幕末維新の道に龍馬の足あとを訪ねる【鳥羽伏見の戦い】

 

鳥羽伏見戦勃発地・小枝橋〜城南宮(薩摩藩本営)〜寺田屋〜伏見奉行所跡(新撰組・旧幕府軍本営)〜御香宮(薩摩藩本営)〜淀〜橋本戦跡

 

幕末の動乱・・・鳥羽伏見の戦い

維新前、坂本龍馬は、天皇を中心に「列藩会議的議員制(八策)」を主張しました。慶応3年(1867年)11月15日、近江屋で中岡慎太郎と共に見廻組・佐々木只三郎らによって暗殺された。一方、維新の三傑・薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、長州藩の桂小五郎(木戸孝充)らが約300年近く続いた徳川幕府を倒し、新しい日本を志していました。西郷隆盛、大久保利通は伏見・大黒寺において頻繁に密会し倒幕について話しあったと伝える。彼らが語りあったという部屋は、現在も大黒寺に残されています。伏見城の廃城後、伏見は歴史の表舞台に登場する事は殆ど無くなりましたが、幕末の動乱期に至り、再び脚光を浴びる事となりました。幕末期は尊王攘夷思想が高まり倒幕という大きな時代の変化期に突入、遂に「鳥羽・伏見の戦い」へと推移します。・・・慶応4年(1868年)1月3日、戊辰戦争の開戦となった戦いです。小御所会議で決定された徳川慶喜の辞官、領地返納に納得できず旧幕府軍、会津、桑名などの藩兵1万5000が大阪城に移った慶喜を擁して大阪方面から薩摩討伐の大儀の元に京都に向け進軍。これを防ごうとする薩摩藩・長州藩を主力とする薩長軍4500との間で鳥羽と伏見の両方面で戦われました。鳥羽伏見の戦いでの旧幕府軍戦死者総数は283名とされ新撰組、見廻り組を含む幕臣の戦死者数は119名、会津藩士130名、桑名藩士12名、大垣藩士10名、浜田藩士6名と記録されています。もし坂本龍馬が暗殺されなければ列藩会議的議員制が実現し平和的維新が行われ武力維新によって多くの血を流す事はなかったかもしれない。維新も「勝てば官軍、負ければ賊軍」・・勝者の歴史の一です。

鳥羽伏見戦が開戦した小枝橋辺り 鳥羽伏見戦跡碑(旧小枝橋) 鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡公園・秋の山)

慶応4年(1686年)1月3日、鳥羽・伏見両街道を旧幕府軍が北上を始めました。旧幕府15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)上洛の旧幕府軍先発隊を 率いる大目付・滝川具拳(ともあき)と、薩摩軍指揮官・ 椎原小弥太の押し問答から戦いは始まりました。薩長軍も鳥羽街道口の東寺・四ッ塚に薩摩軍、伏見街道口の大仏廻りに長州軍が布陣、旧幕府軍を迎え討つ態勢を整えました。薩摩軍は旧幕府軍の進軍を確認し午後4時頃、アームストロング砲を発砲しました。旧幕府軍は佐々木只三郎率いる見廻組が先陣をきり、桑名、大垣藩兵が続き参戦しました。『中村武雄筆記』には、「薩摩藩より銃先揃へて不意に打ち出せり。見廻組は銃を持たず。歩兵も銃を込め居かず。右往左往に立ち騒ぎ、矢庭に死する者もあり。手負は固より数を知らず。」と混乱状況が記されています。下鳥羽の法伝寺所蔵の戦記には、「堤上、死骸粉粉、路を塞ぎ、行くべからざるなり」と当時の貴重な記録が残されています。

慶応4年(1868年)正月三日、城南宮に陣を構えた薩摩藩の大砲が火を噴き、鳥羽・伏見の戦いが始まった。
坂本龍馬ゆかりの旅籠「寺田屋」

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。

当時の井戸が残る 坂本龍馬の碑 坂本龍馬銅像、薩摩九烈士の碑

坂本龍馬は、土佐の郷士の家に生まれた。文久元年(1861年)、武市瑞山(半平太)が土佐勤王党を結成するとこれに加わったが翌年脱藩。江戸で、幕府の軍艦奉行・勝海舟に教えを受けて単純な攘夷論を捨てた。海舟の失脚後、薩摩藩の援助を受けて長崎に亀山社中を結成し海運業を開いた。慶応2年(1866年)、薩長同盟実現に奔走。慶応3年(1867年)、脱藩の罪を許され、亀山社中を海援隊と改めて隊長となった。さらに大政奉還構想などを含む「船中八策」を提唱、前土佐藩主・山内容堂によって将軍・徳川慶喜に建白され、同年10月、大政奉還となった。同年11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎と会談中を見廻組・佐々木只三郎らに襲われ、奇しくも33歳の誕生日に暗殺されました。

