山紫水明・宇治の紅葉名所めぐり

 

もののふの 八十氏河(やそうじがわ)の 網代木(あじろぎ)に いざよう波の 行く方しらずも  柿本人麻呂

 

宇治神社〜宇治上神社〜大吉山〜興聖寺〜天ヶ瀬吊橋〜紅葉谷〜白川〜浮島(塔ノ島、橘島)〜平等院〜宇治橋

 

白川 

古くは、宇治白川と呼ばれ、平等院より宇治川左岸を1kmばかり遡り、紅葉谷の渓流に沿って1kmばかり入った幽邃な山間集落です。当地は藤原頼通が早くより山荘を構え、頼通の女・寛子(後冷泉帝皇后・四条皇太后)もこの地に隠棲し、康和4年(1102年)、一宇の仏堂を造営された。本尊は大聖菩提樹院とし七間四面の堂に金箔を張り巡らし金色院と号され、奥州・藤原氏の中尊寺金色堂のモデルにもなったとも言われる。天台宗に属し、白山権現を勧請して寺の鎮守とし、他に不動堂、虚空蔵堂、経堂、弥勒堂、薬師堂、、鐘楼など多くの堂宇が建立された。その荘厳さは洛東神楽岡の菩提樹院と相並び称せられました。しかし、長禄4年(1460年)の火災後、間もなく再建されたが藤原氏の哀徴と共に幾久しからず再び荒廃しました。今は、総門や旧鎮守・白山(はくさん)神社、地蔵院に有する遺仏、遺品にありし日の金色院を偲ぶに過ぎません。

寺田屋浜の三十石船@京橋 京阪・宇治駅
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

四世紀初頭の応神天皇の皇子とされ日本書紀によると、応神天皇は数多の皇子の中でも秀俊の誉れ稚郎子を皇太子と定めて亡くなった。しかし、稚郎子は自分よりも年長の大鷦鷯(おおささぎ:仁徳天皇)こそが皇位を継ぐべきだとし、大鷦鷯も父の言葉に背くことはできないとし、お互いに譲り合うこと三年、ついには兄をたてて自らの命を断ったという逸話があります。

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓・・・太閤堤の発掘現場を見たかったのですが (>_<) 宇治橋
橋寺放生院

雨宝山と号する真言律宗の寺で一に常光寺として地蔵尊を祀り道路交通の安全を祈る寺として古くから知られます。寺伝によれば大化2年(646年)、僧道登が宇治橋を架けた時に宇治橋の守り寺として併せて建立したとされるが弘安9年(1286年)西大寺の僧叡尊が宇治橋の架け替えにあたり橋供養をした時だとされます。断碑は、上下二つに割れたものを一つに繋ぎ合せ碑文は大化2年(646年)、僧道登によって宇治橋が初架橋されたと記します。元橋畔にあったのがいつの世にか流出し行方不明でしたが寛政3年(1791年)、たまたま付近土中から断片が発見され、失った部分を補ったのが現在の石碑で日本最古の石碑とされますが近年、古さを誇示する為に平安初期頃に偽作されたという説もあります。

山門(橋寺放生院) えぇなぁ〜(*^-^*) 日本最古?の石碑「断碑」
宇治十帖モニュメント

宇治川右岸の朝霧橋の手前にあります。源氏物語「宇治十帖」では、浮舟(女性)は薫に連れられて宇治に移りますが、匂宮(男性)は浮舟の居場所を探して宇治を訪れ、二人は小舟で橘島へ渡りました。モニュメントはその場面をモチーフされました。

本堂 朝霧橋 宇治十帖モニュメントと朝霧橋
宇治神社

地域の産土神(うぶずながみ)であった離宮社は、対岸に平等院が建立されると、その鎮守社としての地位も与えられました。江戸時代迄は宇治神社と宇治上神社は一対でした。この一帯は応神天皇の皇子で、宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の邸宅跡と考えられ、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが両神社の縁起と伝えます。応神天皇の離宮とも関わりがあったと思われ、「離宮社」、「離宮八幡」などと称されました。

