山紫水明・宇治志津川、白川の里山めぐり

 

妹らがり 今木の嶺に 茂り立つ 妻松の木は 古人見けむ  (万葉集) 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)

 

福寺(墓参り)橋寺〜宇治上神社〜大吉山〜朝日山(朝日観音)〜志津川(神女神社)〜天ヶ瀬ダム〜紅葉谷〜白川(白山神社)県神社

 

志津川

三室戸より東へ約1km、天ヶ瀬より志津川の渓流に沿って約1kmで達する山間地域で口碑によると、この地域の祖先は、平家の落ち武者で、その子孫は山林伐木を業として一村を成したと伝えます。神女神社の前に、その旨を記した「志津川村碑」が建っています。ひと昔前まで、村の長老十人を選び十老によって諸事万端を執り行ったとも伝えます。以前は山林や茶樹の栽培を主な生業としたが、近年は、道路整備によって交通も便利になり街へ勤める人が多くなりました。また三室戸寺が、はじめ志津川にあったことは「山城名勝志」に記すところですが、その寺跡については明らかにせず、おそらく志津川地域の東北、志津川に臨む山麓のやや平坦な所と推察され、そこは寺名の起こりとなった御諸(みもろ)山と呼ぶに相応しい巨大な岩山が背後に突兀と聳えています。

龍馬、お龍ゆかりの旅籠・寺田屋 酒蔵 三十石船と酒蔵
十石舟 島の弁天さん呼ばれる長建寺 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)
平戸樋門と観月橋 山科川、宇治川合流地 木幡池
「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」記念碑(功徳碑) 旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)遺構 陸軍省用地碑
宇治らしい風情の茶畑 (*^-^*) 墓参りへ・・・萬福寺塔頭・法蔵院 鉄眼一切経(重文:江戸期)収蔵庫
法蔵院の甍と宇治俯瞰 龍興院開山堂
・・・(*^-^*) 霊苑からの宇治俯瞰 萬福寺
橋寺放生院

雨宝山と号する真言律宗の寺で一に常光寺として地蔵尊を祀り道路交通の安全を祈る寺として古くから知られます。寺伝によれば大化2年(646年)、僧道登が宇治橋を架けた時に宇治橋の守り寺として併せて建立したとされるが弘安9年(1286年)西大寺の僧叡尊が宇治橋の架け替えにあたり橋供養をした時だとされます。断碑は、上下二つに割れたものを一つに繋ぎ合せ碑文は大化2年(646年)、僧・道登によって宇治橋が初架橋されたと記します。元橋畔にあったのがいつの世にか流出し行方不明でしたが寛政3年(1791年)、たまたま付近土中から断片が発見され、失った部分を補ったのが現在の石碑で日本最古の石碑とされます。

宇治大橋 宇治川と浮島(橘島、塔の島) 橋寺放生院
以前は、ここから宇治橋が見えたけど・・(~ヘ~;) 日本最古?の石碑「断碑」 芭蕉句碑
本堂 十二支守り本尊 世界文化遺産・宇治上神社
世界文化遺産・宇治上神社

元は下社の宇治神社と一体で平等院の鎮守社ともいわれ明治維新までは、「離宮上社」と呼ばれていました。本殿は平安時代後期に建てられた現存するわが国最古の神社建築です。祭神は応神天皇とその皇子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)、兄の仁徳天皇とされています。境内正面の拝殿は鎌倉初期のもので、寝殿造りの様相を伝えています。特に縋破風(すがるはふ)といわれる手法を用いた屋根の美しさは格別です。三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式の建物で、左右の社殿にある蟇股(かえるまた)も建築年代を示すものです。

神門 拝殿(国宝:鎌倉期) 桐原水(きりはらすい)
本殿(国宝:平安期)

覆屋(おおいや)のある本殿には、三社が収められ、祭神は向かって右が「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)(弟)」真中が「応神天皇(父)」、左が「仁徳天皇(兄)」とされています。それぞれ神殿としては小規模ですが、その造りは大変優雅で、神社築としては日本最古のものと伝わり、建築年代は平安時代後期と推定され国宝に指定されています。

拝殿(国宝:鎌倉期) 本殿(国宝:平安期)
えぇなぁ〜(*^-^*) 与謝野晶子詠歌、宇治十帖歌碑
[第四十七帖・総角(あげまき)]之古跡 大吉山へ・・・突撃ぃ〜o(*^▽^*)oあはっ♪ ・・・(*^-^*)
・・・よかとね〜(*^-^*)
展望台のあずまやまで乗車率100%で上がれますが、ウォーキングの方もおられるので、安全運転!!!(*^-^*)
仏徳山(大吉山)

