城南、宇治華街道チャリチャリ探訪

 

橘の 小島は色も 変らじを この浮舟ぞ ゆくへ知られぬ  「浮舟巻」

 

城南宮〜長建寺〜天ヶ瀬(あまがせ)ダム〜浮島(塔の島、橘島)〜槇島城跡チャリ探訪

 

城南宮(方除、鬼門除の神)

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来とされます。

酒蔵@新高瀬川 方除けの社「城南宮」

伏見名水の一「菊水若水」

枝垂桜@楽水苑
梅と桃@楽水苑 角倉橋界隈の桜(旧高瀬川) 角倉橋の元石柱

長建寺

紅柄塗りの唐模様山門で知られ真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。7月下旬の祭礼は、「伏見の弁天祭」と言われています

出あい橋 十石舟@宇治川派流

長建寺

弁財天さま出現じゃ〜 σ(^◇^;)

伏見名水の一「閼伽水:あかすい」

椿と桜・・・珍しいコントラスト?!

境内に咲き乱れる見事な糸桜(枝垂桜)

本堂

近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)

山科川(左)と宇治川合流地点

許波多(こわた)神社(五ヶ荘:ごかしょう)

天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、瓊々杵尊(ににぎのみこと)、神倭磐余尊(かんやまといわれひこのみこと/神武天皇)の三神を祀る五ヶ庄一帯の産土神で木幡の許波多神社とともに古くから崇敬されています。創祀年月は明らかにしません。社殿によれば皇位継承をめぐる壬申の乱(671)を前に大海人皇子(天武天皇)が近江の大津宮から吉野に赴かれる時に参詣し手にした柳の枝のムチを社頭の瑞垣に挿し「我に天位を践まばこの柳、芽を出すべし。」と戦勝祈願し、天武天皇として即位するや柳も芽吹きその霊験を賞賛し社領を寄進され名も柳大明神と名付けたとされます。明治8年(1875年)9月、陸軍火薬庫が増設されるにあたり翌9年10月、お旅所であった現在地に移されました。「山城風土記」、「宇治郡木幡社(祇社:くにつかみのやしろ)」、「延喜式神名帳」の「宇治郡許波多神社三座」とあるは当社と断定され社名の柳大明神を許波多神社に改めました。

許波多神社(五ヶ荘) 墓参りへ(萬福寺塔中・法蔵院)

境内の桜

萬福寺

萬福寺は、江戸時代(1654年)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍・家綱の崇敬を得て万治4年(寛文元年:1661年)に開創された中国風の寺院。日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など中国の名僧を原点とする黄檗宗の大本山です。萬福寺は創建後、兵火や大きな火災に遭わなかったので当時の伽藍状態で現在に至ります。強いて言えば門前の馬駐が無いくらいです

宇治の眺め@霊園 法蔵院の甍

萬福寺

萬福寺総門(重文:江戸期) 放生池と三門(重文:江戸期) 中国の風情が漂う境内

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

四世紀初頭の応神天皇の皇子とされ日本書紀によると、応神天皇は数多の皇子の中でも秀俊の誉れ稚郎子を皇太子と定めて亡くなった。しかし、稚郎子は自分よりも年長の大鷦鷯(おおささぎ:仁徳天皇)こそが皇位を継ぐべきだとし、大鷦鷯も父の言葉に背くことはできないとし、お互いに譲り合うこと三年、ついには兄をたてて自らの命を断ったという逸話が伝わります

三門(重文:江戸期) 菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵 橋寺放生院

橋寺放生院

雨宝山と号する真言律宗の寺で一に常光寺として地蔵尊を祀り道路交通の安全を祈る寺として古くから知られます。寺伝によれば大化2年(646年)、僧道登が宇治橋を架けた時に宇治橋の守り寺として併せて建立したとされるが弘安9年(1286年)西大寺の僧叡尊が宇治橋の架け替えにあたり橋供養をした時だとされます。断碑は、上下二つに割れたものを一つに繋ぎ合せ碑文は大化2年(646年)、僧道登によって宇治橋が初架橋されたと記します。元橋畔にあったのがいつの世にか流出し行方不明でしたが寛政3年(1791年)、たまたま付近土中から断片が発見され、失った部分を補ったのが現在の石碑で日本最古の石碑とされますが近年、古さを誇示する為に平安初期頃に偽作されたという説もあります。

宇治橋@橋寺方生院 境内の桜は三分咲き?
日本最古と伝える石碑「断碑」 本堂 朝霧橋と浮島(橘島、塔の島)

