山紫水明「宇治」散策

 

いさやその 蛍の数は 知らねとも 玉江の芦の みえぬ葉そなき  源三位頼政

 

寺田屋〜萬福寺〜三室戸(みむろど)寺〜平等院〜浮島(橘島、塔ノ島)〜宇治橋・三の間

 

坂本龍馬ゆかりの寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、十八歳のとき寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が一切きりもりし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く、志士たちにも援助をおしまなかった。

 子安観音

坂本龍馬ゆかりの旅籠「寺田屋」

酒蔵(宇治川派流)

長建寺

紅柄塗りの唐模様山門で知られ真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。

 山門

本堂

京阪宇治線

指月の浜

宇治川に臨む川畔を称し豊臣秀吉が伏見城築城に際し、建設資材の荷揚げ場として造営した所と伝えます。

近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)

平戸樋門(宇治川派流、宇治川合流地点)

三十石船(指月の浜)

大善寺(六地蔵)

地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀した事から、これらの地蔵を巡拝する"六地蔵巡り"の風習が生まれたとされています。

 六地蔵(大善寺)

地蔵堂、観音堂

地蔵菩薩立像

 本堂

ん?んん??廃線になった橋脚台???

やっぱり廃線跡とです・・

 廃線跡は遊歩道に整備されているとです・・・どこへ行くのかな???

こにゃにゃちは〜・・・どこから来たニャ〜?!

休憩中・・・自分やキララの周りをニャ〜とスリ寄る仔猫ニャン?!おぬし、将来大物にゃん?!(爆)

JR木幡駅に出て、ここから分線していた?!

西方寺(弥陀次郎:みだじろう)、二子(ふたご)塚古墳

西方寺・・・無量山と号する浄土宗知恩院派の寺で俗に「弥陀次郎」と呼ばれます。「山州名跡跡志/巻15」によれば、むかし淀の漁夫に悪次郎と称され大変に嫌われた男がいましたが、ある時に淀川々中より一体の阿弥陀像を感得した事から仏心をおこし出家し世の人々から「弥陀次郎」と賞賛されたと伝わります。当寺は寛永年間の再興で「弥陀次郎」伝説は江戸時代に大いに流布し付近を流れる川を弥陀次郎川と言います。関白・近衛兼基(かねつね)の墓所が二子塚古墳の前方部(西方寺庭園背後)にあり墓石は笠塔婆形の石塔を墓石にしています。二子塚古墳・・・長さ約150m、南北を主軸とする巨大な前方後円墳で隆然たる封土を遠望すればあたかも二子のように並び立っているので二子塚と呼ばれ一に「ダンノヤマ」とも言われます。この古墳は宇治川東側の沖積台地に作られた横穴式古墳で大正初期頃、土砂の採掘によって北の後円部は破壊されたが南前方部は完存し西〜南にかけて堀があり「ダンノ池」と呼ばれます。石室はすでに破壊され原型を留めませんがその周囲に用いたとされる巨大石は発掘され西方寺庭園に遺存されています。

 西方寺参道

本堂

二子塚古墳(西方寺庭園背後)

 墓参りへ@萬福寺塔中・宝蔵院

霊園からの宇治の眺望・・・

蔵院開山塔(江戸期:京都府指定文化財)

黄檗山・萬福寺(江戸期:重要文化財)

萬福寺は、1654年(江戸時代)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の崇敬を得て1661年に開創された中国風の寺院。日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など中国の名僧を原点とする黄檗宗の大本山です。萬福寺の建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、主要建物23棟、回廊などが重要文化財に指定されています。

 萬福寺総門(重文:江戸期)

三門(重文:江戸期)

天王殿(重文:江戸期)

 弥勒菩薩(布袋)坐像

回廊

雲版(うんばん)

開梆  (魚梆  /かいぱん)

仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/江戸期:重文)

天王殿

仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/江戸期:重文)、月台(げつだい)、梵檀石(ぼんだんせき)

大雄宝殿(重文:江戸期/だいおうほうでん)とも称し五間六面、重層、屋根は入母屋造、本瓦葺の大殿で上層に「大雄宝殿」(隠元筆)、下層に「万徳尊」(木庵筆)の額を掲げ柱は全て角柱とし前面一間通りを吹き放しとします。廊下天井を蛇腹状(俗に黄檗天井)とし正面中央入口に桃実を浮彫りとした半扉を立て両端の壁に大きな円窓を設けるなど中国風の溢れた黄檗独自の建物です。仏殿の前にある白砂の基壇を「月台」と言い黄檗建築の特徴の一つです。月台とは常に月光を受けるという意で水陸会(水陸の生物に食べ物を供養する法会)を行う時の祭壇で、その中央の長方形の石は梵檀石(ぼんだんせき)と言い行状のよくない僧侶を石上におき一切の言葉を交じわせないとされ一に擯罰石(ひんばつせき)とも言います。

 月台と擯罰石(ひんばつせき)

釈迦如来坐像(大雄宝殿)

 大雄宝殿(江戸期:重文)

卍くずしの匂欄(こうらん)

法堂(江戸期:重文)

回廊

 回廊にある合山鐘

卍くずしの匂欄(こうらん)

