬川 舟入の 灯影に明るく 春の雪 乙郎

 

旧高瀬川、東高瀬川〜鴨川〜高瀬川の源頭チャリテチ探訪

 

高瀬川(たかせがわ)の沿革図

    

曳子(舟曳き人夫)が高瀬舟を人力でホ〜イ、ホ〜イと発声しながら曳いた・・・

高瀬川(たかせがわ)の沿革

慶長15年(1610年)、方広寺大仏殿の再建において、角倉了以、素庵父子は鴨川を利用して資材運搬を行った。 その後、慶長19年(1614年)、角倉父子によって、京都〜伏見の恒久的運河として高瀬川が開削された。水深は数十cm程度と浅く、物流には底が平らで喫水の低い高瀬舟と呼ばれる小舟が用いられた。 二条〜四条にかけては、荷物の上げ下ろしや船の方向転換をするための船入が高瀬川から西側に直角に突き出すように作られた(現在は、史跡・一之船入を残すのみ)。 七条には内浜(うちはま)とよばれる船溜まりがあった(内浜の設置は、慶安元年:1648年)からの枳殻邸(渉成園)の建設などに合わせて、御土居の付け替え、高瀬川の流路の変更と共に行われた。内浜の名は御土居の内側に位置したことに由来する。 川沿いには、曳子(舟曳き人夫)が高瀬舟を人力でホ〜イ、ホ〜イと発声しながら曳いて歩くための曳舟道が設けられた。江戸時代を通じて、京都と伏見とを結ぶ主要な物流手段として多くの舟が行き交っていた。 明治時代に入り、明治27年(1894年)に琵琶湖疏水(鴨川運河)が通じると、輸送物資の役割分担によって共存を図ろうとしたものの物資輸送量は減少し、大正9年(1920年)に水運は廃止されることになった。 また、この頃に高瀬川を暗渠化し、路面電車の木屋町線を拡幅する都市計画道路が検討されたが、地元住民の反対により、河原町通に変更された。昭和10年(1935年)に起きた鴨川大洪水のあと、鴨川の河川改修の一環として鴨川の川底の浚渫が行われ、鴨川の川底が2m程度低くなった。そのため、高瀬川が北から鴨川に流入する地点は十条通付近まで移され、また一方で鴨川横断点の下流側(東高瀬川)では鴨川からの取水が不可能となり、高瀬川は分断されることとなった。

かつて三十石船が出入港した寺田屋浜 龍馬とお龍、愛の旅路像
宇治川派流 かつての伏見港を埋め立て整備された伏見港公園
東高瀬川

東高瀬川は、鴨川下流の左岸流域に位置し稲荷、深草西方を緩やかに南流し、宇治川へ流入しています。東高瀬川は、角倉了以が江戸初期に開削した高瀬川のうち鴨川から下流の部分ですが往時には京都と大阪の諸物資を輸送する高瀬舟が頻繁に往来しました。

東高瀬川 京(大阪)街道
東高瀬川と宇治川合流地・・現在の高瀬川は疎水放水路と合流した後、昭和5年に開削された東高瀬川として宇治川に流れ込んでいる。
豊臣秀吉が開港した河川内陸港「伏見港」

文禄3年(1594年)豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。

 

【京都伏見十石舟の旅】

三栖閘門 河川内陸港の伏見港
三栖閘門(みすこうもん)

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

今は伏見みなと広場として公園整備されている。 三栖閘門動力モニュメント
三栖閘門資料館
往時の三栖洗堰と三栖閘門 三栖閘門の模型
江戸初期の伏見港、中書島界隈 京橋と蓬莱橋に挟まれた寺田屋浜と寺田屋 左・高瀬川、右・宇治川派流(であい橋付近)
江戸時代の伏見港(三栖閘門付近) 当時の伏見町図 伏見城図

山城地図

旧高瀬川の流路がクローズアップされている。。φ(..)メモメモ
三栖洗堰 宇治川と三栖閘門 三栖閘門(閘室と後扉室)
三栖閘門 河川管理が国と地方自治で変わる河川管理境界パネル
文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城築城の為に開いた河川内陸港の伏見港を巡航する十石舟