宇治神社 本殿
[第四十八帖・早蕨(さわらび)]之古跡 一の鳥居(宇治上神社) えぇなぁ〜(*^-^*)
世界文化遺産・宇治上神社

元は下社の宇治神社と一体で平等院の鎮守社ともいわれ明治維新までは、「離宮上社」と呼ばれていました。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。祭神は応神天皇とその皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、兄の仁徳天皇とされています。境内正面の拝殿は鎌倉初期のもので、寝殿造りの様相を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式の建物で、左右の社殿にある蟇股(かえるまた)も建築年代を示すものです。

神門 拝殿(国宝:鎌倉期)
桐原水(きりはらすい)本殿(国宝:平安期)

桐原水・・・室町時代に「宇治七名園」が作られ、それに伴いお茶に欠かせない水にも「宇治七名水」が定められ、桐原水一つとされ現在他の六名水は失われましたが、桐原水だけが、今もなお枯れる事なく涌き出していますが残念ながら生での飲料水としては不可のようです。本殿・・・覆屋(おおいや)のある本殿には、三社が収められ、祭神は向かって右が「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)(弟)」真中が「応神天皇(父)」、左が「仁徳天皇(兄)」とされています。それぞれ神殿としては小規模ですが、その造りは大変優雅で、神社築としては日本最古のものと伝わり、建築年代は平安時代後期と推定され国宝に指定されています。

桐原水(きりはらすい) 本殿(国宝:平安期)  与謝野晶子詠歌、宇治十帖歌碑
[第四十七帖・総角(あげまき)]之古跡 大吉山(仏徳山)山頂へ・・・えぇなぁ〜(*^-^*) 大吉山(仏徳山)展望台
宇治市街地俯瞰@大吉山(仏徳山)展望台 雨に煙る世界文化遺産・平等院俯瞰 大吉山三等三角点(点名:旭山/標高:131.80m)
興聖寺(こうしょうじ)

仏徳山と号する曹洞宗永平寺派の寺で道元禅師を開山とします。道元禅師は当初、深草極楽寺の境域に一宇を建て興聖寺と号したが寺は廃絶しました。慶安元年(1648年)、淀城主・永井信濃守尚政によってこの地に再興されました。 山吹、桜、ツツジやサツキなどが多く対岸の平等院に匹敵する名所で宇治十二景の一つとされます。法堂(はっとう:本堂)にある平安時代中期の木像聖観音立像は、源氏物語「宇治十帖」古跡(手習の社)に祀られている事から手習観音ともよばれてます。本堂には伏見城の遺構を移築したもので血の手形が残る天井や鴬張りの廊下などがあります。

興聖寺俯瞰 石門 えぇなぁ〜
琴坂

桜やカエデが茂る興聖寺の入り口〜三門に至る参道は、両脇を流れるせせらぎの音が琴の音色のように聞こえる事から琴坂と呼ばれています。

琴坂の紅葉は、イロハモミジと言われ葉が小さいのが特徴だとか・・・確かに小さかった(*^-^*)
えぇなぁ〜(*^-^*) 中国風の三門 境内へ・・・
境内と伏見城遺構と伝える法堂(はっとう:本堂) 開山堂と法堂(はっとう:本堂)
三面大黒尊天 えぇなぁ〜(*^-^*)
茶筅の供養法要が営まれる茶筅塚 浮島(塔ノ島)と朝霧橋 えぇなぁ〜(*^-^*)
Beautiful〜!!!(・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! 天ヶ瀬吊橋
山紫水明・・・雨降る紅葉もしっとり(*^-^*)  Wonderful〜! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
白川紅葉谷(もみじだに)

平等院より宇治川左岸を1kmばかり遡り、紅葉谷の渓流に沿って1kmばかり入った幽邃な抜けて丘陵を越えた所に静かな山あいの里、白川があります。宇治川から白川へ抜ける約1kmの渓谷は、春〜初夏の新緑、秋の紅葉の美しい所で、「もみじ谷」とも呼ばれ、東海自然歩道になっています。

 えぇなぁ〜(*^-^*) 紅葉谷へ・・・
小さな滝があります(^_-) 紅葉谷なのに・・・紅葉は全然です(~ヘ~;)
雨が強く、暗くて寒いし・・・人っ子、ひとり出会いません(ーー;) 出会ったのは石仏さまだけ(^▽^;)
九重石塔(後冷泉帝皇后/四条皇太后・寛子供養塔/鎌倉期)

後冷泉帝皇后・藤原寛子の墓と伝えるが、供養塔として建立されたと思われています。皇后は大治2年(1127年)、92才で亡くなられ遺骸は宇治一ノ坂東辺において荼毘に附され、遺骨は木幡の浄妙寺に葬られたと伝えます。