開山堂(江戸期:重文)と舎利殿

三室戸(みむろど)寺

西国観音霊場十番の札所で、本山修験宗の別格本山です。宝亀年間(770〜80年)、光仁天皇の勅願により、三室戸寺の奥、岩淵で一体の黄金の千手観音菩薩を得て本尊として創建されたと伝わります。開創以来、天皇・貴族の崇拝を集め、堂塔伽藍が整い、霊像の霊験を求める庶民の参詣で賑わうこととなりました。宝蔵庫には平安の昔を偲ぶ五体の重要文化財の仏像が安置されております。現在の本堂は文化2年(1805年)に建立された重層入母屋造りの重厚な建築で、その背景には室町時代の十八神社社殿、東には鐘楼、三重塔があります。 

 山門

三室戸寺へ行くとです・・・宇治の眺望

三室戸寺参道

 参道の石段

横綱時代の若貴兄弟の手形

本堂(重層入母屋造り)

 三重塔

[第五十一帖・浮舟(うきふね)]之古跡

鐘楼と三重塔

 十八神社(本殿/重文:室町期)

十三重石塔

[第五十二帖・蜻蛉(かげろう)]之古跡

 蜻蛉石

[第五十帖・東屋(あづまや)]之古跡

 [第五十帖・東屋(あづまや)]之古跡

宇治橋

[第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡

平等院(世界遺産)、扇の芝

平等院・・・関白・藤原道長が左大臣・源重信婦人から譲り受けた別業を道長の子・頼通が、永承7年(1052年)に仏寺に改め、平等院と号しました。末法思想が貴族や僧侶らの極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行しました。翌年の天喜元年(1053年)、平等院の鳳凰堂(阿弥陀堂)が落成し、堂内には平安時代の最高の仏師・定朝によって作成された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたと伝え約1000年前に建立された建造物や仏像などが今に伝えられ、世界遺産にも登録されています。扇の芝・・・治承4年(1180年)5月、以仁王(もちひとおう)の令旨を奉じ、平家打倒を掲げた源頼政は宇治で決戦に及び、戦に敗れ平等院で辞世の和歌「埋もれ木の 花咲くこともなかりしに 身のなる果 てぞ 悲しかりける。」を残し自刃しました。 

 平等院

扇の芝

鳳凰堂(阿弥陀堂)

平安時代後期、天喜元年(1053年)、時の関白・藤原頼通によって平等院に建立された阿弥陀堂です。華やかな藤原摂関時代を偲べる唯一の遺構として貴重な建築です。最も大きな特徴は池の中島に建てられている事で、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、その美しい姿を水面 に映しています。堂内の中央には金色の丈六阿弥陀如来像が端座し、周囲の壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれています。左右の壁上部には52体の雲中供養菩薩像が懸けられています。堂内の天井や小壁は、宝相華を主とする文様で埋めつくされ柱にも、天衣を翻して舞う天人や楽を奏する天人、飛び立つ鳳凰、宝相華、唐草文様などが描かれ、これらは鮮やかに彩 色されていました。そして天蓋中央部の大型の八花鏡のほかに、天井には計66個もの銅製鏡が吊られています。「続本朝往生伝」という平安時代の本に「極楽いぶかしくば宇治の御寺をうやまえ」という記述があります。当時の人々は鳳凰堂を地上に出現した極楽浄土と思われていました。

 10円硬貨でお馴染みの鳳凰堂(阿弥陀堂)とです・・・

浄土院

平等院の塔頭で、浄土宗の栄久(えいく)上人が、明応年間に平等院修復の為に開創した寺と伝えます。 文化財である阿弥陀如来立像、帝釈天立像、養林庵書院障壁画などを管理しています。

養林庵書院

供養塔など

浄土院

不動堂

不動明王を本尊とする最勝院の本堂で最勝院が天台修験宗を極める聖護院末であるところから役小角(えんのおづぬ:役行者)の像が祀られています。

 鳳凰堂(阿弥陀堂)

源三位頼政墓所

不動堂

浮島十三重石塔(重文:鎌倉期)

塔ノ島中央にあり花崗岩製で高さ15m、我が国現存中最大の十三重石塔です。弘安9年(1286年)、奈良西大寺の僧・叡尊(興正菩薩)が宇治橋の架け替えに際して建立したもので上人は橋の流失は乱獲される魚霊の祟りであるとし殺生の罪を戒め網代を捨ててこの地に経巻共に埋め供養塔としたものと伝わります。石塔は宝暦6年(1756年)の大洪水で倒れ、約150年間埋没していたものを明治41年(1908年)に発掘されて再建されました。一説に上から五番目の塔芯を石川五右衛門が盗み出し伏見の藤森神社の手水の水鉢であるとされます。

 浮島(塔ノ島)

浮島十三重石塔(塔ノ島)

宇治川右岸の観流橋

宇治川先陣碑

承久年間、源義経(みなもとのよしつね)と木曽義仲(きそよしなか)の合戦時に源義経旗下・佐々木四郎高綱と梶原源太景季(かげすえ)の二名が宇治川の先陣を争った故事を偲んで昭和6年(1931年)4月、帝国在郷軍人宇治分会が建てたものです。

 宇治川先陣碑

朝霧橋

三の間(宇治橋)

 浮島(橘島、塔ノ島)

京阪宇治線

近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)

 Tourist  2005.08.16(T)

 

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