藤原北家(摂関家)宇治陵(うじのみささぎ)1号(総拝所)〜宇治陵37号探訪

 

この世をば わが世とぞ思ふ もちづきの かけたることも なしと思へば  摂政関白・藤原道長

 

藤原北家(摂関家)の宇治陵(うじのみささぎ)1号(総拝所) 〜宇治陵全37号を歩く・・・

 

※マップご希望の方はクリック→宇治陵に興味のある方は、自己責任でお訪ねください。その折にこの宇治陵マップがお役に立つかと・・

宇治陵(うじのみささぎ)

京都府宇治市木幡の東方、地蔵山、浄妙寺山に散在する多くの古墳を総称したもので現在は、文献上で当地に祀られたことが明らかな宇多天皇中宮以下17陵3墓とされているが、他に藤原冬嗣、基経、時平、道長、頼通など史上の著名な人物も当地に葬られていると思われている。ここは古来、木幡墓所といい元慶年間(877〜84年)に昭宣公藤原基経が藤原一族の埋骨所として作った所と伝える。『本朝文粋』13巻に掲げる大江圧衡の撰文になる「浄妙寺供養願文」によると当時の木幡山野には古塚が累々として荒れるがままになっていたので、道長は寛弘2年(1005年)に墓地整備を行い、併せて三昧堂(浄妙寺/木幡寺)を建立し藤原一族の祖霊追薦(それいついぜん)の道場とした旨を記している。  藤原氏が当地を埋骨地として選んだ理由は明らかでないが単に景勝地であったという事だけではなかったようである。「大織冠記」(山城名勝誌・第17所収)によると鎌足の子・定恵上人がここに一宇の仏堂を建立し、観音寺と号して没後もこの地に葬られたことが見えるので古来、藤原氏と因縁あったと思われる。木幡墓所は藤原一族にとって最も神聖な所となったが埋骨に当たっては資格上の制限があったようで主に道長の家系の者たち(藤原北家)によって占められたから道長の家系が凋落すると墓所も浄妙寺も共に荒れ果ててしまった。特に長寛2年(1164年)、藤原忠通を東山月輪に葬ってより、この地に埋葬される者もなく平安末期に藤原家が五摂家に分裂した事もあり墓所は、すっかり荒廃しました。明治10年(1877年)、宮内庁は17陵3墓を定めて木幡陵と称されたが後に宇治陵と改められた。1号陵がその総遙拝所になっています。現在の宇治陵は甚だ広く南北約1.8km、東西約0.9km、総面積89,332uとも言われ大小320基からなる古墳が累々と散在している。皇族以外の藤原北家(基経〜頼通まで)の墳墓も17ヶ所も含まれている。しかし、どの塚に誰が被葬されているのか今となっては知るすべもなく塚に1号〜37号までの番号をつけて管理され1号をもって17陵の総拝所とされている。このうち、地蔵山頂上にある宇治陵23号が最も広大で周囲約1.1km余、丁域内には前方後円墳、円墳など90余の古墳があり、13号、26号がそれに次いで広大である。他に15号、29号が前方後円墳からなっている。このように藤原氏以前に作られた宇治古墳群が含まれていて、大きな盛り土は古墳時代の墳墓(金比羅山古墳・坊主山古墳、隼上り古墳、伊勢田塚古墳等)で200基余り存在、小さな盛り土が平安時代の墳墓と伝える。この事は当地が早くから先住民の埋葬地であったことが知られ、後に藤原氏が、これらの墳墓の一部を利用したものと思われる。因みに【赤塚】は宇治陵墓中の34号にあたり、一に夫婦塚ともいい、木幡東北の御蔵山の西麓にあって大きな円墳からなり鬱蒼たる樹木が生い茂っている。古来、藤原冬嗣夫婦の墓と伝えるが、冬嗣は深草山中に埋葬されたとの説があり明らかでありません。【時平塚】一に三十番神塚とも言う。赤塚の西北の登から伏見区石田に至る旧道の西に位置し35号にあたる。塚は小円墳からなり鬱蒼たる樹木が生い茂り藤原時平の墓と伝える。【狐塚】許波多神社境内にある小円墳で宇治陵36号にあたる。口碑によるとここは、従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位、日本初の関白に就任した藤原基経の墓と伝える。一説に基経も伏見区深草山中に埋葬されたと伝える。

大手筋、納屋町商店街 納屋町商店街 竜馬通り商店街
酒蔵 宇治川派流 京阪中書島駅
京阪木幡駅 許波多神社
日本史上初の関白・藤原基経

藤原北家・藤原長良の三男として生まれた。従従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位、堀川大臣(堀河大臣)と号する。漢風諡号は昭宣公、国公は越前公。時の権力者で男子がいなかった摂政であった叔父・藤原良房に見込まれて養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。この墓を狐塚と言うのは基経→狐??

