宇治散策

 

木かくれて 茶摘もきくや 時鳥(ほととぎす)  芭蕉

 

寺田屋〜宇治上神社〜天ヶ瀬(あまがせ)ダム〜浮島(塔の島、橘島)など

寺田屋〜長建寺〜宇治川右岸〜宇治上神社〜天ヶ瀬ダム〜左岸〜浮島(塔の島、橘島)界隈など

宇治散策

坂本龍馬所縁の旅籠・寺田屋

伏見城お舟入り常夜灯

地蔵菩薩立像(大善寺/六地蔵)

東屋観音石像([第五十帖・東屋(あづまや)]之古跡)

日本最古?とされる石碑「断碑」

源氏物語・宇治十帖モニュメントと朝霧橋

本殿(宇治上神社/世界遺産・国宝)

朝日焼

紅葉の名所でもある琴坂

天ヶ瀬発電所(天ヶ瀬ダム)

天ヶ瀬ダムと鳳凰湖(天ヶ瀬森林公園)

天ヶ瀬吊り橋(宇治川)

日本最大の浮島十三重石塔

宇治川先陣碑

紫式部像と宇治橋

月と観月橋

寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、十八歳のとき寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が一切きりもりし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く、志士たちにも援助をおしまなかった。

坂本龍馬ゆかりの旅籠・寺田屋

酒蔵(宇治川派流)

十石舟(宇治川派流)

長建寺

観月橋(宇治川)

鉄橋(宇治川/近鉄電車京都線)

指月の浜

宇治川に臨む川畔を称し豊臣秀吉が伏見城築城に際し、建設資材の荷揚げ場として造営した所と伝えます。

指月の浜(三十石船)

京阪電車宇治線

山科川と宇治川合流地点

大善寺(六地蔵)

地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する"六地蔵巡り"の風習が生まれたとされています。

伏見城お舟入り常夜灯

地蔵堂(大善寺/六地蔵)

銘木・臥竜(がりゅう)の松

許波多(こはた)神社(木幡:こはた)

初め木幡(柳山)山中に創祀されたとされ旧地の柳山に因んで一に柳大明神とも言いますが創祀年月は不詳ですが平安末期の応保年間(1161〜62年)と伝えます。延喜式神名帳に掲げる「宇治郡許波多神社三座」とある内の一座は当社とされ二座は五ヶ庄の許波多神社に祀るとされます。天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、を祭神とする木幡の産土神で五ヶ庄の許波多神社とともに旧郷社として崇敬されています。二つ並んだ本殿向かって左側を田中神社で天照大神、天津日子根命(あまつひこねのみこと)を祭神とし元、河原村の産土神でしたが明治41年(1908年)に移し一説に式内許波多神社三座の二座は当社とされるも明らかでありません。

本堂

許波多神社

狐塚(宇治陵三十六号)

二子(ふたご)塚古墳

長さ約150m、南北を主軸とする巨大な前方後円墳で隆然たる封土を遠望すればあたかも二子のように並び立っているので二子塚と呼ばれ一に「ダンノヤマ」とも言われます。この古墳は宇治川東側の沖積台地に作られた横穴式古墳で大正初期頃、土砂の採掘によって北の後円部は破壊されたが南前方部は完存し西〜南にかけて堀があり「ダンノ池」と呼ばれます。

 拝殿

本殿

石室跡(二子塚古墳)

二子塚古墳とダンノ池

寺界道遺蹟

許波多神社

許波多(こわた)神社(五ヶ荘:ごかしょう)

天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、神倭磐余尊(かんやまといわれひこのみこと/神武天皇)の三神を祀る五ヶ庄一帯の産土神で木幡の許波多神社とともに古くから崇敬されています。創祀年月は明らかにしません。社殿によれば皇位継承をめぐる壬申の乱(671年)を前に大海人皇子(天武天皇)が近江の大津宮から吉野に赴かれる時に参詣し手にした柳の枝のムチを社頭の瑞垣に挿し「我に天位を践まばこの柳、芽を出すべし。」と戦勝祈願し、天武天皇として即位するや柳も芽吹きその霊験を賞賛し社領を寄進され名も柳大明神と名付けたとされます。明治8年(1875年)9月、陸軍火薬庫が増設されるにあたり翌9年10月、お旅所であった現在地に移された。「山城風土記」、「宇治郡木幡社(祇社:くにつかみのやしろ)」、「延喜式神名帳」の「宇治郡許波多神社三座」とあるは当社と断定され社名の柳大明神を許波多神社に改めた。