江戸時代の伏見港界隈には問屋や宿屋が建ち並び、三十石舟が出入りして大そうな賑わいだった。明治になって巨椋池と宇治川が切り離された。大正6年の大洪水により三川合流点付近の改修が行われ、伏見港が堤内に引き入れられると共に宇治川派流が本川から分離された。同じ頃に新高瀬川が開削され、昭和22年(1947年)に水運機能の向上をめざして舟溜まりなどを竣工したが、昭和30年代になると交通運送の主力は河から鉄道やトラックなど陸運に移り、やがて伏見港の埋立などが行われ、次第に現在の姿に推移した。

伏見港をあとに・・・ 宇治川派流を遡上ing・・・
角倉了以が開削した旧高瀬川

慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条〜伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。開削から大正9年(1920年)までの約300年間京都〜伏見の水運に用いられたが、 現在は鴨川で分断されて、上流側を高瀬川、下流側を東高瀬川、新高瀬川と呼ぶ。高瀬川は、二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそそぎ川」(鴨川の分流)から取水されて二条から木屋町通り沿いの西側を南下し、十条通りの上流で鴨川に合流する。かつて、京都と伏見を結ぶ運河であった頃は、現在の鴨川合流点のやや上流側で鴨川を東へ横断したのち、一部区間で竹田街道と並行、濠川と合流し伏見港を経て宇治川へ合流していた。現在、鴨川以南は東高瀬川と呼ばれ、上記高瀬川や鴨川とはつながっておらず、雨水等を水源とする河川となっている。また、疎水放水路と合流して直接宇治川に流れ出ており、濠川とは合流していない(東高瀬川において、宇治川に直接つなげるために整備された部分を新高瀬川とも呼ばれる。

角倉了以水利記功碑 角倉了以が開削した旧高瀬川と伏見であい橋(濠川・宇治川派流合流地)
角倉了以(すみのくらりょうい)

角倉家は医業や土倉(金融業)を営む豪商でした。慶長9年(1604年)、保津川を開削しました。幕府の要請で富士川の開削に成功しましたが、天竜川の開削は失敗しました。慶長19年(1614年)、高瀬川(二条〜伏見)を開削しました。晩年は仏門に帰依し千光寺(大悲閣)を建立し保津川の開削協力者などの菩提を弔いました。