宇治陵36号(狐塚)は藤原北家・藤原長良三男で従一位、日本初の摂政関白太政大臣、贈正一位で堀川大臣と号した藤原基経と思われている。
JR奈良線・木幡駅 民家の間にある宇治陵37号・・見つけにくいまさかな所にあったりします。`s(・'・;)
宇治陵のいずれかに眠る藤原氏出身の皇室関係者(17陵3墓)

宮内省の調査によって、藤原氏出身の皇室関係者17陵3墓を「木幡陵」に治定。その後、更に陵域を広げて「宇治陵」と改められましたが、どの塚が誰のものかは明らかでありません。塚は1号〜37号まで番号で表されて、皇族以外の北家藤原氏(基経から頼通まで)の墳墓も17ヶ所含まれていて、1号陵が宇治陵の総遙拝所となっています。そこには、宇治陵の何れかに眠っている藤原氏出身の皇室関係者20名(17陵3墓)の名前が記されています。

  1. 宇多天皇女御中宮温子

  2. 村上天皇皇后安子

  3. 冷泉天皇女御贈皇太后懐子

  4. 圓融天皇皇后媓子

  5. 冷泉天皇女御贈皇太后超子

  6. 圓融天皇女御尊称皇太后詮子

  7. 圓融天皇皇后遵子

  8. 三條天皇皇后娍子

  9. 後朱雀天皇即位前妃贈皇太后嬉子

  10. 三條天皇皇后妍子

  11. 後一條天皇皇后威子

  12. 後三條天皇即位前妃贈皇太后茂子

  13. 一條天皇皇后彰子

  14. 後冷泉天皇皇后歡子

  15. 堀河天皇女御贈皇太后苡子

  16. 後冷泉天皇皇后寛子

  17. 宇多天皇皇子敦實親王

  18. 冷泉天皇皇子敦道親王

  19. 後朱雀天皇女御准后藤原生子

  20. 醍醐天皇皇后穩子

宇治陵37号 藤原摂関家、出身の皇室関係者の陵墓が37ヶ所は宮内庁に管理され、宇治陵1号は総遙拝所
藤原氏塋域(えいいき)碑

藤原氏塋域碑には宇治陵の何れかに葬られているであろう藤原冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼通、師実の8人の名前が刻まれる。塋域とは墓、墓所という意味です。

藤原氏塋域碑 宇治陵2号
宇治陵3号
宇治陵4号
・・・ 宇治陵14号
宇治陵14号 宇治陵周辺に茶畑が広がっています・・・
宇治陵5号
宇治東消防署 宇治陵6号
宇治陵7号
宇治陵8号 宇治陵9号
宇治陵9号 広大な茶畑 宇治陵10号
宇治陵10号 宇治陵11号
宇治陵11号 ・・・ 茶畑
宇治陵12号 ・・・
藤原兼家の墓と伝える宇治陵13号
茶畑が広がる風景や野焼きなど時間がゆったりと流れてる感じ・・・(*´ο`*)=3ホッ 宇治陵15号
宇治陵15号 宇治陵15号からの眺め
宇治陵16号
住宅地の児童公園内にある宇治陵18号 宇治陵18号
宇治陵18号 宇治陵17号
宇治陵19号
・・・ 宇治陵20号
宇治陵20号 結構な坂道の上り下りの連続・・・(>_<)
宇治陵21号 わおっ!凄い数の地蔵さま!(@_@) 48??(^^ゞ
地蔵さま88?!(^▽^;) 新四国八十八ヶ所霊場 ・・・ 宇治陵22号
宇治陵22号 右側は宇治陵最大の宇治陵23号の森
雨が激しく降ってきました・・・( ̄□||||!! 宇治陵24号
宇治陵24号 宇治陵25号へ・・・ 宇治陵25号
宇治陵25号 宇治陵25号から更に奥へ・・・宇治陵26号
右は宇治陵26号の森 宇治陵27号
振り返っています・・左は宇治陵26号の森 ・・・ 右は宇治陵26号の森
右は宇治陵26号の森 ・・・ 宇治陵最大の宇治陵23号
宇治陵最大の23号は周囲約1.1km余、丁域内には前方後円墳、円墳など90余の古墳がある。 宇治陵29号
宇治陵29号 坂を下ります・・雨が激しくなってきた〜(~ヘ~;)
御陵参道碑がある。 ・・・ 急坂を上ります・・何度目の上りやろ(>▽<;;
松殿基房(藤原基房/娘・伊子は曹洞宗開祖・道元禅師の母)の別業だった松殿跡(松殿山荘)