龍馬通り商店街 江戸幕末の風情を今に残す酒蔵

慶応2年(1866)1月24日、坂本龍馬は寺田屋において伏見奉行所の捕吏に襲撃されますが、入浴中のお龍が気づき裸で二階へ急を知らせ、龍馬は短銃を発射して逃走しました。お龍は、急ぎ帯刀町(納屋町)〜風呂屋町〜紺屋町〜御駕町を走り抜け下板橋を渡り伏見薩摩藩邸へ龍馬の危機を知らせたと伝える。

伏見奉行所跡にある中学校にある維新戦跡碑 伏見奉行所跡

慶長5年(1600年)に設置された徳川幕府の出先機関で伏見町の民政、宇治川の船舶の監督、京都御所や西国大名の監視にあたった。幕末の動乱下では、徳川方の根拠地となり慶応3年(1867年)12月16日に新撰組が移り翌、慶応4年・1月3日、鳥羽伏見の戦いに薩長軍と激戦を交わしたが、薩摩軍の砲撃により奉行所は焼滅した。新撰組は14代将軍・徳川家茂の上洛に伴って将軍警護、京都の治安維持の目的で結成された浪士組をルーツとして大政奉還を機に京都の治安維持、警察活動から徳川(旧幕府軍)の一員として戊辰戦争を戦った軍事組織へと変貌していった。

奉行所遺構の石垣 伏見奉行所跡碑 伏見工兵第16大隊跡碑(伏見奉行所跡)

伏見奉行所を撃破された旧幕府軍は、総崩れとなり伏見の地を追われ淀へ撤退しました。伏見奉行所は薩摩軍の砲火によって焼け、伏見の薩摩藩邸は旧幕府軍によって放火され伏見の町の南半分のほとんど焼けました。伏見の住民は、深草の大亀谷や宇治川、巨椋池の中州などに、御香宮・三木宮司も古御香宮に避難したと伝える。3日、鳥羽・伏見両方面で薩長軍が勝利しました。

解説 新撰組が布陣した京町通り・・御香宮に布陣した薩長軍と激しく交戦

御香宮は、伏見九郷(旧伏見町)の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。縁起には、諸説がありますが、筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、真説だと言われています。鳥羽伏見の戦いでは、薩摩軍が陣取りました。同神社には最初に幕府軍が陣取っていましたが、勤皇思想の三木(そうぎ)宮司が退去させ、仕方なく幕府軍はすぐ南側の伏見奉行所に入りました。御香宮と伏見奉行所の攻防戦は伏見戦のなかでも最も激戦となりました。3日早朝、薩摩、長州、土佐の各藩兵が御香宮に入り大砲四門を設置、薩摩軍は伏見奉行所が見下ろせる龍運寺にも大砲を据えた。幕府軍は伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められました。夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられました。

激戦を伝える京料理屋の格子窓に残る弾痕 伏見奉行所と僅か数百メートル、目と鼻の先の御香宮に薩摩軍が陣取った。

夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ちかけられ、砲撃戦が繰り広げられました。新撰組も応戦し大砲一発が御香宮に届き、薩摩軍にも負傷者を出しました。

東神門 伏見の戦跡碑 解説

新撰組隊士・永倉新八が『浪士文久報國記事』で「この戦で新撰組は、屯営としている奉行番所へ、御香宮の山上(龍運寺)から薩摩軍の大砲を散々浴びせられた。局長の近藤は、傷手当をして大阪城にいるので、土方歳三は、夜の六つ半(七時)過ぎから決死の覚悟で応戦を開始した。大砲たった一門で低地から山の方へ向かってどんどん撃ったが、とても手ごたえがない。とうとう永倉新八の二番隊が決死隊として、敵陣への切込みを決行した。島田魁、伊東鉄五郎など隊士を引き連れ、三度切り込みをするも、敵陣に近寄る事もできず奉行所へ引き返した。」と伝える。

伏見奉行所と目と鼻の先の御香宮に薩摩藩が布陣し境内に大砲4門を敷設 「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水)
本殿 桜花爛漫!\(●⌒∇⌒●)/ 梅花
伏見奉行所に近い幼稚園も陸軍省用地跡 京阪・中書島駅 十石艦隊?!(^▽^;)
(*^-^*) 道標石 酒蔵
月桂冠大倉記念館 間もなく運航される十石舟 島の弁天さん・長建寺
宇治川派流沿いの酒蔵・・幕末の風情を今に伝える。 本陣跡
新酒の完成を告げる玉杉と酒樽 伏見口の戦い激戦地碑 寺田屋浜(竹田街道・京橋)