九重石塔(後冷泉帝皇后/四条皇太后・寛子供養塔/鎌倉期) 白川
雨が激しく降りますが・・・里山の風情・・・えぇなぁ〜(*^-^*) 金色院跡碑
この辺りに金色院があった・・・ 現在地 金色院遺構の総門
雨が激しくなったので、予定変更して白川をあとに・・・結局、一人も出会いませんでした!(>_<) 激しい雨に川面が波立つ宇治川
蛍塚(蛍ヶ淵)

宇治川は源氏蛍、平家蛍、姫蛍の生息に恵まれ夏は蛍狩りが盛んでした。特に源氏、平家蛍が交尾の為に入り乱れて乱舞する様を蛍合戦と称され「嬉遊笑覧:きゆうしょうらん」十二によれば宇治の蛍は他所より一回り大きく光がことさら明るいのは治承4年(1180年)、平氏追討の為に挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中、宇治平等院で自刃した源三位頼政の亡魂が蛍になり今も合戦をするが如く水面に多数群がり・・・と頼政亡魂説を伝えています。

蛍ヶ淵「蛍塚」 雨に煙る山紫水明処 えぇなぁ〜(*^-^*)
たそがれの宇治川右岸 雨に霞む浮島(塔ノ島)と朝霧橋 [第四十九帖・宿木(やどりぎ)]之古跡
喜撰橋と浮島十三重石塔 浮島(塔ノ島) 屋形舟
浮島十三重石塔(重文:鎌倉期)

塔ノ島中央にあり花崗岩製で高さ15m、我が国現存中最大の十三重石塔です。弘安9年(1286年)、奈良西大寺の僧・叡尊(興正菩薩)が宇治橋の架け替えに際して建立したもので上人は橋の流失は乱獲される魚霊の祟りであるとし殺生の罪を戒め網代を捨ててこの地に経巻共に埋め供養塔としたものと伝わります。石塔は宝暦6年(1756年)の大洪水で倒れ、約150年間埋没していたものを明治41年(1908年)に発掘されて再建されました。一説に上から五番目の塔芯を石川五右衛門が盗み出し伏見の藤森神社の手水の水鉢であるとされます。

日本最大の浮島十三重石塔 宇治川右岸の観流橋 柿本人麻呂歌碑
宇治川先陣碑

承久年間、源義経(みなもとのよしつね)と木曽義仲(きそよしなか)の合戦時に源義経旗下・佐々木四郎高綱と梶原源太景季(かげすえ)の二名が宇治川の先陣を争った故事を偲んで昭和6年(1931年)4月、帝国在郷軍人宇治分会が建てたものです。

解説 朝霧橋 宇治川先陣碑
宇治橋 平等院の紅葉
世界文化遺産・平等院

関白・藤原道長が左大臣・源重信婦人から譲り受けた別業を道長の子・頼通が、永承7年(1052年)に仏寺に改め、平等院と号しました。末法思想が貴族や僧侶らの極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行しました。翌年の天喜元年(1053年)、平等院の鳳凰堂(阿弥陀堂)が落成し、堂内には平安時代の最高の仏師・定朝によって作成された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたと伝え約1000年前に建立された建造物や仏像などが今に伝えられ、世界遺産にも登録されています。

世界文化遺産・平等院(国宝・藤原期) 平等院参道 [第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡
紫式部と宇治大橋 宇治観光案内図
三の間(宇治橋)

宇治橋の特徴は欄干上流に面して三の間と称する広さ2mばかり張り出した箇所がある事で、昔、橋の守護神の橋姫神を祀った場所と伝え更に豊臣秀吉が茶湯の水を汲み上げさせた場所とも伝わります。宇治橋の東詰めにある通円茶屋には豊臣秀吉が三の間から水を汲ませたという釣瓶一個が秘蔵されています。

三の間(宇治橋)からの宇治川上流 これも三の間?サ〜ンの間??オモロ〜?(^▽^;) [第五十帖・東屋(あづまや)]之古跡
東屋観音と宝篋印塔(ほうきょういんとう) 京阪宇治駅 さっ、おけいはんに乗って帰ろっと・・・(*^-^*)

Tourist 2008.11.24(M)

 

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