源氏物語の街・宇治

 

橘の 小島は色も 変らじを この浮舟ぞ ゆくへ知られぬ 源氏物語 第五十一帖・浮舟(うきふね)

 

西岸寺〜長建寺〜許波多神社〜西導寺〜宝蔵院〜世界文化遺産・宇治上神社〜宇治神社〜恵心院〜県神社〜御香宮〜金札宮

 

源氏物語と宇治

平安貴族にとって、宇治は別業(べつごう=別荘)の地でした。舟遊びや紅葉狩りなど遊興の地であると共に、魂の安らぐ宗教的な地でもありました。宗教的な面が強かったのは、平安時代中ごろに栄華の頂点を極めた、藤原氏の墓地があったためです。多くの別業では、貴族たちが御堂(みどう=持仏堂/自分の守り本尊を安置するお堂)にこもり、仏に祈るといった時間を持ちました。また『源氏物語』が執筆されたと考えられる年代よりも後になりますが、世界文化遺産である平等院も藤原頼通(よりみち)が父・道長(みちなが)から譲り受けた別業を寺院に改めたものです。和歌においても宇治は「宇治=憂(う)し」の掛詞(かけことば)として、古くからひんぱんに用いられてきました。このように、宇治は平安貴族にとって身近な土地でした。こうした背景の元、宇治は『源氏物語』最後の舞台として選ばれたと考えられます。「橋姫」で始まり「夢浮橋」で終わる「宇治十帖」では、「京から宇治へ」、「光源氏からその子・薫へ」と時空が移ることを「橋」で暗示し、「華やかさと静けさ」、「此岸(しがん)と彼岸」など宇治の持つ対照的な要素も加えることで、物語が「春から秋」、「昼から夜」の世界へと転じていくことを表したと言えるでしょう。

 
西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、この鎌倉期に作られたものです。

積雪する西山の霊峰・愛宕山 同じく東山の霊峰・比叡山 西岸寺(油掛地蔵尊)
こま札 芭蕉句碑 こま札
油掛地蔵尊 本堂
酒蔵 伏見土佐藩邸跡
伏見らしい風景
月桂冠記念館 春に巡航再開される十石舟
長建寺

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)、時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は、"伏見の弁天祭"と言われています。境内には伏見七名水の閼伽(あか)水が湧き出ています。

島の弁天さんといわれる長建寺 かつて三十石船に時を告げた鐘 ・・・
伏見名水・閼伽水 建部政宇奉納した弁天型灯籠 椿一輪
参拝します・・・ おけいはん・宇治線 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)
平戸樋門と観月橋 通行止め解除 山科川、宇治川合流地
山科川右岸を東上・・・ 木幡池 ・・・
隠元禅師上陸の地・隠元橋 「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」記念碑(功徳碑) 許波多(こわた)神社(五ヶ荘:ごかしょう)
一の鳥居 二の鳥居 拝殿(重文)
ご神木の瘤 本殿 浄土宗・西導寺
法然上人像 毘沙門天堂 萬福寺塔頭・宝蔵院
墓参りへ・・・ 鉄眼一切経収蔵庫(重文・江戸期)
宝蔵院の甍と霊苑からの宇治俯瞰 宝蔵院開山塔
お待たせ〜キララくん(^▽^;) 萬福寺 ・・・
源氏物語ミュージアムと宇治十帖 ←クリック 源氏物語ミュージアムのCM

源氏物語は11世紀初め、平安時代半ばに紫式部によって書かれた全五十四帖からなる長篇小説です。源氏物語は、王朝物語の名作として後の作品に大きな影響を与え、現代に至るまで多くの人に愛されてきました。
物語は三部構成になっており、第一部は「光源氏(ひかるげんじ)が誕生し、栄華を極める」までの三十三帖、第二部は「その光源氏が、苦悩のうちに生涯を終えようとする」までの八帖、第三部は「その子の薫(かおる)の半生を、悲恋とともに描いた」十三帖です。
特に四十五帖〜五十四帖まで最後の十帖は、宇治が舞台となっているので宇治十帖と呼ばれています。・・・宇治十帖は世間的に源氏の次男ですが、実は源氏の正妻・女三宮と柏木の間にできた不義の子・薫(かおる)と源氏の孫・匂宮が、宇治八の宮の三姉妹(大君、中君、浮舟)をめぐって織りなす恋物語。強い仏教色、無常感が作品の主調をなし、優柔不断で恋に対して決定的な強引さを持たない薫の人物造形がライバルの匂宮や第一部、第二部の源氏と対比されている。