松殿とは摂政関白・藤原基房(忠通の次男)の造営した別業をいう。仁安3年(1168年)2月、六条天皇が高倉天皇に譲位すると、引き続いて摂政を務め、嘉応2年(1170年)12月には太政大臣、承安2年 (1172年)12月には関白となった。基房は後白河院政に協調して平氏打倒に力を注いだ反平氏政策を採ったために平清盛政権下で左遷の憂目に遭った。治承3年(1179年)2月に北政所である太政大臣・藤原忠雅女が皇太子・言仁親王の養母となった。これは藤原基実正室の平盛子も高倉天皇の養母となっており、その先例に倣ったことと、基房と平家の連携を図った後白河法皇の意図であったとされるが、清盛からは基房が基通から摂関家当主の地位を奪おうとしていると反発を受けた。続いて盛子と平重盛が死去すると、基房はその遺領を清盛に何の相談も無く、後白河法皇と謀って没収するという反平氏的政策を打ち出した。これに清盛は激怒して同年11月、軍を率いて上洛し、クーデターを起こす。清盛の軍事力の前に基房が抗せるはずもなく、直ちに反平氏的公卿と見なされて解官されたうえ、大宰権帥に左遷される。 途中、備前国で出家する事でようやく同地滞在を許された。                                       その後の治承4年(1180年)12月になって、ようやく罪を許されている。清盛の死後、平氏が急速に衰退して寿永2年(1183年)に源義仲の攻勢の前に都落ちすると、木曾(源)義仲によって再び政界の場に復帰したが、その時に義仲に才色兼備な三女・伊子を強奪された事が古典平家に見え、吉川栄治の『新平家物語』にもこの事が面白おかしく取り上げられている。伊子を得た義仲の歓びようは尋常ではなく、寿永3(1184)年に義仲は源義経に敗れ都落ちをするが、都を立ち去るまで伊子のもとに入り浸りであったという。その年の正月、義仲が近江国で戦死すると、基房は中央での政治的立場を失い宇治木幡にあった松殿(木幡山荘)に隠棲し伊子も松殿山荘で静かな時を過ごすことになる。               一説に娘(伊子)を義仲の正室として差し出して連携を結んで清盛時代に失った権勢を取り戻そうと画策。そして同年11月、義仲の勢力を背景にして息子の師家を後鳥羽天皇の摂政・内大臣にまで昇進させた。 だが、寿永3年(1184年)1月に義仲が源義経らによって討たれると、基房は政界から引退することを余儀なくされ、師家も罷免されてしまった。(長男・隆忠は建暦元年(1211年)まで左大臣)
後に基房とお互いの正室が花山院忠雅の娘同士(姉妹)で義兄弟の関係であった村上源氏の内大臣・源(久我)通親に伊子が室となりました。通親は鎌倉の源頼朝と結び、平氏政権打倒の画策をし平氏政権が倒れると今度は鎌倉幕府の影響力を京から排除しようと、鎌倉派筆頭の基房の実弟・九条兼実を『建久七年の政変』で失脚させた人物。正治2年(1200年)に、伊子は松殿で文殊丸を出産。文殊丸は後の曹洞宗を開いた道元禅師で当地が道元生誕の地とも伝える。
現在の松殿山荘は、大正7年(1918年)、茶人の高谷宗範が室町時代の東山書院式茶道を広める目的で当地を買い、13年の歳月を費やして建てられ当時の土塁が一部残っている。

宇治は茶所・・茶畑 ・・・ 松殿山荘
・・・ ・・・ 土塁跡を利用しているらしい・・・
どうやら間違ったみたいで引き返します(^^ゞ ここを直進! でもね〜(; ̄ー ̄A
大抵の人は藪コギのような荒れ道を見逃すし入り込まないだろうな・・・迷って当然?!(~ヘ~;)
宇治陵31号 しかし荒れ果てた道やな(>_<)
松殿山荘 宇治陵30号
左は宇治陵30号 右の凸は松殿の土塁跡 宇治陵33号
藤原道長と摂関政治から院政へ・・藤原摂関家の凋落