伏見であい橋(濠川・宇治川派流合流地) 濠川(ごうがわ:ほりかわ) 宇治川派流
こちら側からなら・・・であい橋 こちら側なら・・・別れ橋と違う?(^▽^;) 江戸時代初期〜現在まで時代別の河川図
高瀬川源頭を探索するのに位置関係など把握するのに非常にありがたい資料φ(..)メモメモ
現在の河川図 角倉了以が開削した旧高瀬川
旧角倉橋々柱 角倉了以が開削した旧高瀬川に架かる角倉(すみくら)橋
角倉了以が開削した旧高瀬川の源頭を目指して遡上開始!o(*^▽^*)o
東高瀬川左岸堤防?それとも旧高瀬川右岸堤防か??どっちだー???(^▽^;) 東高瀬川のすぐ東を流れる旧高瀬川
新大手橋 伏見百景で知られる酒蔵
伏見百景の酒蔵は撮影もよく行われ全国的に有名だけどこの川が旧高瀬川と知る人は少ない・・ワニが二回も捕獲された事もある!(@_@;)
川と言うより下水路って感じ・・土管から排水が流れ込んで水が澱んでドブ化して臭い(ーー;) えぇ天気やな〜ヾ(≧▽≦)ノ
高瀬川左岸から南を振り返っています・・ さっ、気分を取り直して下水路・・基!旧高瀬川を北上ing・・・
・・・ 東高瀬川左岸堤防 南(下流)を振り返っています。
旧高瀬川を北上ing・・・頻繁に堤防を上り下りするのと思った以上に草深いので探索に時間が掛かるな〜(>_<)何より臭いし。。。
ようやく、西丹波橋に来ました・・・ここまで来るのに予想外に時間掛かってしまった?!(>_<)
あれれっ・・・行き止まり状態!(@_@) ここが現在の旧高瀬川源頭か???ヽ( ̄ー ̄*)ノおてあげ 堤防へ上がって確認すると・・・
西丹波橋より南方向に旧高瀬川がありますが・・・北方向は排水溝と違うか?と思えるような溝があった!ドブ川から排水溝かっ?! (>_<)
手元の資料では、このルートが旧高瀬川が流れていたことは間違いないので・・再び、北上ing・・どう見ても排水溝にしか見えんけど。。。(^▽^;)
しばらく歩くと・・物置小屋で完全に行き止まり!!! (>_<) 信じられないが、これが現在の旧高瀬川の源頭になるとですか?!・・ヽ( ̄ー ̄*)ノおてあげ
その先は民家で完全に遮断されている・・(>_<) さっ、再び気持ちを切り替えて諦めずに源頭探索続行!!!・・東高瀬川の水源となっている疎水放水路合流地(*゜▽゜)/
これも旧高瀬川なのか?だとしたら・・川でなくまさに排水溝やんか〜(・・;)最終的に行き着く先はお決まりの土管!(>_<) 疎水放水路合流地
ここからは東高瀬川を遡上!(^▽^;) 疎水放水路合流地より上流は水量が激減し川辺が親水整備されている。
これも水源になっている七瀬川合流地 随分と川の様子が様変わりしてきた・・・
・・・ 近鉄京都線 伏見区竹田界隈を流れる高瀬川・・
住宅街の中を流れています・・・町中に入って東高瀬川は三面コンクリートで固められています。
おっ!F・Yくんの家や!(^▽^;) 名神高速道路 ・・・
東高瀬川はゆるやかに蛇行しながら流れています・・・緑が増えてきました。
・・・ 東高瀬川の水源的な水の流入 この先の水量は激減してます・・
三面コンクリート造りの東高瀬川は味気ない排水路の様相を呈している・・(ーー;) 竹田街道
おっと・・ここからはまた川らしい様相を呈しています。
・・・ ・・・ 高瀬川に架かる簡易橋
閑静な住宅街を緩やかに蛇行して流れている・・
かつて、京都市電・伏見稲荷線が走っていた道路と高瀬川に架かる橋 ・・・
全国制覇を何度も達成しているラクビーの名門校としても知られる伏見工業高校辺りは川幅も広く流れている・・
・・・ 阪神高速8号京都線(新十条通り)
稲荷山トンネル 阪神高速8号京都線(新十条通り)を越えると なぜか水がまったくありません。(>_<)
 ここから下流の放水路から多量の水が流れ込んでいた・・こんな渇水所でザリガニが★!(@_@) これでも東高瀬川流路???( ̄ー ̄?)ほんまかいな...??
お決まりの土管が現在の鴨川以南の東高瀬川源頭?・・水源は鴨川と断絶し雨水導水溝? 東高瀬川源頭?から振り返っています・・・
堰き止め板をはめる堰き止め箇所? 鴨川河床が掘り下げられた際に取り残された鴨川取水口の名残?東高瀬川源頭施設

東高瀬川源頭のすぐ向こう側に、鴨川が流れており、その対岸には高瀬川が鴨川に注ぐ地点となっている。昔、二つの高瀬川は鴨川を高瀬舟を渡河させる事で繋がっていたが、昭和初期の改修工事によって鴨川の河床を掘り下げた結果、東高瀬川側河床が鴨川より高くなったので水源が絶たれこのような状態に!!!(>_<) 森鴎外が著した高瀬川に登場する風光明媚な高瀬川とは、とても思えない禍々しさです。。。( ;∀;)

