大栄寺
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水島幸庵は安永年間、伏見奉行・小堀和泉守政方(まさみち)の侍医であった。ある日の事、政方の喉に魚の骨が刺さり無事に治療し褒美として竹の柱に瓦葺の重き屋根の庵を望みました。政方は嘲笑しながら「その様な不安定な庵を何故所望するのか?」と問いました。幸庵は「その不安定な庵こそ今のお奉行の政治である・・・」と涙ながらに諫言しましたが、妾のお芳が激怒し政方もその剣幕に押され幸庵に蟄居を命じました。幸庵は憤然とし天命元年(1781年)5月28日、自宅で自刃しました。奇しくも「天明の伏見義民一揆」が起こる少し前の出来事でした。実父・水島慶庵の墓所に合葬されましたが、現在は無縁墓となっているそうです。門前に水島幸庵顕彰碑が建てられています。
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水島幸庵顕彰碑(大栄寺) |
城南宮 |
(北)真経寺
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鶏冠山(かいでざん)と号する日蓮宗の寺院で南真経寺と同一寺でしたが承応3年(1654年)、幕府の仏教統制によって分立しました。元は真言宗の寺院でしたが徳治2年(1307年)、住職・実賢律師が日像上人の教化に心酔し日蓮宗に改宗し西陣の妙顕寺、深草の宝塔寺と同時代にできた法華弘通道場でした。永仁2年(1294年)、都に入った日像聖人は日蓮の教えを説き、次第に有力な町衆を信徒に加えて洛中に妙顕寺を建立し後醍醐天皇より独立した一宗として認可されましたが、それまでの40年間、比叡山を中心とする他宗からの迫害を受け度々、洛中から追放されました。江戸時代、僧侶の学校である壇林が置かれ、宗内僧徒の講学所として日蓮宗京都六檀林の一と言われました。壇林の面影を残す本堂は、当時の講堂にあたる貴重な建物で京都府登録文化財(建造物)に指定されています。 |
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春の気配・・・(城南宮) |
雨に煙る愛宕山(桂川久我橋) |
北真経寺 |
史跡長岡京(宮)跡「内裏内郭築地回廊跡(だいりないかくついじかいろうあと)」
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説明碑によると内裏は天皇の住居で正殿である紫宸殿を中心にして衣食住に関する全ての機能を持ち合わせた様々な建物が配置されています。内裏築地回廊は天皇を厳重に警備する為に造られた廊下で、その構造は、築地〜土塀の両側の軒を張り出させ、廊下とし兵衛(ひょうえ)が警備のため巡回しました。昭和42年(1967年)以来、4度の調査の結果その規模は東西、南北とも166m、柱間は13尺(3.88m)の等間隔、築地の幅は5尺(1.4m)あった事が判明しました。屋根は瓦葺きですが、4面の屋根が方形に連ならずに各面ごとに切妻造りの建物を4棟を組み合わせた構造になっていたとされます。 |
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北真経寺境内 |
本堂 |
長岡宮内裏内郭築地回廊跡 |
史跡長岡京(宮)跡「築地跡」
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昭和54年(1979年)、長岡宮を囲む築地塀(土塁)跡が発見されました。築地跡は長岡宮内裏内郭築地回廊の真南の一直線上にあたり、長岡宮の建物が基本設計図である条坊制に基づき規則的に造営された事を裏付けています。 |
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長岡宮内裏内郭築地回廊跡(回廊の柱礎石) |
長岡京築地跡 |
(南)真経寺
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阪急電鉄を挟んで東西二寺に分かれ東を鶏冠山(かいでざん)北真経寺、西を鶏冠山(けいかんざん)南真経寺と称します。いずれも日蓮宗京都六檀林の一として世に知られました。元、真言宗でしたが明暦2年(1307年)、通明院日祥はここに檀林を設け宗内僧徒の請学所とし寺を二分しました。明治初年の廃檀後衰退しました。しかし、寺宝に日像上人筆の本尊曼荼羅、日蓮・日朗両上人画像、尊性法親王の消息文を利用した摺写法華経十巻などを有しています。 |
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南真経寺 |
開山堂(京都府指定文化財(建造物)) |
本堂(京都府指定文化財(建造物)) |
物集女(もずめ)車塚古墳
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全長約45mの古墳時代後期(6世紀中葉)の東を正面とする前方後円墳で淳和天皇の霊柩車を納めた所と伝わります。俗に大道塚ともいい、道路建設の為に前方部の一部が削られましたが、ほぼ完全な形で残っています。後円部は直径約31m・高さ約9m、前方部は幅38m・高さ8mの規模で埴輪、須恵器、土師器、馬具、刀剣類、装身具など数多く出土しました。 |
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日像上人説法石 |
向日神社 |
物集女(もずめ)車塚古墳
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物集女(もずめ)車塚古墳
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今も機能している古墳の排水溝 |
車塚古墳上からの眺め
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淳和天皇火葬塚
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塚は南面する方墳で古くは御廟塚、廟所塚とも言われました。淳和天皇は、桓武天皇の第3皇子で母は藤原百川の娘・旅子です。兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承し嵯峨天皇の第1皇子・仁明天皇に譲位しました。在位中は政治改革を行うと共に「日本後紀」の編纂、「令義解」の作成を行いました。承和7年(840年)に55歳で死去し遺言により火葬後に粉砕し鬼と化さないよう大原野の西の山上に散骨されました。 |