二の鳥居と狛犬

手水と橋桁石(左右の基礎石)

割り拝殿

本殿

御神木の瘤

墓参りへ@萬福寺塔中・宝蔵院

岡本廃寺

楠玉龍王

倍塚

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

四世紀初頭の応神天皇の皇子とされ日本書紀によると、応神天皇は数多の皇子の中でも秀俊の誉れ稚郎子を皇太子と定めて亡くなった。しかし、稚郎子は自分よりも年長の大鷦鷯(おおささぎ:仁徳天皇)こそが皇位を継ぐべきだとし、大鷦鷯も父の言葉に背くことはできないとし、お互いに譲り合うこと三年、ついには兄をたてて自らの命を断ったという逸話が伝わります

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵

京阪宇治駅

東屋観音石像[第五十帖・東屋]之古跡

橋寺放生院

雨宝山と号する真言律宗の寺で一に常光寺として地蔵尊を祀り道路交通の安全を祈る寺として古くから知られます。寺伝によれば大化2年(646年)、僧道登が宇治橋を架けた時に宇治橋の守り寺として併せて建立したとされるが弘安9年(1286年)西大寺の僧叡尊が宇治橋の架け替えにあたり橋供養をした時だとされます。断碑は、上下二つに割れたものを一つに繋ぎ合せ碑文は大化2年(646年)、僧道登によって宇治橋が初架橋されたと記します。元橋畔にあったのがいつの世にか流出し行方不明でしたが寛政3年(1791年)、たまたま付近土中から断片が発見され、失った部分を補ったのが現在の石碑で日本最古の石碑とされますが近年、古さを誇示する為に平安初期頃に偽作されたという説もあります。

山門(橋寺放生院)

日本最古?の石碑「断碑」

五輪石塔

芭蕉句碑

本堂

石仏

願かけ観音

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

十二支守本尊像

宇治十帖モニュメント

宇治川右岸の朝霧橋の手前にあります。源氏物語「宇治十帖」では、浮舟(女性)は薫に連れられて宇治に移りますが、匂宮(男性)は浮舟の居場所を探して宇治を訪れ、二人は小舟で橘島へ渡りました。モニュメントはその場面をモチーフされました。

宇治橋(橋寺方生院)

朝霧橋

宇治十帖モニュメントと朝霧橋

宇治神社

地域の産土神(うぶずながみ)であった離宮社は、対岸に平等院が建立されると、その鎮守社としての地位も与えられました。江戸時代迄は宇治神社と宇治上神社は一対でした。この一帯は応神天皇の皇子で、宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の邸宅跡と考えられ、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが両神社の縁起と伝わります。応神天皇の離宮とも関わりがあったと思われ、「離宮社」、「離宮八幡」などと称されました。

一の鳥居と狛犬(宇治神社)

拝殿

二の鳥居と狛犬(宇治神社)

宇治上神社(世界遺産/国宝)

元は下社の宇治神社と一体で平等院の鎮守社ともいわれ明治維新までは、「離宮上社」と呼ばれていました。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。祭神は応神天皇とその皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、兄の仁徳天皇とされています。境内正面の拝殿は鎌倉初期のもので、寝殿造りの様相を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式の建物で、左右の社殿にある蟇股(かえるまた)も建築年代を示すものです。

本殿

[第四十八帖・早蕨(さわらび)]之古跡

一の鳥居(宇治上神社)

桐原水(きりはらすい)

室町時代に「宇治七名園」が作られ、それに伴いお茶に欠かせない水にも「宇治七名水」が定められ、桐原水一つとされ現在他の六名水は失われましたが、桐原水だけが、今もなお枯れる事なく涌き出していますが残念ながら生での飲料水としては不可のようです。

参門(宇治上神社)

拝殿

桐原水(きりはらすい)

本殿(国宝)