以前は鴨川までつながっていた。(若草児童公園) 二条から流れ出た高瀬川はここで鴨川に流れ込み、こちら側へ川を横断して高瀬川をつないだ

石川五右衛門伝説に因んだ釜ヶ淵と健仁寺・栄西禅師伝説に因んだ鐘ヶ淵

石川五右衛門伝説に因んだ釜ヶ淵・・陶化橋の北、鴨川と高瀬川の合流点から300mほど北にいった辺りが釜ヶ淵と呼ばれ、文禄3年(1594)五右衛門が一子と共に三条河原で釜ゆでの刑に処された。二人の人間をイモのように煮たのだから、釜はいかに大きかった察しがつく。処刑の後、釜は鴨川に捨てられ大釜は鴨川の流れに下流に流されて打ち上げられたのが、釜ヶ淵と伝える。ここは鴨川の流れが南から西南に曲がる所で、様々なものが打ち上げられた河瀬。栄西禅師伝説に因んだ鐘ヶ淵・・建仁寺の栄西禅師が河原院(河原町五条辺りにあった源融邸跡)の鐘を引き上げた所とも伝える。もと鐘ヶ淵といったのが釜ヶ淵になったという。流れ着いた鐘は重くて、なかなかあがらなかったので禅師は人夫に、「栄西長首座(えいさいちょうすざ)と声を掛けながら引き上げよ。さすれば鐘は引き上がろう・・。」と、命じた。人夫は言われた通りに、かけ声をかけながら引き上げると、鐘は軽々と上がったと伝える。エッサ、ヨッサという掛け声は、栄西長首座(えいさいちょうすざ)が訛ったとも伝える。

対岸の鴨川右岸辺りは釜ヶ淵とも鐘ヶ淵とも言われる・・ 琵琶湖疎水放水路?
鴨川の流れに癒されます・・きっと水の流れないドブと化した高瀬川を見てるからか(^▽^;) キララくんも飛び石かっ?!(^▽^;)
立派な建物の教会 特徴的なアーチ橋の九条跨線橋は東山橋と並行しているから横見で二重橋に見える
鴨川下流 南区東九条界隈を流れる高瀬川
工場や住宅街の中を流れる高瀬川
鴨川の合流点も南に2〜300m下流で付け替えられて鴨川に注ぎ込んでいる。
川が川を渡る・・・高瀬川が鴨川を横切っていた!!!

高瀬川は慶長18年〜大正9年の長きにわたって、角倉家の経営の元で京都の経済ルートの中心的役割を果たした。この中で、「川が川を渡る」すなわち、高瀬川が現在の陶化橋北側の所で鴨川を横切っていたことが、全く忘れ去られている。鴨川の中に等間隔で杭を打ち並べ、高瀬舟5隻を1隻づつ一列に並べて、その杭に舟腹をそわせながら引っぱり渡したようである。今、その現場には、鴨川への注ぎ口は確認できるが、対岸の取水口はコンクリートの提壁となってしまったことで完全に分断されてしまった。

高瀬川が鴨川を横切っていた古図 当時の高瀬川と高瀬舟
二条に流れを発した高瀬川は、ここで一度鴨川に注ぎ込んで合流している。 対岸は取水口があった東高瀬川源頭場所
鴨川以北は、川幅も広くなり水量も多くなった高瀬川 かつて市電が走った九条跨線橋
下京区崇仁界隈を流れる高瀬川・・・場所場所で様々な表情を見せる高瀬川 京都タワー
この辺りは、数m程の金網フェンスで囲まれた京都市が買収したという空き地が目立つ 221系みやこ路快速電車(JR奈良線)

明治初期の京都駅は現在よりも北にあった。明治13年に完成した京都と大津を結ぶ鉄道も今よりも北を通っており、現在の高倉跨線橋東側辺りを通っていた高瀬川は、線路の下を高瀬船がくぐり抜けることができるように、現在の下之町西部付近で東へふくらむような流路に変更された。

JR奈良線・鴨川橋梁 ・・・ 高瀬川を追って新幹線ガード下へ・・・
高瀬川はいくつもの水量調節機能や泥水排除機構などを設けた高度に管理された運河だった。
京都駅、東海道本線の付け替え工事など度重なる流路変更によって曲がりくねった高瀬川を南北に直行 させる付け替え工事が行われた。

旅客量や貨物量の急増した京都駅は手狭となり、新京都駅の建設が計画され京都駅は現在の場所へ移築された。それに伴い東海道線も南へ新たに敷設し直され高瀬川も三度、流れを変えました。

