宇治ちゃり旅
山門を 出れば日本ぞ 茶摘うた 菊舎(きくしゃ)
寺田屋〜許波多神社〜萬福寺塔頭・宝蔵院〜黄檗宗大本山・萬福寺〜宇治陵1号〜許波多(こはた)神社/宇治陵36号〜長建寺 ※要所に地図をリンクしましたのでご参考に!(^_-) |
隠元隆g(いんげんりゅうき)禅師と黄檗山萬福寺と普茶料理 ☆地図 |
寺伝によると隠元隆g禅師は、中国明代末期の臨済宗を代表する費隠通容(ひいんつうよう)禅師の法を受け継ぎ、臨済正伝32世となられた高僧で、中国福建省福州府福清県の黄檗山萬福寺(古黄檗)の住持でした。日本からの度重なる招請に応じて、承応3年(1654)、63歳の時に弟子20人他を伴って来朝。のちに禅師の弟子となる妙心寺住持の龍渓禅師や後水尾法皇そして徳川幕府の崇敬を得て、宇治大和田に約9万坪の寺地を賜り、寛文元年(1661年)に禅寺を創建。古黄檗(中国福清県)に模し、黄檗山萬福寺と名付けて晋山されることになりました。禅師の道風は大いに隆盛を極め、道俗を超えて多くの帰依者を得られました。禅師は「弘戒法儀」を著し、「黄檗清規」を刊行して叢林の規則を一変されるなど、停滞していた日本の禅宗の隆興に偉大な功績を残されたことにより日本禅宗中興の祖師といえるでしょう。爾来、禅師のかかげられた臨済正宗の大法は、永々脈々と受け継がれ今日に至っています。また、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至ります。日本でいう「禅宗」は、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三宗に分類されています。行と徳を積まれた禅師は、在世中、物心両面にわたり、日本文化の発展に貢献され、時の皇室より国師号または大師号を宣下されています。萬福寺の伽藍建築・文化などはすべて中国の明朝様式です。美術・建築・印刷・煎茶・普茶料理、隠元豆・西瓜・蓮根・孟宗竹(タケノコ)・木魚なども隠元禅師が来られてから日本にもたらされたものであり、当時江戸時代の文化全般に影響を与えたといわれています。 中でも中国風精進料理である「普茶料理」は日本の精進料理(禅僧が日常食する質素な食事)とイメージが異なっています。見た目も美しく盛りつけられる料理の数々は、高タンパク・低カロリーで栄養面にも優れ、席を共にする人たちと楽しく感謝して料理を頂く事に普茶料理の意味が込められています。・・・以上、萬福寺解説より引用。 |
幕末維新は伏見から・・坂本龍馬、お龍ゆかりの旅籠・寺田屋 | かつて三十石船が発着していた寺田屋浜 | |
春の十石、三十石船巡航まで水枯れの宇治川派流 | 酒蔵(宇治川派流) | |
酒蔵(宇治川派流) | 島の弁天さんとも呼ばれる長建寺 | おけいはん(京阪本線) |
おけいはん(京阪宇治線) | 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期) | 観月橋 |
宇治川右岸堤防 | ・・・ | 山科川、宇治川合流地 |
山科川右岸堤防 | ・・・ | 昔、宇治川(巨椋池)東端に位置した木幡池 |
黄檗開山・隠元禅師渡岸之地と隠元橋 ☆地図 | ||
かつて、この地に岡屋の津と呼ばれた川港があり、交通要衝として栄えた。江戸時代、中国の渡来僧・隠元は徳川幕府から寺領地を得、淀川を遡り宇治川のこの付近で下船して上陸したと伝える。また、岡屋の津は萬福寺を建立する建築資材を陸揚げしたので以後、隠元浜と呼ばれた。昭和24年(1949年)に当地に橋が架けられたので隠元橋と名づけられて平成20年(2008年)に新しく架け替えられた。 |
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カモさん45???(^▽^;) | 中国から渡来した隠元禅師が上陸した岡屋の津があった辺りと伝える隠元橋 | |
許波多(こはた)神社(五ヶ荘:ごかしょう) ☆地図 | ||
天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、神倭磐余尊(かんやまといわれひこのみこと/神武天皇)の三神を祀る五ヶ庄一帯の産土神で木幡の許波多神社と共に古くから崇敬されています。創祀年月は明らかにせず社伝によれば皇位継承をめぐる壬申の乱(671年)を前に大海人皇子(天武天皇)が近江の大津宮から吉野に赴かれる時に参詣し手にした柳の枝のムチを社頭の瑞垣に挿し「我に天位を践まばこの柳、芽を出すべし。」と戦勝祈願、天武天皇として即位するや柳も芽吹きその霊験を賞賛し社領を寄進され名も柳大明神と名付けたと伝える。明治8年(1875年)9月、陸軍火薬庫が増設されるにあたり翌9年10月、お旅所であった現在地に移された。「山城風土記」、「宇治郡木幡社(祇社:くにつかみのやしろ)」、「延喜式神名帳」の「宇治郡許波多神社三座」とあるは当社と断定され社名の柳大明神を許波多神社に改めた。 |