宇治源氏物語ミュージアム
・・・ 寝殿造の中に装束や調度品を展示 囲碁をしている姫君
華やかな世界を象徴する牛車(ぎっしゃ) 広大な四町各々に四季を表す源氏の六条院 展示資料
作者・紫式部や藤原道長、宇治十帖の物語の中の宇治(想像図)などをパネル展示
源氏物語をテーマに、市内在住の現代作家が描いた源氏物語
源氏香の解説 宇治十帖の舞台「別業(べつごう)の里・宇治」 「橋姫 女人たちの心の丈」が上映される。
宇治十帖

宇治十帖は「橋姫」で始まり「夢浮橋」で終わります。これは、平安京と宇治をつなぐ橋であり、彼岸(ひがん)と此岸(しがん)、男女の関係そのものをつなぐ橋であるとも考えられます。また、”橋姫”は宇治川にかかる宇治橋の守神で、結界の象徴とも言え、鬼女伝説など数多くの伝説を持ちます。宇治十帖の冒頭が「橋姫」であるのは、作者・紫式部が二つの世界、ことに男女の世界を結ぶことの難しさを”橋姫”に象徴させたと言えるのではないでしょうか。恋愛によって、男性に翻弄された姫君たちですが、最後にそれぞれ精神的に大きな成長をとげ女人成仏します。・・・

第四十五帖・橋姫(はしひめ) 第四十六帖・椎本(しいがもと) 第四十七帖・総角(あげまき)

橋姫の 心を汲みて 高瀬さす 棹のしづくに 袖ぞぬれぬる・・・光源氏の異母弟である八の宮は勢力争いに巻込まれた後、零落し、京邸が焼失したのをきっかけに宇治の山荘に移り住む。そして宇治山の阿闍梨(あじゃり)を師と仰ぎ、俗聖(ぞくひじり)としての生活を送っていました。
その頃、光源氏の御子である薫は、自分の出生に疑問を抱いた。仏門への帰依を望んでいた薫は、阿闍梨から話に聞いていた八の宮を慕い、宇治に通うようになる。
ある日、薫が宇治を訪ねると山荘から琵琶と琴の音が聞こえてきた。川霧の中、山荘を垣間見ると、二人の美しい姫君の姿が目に入ります。姉の大君(おおいきみ)と妹の中君(なかのきみ)でした。都に帰った薫は、光源氏の孫で皇子でもある匂宮(におうのみや)に宇治の姫君たちの話をします。
再び、宇治を訪れた薫は、山荘に仕える老女房から、自分が柏木と女三宮(おんなさんのみや)との間に生まれた不義の子であるという出生の秘密を知らされる。

立ち寄らん 蔭と頼みし 椎が下 むなしき床(とこ)に なりにけるかな・・・匂宮は初瀬(はつせ)詣での帰り、薫から聞いていた姫君たちのことも気になっていたので、たくさんのお供とともに宇治の別荘に泊まりました。薫も宇治へ赴き、宴が華々しく催され、その管弦の音は宇治川をはさんだ対岸にある八の宮の山荘にまで届いたのでした。
薫と匂宮は八の宮の山荘を訪れ、趣深い接待を受けます。美しい宇治の風景や姫君たちをすっかり気に入った匂宮は、この後、中君と文を交わすようになります。
しばらくして薫が宇治を訪れたとき、重い厄年で死を予感していたのか、八の宮は薫に姫君たちの後見人になってほしいと頼むのでした。その後、「皇族の誇りを失わず、軽々しく男性になびかず、この宇治を決して離れることのないように」と姫君たちに言い残し、宇治山の山寺へ入った八の宮は病で帰らぬ人となりました。
八の宮が亡くなった年の暮れ、再び宇治を訪れた薫は心をこめて応待する大君に想いを抱き、胸中をほのめかすのですが、大君は取合おうとしません。