この橋が高瀬川新流路、旧流路分岐点 旧高瀬川流路に整備された道路・・旧流路は新流路から分離されて廃川となった。旧流路を辿り始めよう・・
レトロな建築意匠の柳原銀行記念資料館 旧高瀬川に掛かっていた橋の石柱
銭座場跡碑 2002年まで水が流れていた旧高瀬川流路・・水の流れない旧流路は道路に整備されている。
道路に整備された旧高瀬川流路 わずかに現存している旧高瀬川流路に再び水が流れることはない高瀬川の残骸状態・・(ーー;)
記念碑的な塩小路橋石柱・・旧流路の塩小路から南部分は河原町通り拡張工事に伴って消滅し今は塩小路に面した河川跡が残るのみ!(>_<)
旧高瀬川流路図 以前高瀬川が流れていたふれあい橋・・かつての栄華と、現在の周落・・将来的に住宅や公園に整備予定だとか・・
河原町通りに残るふれあい橋・・川の流れがなくなって橋のみの存在と橋名などが高瀬川の残骸のようで空しく感じる・・。(ーー;)
水が流れない高瀬川旧流路、河川跡も、かつてここに川が流れていたことさえ、いつの日か人々の記憶から忘れ去られていくのだろうか・・(>_<)
旧高瀬川流路と現流路分岐地点 高瀬川を南北の流路に付け替えたことで
河原町通拡幅工事が進み、高瀬川を人々が行き交う川岸のプロムナードとして、また人々が集う親水公園として整備されている・・
・・・ 七条通り北側に御土居の内側なので内浜と呼ばれる荷揚げ降ろし場、船廻しの場があった。
七条以北は、川幅も広くなり水量も多くなった高瀬川 正面橋
高瀬川船廻しの場跡 高瀬川沿いにあるレトロチックなお茶屋建築意匠
レトロチックなお茶屋建築意匠 大正ロマネスク?和洋折衷でタイル張りのモダンな建築意匠
格子窓に破風のあるお茶屋さん
今はイベントホールにも使われる歌舞練場 鴨川に出ると川風と共に止まっていた時間も流れるよう・・・(*´ο`*)=3ホッ
鴨川の流れ 五条通りから振り返った高瀬川の流れ・・・
河原町通り名の由来になった源融 河原院跡 鴨川に架かる五条大橋。五条大橋と言えば・・やっぱり、牛若丸と弁慶ちゃんやねっ!(^-^)v
高山京都市長の筆になる扇塚 高瀬川を遡上・・・ ・・・
木屋町通りを北上・・・ 様々な川の表情を見せてくれる高瀬川
龍馬が馴染みだった鳥弥三 本間精一郎寓居跡
土佐・岡田以蔵、薩摩・田中新兵衛が本間精一郎を暗殺した時の以蔵の刀傷が出窓に残る 高瀬川のせせらぎ
高瀬川七之舟入跡 土佐藩邸跡(立誠小跡) 角倉了以翁顕彰碑(土佐藩邸跡/立誠小跡)
 
土佐藩邸跡碑 こま札 ・・・
幕末当時は土佐藩邸内にあり、信者の参拝に藩邸通り抜けを許されていた岬神社(土佐稲荷) 龍馬もおるぜよ(*^-^*)
 土佐藩邸役宅跡(現在、嵯峨野にある土佐四天王像があった所) ・・・
独身時代のお龍寓居跡碑 高瀬川六之舟入跡 先斗町
先斗町 高瀬川五之舟入跡
瑞泉寺(ずいせんじ)

山号を慈舟山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院。桃山時代、当地は三条河原中洲だったと伝える。高瀬川の開削工事中に秀次悪逆塚と刻まれた石塔が発見された。文禄4年(1595年)、謀反の疑いで高野山で切腹させられた、豊臣秀次の石塔でした。高瀬川の開削責任者だった京都の豪商、角倉了以の実弟・吉田宗恂は、奇しくも豊臣秀次に仕えていた。秀次謀反の連座は免れたが、慶長15年(1610年)に亡くなっていた。宗恂の一周忌の慶長16年(1611年)に、了以は秀次の菩提を弔うために、秀次の戒名・瑞泉寺殿から名を取り、瑞泉寺を建立した。瑞泉寺は建立以来400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。

海援隊京都本部だった酢屋 坂本龍馬寓居跡碑 瑞泉寺(ずいせんじ)

世にも恐ろしく悲しい歴史が秘められている・・豊臣秀次墓所(秀次悪逆塚、畜生塚)