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「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」記念碑(功徳碑) | 許波多神社 | ・・・ |
拝殿 | ガン封じに霊験があるとされる御神木の瘤 | 解説 |
本殿 | 浄土宗・西導寺 | |
法然上人像 | 毘沙門天堂 | 解説 |
京阪宇治線・黄檗駅 | みやこ路快速@JR奈良線 | 黄檗新生市場 |
かつては隆盛を誇ったと容易に推察できる! | ケーキ屋さん(^^♪ | 最近オープンしたと思われる居酒屋さん |
黄檗シャッター市場と化してしまった(~ヘ~;) | おばあさんが店主の乾物屋さん | ・・・ |
・・・ | くじら肉専門店もあった!!!(@_@;) | 荒物屋さんを含めて全6商店か・・(~ヘ~;) |
かつてはかなり賑わっていた新生市場・・・ | 昔、鍋焼きうどんを食べたほてい食堂 | 立派なアーケードの黄檗新生市場 |
萬福寺塔頭・龍興院 | 萬福寺塔頭・宝蔵院 | |
霊苑からの宇治俯瞰 | 宝蔵院開山塔 | 龍興院開山塔 |
黄檗山萬福寺 ☆地図 | ||
萬福寺は、1654年(江戸時代)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍・家綱公の崇敬を得て1661年に開創された中国風の寺院。日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など中国の名僧を原点とする黄檗宗の大本山です。萬福寺の建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。正面 一間を吹放しとした主要伽藍を中心軸上に置き、同じ大きさの諸堂が左右対照に配されています。このように創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例が無く、代表的禅宗伽藍建築群として主要建物23棟、回廊、額、聯などが国の重要文化財に指定されています。 |
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宝地蔵が立つ境内 | 鉄眼一切経(重文:江戸期)収蔵庫 | 萬福寺総門(重文:江戸期) |
山門へ・・・ | 山門を 出れば日本ぞ 茶摘うた 菊舎(きくしゃ)菊舎の句碑と解説 | |
山門(重文:江戸期) | 「萬福寺」は隠元書の額が掛かる重層の楼門作り、左右に裳階(もこし)、山廊がある三間三戸の山門 | |
中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置 | 山門〜天王殿への参道 | 弥勒菩薩(布袋)坐像を祀る天王殿(重文:江戸期) |
都七福神の一・弥勒菩薩(布袋)坐像 | 弥勒菩薩(布袋)の周りに四天王が祀られている。・・・ | |
持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)の四守護神を四天王という。 | 仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/重文:江戸期) | |
・・・ | 朝と昼の食事と朝課の時に打つ青銅製の雲版(うんばん)・・・とにかくデカイ!(@_@;) | |
生飯台 | 日常の行事や儀式の刻限を報じる開梆((かいぱん) | 寺務所でご朱印をいただきました・・。 |
月台(げつだい)、梵檀石(ぼんだんせき) | ||
仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/江戸期:重文)の前にある白砂の基壇を「月台」と言い黄檗建築の特徴の一つです。月台とは常に月光を受けるという意で水陸会(水陸の生物に食べ物を供養する法会)を行う時の祭壇で、その中央の長方形の石は梵檀石(ぼんだんせき)と言い行状のよくない僧侶を石上におき一切の言葉を交じわせないとされ一に擯罰石(ひんばつせき)とも言います。 |
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私もめぐった都七福神朱印絵馬 | 桃を模った香台 | 月台と擯罰石(ひんばつせき) |
仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/重文:江戸期) | 釈迦如来の周りに座する十八羅漢像 | |
デカイ木魚(@_@;) | 釈迦如来坐像(大雄宝殿) | 仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/重文:江戸期) |
卍くずしの匂欄(こうらん)と法堂(江戸期:重文) | 徳川歴代将軍を奉る威徳殿 | |
威徳殿(非公開) | 中国風の回廊をめぐります・・・ | |
・・・ | ・・・ | ・・・ |
・・・ | 回廊にある合山鐘 | 開山碑 |
寿蔵(寿塔、真空塔/重文:江戸期) | 卍くずしの匂欄(こうらん) | 開山堂(江戸期:重文) |
駒の蹄影園跡碑 | ||
昔、宇治の里人が茶樹を植える距離が分からず栂尾(とがお)の明恵上人に教えを乞うた時、上人が馬に乗り畑地を駆け巡りその蹄跡に茶樹を植える様にと教えました。当碑は同上人への感謝と功績を讃えて建てられました。 |
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松隠堂 | 駒の蹄影園跡碑 | 解説絵 |
萬福寺をあとに・・・ | キララくん、お待ち〜(^▽^;) | ・・・ |
藤原氏塋域碑 | ||
藤原氏塋域碑に、藤原冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼通、師実の8人の名前が刻まれています。塋域とは墓場、墓地、墓所の事です。 | ||
宇治市木幡 | 宇治と言えば・・お茶 | 藤原氏塋域碑 |
宇治陵(うじのみささぎ) | ||
京都の南東郊外に東宇治に広がっている木幡丘陵地には、藤原摂関家、藤原家出身の皇族関係者など一門の陵墓が37ヶ所あり宇治陵として宮内庁によって管理されていますが、どこのどの墓が誰とは、一人として断定されていません。 |
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木幡の丘陵地に、藤原摂関家、一門出身の皇室関係者の陵墓が37ヶ所あり、宇治陵として宮内庁に管理されて宇治陵1号は総遙拝所 | ||
やけん地蔵(不焼山能化院) ☆地図 | ||
身の丈1.3m余りの木製の地蔵尊像のある不焼山能化院は曹洞宗・宗仙寺(下京区高倉通五条下ル)の末寺となっている。昭和31年(1956年)の尊像修理の折に像下から発見されたという古文書には、能化院は平安時代の延暦21年(802年)の建立。時の征夷大将軍・坂上田村麻呂が、蝦夷征討で守護神とした多門天の霊示を受け、桓武天皇の許しを得て建てたと伝え、寺名を多門山観音院本願寺と称した。約200年後。多門天は、今度は関白・藤原道長のもとに現れた。道長が一族供養の寺を建てようと、木幡を訪れ観音院本願寺に泊まった。すると、多門天が夢の中で「地蔵菩薩(ぼさつ)は西方を守る菩薩。人々を教え導き、救う。ここにその像を安置しなさい」と告げたという。尊像を造ったのは、源氏物語の「横川(よかわ)の僧都」のモデルといわれる恵心僧都。天元6年(永観元年/983年)、僧都が42歳の時に彫ったと記した古い掛け札が同寺にある。その後、地蔵尊像は不思議な力を発揮し、二度も災厄を逃れる。保元4年(平治元年/1159年)、平清盛と源義朝の勢力争いに端を発した平治の乱で、義朝らの兵が木幡に攻め入り同寺を焼き払った時、尊像は火中から飛び出し近くの山に難を逃れた。この話は地元だけでなく都にまで広まり、不焼地蔵、やけずの地蔵、やけん地蔵と呼ばれるようになった。これを伝え聞いた二条天皇が不焼山能化院地蔵寺の号を同寺に与え、今日の寺名の由来となった。奇跡はもう一度起きた。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府から政権奪回を狙った承久の乱で上皇が宇治の合戦に敗れ、北条氏率いる軍に寺を焼かれた。尊像は火中にあったが無事に残ったと伝える。本堂に長くあった地蔵尊像は、現在は収蔵堂に安置されている。以来、この近辺で大火が起きたことがなく、今も地蔵さんの霊験のお陰だと言われている。 |
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不焼山能化院に安置される木製の地蔵尊は、2度も火災を逃れたので不焼地蔵、やけずの地蔵、やけん地蔵とも呼ばれる。 | ||
許波多(こわた)神社(木幡:こわた) ☆地図 | ||