興聖寺の山号に因んで近年に名付けられたもので、宇治上神社や興聖寺の背後にある山で朝日山の支峰とします。「万葉集」に挽歌としてかかげる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の歌に因んで今木の嶺ともいい、また宇治離宮桐原日桁宮址(きりはらのひけたのみやあと)に因んで離宮山、桐原山とも言われます。山頂の展望台から南を望むと却下に平等院、宇治の街々を隔てて栗子山が前方に横たわります。

大吉山(仏徳山)展望台のあずまや 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の歌碑 大吉山三等三角点(点名:旭山/標高:131.80m)
朝日山経由で志津川へ・・・ ・・・(*^-^*) 朝日観音(朝日山々頂)は押し上げで進撃!(>_<)
朝日山、応神天皇の皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)

朝日山・・・大吉山(仏徳山)の東に聳える円錐形の優婉な山で宇治の東にあり朝日を受けるのでこの名が生じたと伝える。宇治名山の一として古来、歌に謡曲に歌われ、観月の地としても知られる。山頂には、朝日観音堂があり菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の墓と伝える経塚があります。菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)・・・父・応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたが、異母兄・大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、後の仁徳天皇)に皇位を譲るべく自ら果てたという美談で知られる。『山城国風土記』逸文に桐原日桁宮に住まい、応神天皇が崩じた後、大鷦鷯尊(おほさざきのみこと:仁徳天皇)と皇位を譲り合うこと3年。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ太子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、太子は蘇生し、妹の八田皇女を献ずる旨の遺言をして、再び薨じたと伝える。菟道山上(『延喜式』諸陵寮に宇治墓)に葬られた。同墓は現在、宇治市莵道丸山の丸山古墳(前方後円墳・全長約80m)に比定され、宮内庁の管理下にあるが、この地は宇治川右岸に近接して「山上」と呼ぶには、相応しくない。

五重石塔(供養塔) 五輪石塔(供養塔) 応神天皇の皇子・菟道稚郎子の墓
 
朝日山山頂にある朝日観音堂 朝日観音(南無観世音菩薩)
山頂からの宇治俯瞰o(*^▽^*)o 朝日山〜志津川ルート(東海自然歩道)も乗車率100%で走れますが、落ち葉でスリップしやすいので安全運転!!!
宇治川が氾濫して川沿いの道が通れない時は、この道が志津川へ行く道だったとか・・・
道標石:左 志津川、右 天ヶ瀬・・左へGO! 倒竹も乗り越えて進撃?!o(*^▽^*)o 志津川
神女(しんめ/しんにょ)神社

志津川に住んでいた平家の落武者の子孫が祀っていた祠が幾つかあり、明治に入ってから、これらの祠を一つに合祀した神社を作り、祭神が女性であることから、「神女神社」と名付けた。安芸の宮島にある平家ゆかりの厳島神社と同じく市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祭神とする志津川地域の産土神です。元は志津川地域の西南にあったが明治6年(1873年)、当地に移したと伝え、八幡神と三輪明神を合祀しています。境内の背後には、俗に伊勢講山と称する巨大な岩山がそそり立ち、前方は仙郷川の渓流に臨んですこぶる幽邃に富んでいます。この社前の渓谷を竜ヶ壷といい、喜撰法師が行を営んだ所とも伝えます。昔は、奇岩、怪石が渓流に横たわり水は数丈の滝となって奔流していたと伝えるが、今は道路改修などにより往時の面影はまったく見られません

喜撰法師が行を営んだと伝える竜ヶ壷 神女神社 志津川村碑
参道 こじんまりとした境内
本殿 里山の風情を醸し出している志津川
志津川 府道の峠ピークからの志津川の眺め(*^-^*)
天ヶ瀬(あまがせ)ダム

宇治橋の上流約2.5km、宇治川天ヶ瀬に水害防止と発電の二つを主目的に建造されたダムで高さ73m、長さ254mのアーチ式ダムで2000万㎥(東京ドーム7杯分) の貯水量で下流域の洪水を防ぎ新たに発電所を設け92000kwの電力を宇治市、城陽市などに送電し併せて宇治、城陽、久御山、八幡市など山城地域へ上水道(府営)の取水口も設けられています。総工費66億円と言われ当時、我が国土木技術の粋を結集して昭和32年(1957年)〜7年半の歳月を費やして同39年(1964年)11月に一応完成しました。ダムの完成により宇治川に延々24kmに渡って一大人造湖が出現し他所に見られない水上公園とされ鳳凰湖と名付けられました。

天ヶ瀬ダム@白虹橋 宇治川下流 天ヶ瀬吊橋
暮れなずむ宇治川左岸を疾走中・・・ 紅葉谷へ・・・
白川紅葉谷(もみじだに)

平等院より宇治川左岸を1kmばかり遡り、紅葉谷の渓流に沿って1kmばかり入った幽邃な抜けて丘陵を越えた所に静かな山間の里、白川があります。宇治川から白川へ抜ける約1kmの渓谷は春〜初夏の新緑、秋の紅葉の美しい所で、「もみじ谷」とも呼ばれ東海自然歩道になっています。