あげまきに 長き契りを 結びこめ 同じところに よりもあはらん・・・大君(おおいきみ)は父の遺言通り一人身を通し、中君(なかのきみ)と薫を結婚させようと思いました。ことあるごとに自分を避ける大君にもどかしさを感じる薫ですが、中君と匂宮が結ばれれば大君の気持ちを得られると考え、匂宮(におうのみや)をひそかに宇治へ案内します。
かくて、匂宮と中君は結ばれますが、皇子である匂宮は容易に出歩くこともできず、なかなか宇治へ通えません。宮を待ち偲ぶ中君の姿に大君は心を痛め、病気になってしまいます。そして、権勢を極めた夕霧(光源氏の息子)の娘である六君(ろくのきみ)と匂宮の婚約の噂が都から届き、それを聞いた大君は父の遺言にそむいて妹を不幸にしてしまったと自分を責め、生きる気力も失います。大君が病気だと知り薫はすぐに駆け付け看病しますが、薫が見守る中、大君は息を引き取ります。

第四十八帖・早蕨(さわらび) 第四十九帖・宿木(やどりぎ) 第五十帖・東屋(あずまや)

この春は 誰にか見せん なき人の 形見に摘める 峰のさわらび・・・ある春の日、独りになりわびしい日々を過ごしていた中君(なかのきみ)のもとに宇治山の阿闍梨(あざり)から蕨や土筆の初物が届きます。中君は父が師と仰いでいた僧からの心遣いがとても嬉しく返歌をしたのでした。
次の年、中君は匂宮の住む二條院に迎えられることになりますが、宇治を訪ねた薫は大君に似てきた中君が匂宮(におうのみや)の元に行くのを複雑な心境で送り出す。二條院に移った中君は幸せな暮らしを送ります。しばらく経って薫は中君を訪ね、匂宮に大事にされている中君を見て喜びますが、薫との間を匂宮に疑われている中君は心苦しく思うのでした。

やどり木と 思ひだすは 木の下の 旅寝もいかに 淋しからまし・・・一時は取りやめになった匂宮(におうのみや)と六君(ろくのきみ)との婚儀の準備が進み、この話を聞いた中君は父の遺言にそむいて宇治から離れてしまったことを後悔します。薫は中君が悲しむ姿を目の当たりにして匂宮を恨み、中君に心を寄せていきます。
六君との婚儀を済ませた匂宮は華やかで美しい六君に心奪われ、次第に二條院から足が遠のいていきます。中君(なかのきみ)は宇治へ帰りたいと薫に訴えます。薫は慰めているうちに中君に言い寄ってしまいますが、中君が妊娠していることに気づきます。二條院に戻った匂宮は中君の懐妊を喜びますが、薫の移り香に気づき中君をとがめました。困り果てた中君は再び薫が訪ねてきたとき、亡き大君(おおいきみ)にそっくりな腹違いの妹・浮舟の存在を打ち明ける。次の年の2月、中君は世継ぎの男の子を出産し立場が安定しました。
薫は大納言に昇進、以前帝から申し出のあった女二宮(おんなにのみや)との婚儀が整います。婚儀の前日、宮中で披かれた宴で、薫は実の父である柏木遺愛の笛を吹きました。葵祭りが終わって、大君のための御堂建立の様子を見に宇治を訪れた薫は、初瀬詣での帰りに偶然宇治の山荘に立ち寄った浮舟を垣間見ます。大君によく似た浮舟を見て薫の目から涙が溢れたのでした。