慶応4年(1868年)1月2日、会津藩の先発隊約200名が京橋より伏見に上陸。伏見奉行所は薩摩軍の砲火によって焼け、伏見の薩摩藩邸は旧幕府軍によって放火され伏見の町の南半分もほとんど焼けました。

竹田街道と伏見長州藩邸跡(土木事務所) 伏見長州藩邸跡碑 旧観月橋石柱
伏見長州藩邸跡だった土木事務所内には、撤去された道標、橋石柱などが幾つも保管されている。
出あい橋(濠川・宇治川派流合流地) 角倉了以高瀬川開削顕彰碑 ・・・
豊臣秀吉が伏見城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港・伏見港
三栖閘門 宇治川と巨椋池跡 淀堤に続く道は京街道

慶応4年(1868年)正月三日、土方歳三率いる新撰組、会津藩兵は奮闘しましたが、長州軍の援軍を得た薩摩軍に撃破され体制を整えるべく旧幕府軍は伏見奉行所から淀城に向けて退却した・・・

千両松原

淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だった事から、「千両松」と呼ばれました。千両松の激戦で敗れた新撰組始め、旧幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。

・・・ ・・・ 薩長軍と新撰組(幕府軍)が激戦だった千両松

戊辰戦最大の激戦と言われる淀・千両松での戦いで新撰組・井上源三郎、嘉村権太郎(吉村貫一郎)らが戦死、山崎蒸(進)も負傷し後に死亡。新撰組隊士の戦死者総数は24名と記録されている。・・・映画・壬生義士伝では、薩長軍が掲げる錦旗を見て、なぜ我らが賊軍なのかと狼狽する旧幕府軍の中、吉村貫一郎が「新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお務め申す。一天万乗の天皇様に弓引くつもり はござらねども、それがしは儀のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたあす!!!」と叫び、ひとり銃弾の中を切り込んでいったのは、ここ千両松でした。

千両松辺りは沼地でした・・ 淀堤を今は京阪電車が疾走します・・当時、この辺りから京阪に沿って宇治川が流れた。
千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

淀千両松堤の戦いで戦死した東軍(新撰組隊士など旧幕府軍)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。花なども毎日取り替えられ綺麗に手入れされています。

宇治川の川筋に沿って京街道も続いた・・ いつ訪ねても献花、手入れが行き届いている千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」

この埋骨地には幽霊伝説があります・・・千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。傍に建立された記念碑に「・・・一瞬の時差により、或る者は官軍となり或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。」と記された一説が鳥羽・伏見の戦の本質だとも言われます。

一段と高くなった道が堤跡・・そこから淀小橋が宇治川に架かっていた・・ 京街道を進撃・・・

「錦の御旗」は、薩長軍について「官軍」となるか、旧幕府軍につき「賊軍」となるか、という決断を諸藩に迫る政治的策略だった。5日、「錦の御旗」を見ると、当初旧幕府軍についていた諸藩も動揺しました。

鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(妙教寺)

戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑)

東軍戦死者埋骨地碑(光明寺跡)

桂川堤防沿いにあった愛宕茶屋界隈には、桑名藩々兵や大砲隊が陣取っていたので相当な激戦地となり薩長軍双方の砲弾が飛び交い妙教寺の本堂に命中し貫徹した跡や慰霊碑があります。桂川堤防下にある銀杏の木の下に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。

淀城跡の石垣と堀 天守台石垣 淀城跡碑

旧幕府軍は、体勢を立て直す為、淀城に入ろうとしましたが、淀藩が中立をとり旧幕府軍の入城を拒否したので、城下と淀小橋を焼き払って橋本へ退却していきました。

文相寺 「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑 ・・・
新町辺りの早咲きの桜が満開!\(●⌒∇⌒●)/
かつてこの道筋に旧淀大橋が架かっていた 往時の風情を今に伝える道筋の風情

旧幕府軍は当時この辺りを流れた木津川に架かっていた淀大橋を渡り京街道を八幡、橋本へ向かいました・・・

美豆町は京街道が通った所で旅籠や木津川旧河道に面した納屋(浜納屋)や蔵がありました・・
(*^-^*) 涼森神社 男山遠望
おけいはん特急 御幸橋(宇治川)と男山
木津川に掛かる新旧の御幸橋 桜並木の名所・背割堤と天王山
男山 京街道 ・・・