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車塚古墳上からの眺め
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淳和天皇火葬塚
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来迎寺
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寛正年間(1460〜65年)、錦空上人が浄土宗西山派念仏弘通の道場として開創した寺院で本堂には阿弥陀像を安置し、薬師堂には旧光勝寺の遺仏とされる薬師像が安置されています。境内にある「曼荼羅石塔婆」は板石の表面上部に蓮華形の胎蔵界の中台八葉院、下方部に円形の金剛界成身会を表し松香石製で石棺の蓋を利用しているのが珍しいとされ傍の宝篋印塔の基礎に貞和4年(1348年)の銘があります。 |
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淳和天皇火葬塚
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来迎寺 |
境内(薬師堂) |
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本堂 |
曼荼羅石塔婆と宝篋印塔(共に吉野期) |
五輪石塔など |
物集女城跡
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東側には、南北に約100mの長さで堀や土塁の一部が残っています。これまでの発掘調査により、南北75m、東西70mの規模を有する城である事が判明。この城は、周辺を支配した物集女氏の居城と考えられ長亨元年(1487年)の上久世庄(現・京都市南区)の古文書に、物集女四郎右衛門尉光重という名前も見受けられます。織田信長が山城地方を治めるようになる天正元年(1573年)、桂川西岸一帯の支配を任せられた細川藤孝は周辺の各城主に信長に従うよう命令をしました。しかし、物集女氏の当主・忠重入道宗入はこれに従わず天正3年(1575年)、勝龍寺城において処刑されました。これ以後、物集女氏と物集女城の記述は文書などから姿を消しました。 |
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愛宕山常夜灯(物集女公民館) |
弥生時代後半を中心とする村の跡「中海道遺跡」 |
物集女城跡
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竹の径
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西ノ岡丘陵の竹林道を地元の竹の枝を使い約1.5mの高さで束ねて並べた「竹穂垣」を両側に設置整備して作られたのが「竹の径」です。竹の径途中にある古墳時代前期の前方後円墳で三角神獣鏡も出土した「寺戸大塚古墳」の横約40mには、古墳の形をイメージした「古墳垣」を設けられ、その他「かぐや姫垣」など5種類の竹垣を巡らして整備され情緒豊かな風情を演出しています。国土交通省「手作り郷土賞」、読売新聞「全国遊歩百選」に認定されています。 |
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物集女城跡
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風情のある「竹の径」 |
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風情のある「竹の径」 |
洛西竹林公園 |
寺戸大塚古墳
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古墳時代前期(4世紀)の全長約94mの前方後円墳です。前方部は地形が変わり詳しい事は定かでなく後円部は直径約54m・高さ約10mの規模です。発掘調査により三角縁神獣鏡、管玉や刀剣類が出土しました。 |
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雨に煙る西山の眺め(洛西竹林公園から) |
寺戸大塚古墳
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風情のある「竹の径」 |
桓武天皇皇后高畠(たかばたけ)陵、妙見山古墳
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長岡京、平安京を築いた桓武天皇の皇后陵墓として宮内庁陵となっています。皇后は内大臣・藤原良継(よしつぐ)の次女で名を乙牟漏(おとむろ)と言い桓武天皇が未だ在儲の時に入妃され平城、嵯峨両帝を生みました。延暦9年(790年)3月10日、長岡宮にて31歳で崩御され3月21日、当地に埋葬されました。塚は直径約65m・高さ約7mの円形をしています。皇后の死は早良親王の祟りともされ約10年で長岡京を破棄して平安京へ遷都される一因になったとされます。この近くに古墳時代前期の妙見山古墳がありました。東南を正面とする巨大な前方後円墳で大正9年(1920年)の発掘調査で後円部分に遺骸を納める組み合わせ式石棺(夫婦墓)を中心とし傍に竪穴式の付属小石室と石棺上部にもう一つ細長い竪穴式の石室を設ける複雑な形体である事が判明、その構造、規模から当時の帝陵に匹敵するとされましたがタケノコ畑の土入れ作業などにより消滅しました。
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「竹の径」案内板 |
桓武天皇皇后高畠陵 |
一文橋
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一文橋は説明碑によると、京と摂津(西宮)をむすぶ西国街道に架かるこの橋は室町時代頃に造られた有料の橋でした。大雨の度に小畑川が氾濫し橋が流され、架け替え費用の負担金としてを通行人から銭一文を取り始めたのが橋名の由来と伝わります。
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竹林道 |
一文橋 |
桂川、鴨川合流(羽束師橋) |
Tourist
2005.02.07(M) |