さしとむる 葎(むぐら)やしげき 東屋の あまり程ふる 雨そそぎかな・・・浮舟の母は昔、八の宮家に仕えていた女房でしたが、身分が低いために浮舟を娘だと認めてもらえず、常陸介(ひたちのすけ)という受領の後添えになりました。薫は浮舟を自分の元に迎えたいと申し出たのですが、浮舟の母は自分が身分の違いで辛い思いをしたこともあってためらいました。
浮舟に求婚してくる男性は、たくさんいました。そのなかで、これはと思う人物がいたので婚儀の準備が進められていたのですが、その男性は常陸介の財力が目的であったので、浮舟が実の娘でないことを知るとさっさと介の実の娘と結婚してしました。浮舟を不憫に思った母は、二條院に中君を頼りました。中君の優雅で幸せな暮らしを見た浮舟の母は、同じ八宮の娘である浮舟も高貴な身分の男性と一緒になってほしいと考えを改めたのでした。
ある日、匂宮が浮舟を見かけ、その美しさからすかさず言い寄ったのですが、内裏からの急な使者がやって来たため、匂宮は浮舟が誰なのかわからないまま立去りました。知らせを聞いた母は驚き、浮舟を三條大橋東の小家に移しました。
しばらくたったある日の夜更け、宇治の山荘の尼から浮舟の消息を聞いた薫が三條の小家を訪れ一夜を過ごした薫は浮舟を連れて早朝の三條を後にしました。草深い木幡(こはた)の山を越え、川霧に煙る宇治へと向かう途中、薫は浮舟の中に亡き大君(おおいきみ)の面影を見ていたのでした。

第五十一帖・浮舟(うきふね) 第五十二帖・蜻蛉(かげろう) 第五十三帖・手習(てならい)

橘の 小島は色も 変らじを この浮舟ぞ ゆくへ知られぬ・・・浮舟のことが忘れられず行方を捜していた匂宮(におうのみや)は、宇治から届いた若宮のお祝いの品に添えられていた文を見て、その送り主が浮舟だと確信します。忍び姿で宇治を訪れた匂宮は、薫を装って強引に浮舟と契ったのでした。浮舟は思いもよらぬことに、ただ泣くばかりでしたが、匂宮の一途な想いに惹かれていきます。一月ほど経ったある日、宇治を訪れた匂宮は、山荘の対岸の小家に浮舟を誘います。二人は小舟で宇治川へ漕ぎ出し、途中の橘の小島に立寄り歌を詠んだのでした。それからの二日間、夢のような時間が過ぎていきました。
一方、しばらく宇治へ通わずにいて何も知らない薫は、四月十日に浮舟を京の都に移すことを決めていました。また、匂宮からは三月末に浮舟を迎えたいという文が届きました。浮舟は母に事実を打ち明けられず、心は苦しみにあえぐばかり。そんなある日、薫と匂宮の文使いが偶然宇治で鉢合わせになり、浮舟の秘密はたちまち薫に知らされます。二人の男性の間でなす術もなく定まらない自分を責め、浮舟は人知れず宇治の山荘を後にします。

ありと見て 手には取られず 見ればまた 行くへも知らず 消えしかげろふ・・・宇治の山荘では、浮舟の姿が見えないので大騒ぎになりました。都にいた浮舟の母は、知らせを聞いて急いで宇治にやってきました。浮舟が薫と匂宮(におうのみや)のことで悩んでいたこと、入水したかもしれないことを侍女から聞いた母は、うわさが広がらないうちにと、形だけの葬儀を済ませてしまいました。
浮舟の死の知らせを聞いた薫は、嘆き悲しみ、浮舟をさみしく独りにさせていたことを悔やみました。匂宮は悲しみのあまり、床に伏せってしまいました。薫と匂宮はそれぞれ浮舟の侍女からことのいきさつを聞き、ますます悔やみ悲しみました。薫は浮舟の四十九日の法要を、宇治山の阿闍梨(あざり)に命じ、立派に執り行わせたのでした。