6日、淀城に入城できなかった旧幕府軍は、後退し男山の東西に分かれて布陣。西側の橋本は遊郭のある宿場町で、久修園院に本営を構え土方歳三率いる新撰組など精鋭部隊を擁する本隊が布陣。薩長軍に男山〜橋本戦線を撃破されると、大阪へ進撃されるので必死に防戦、薩長軍もこの戦線の突破が至難でした。東に男山、西に淀川を控えた橋本は旧幕府軍に有利だったが突如、淀川対岸の山崎を守備する津藩・藤堂家からの砲撃を受け、それまで橋本砲台からの砲撃で薩長軍の進軍を阻んでいたが淀川対岸の津藩藤堂家の砲撃に回されたため、男山〜橋本戦線を守る旧幕府軍は三面からの攻撃を受ける事によって遂に力尽き大阪に敗退し正月3日に開戦した鳥羽伏見戦は薩長軍勝利を決定付けた。

・・・ 一際目立つ樹齢千年と伝える楠の大木
キララと比較して頂くと納得して頂けるかと・・ ・・・ 堤防から見た家並み・・
映画・鬼龍院花子の生涯で夏目雅子がこの橋と堤防に立っていた・・ 道標石(淀川対岸の山崎への渡し場痕)

橋本の渡し場から戦いで傷ついた旧幕府軍兵を船で大阪城へ運んだと伝える。

旧街道沿いの橋本は、時間が止まっているような別世界の趣がある町並み
屋根の上に魔よけの効験がある鍾馗(しょうき)さんの瓦人形が祀られる 旅人で賑わった旧街道の町並み
かって、京都〜大坂を結んだ京街道(大阪街道)が通り、宿駅にも指定され多くの人々が往来し栄華を極めていました・・・
風情ある風呂屋さん おけいはん(京阪電車)
旧幕府軍の橋本での本陣になった久修園院 説明パネル
戊辰役橋本砲台場跡/楠葉砲台(台場)跡

元治元年(1864年)、徳川幕府は大阪湾から淀川を通って京都に侵入する外国船に備えて、淀川左岸の橋本と右岸の高浜に砲台を築きました。両砲台に設置された大砲は、カノン砲4門ずつだったと推考されます。慶応4年(1868年)1月6日、鳥羽・伏見の戦いで伏見、淀から敗走してきた幕府軍(会津藩、新撰組など)は、橋本に本陣を構えて薩長軍を迎撃しました。ところが、正午頃、対岸の高浜砲台を守っていた津藩藤堂家が寝返り、小浜藩酒井家が守る橋本砲台に砲撃を浴びせました。淀川を挟んで両砲台は交戦する事となり、橋本を守備していた幕府軍は、側面からの砲撃を受けて混乱に陥り、遂に大阪城へ向けて退去し鳥羽・伏見の戦は薩長軍の勝利に終わりました。橋本砲台の守備兵は、砲弾を全て撃ち尽した後、大砲を破壊して大阪城へ退去しました。

この先に楠葉砲台が見える 日本で唯一残る河川台場・楠葉砲台 こま札

6日、山崎方面を守備していた津藩藤堂家が寝返り、淀川対岸の橋本に陣取る旧幕府軍に向けて高浜砲台から砲撃を浴びせかけました。旧幕府軍も、「錦の御旗」を見ると戦意を失い退却しました。賊軍とされた為、徳川慶喜は失意のあまり東帰してしまいました。「たとえ千騎が一騎になっても戦う!」と宣言しておきながら、戦中の慶喜の東帰に残された旧幕府軍は大いに意気消沈した。こうして鳥羽伏見の戦いは、伏見の町を壊滅状態にして幕府軍が大阪城に退却して薩長軍の勝利に終わりました。

鳥羽・伏見の戦で薩長軍と戦った新選組終焉の地になった橋本@戊辰役橋本砲台場跡
明治末期の京阪電車施設に伴って土塁の土砂などが運び去られた。
砲台遺跡と思われる石垣と土塁
田園の中を疾走するおけいはん 淀川対岸の高浜砲台を守備していた津藩藤堂家と交戦となり、旧幕府軍は窮地になり撤退・・・
・・・ 道標石(石清水八幡、京街道など) 水と共存してきた面影を感じる旧家屋の石垣
八幡宮の石灯籠 旧街道(京街道/大阪街道)の風情を今に伝える・・・
さっ、伏見へ帰ろう!・・・ 男山 天王山
淀のタカ※ブネへ進撃?! (^▽^;)

本日の最重要任務を遂行せねば!(^^ゞ爆

クロネコキララの宅急便か?!(^^ゞ爆

Tourist  2010.03.08(M)

 

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