藤原道長・・・従一位・摂政・太政大臣・准三后。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守・藤原中正の娘・時姫。同母の兄姉に藤原道隆・藤原道兼・超子(三条天皇母)・詮子(一条天皇母)らがいる。後一条天皇・後朱雀天皇・後冷泉天皇の外祖父にあたる。父の兼家が摂政になり権力を握ると栄達するが、五男であり道隆、道兼という有力な兄がいたためさほど目立たない存在だった。しかし兼家の死後に摂関となった道隆が大酒、道兼が伝染病により相次いで病没。後に道隆の嫡子・伊周との政争に勝って左大臣として政権を掌握した。一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)となす。次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となす。だが道長は三条天皇とは深刻な対立を生じ天皇の眼病を理由に退位に追い込み、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。1年ほどで摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固める。後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」と驚嘆された。晩年は壮大な法成寺の造営に精力を傾けている。 摂関政治から院政へ・・・藤原一族が摂政や関白になって、天皇の代理や補佐として政治を行った形態です。貞観8年(866年)、藤原良房が皇族以外で初めて摂政になりました。その後、良房の養子・藤原基経も、皇族以外で初の関白に就任。これらが摂関政治の始まりとなりました。良房の摂政就任は娘・明子が皇后でした。明子は皇子を産んだのですが、天皇が病死し、その皇子が清和天皇として即位しました。しかし天皇はまだまだ幼年だったので、朝廷の実力者であり、清和天皇の外祖父の良房が、天皇の補佐役に就きました。摂関への就任と天皇の血縁は、摂関政治の重要な形態として受け継がれることになります。良房や基経の時代、藤原氏は強力でしたが、まだまだ絶大ではなく藤原氏以外にも有力氏族はあり、9世紀半ば〜10世紀半ばまで朝廷では壮絶な権力闘争が行われました。世に知られる菅原道真の左遷などは、この時期に起こった事件です。そして、10世紀後半、遂に藤原氏は権力闘争の覇者となり他氏族は政治の場から排除されました。例外を除いて摂関が常に置かれ、藤原氏の有力者が継承しました。こうして、摂関政治時代が到来しました。その後の権力闘争は藤原氏の身内で起こりました。その一つが、藤原兼通と兼家の兄弟闘争で、兼通は弟の兼家と激しく対立、自らが関白位に就くと兼家を冷遇しました。しかし、対立のさなか、兼通が病死したので兼家が摂政に就きました。兼家は自分の息子達をどんどん昇進させて一族を大いに栄えさせます。その息子達の中に藤原道長がいました。後に道長が詠んだ「この世をば わが世とぞ思ふ もちづきの かけたることも なしと思へば」望月の歌は、満月の欠けたところがないように、この世は私の思い通りの世の中だ・・この頃が道長、藤原氏の栄華の頂点で藤原氏は栄華を極めました。しかし長続きはせず道長の子の頼通の時代までは、まだ藤原氏の権力は絶大でした。それを頂に、藤原氏の力は急速に萎みました。その理由は、天皇に嫁がせた頼通の娘に、男子が生まれなかったことでした。やがて後三条天皇という藤原氏と血縁の薄い天皇が即位し、自らの政治を行うようになったのです。 これで事実上藤原氏による摂関政治の時代は終焉し、院政の時代へ推移していくと共に摂関政治は終焉を迎え藤原摂関家も凋落していきました・・・。

宇治陵33号 宇治陵32号
藤原頼道

藤原北家、太政大臣・藤原道長の長男。官位は・摂政・関白・太政大臣・准三宮。通称宇治殿。父の道長から若くして後一条天皇の摂政を譲られ、その後見を受ける。父の死後は朝政の第一人者として後朱雀天皇・後冷泉天皇の治世に渡り、関白を50年の長きに渡って務め、父・道長と共に藤原氏全盛時代を築いた。現代に残るその栄華の象徴が頼通が造営した宇治の平等院鳳凰堂である。しかし、天皇の后にした娘が男子に恵まれなかったことや刀伊の入寇・平忠常の乱・前九年の役など戦乱が相次ぎ、朝廷内部での絶対的な権勢とは裏腹に内外においてはその政治的基盤を揺るがせる事態が相次ぎ、加えて晩年には頼通と疎遠な後三条天皇が即位したこともあり、摂関家は衰退へ向かい、やがて院政と武士の台頭の時代へと推移することとなる。

藤原道長か頼通の墓と伝えられている宇治陵32号
浄妙寺(三昧堂)