身を投げし 涙の川の 早き瀬を しがらみかけて 誰かととどめし・・・その頃、比叡山横川(よかわ)に徳の高い僧都(そうず)がいました。僧都は、母と妹が初瀬(はつせ)詣に出かけていたが、母が病に倒れたと知らせをうけて宇治にやってきていたのでした。その夜、僧都は宇治院の森の大木の下で倒れていた女性を助けました。僧都の妹の尼君は、亡くなった娘の代わりに観音様が授けてくださったものと思い、手厚く介抱しました。しばらくして僧都の母も元気になり、一行は女性を連れて比叡山の麓の小野の草庵へと帰っていきました。この女性が宇治の山荘から消えた浮舟でした。
浮舟は死に切れなかったことが悲しくて、決して素性を語ろうとはしませんでした。ある日、尼君の娘婿だった男性が草庵を訪れました。浮舟の姿を垣間見たこの男性はすぐに結婚を申し込んできましたが、浮舟はこの求婚をわずらわしく思っていたこともあり、出家を決心しました。尼君が留守のある日、浮舟は僧都に出家したいと懇願しました。僧都は思いとどまるように説得したのですが浮舟の決意は変わりませんでした。髪を下ろした浮舟の姿を見た尼君は嘆きました。
次の年の春、草庵を訪れていた尼君の親戚の話から、浮舟は薫が自分のための法要を準備していると知ります。しかし、このまま誰にも知られずにいたいとひたすら願いました。ところが、ある日、浮舟のことは宮中に上がった僧都から中宮(帝妃)に語られ、やがて薫にも知らされました。

第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし) 八の宮の山荘を訪ね姫君たちを垣間見る薫 薫に成りすまし浮舟を訪ねる匂宮

(のり)の師と 尋ねる道を しるべにて 思はぬ山に ふみまどふかな・・・比叡山に僧都(そうず)を訪ねた薫は、詳しいいきさつを聞き、死んだと思っていた浮舟が生きていたことを知って夢心地でした。僧都は早まって浮舟を出家させてしまったことを後悔した。
次の日、薫は自分の文に僧都が書いた文を添えて、浮舟の弟の小君を草庵に使いに出しました。僧都の文は浮舟に還俗を勧める内容でした。尼君に促されて浮舟が外に目をやると弟の姿がそこにありましたが、人違いであると告げるように尼君に懇願しました。小君が思い余って几帳(きちょう)越しに文を差し出し、尼君がそれを開いて浮舟に見せました。文には薫の想いが細やかに書かれていましたが、浮舟は「昔のことは何も心に浮かばず、ただ夢のようで、確かな記憶もありません。」と文を返した。
帰ってきた小君の様子から、薫は使いに出さねばよかったと、あれこれ気を回し、誰かが浮舟を隠まっているのではないかと考えて悩み続けました。

ある日、薫が宇治を訪ねると山荘から琵琶と琴の音が聞こえてきた。川霧の中、山荘を垣間見ると、二人の美しい姫君の姿が目に入ります。姉の大君(おおいきみ)と妹の中君(なかのきみ)でした。薫は琵琶と琴を弾かれる姫君たちの美しい姿を垣間見て、橋姫の心をくみて高瀬さす 棹のしづくに袖ぞぬれぬる と詠んで大君(おおいきみ)に贈った。

忍び姿で宇治を訪れた匂宮は、薫を装って強引に浮舟と契ったのでした。浮舟は思いもよらぬことに、ただ泣くばかりでしたが、匂宮の一途な想いに惹かれていきます。一月ほど経ったある日、宇治を訪れた匂宮は、山荘の対岸の小家に浮舟を誘います。二人は小舟で宇治川へ漕ぎ出し、途中の橘の小島に立寄り歌を詠んだのでした。 橘の小島は色もかはらじを この浮舟ぞゆくへ知られぬ  浮舟は、二人の間で様々に思い悩んだ末、遂に死を決意する。

・・・ ・・・ 売店、喫茶など
源氏物語ミュージアム案内図 小川のせせらぎ。。。
大吉山登山道(左)、さわらびの道分岐 第四十七帖・総角(あげまき)之古跡 さわらびの道
世界文化遺産・宇治上神社