覆屋(おおいや)のある本殿には、三社が収められ、祭神は向かって右が「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)(弟)」真中が「応神天皇(父)」、左が「仁徳天皇(兄)」とされています。それぞれ神殿としては小規模ですが、その造りは大変優雅で、神社築としては日本最古のものと伝わり、建築年代は平安時代後期と推定され国宝に指定されています。

春日社

本殿

又振(またふり)社

又振(またふり)社

宇治の民部卿(みんぶきょう)と称された藤原忠文を祀る小さな鳥居と祠の神社です。辺りの地名も「又振」と言い、源氏物語「宇治十帖」の中で浮舟が詠んだ歌中の「またふり」という詞で、匂宮は浮舟が宇治にいる事を見破りました。

離宮水

恵心院参道

山門

恵心院(えいしんいん)

真言宗智山派の寺で平安時代の第52代・嵯峨天皇の弘仁13年(822年)、弘法大師(空海)によって開基されました。当地が大師入唐時に修行された唐の青龍寺の地形に似ていたので「龍泉寺」と号されました。中世以降の度々兵火を浴び堂宇破却したるを、寛弘2年(1005年)、比叡山横川の恵心僧都源信によって再興され、寺号を「朝日山恵心院」と改めました。江戸時代、淀藩主・永井氏の庇護を受けて伽藍の整備がなされたが、兵火を浴び寺運は哀徴しましたが真言宗の一沙門によって中興され現在に至ります。什宝(じゅうほう)に春日局が幼君・竹千代(徳川家光)の安穏祈願をした時の感謝状などを有しています。

本殿

鎮守社

弘法大師石像

朝日焼の器

興聖寺山門

琴坂(興聖寺参道)

天ヶ瀬(あまがせ)ダム

宇治橋の上流約2.5km、宇治川天ヶ瀬に水害防止と発電の二つを主目的に建造されたダムで高さ73m、長さ254mのアーチ式ダムで2000万㎥(東京ドーム7杯分) の貯水量で下流域の洪水を防ぎ新たに発電所を設け92000kwの電力を宇治市、城陽市などに送電し併せて宇治、城陽、久御山、八幡市など山城地域へ上水道(府営)の取水口も設けられています。総工費66億円と言われ当時、我が国土木技術の粋を結集して昭和32年(1957年)〜7ヵ年半の歳月を費やして同39年(1964年)11月に一応完成しました。ダムの完成により宇治川に延々24kmに渡って一大人造湖が出現し他所に見られない水上公園とされ鳳凰湖と名付けられました。

天ヶ瀬吊り橋

天ヶ瀬ダム

鳳凰湖

鳳凰湖碑(天ヶ瀬森林公園)

天ヶ瀬ダム(天ヶ瀬森林公園)

天ヶ瀬森林公園碑

天ヶ瀬発電所(ダム上)

本堂(靖国寺)

諸堂(靖国寺)

七重石塔(靖国寺)

開山堂(靖国寺)

天ヶ瀬吊り橋

[第四十九帖・宿木(やどりぎ)]之古跡

喜撰橋

日本最大の浮島十三重石塔

宇治川先陣碑

朝霧橋

平等院(世界遺産/国宝:藤原期)

宇治七名水」の一の公文水(くもんすい)跡碑

橋姫社と住吉社

[第四十五帖・橋姫(はしひめ)]之古跡

紫式部像

[第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡

明治天皇御駐車処碑

三の間(宇治橋)

浮島方面(宇治橋三の間から)

夕暮れの宇治橋辺り

彼方(おちかた)神社

観月橋

宇治川に架かる国道24号線の橋で文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城築城時に架けたのは「豊後橋」と言い大和街道の起点で、長さ206m、幅8mと立派な橋だったそうですが鳥羽伏見の戦で焼失し明治6年(1873年)にようやく再建され豊臣秀吉の月見宴などに因んで「観月橋」と名付けられました。現在の観月橋は昭和12年(1937年)に架け替えられました。上の新観月橋は昭和49年(1974年)に交通渋滞の緩和(バイパス)対策で新しく架けられました

[第四十六帖・椎本(しいがもと)]之古跡

[第五十三帖・手習(てならい)]之古跡

観月橋

京阪電車宇治線

鉄橋(近鉄電車京都線)

酒蔵

 Tourist  2004.10.25(M)

 

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