豊臣秀次と妻妾子39人の遺骸が埋められた京都三条河原にあった塚で、秀次の悪称とされた殺生関白から殺生塚とも畜生塚ともいわれた。天正19年(1591年)、秀次は叔父・豊臣秀吉から関白を譲位され豊臣の後継者としての地位を確立した。しかし、2年後の文禄2年(1593年)、秀吉の実子・秀頼が生まれると、次第に秀次は疎んぜられ立場は微妙なものへと変わり、石田三成らの策謀もあり文禄4年(1595年)7月、謀反の疑いを理由に叔父・豊臣秀吉の命を受け、関白職を剥奪され高野山へ追放後、その地で切腹させられた。山本主殿、山田三十郎、不破伴作などの5人も賜死し、秀次の首は伏見城で秀吉の首実検に供され、三条河原で梟首(キュウシュ:さらし首)された。秀次の妻妾(さいしょう)は多く、子供などを合わせて39人が捕らえられ、公開斬首に処せられ、遺骸はその場に掘られた大きな穴へまとめて投げ込まれたという。穴は大きな塚となり、頂上には高野山から取り寄せた秀次の首を入れた石びつが置かれ秀次悪逆塚文禄四年七月十四日と刻された。いつしか畜生塚、殺生塚と呼ばれるようになった。また、秀次の居城となっていた聚楽第も徹底的に破棄された。その後、塚も鴨川の氾濫などにより次第に荒廃し、かえりみる者は無かったというが、順慶という行者は傍らに草庵を結び、菩提を弔った。順慶の死後、慶長16年(1611年)、角倉了以が石塔の悪逆の2文字を削り、その上に6角形の無縁塔を建て塚を再建、江戸幕府に請い求めて堂も建立して慈周山瑞泉寺と号した。

秀次の墓と周囲に秀次の妻妾子、賜死した家臣の供養塔

墓域は慶長16年(1611年)、創建当時のものと伝え、秀次の墓を正面に置き、周囲には秀次の妻子妾たち39人、賜死した家臣10人の計49人もの五輪塔が並ぶ。正面の秀次墓の古石は秀公の首を納めた中空の石びつで下方に「7月15日」の文字が刻まれている。

秀次に連座して賜死した家臣画像 秀次に連座して斬首処刑された妻妾たちの画像
当時の町や鴨川、高瀬川一之舟入跡界隈の絵図 文化2年(1805)に再建されたという本堂
三条小橋 大村益次郎、佐久間象山遭難之碑道標 ・・・
新撰組の名を世に知らしめた池田屋騒動

文久3年(1863年)8月18日の政変後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫され、長州・土佐・肥後藩などの尊王攘夷派達が勢力回復をめざして中川宮や京都守護職・松平容保の暗殺計画を企てた。元治元年(1864年)年6月5日(祇園祭宵々山)、近藤、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤周平(養子)、原田の7人は三条小橋西入ルの旅籠・池田屋において会合中の尊王攘夷派達30余名を襲撃。後、縄手付近を探索していた土方歳三らも加勢し2時間ほどの斬り合いだったという。新撰組に襲撃され長州藩の吉田稔麿、杉山松助、土佐藩の望月亀弥太、肥後藩の宮部鼎蔵、松田重助ら多数の死傷者が出ました。会合に参加するはずだった長州藩の桂小五郎は近くの対馬藩邸にいて無事だった。新選組では奥沢栄介、新田革左衛門、安藤早太郎が亡くなり、藤堂平助と永倉新八らが負傷しました。この時に沖田総司が吐血したとも伝わります。主人・池田屋惣兵衛も翌日捕まり、六角獄舎で獄死しました。捕縛された古高俊太郎も、六角獄舎で獄死しました。1ヶ月後の禁門の変を誘発する一因となり、その後の政治情勢に多大な影響を与える事件となった。維新が1年遅れたとも1年早まったとも言われています。世に新撰組の名を一気に高めた事件となりました。

池田屋跡 池田屋騒動之碑 ・・・
吉村寅太郎寓居跡、武市瑞山(半平太)寓居跡 佐久間象山寓居跡 高瀬川三之舟入跡
加賀藩邸跡 京都長州藩邸跡(京都ホテルオークラ) 長州屋敷(京都藩邸)跡碑
桂小五郎像(京都長州藩邸跡) 高瀬川二之舟入跡 大村益次郎遭難之碑、佐久間象山遭難之碑
解説 桂小五郎、幾松寓居跡 桂小五郎、幾松寓居跡碑
大村益次郎寓居跡碑 稲荷大明神など鎮座旧跡 高瀬川一之舟入跡
高瀬川一之舟入り跡(船溜り跡:角倉了以邸跡)