初め木幡(柳山)山中に創祀されたとされ旧地の柳山に因んで一に柳大明神とも言いますが創祀年月は不詳ですが平安末期の応保年間(1161〜62年)と伝えます。延喜式神名帳に掲げる「宇治郡許波多神社三座」とある内の一座は当社とされ二座は五ヶ庄の許波多神社に祀るとされます。天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、を祭神とする木幡の産土神で五ヶ庄の許波多神社とともに旧郷社として崇敬されています。二つ並んだ本殿向かって左側を田中神社で天照大神、天津日子根命(あまつひこねのみこと)を祭神とし元、河原村の産土神でしたが明治41年(1908年)に移し一説に式内許波多神社三座の二座は当社とされるも明らかでありません。 |
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許波多神社 | 藤原摂関家一族の墳墓(宇治陵36号) | |
宇治陵36号の被葬者は日本初の関白になった藤原基経と推察されている。 | 許波多神社 | |
旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)引込線 | ||
『淀川水系「火薬ベルト地帯」弾薬庫群』という旧陸軍の機密文書などで詳細判明した「宇治火薬庫、宇治火薬製造所」が、この引込線の終点と一致する事から、この廃線跡は同施設の引き込み線だと思われます。旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)遺構だったと思われる辺りに「陸軍省所轄地」と記された石碑が残っており、現在は、「陸上自衛隊宇治駐屯地関西補給処」になっており、施設内には火気厳禁と表示された旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)遺構と思われる古建物が現存している。 |
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社殿 | 旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)引込線跡は遊歩道に整備されている・・(*^-^*) | |
JR奈良線・木幡駅から旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫/現 陸上自衛隊宇治駐屯地)まで続く引込み線跡 | ||
廃線跡のすぐ横をJR奈良線が走っている・・ | ||
・・・ | 引込み線跡の築堤 | |
引込み線跡の橋脚と築堤 | ||
引込み線跡の橋脚 | 1.2mの超低い京阪電車のガード) | |
・・上空じゃなく前方注意でしょ?!(>_< | この高さでの電車通過は迫力満点!(@_@;) | |
乗り越えられるように感じるほどガードが低い(@_@;) | 引込み線跡の築堤 | |
引込み線跡の築堤 | ||
木幡池と堂ノ川 ☆地図 | ||
宇治市北部に位置する宇治市内最大の木幡池はかつて宇治川中流域に散在していた池群の一つで山科川北側にまでも広がっていましたが、六地蔵駅周辺の開発によって縮小、現在は北池・中池・南池の三つの池で形成されている。北池に堂ノ川が注いでますが湿地帯なので水鳥の姿はほと んど見られませんが、中池と南池には多くの水鳥が生息したり渡来しています。かつて、この辺りには巨椋(おぐら)池という大池があり ました。3つの川の合流地点にあり、現在の木幡池 もその中に含まれていました。しかし、その大部分 が昭和8年(1933年)に干拓され、広大な干拓田となりました。巨椋(おぐら)池の名残として唯一残っているのが、木幡池です。現在は堂の川が流入しており、洪水時に堂ノ川の溢水を貯留する遊水池としての役割も果たしています。 |
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廃線跡は舗装道路になっている。 | 一級河川・堂ノ川は宇治市木幡平尾丘陵に発し北西流し、木幡池北端の湿地帯に注ぐ | |
一級河川・堂ノ川は木幡池北端の湿地帯に注ぎ一部は伏見区大島の木幡池排水機場で山科川へ流出している。 | 廃線跡の道路がまっすぐ伸びている。 | |
廃線跡の道路 | この先で行き止まりになっている・・(>_<) | |
外環状線 | ・・・ | ・・・ |
観月橋 | 春まで休みの十石舟 | 島の弁天さんと呼ばれる長建寺 |
伏見名水・閼伽水 | 参拝しました・・・。 | 伏見と言えば・・・ |
朝ドラ・カーネーションに登場した酒蔵 | 竜馬通り商店街 | |
龍馬とお龍の町案内図 | 大手筋商店街 | 風呂屋はないけど・・風呂屋町 |
Tourist 2012.01.30(M) |
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