古来、木幡は、藤原道長や頼通など藤原氏の埋葬地でした。『本朝文粋』13巻に掲げる大江圧衡の撰文になる「浄妙寺供養願文」によると当時の木幡山野には古塚が累々として荒れるがままになっていたので、藤原道長が寛弘2年(1005年)に藤原氏の菩提を弔うために墓地整備を行い、併せて三昧堂(浄妙寺)を建立しました。寺地の選定には陰陽師の安倍晴明などがあたり、川の北方にある平地に定められ寺の造作を道長は頻繁に木幡に足を運んだと伝えます。また造仏には康尚が、扁額と鐘銘の書は藤原行成と当時の第一人者が担っており、道長の建立に対する並々ならぬ意欲ががわかります。平安時代においては、浄妙寺は平等院とともに摂関家の重要寺院として位置づけられていましたが、鎌倉時代に入ると寺の別当職が聖護院宮家に移り、徐々に衰退していきました。遂に室町時代の寛正3年(1462年)の徳政一揆で放火され焼失しました。寺地は定かではないが、二回の発掘調査で、旧河道の北側に、砂礫をつき固めた亀腹基壇とそれを支える束石、および基壇上の礎石の抜き取り痕若干が検出され、五間四方の建物の存在が推定されることから、木幡小学校付近が浄妙寺(三昧堂)跡と比定されることとなった。

道長は寛弘2年(1005年)、墓地整備を行い、併せて三昧堂(浄妙寺)を建立し藤原一族の祖霊追薦(それいついぜん)の道場とした旨を記している。

浄妙寺跡 解説 本降りの雨の中をテチテチ・・(>_<)
茶畑の間の急坂を上りきった樹木が鬱蒼と生い茂った所に3個の円墳からなる宇治陵34号がある。
太政大臣・藤原冬嗣

右大臣・藤原内麻呂の次男。正二位・左大臣。贈正一位・太政大臣。閑院大臣と号す。嵯峨天皇の側近として信頼が厚く、大同5年(810年)嵯峨天皇が秘書機関として蔵人所を設置すると、初代の蔵人頭となった。その後は嵯峨天皇のもとで急速に昇進、年齢は1歳上ながら桓武朝において異例の昇進を遂げ、既に10年近く前に参議となっていた藤原式家の緒嗣をも追い越し、弘仁9年(819年)には大納言として台閣の長となった。    最終的には父・内麻呂より一階級上の左大臣まで昇りつめ、北家隆盛の基礎を築いた。死後に正一位を贈られ、更に娘で仁明天皇の女御である順子の子・道康親王が文徳天皇として即位した際、太政大臣を追贈された。平安左京三条二坊にあった私邸が閑院邸と称された事から、閑院大臣とも言われる。政界での活躍の他、藤原氏の長として一族をまとめる事に心を砕き、子弟の教育機関である勧学院の建立、氏への南円堂の建立、光明皇后の発願で創立されたの復興を行った。 また『弘仁格式』『日本後記』『内裏式』などの編纂にも従事し、文武を兼ね備えた多方面で活躍した。『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に漢詩、『後撰集』には和歌も残している。『公卿補任』によると円満な人格者であったと伝える。

【赤塚】は宇治陵34号で一に夫婦塚とも言われる木幡東北の御蔵山西麓にある3個の円墳で古来、藤原冬嗣夫婦の墓と伝えるが冬嗣は伏見深草山に葬られたとも伝える。よって、一説には源氏物語ゆかりの一条帝皇后・藤原彰子の墓とも伝えるが定かではありません。

藤原時平の墓と伝える宇治陵35号へ行きます・・・しかし冷たい雨がよく降るな〜 足元と肩周りがびしょ濡れで冷たい(>_<)
対立した右大臣・菅原道真を讒言して大宰府へ左遷した為に祟りで早死にしたと噂された左大臣・藤原時平

藤原基経の子。母は人康親王女。子に保忠、顕忠など。弟に仲平、忠平など。関白・藤原基経の長男であり、若くして栄達するが、父の死の時点ではまだ年若く、宇多天皇は親政をはじめ、皇親である源氏や学者の菅原道真を起用した。醍醐天皇が即位すると道真とともに左右大臣に並ぶが、次第に対立し右大臣だった道真を遂に讒言して大宰府へ左遷させた。政権を掌握すると意欲的に改革に着手するが、39歳の若さで死去したので早すぎる死は怨霊となった道真の祟りと噂された。

左大臣・藤原時平の墓と伝える宇治陵35号・・・右大臣だった菅原道真と対立し讒言で左遷させた時平は道真の祟りで早死にしたと噂された。

Torist.2012.02.13(M)

 

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