高瀬舟で運んだ荷物の積み降ろし、高瀬舟の離合、待機など運行調節をする為に設けられた舟溜所を舟入りと称し、二条〜五条間に九つの舟入りがあったと伝わります。高瀬川の基点にあたる木屋町通り二条下ルに一之舟入跡が現存し十五石積の復元された高瀬舟が係留され、史跡に指定されている。池田屋騒動の際に逃走した土佐の望月亀弥太がここで自害したと伝えます。

高瀬川一之舟入跡 角倉了以邸跡
高瀬川一之舟入跡と高瀬舟・・二条〜四条間に九つの舟入があったが、唯一現存するのが一之舟入。画になる風景やな〜

高瀬川は、午前は京へ物資を運び入れる上り便、午後は京から物資を運び出す下り便に区分される一方通行制だった。上りの際、船につけられた綱を数人の曳き子が船頭道と呼ばれる川沿いの道を「ホ〜イ、ホ〜イ」という掛け声をかけながら上っていく風景は、名所図絵などにも描かれる風物詩だった。輸送量自体の減少もあいまって舟曳きの光景も次第に見られなくなっていった。角倉了以が開削してから300余年後の大正9年6月、高瀬川舟運はその長い歴史の幕を閉じ、高瀬川も運河としての役割を終えることになった。

史跡・高瀬川一之舟入跡・・・ここには立ち入れないので鯰や鯉などの大物がウジャウジャいるとかの噂あり?!(^▽^;)
明治8年(1875年)、島津源蔵が設立した計測器・精密機器メーカー島津製作所創業之地 こま札
せせらぎの情緒溢れる高瀬舟 高瀬川 舟入の 灯影に明るく 春の雪 乙郎 高瀬川の水運碑

高瀬川という川名は、この運河を往来した舟底が平らで幅広い高瀬舟に由来すると伝える。最盛期には180隻もの舟が往来したが鉄道の発達などで大正中期までには姿を消しました。その後、昭和期の鴨川改修で高瀬川と東高瀬川が分離したり、蛇行していた流路が直線化されるなど、運河として役割を終えて今に至る水路ですが、かつては、京都の繁栄と歴史を支えた運河でした。

えぇなぁ〜(*^▽^*) 角倉了以別邸跡(がんこ高瀬川二条苑) 角倉了以別邸跡碑
山縣有朋第二無燐庵跡 庭師・小川治三郎の作庭第二無鄰庵跡または高瀬川源流庭苑
慶長16年(1611年)、豪商・角倉了以の別邸として作られた。その後、明治の元勲・山縣有朋の別邸・第二無鄰菴となった。
高瀬川一之舟入へ流れ出している・・ 鴨川 鴨川とみそぎ川
みそぎ川から高瀬川源流庭苑へ導水。ここが高瀬川源流地点です。高瀬川全容の始まりの終わりで源頭探索無事終了!!! (*´ο`*)=3ホッ
みそぎ川を遡上すると間もなく暗渠?川の流れを隠します・・・ 七条河原町(内浜:荷揚げ降ろし、船廻し場跡)

Tourist 2011.10.31(M)

 

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京都高瀬川源頭チャリテチ探訪

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幕末維新の道に龍馬の足あとを訪ねる【暗殺のロケーション】

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幕末維新の道に龍馬の足あとを訪ねる【伏見のいしぶみ】

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幕末維新の道に龍馬の足あとを訪ねる【夢幻と無念】

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幕末維新の道に龍馬の足あとを訪ねる【鳥羽伏見の戦い】

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淀の三川昔風景を歩く

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京街道をゆく・・・伏見宿、淀宿、八幡、橋本チャリ探訪

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花の御所、花の乱遺構『洛中、洛外図』探訪ウォーキング

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秀吉の聚楽第、平安京遺構探訪ウォーキング

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バス&ウォーキング散策@堀川

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新撰組壬生屯所跡、御室仁和寺散策(Pちゃんズ)

きぬかけの道散策(Pちゃんズ)

新撰組幕末回廊散策その2

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平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」

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新撰組

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幕末〔維新〕回廊

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