元は下社の宇治神社と一体で平等院の鎮守社ともいわれ明治維新までは、「離宮上社」と呼ばれていました。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。祭神は応神天皇とその皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、兄の仁徳天皇とされています。境内正面の拝殿は鎌倉初期のもので、寝殿造りの様相を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式の建物で、左右の社殿にある蟇股(かえるまた)も建築年代を示すものです。また源氏物語宇治十帖では八の宮の山荘を、平等院の向かい岸の当社辺りを想定したようです。

与謝野晶子「宇治十帖歌碑」 世界文化遺産・宇治上神社
立砂と拝殿 宇治七名水の一・桐原水(きりはらすい)
八の宮の山荘を彷彿とさせる雅な拝殿
拝殿(国宝:鎌倉期) 本殿(国宝:平安期) 第四十八帖・早蕨(さわらび)之古跡
宇治神社

地域の産土神(うぶずながみ)であった離宮社は、対岸に平等院が建立されると、その鎮守社としての地位も与えられました。江戸時代迄は宇治神社と宇治上神社は一対でした。この一帯は応神天皇の皇子で、宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の邸宅跡と考えられ、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが両神社の縁起と伝わります。応神天皇の離宮とも関わりがあったと思われ、「離宮社」、「離宮八幡」などと称されました。

キララくんのバックフェースが変わりました・・・LEDフラッシャーでナイトランが更に安全?!(^-^)v 宇治神社
参道 境内 二の鳥居
又振(またふり)社

末多武利神社とも記し宇治の民部卿(みんぶきょう)と呼ばれた藤原忠文を祀っている。天慶4年(941年)、参議・藤原忠文は、征夷大将軍として東国の平将門の乱平定に向かう。だが、その到着前に将門はすでに鎮圧されていた為、大納言・藤原実頼によって恩賞の対象から外された。忠文は実頼を恨み、死後も一族の子女に憑りついて祟り続けたので怨霊を鎮魂する為に祠に祀られたと伝える。この辺りを又振と言い、正月に浮舟が中君に出した文の中で詠んだ歌の「またふり」という言葉で、匂宮は浮舟が宇治にいることを確信した。

本殿 又振(またふり)社 離宮水
朝霧橋 ヒロイン「浮舟」と「匂宮」が小舟で宇治川に漕ぎ出す場面・・・宇治十帖モニュメントと朝霧橋
恵心院(えいしんいん)

真言宗智山派の寺で平安時代の第52代・嵯峨天皇の弘仁13年(822年)、弘法大師(空海)によって開基されました。当地が大師入唐時に修行された唐の青龍寺の地形に似ていたので「龍泉寺」と号されました。中世以降の度々兵火を浴び堂宇破却したるを、寛弘2年(1005年)、比叡山横川の恵心僧都源信によって再興され、寺号を「朝日山恵心院」と改めました。江戸時代、淀藩主・永井氏の庇護を受けて伽藍の整備がなされたが、兵火を浴び寺運は哀徴しましたが真言宗の一沙門によって中興され現在に至ります。什宝(じゅうほう)に春日局が幼君・竹千代(徳川家光)の安穏祈願をした時の感謝状などを有しています。

宇治橋 恵心院 弘法大師がお出迎え (*^▽^*)
山門 境内 本堂
参拝します・・合掌 花の寺と呼ばれる苑庭
水仙の花が数輪春の香りを運んでくれる・・(*^-^*)
万両の赤い実が綺麗(*^-^*) 境内からの眺め 朝霧橋
朝霧橋を挟んだ宇治川対岸辺り一帯が宇治十帖の舞台となっている・・・ 朝霧橋と大吉山
平等院 宇治川先陣碑 アヒル連合艦隊のねぐら?
宇治川連合艦隊?(^▽^;) 日本最大の浮島十三重石塔(塔ノ島)
喜撰橋と浮島(塔の島) えぇなぁ〜(*^▽^*) あじろぎの道
八の宮の大君?中君??浮舟の姫???(^▽^;) そなたは薫の君?匂宮??(^▽^;) 浮島(塔の島)と朝日山
宇治市観光協会 世界文化遺産・平等院(国宝:藤原期)
世界文化遺産・平等院(国宝:藤原期) 平等院表参道 宇治橋
紫式部