前回は見頃に早かった(~ヘ~;)今回は・・・遅かった(>_<) さらに暗闇の中・・ヽ( ̄ー ̄*)ノおてあげ ※最初の階段と一ヶ所押し上げ箇所あり(~ヘ~;)
九重石塔(後冷泉帝皇后/四条皇太后・寛子供養塔/鎌倉期)

後冷泉帝皇后・藤原寛子の墓と伝えるが、供養塔として建立されたと思われています。皇后は大治2年(1127年)、92才で亡くなられ遺骸は宇治一ノ坂東辺において荼毘に附され、遺骨は木幡の浄妙寺に葬られたと伝えます。

くれないの紅葉・・・暮れちゃったの紅葉(^^ゞ爆 九重石塔(四条皇太后・寛子供養塔/鎌倉期) 白川で日が暮れまつた・・・(≧▼≦;)あちゃ〜

白川 

古くは、宇治白川と呼ばれ、平等院より宇治川左岸を1kmばかり遡り、紅葉谷の渓流に沿って1kmばかり入った幽邃な山間集落です。当地は藤原頼通が早くより山荘を構え、頼通の女・寛子(後冷泉帝皇后・四条皇太后)もこの地に隠棲し、康和4年(1102年)、一宇の仏堂を造営された。本尊は大聖菩提樹院とし七間四面の堂に金箔を張り巡らし金色院と号され、奥州・藤原氏の中尊寺金色堂のモデルにもなったとも言われる。天台宗に属し、白山権現を勧請して寺の鎮守とし、他に不動堂、虚空蔵堂、経堂、弥勒堂、薬師堂、、鐘楼など多くの堂宇が建立された。その荘厳さは洛東神楽岡の菩提樹院と相並び称せられました。しかし、長禄4年(1460年)の火災後、間もなく再建されたが藤原氏の哀徴と共に幾久しからず再び荒廃しました。今は、総門や旧鎮守・白山(はくさん)神社、地蔵院に有する遺仏、遺品に在りし日の金色院を偲ぶに過ぎません。

金色院跡碑 白山神社
白山(はくさん)神社

鬱蒼たる樹木の生い茂る山の中腹にある古社で8世紀後半に疱瘡が流行した際、治癒を願って創建されたと伝えますが、後に藤原頼通(ふじわらのよりみち)の娘、四条宮寛子(しじょうのみやかんし)が建立したといわれる金色院の鎮守として加賀の白山(菊理媛、伊弉奈枳命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いぎなみのみこと)の三神)を勧請しました。小社ですが古建築として見るべきものを留めています。因みに「山城史」によると当社を式内室城(むろき)神社に当てていますが、定かではありません。

白山神社参道は、いきなりの石段・・足元に注意しながらテチテチ・・真っ暗やなぁ〜(≧▼≦;)
拝殿(重文:鎌倉期)

もと宇治離宮の建物を久安2年(1146年)に移したものと伝えます。方三間、単層、屋根は寄棟造、茅葺とし周囲に高欄付の廻縁を廻らし腰高障子を立て軒裏を二重の疎棰とし全くの田舎屋の感じがします。内部は折上小組格天井とし、折上支輪の間が特に広くなっています。鎌倉時代の建築ですが、なお多くの藤原末期の様式を今に伝えています。

藤原末期の様式を今に伝える田舎造のような拝殿(重文:鎌倉期)
本殿(室町期)

一間社、流造、桧皮葺として正面に切妻造の向拝を付し内陣には伊邪那美命(いぎなみのみこと)と伝える神像坐像(重文:藤原期)を安置。

なぜか・・・砲弾二発が(@_@;) 狛砲弾?!(^^ゞ爆 本殿(室町期) 金色院遺構の総門
県(あがた)神社

平等院の鎮守と言われ江戸時代迄は近江三井寺円満院の管理に属しましたが、明治の神仏分離によって独立したと伝えます。祭神に関しては古来種々の節がありましたが、木花開耶比売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とします。延喜式に、その名を見ないがその創祀は古いとされます。6月5日の夜にある「あがた祭り」は近畿圏の信奉者による梵天渡御があり「暗闇の奇祭」として有名です。

県(あがた)神社 「暗闇の奇祭」の梵天
本殿 紫式部と宇治橋 酒蔵・・・真っ暗やな(^^ゞ

Tourist 2008.12.08(M)

今回、大吉山(仏徳山)〜朝日山、そして紅葉谷の東海自然歩道を自己責任においてチャリ走行しました。

倒木、階段、石段などを除いて乗車率100%で走れますが、ウォーキングの方もおられるので安全第一で走行しました。

また、自転車での行程をおススメしている訳でもありませんことも、重々ご了承ください・・・m(__)m 管理人・Syo

 

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