天延元年(973年)頃、高名な漢詩文家であり、受領(ずりょう)であった、藤原為時(ためとき)の娘として誕生。曾祖父は平安時代中期の歌人として有名な、堤中納言兼輔(つつみちゅうなごんかねすけ)にあたる。幼くして母を亡くし、為時の影響を受けて育ちました。結婚3年後に夫が病死し、悲しみを紛らせるために書き始めた物語が『源氏物語』だと伝える。これが評判を呼び、当時最大の権力者・藤原道長の娘にあたる一条天皇の中宮(ちゅうぐう)彰子(しょうし)に女房として仕えることになりました。式部は彰子の家庭教師のような役割だったと同時に道長の愛人だったとも伝える。本名は不明で、『源氏物語』の別名『紫の物語』を書いた人であり、父・為時が「式部の丞」を勤めたこともあるということから「紫式部」と呼ばれたと考えられます。

第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)之古跡 紫式部と宇治橋 県(あがた)神社
県(あがた)神社

平等院の鎮守と言われ江戸時代迄は近江三井寺円満院の管理に属しましたが明治の神仏分離によって独立したと伝えます。祭神に関しては古来種々の節がありましたが木花開耶比売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とします。延喜式にはその名を見ないがその創祀は古いとされます。6月5日の夜にある「あがた祭り」は近畿圏の信奉者による梵天渡御があり「暗闇の奇祭」として有名です。境内にある県井戸は「都人きても折らなむ蛙なく あがたの井戸の山吹の花(橘公平女(たちばなのこうけいのおんな)作)」など、平安時代以降の和歌に詠まれました。良質な水が湧き出ていることから、神社の神事である献茶式や、皇族の女性が出産する際の産湯などにこの井水が使われるようになり、江戸時代には井水が、安産祈願や下半身の病気に効くとされ水を汲みに多くの人々に親しまれてきました。

由緒 和歌に詠まれた県井戸(あがたのいど) 「暗闇の奇祭」の主役・梵天
本殿 宇治神社お旅所 宇治橋通り商店街
えぇ雰囲気の店構え・・・えぇなぁ〜(*^-^*)
宇治代官所跡 解説 えぇなぁ〜(*^-^*)
宇治橋西詰め交差点 宇治川左岸を伏見へ・・・ 前方に京滋バイパス
・・・ 隠元橋
・・・ 観月橋 観月橋を渡ります・・・
御香宮(開運・安産・厄除けの神)

縁起には諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。

澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) 御香宮 伏見戦石碑
・・・ Pちゃんの合格を祈願・・・桃山天満宮に参拝します。(^-^)v
伏見城残石 芭蕉、去来の歌碑 伏見城の車寄せとも伝える拝殿
参拝します・・・ 「名水百選」に選ばれた石井(いわい:御香水) 神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑
かって伏見七福神の一だった金札宮(恵比寿/商売繁盛の神)

縁起には「伏見久米の里の白菊の翁という老人が、毎年秋になると白菊に水をやり育てていました。ある年、干ばつが続き稲が枯れかかった時、翁が白菊の露を注ぐと、そこから清水が湧き出た。」と伝えます。この翁が天太玉命(あめのふとだま:白菊明神)で天平勝宝2年〔750年〕に創立し清和天皇の御代、橘良基によって阿波国〔徳島県〕より勧請したと云われ社格は、旧村社で伏見における最古の神社の1つで祭神は、天太玉命です。清和天皇が、金札に白菊大明神と記し社内に奉納された事から金札宮と号するに至ったと伝える

金札宮 境内 宝恵籠
参拝します・・ 伏見名水・金運清水(大黒寺) おさすり大黒天さま
秘仏・大黒天を祀る本堂 大手筋

Tourist  2011.01.04(Tue)

 

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