宇治十帖モニュメント、宇治神社

宇治十帖モニユメント・・・宇治川右岸の朝霧橋の手前にあります。源氏物語「宇治十帖」では、浮舟(女性)は薫に連れられて宇治に移りますが、匂宮(男性)は浮舟の居場所を探して宇治を訪れ、二人は小舟で橘島へ渡りました。モニュメントはその場面をモチーフされました。宇治神社・・・地域の産土神(うぶずながみ)であった離宮社は、対岸に平等院が建立されると、その鎮守社としての地位も与えられました。江戸時代迄は宇治神社と宇治上神社は一対でした。この一帯は応神天皇の皇子で、宇治十帖の八宮(はちのみや)のモデルとも言われている「莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)」の邸宅跡と考えられ、皇子の亡くなった後、邸宅跡にその霊を祭ったのが両神社の縁起と伝わります。応神天皇の離宮とも関わりがあったと思われ、「離宮社」、「離宮八幡」などと称されました。

宇治十帖モニュメントと朝霧橋 宇治神社 天ヶ瀬吊り橋
天ヶ瀬吊り橋 宇治川上流@天ヶ瀬吊り橋 宇治川下流@天ヶ瀬吊り橋

天ヶ瀬(あまがせ)ダム

宇治橋の上流約2.5km、宇治川天ヶ瀬に水害防止と発電の二つを主目的に建造されたダムで高さ73m、長さ254mのアーチ式ダムで2000万㎥(東京ドーム7杯分) の貯水量で下流域の洪水を防ぎ新たに発電所を設け92000kwの電力を宇治市、城陽市などに送電し併せて宇治、城陽、久御山、八幡市など山城地域へ上水道(府営)の取水口も設けられています。総工費66億円と言われ当時、我が国土木技術の粋を結集して昭和32年(1957年)〜7ヵ年半の歳月を費やして同39年(1964年)11月に一応完成しました。ダムの完成により宇治川に延々24kmに渡って一大人造湖が出現し他所に見られない水上公園とされ鳳凰湖と名付けられました。

アーチ式ダム(高さ:73m、長さ:254m)の天ヶ瀬ダム@白虹橋

蛍塚(蛍ヶ淵)

宇治川は源氏蛍、平家蛍、姫蛍の生息に恵まれ夏は蛍狩りが盛んでした。特に源氏、平家蛍が交尾の為に入り乱れて乱舞する様を蛍合戦と称され「嬉遊笑覧:きゆうしょうらん」十二によれば宇治の蛍は他所より一回り大きく光がことさら明るいのは治承4年(1180年)、平氏追討の為に挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中、宇治平等院で自刃した源三位頼政の亡魂が蛍になり今も合戦をするが如く水面に多数群がり・・・と頼政亡魂説を伝えています。

大河の流れ(宇治川) 蛍塚(蛍ヶ淵) [第四十九帖・宿木(やどりぎ)]之古跡
「あじろぎの道」@喜撰橋
浮島十三重石塔(重文:鎌倉期)

塔ノ島中央にあり花崗岩製で高さ15m、我が国現存中最大の十三重石塔です。弘安9年(1286年)、奈良西大寺の僧・叡尊(興正菩薩)が宇治橋の架け替えに際して建立したもので上人は橋の流失は乱獲される魚霊の祟りであるとし殺生の罪を戒め網代を捨ててこの地に経巻共に埋め供養塔としたものと伝わります。石塔は宝暦6年(1756年)の大洪水で倒れ、約150年間埋没していたものを明治41年(1908年)に発掘されて再建されました。一説に上から五番目の塔芯を石川五右衛門が盗み出し伏見の藤森神社の手水の水鉢であるとされます

日本最大の浮島十三重石塔 枝垂桜 鵜飼いの鵜さん?おっ!ガァガァさんでつ!! (^◇^;)
お〜 見事な「宇治川しだれ桜」@塔の島 朝霧橋
宇治川先陣碑、平等院(世界文化遺産)

宇治川先陣碑・・・承久年間、源義経(みなもとのよしつね)と木曽義仲(きそよしなか)の合戦時に源義経旗下・佐々木四郎高綱と梶原源太景季(かげすえ)の二名が宇治川の先陣を争った故事を偲んで昭和6年(1931年)4月、帝国在郷軍人宇治分会が建てたものです平等院(世界文化遺産)・・・関白・藤原道長が左大臣・源重信婦人から譲り受けた別業を道長の子・頼通が、永承7年(1052年)に仏寺に改め、平等院と号しました。末法思想が貴族や僧侶らの極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に広く流行しました。翌年の天喜元年(1053年)、平等院の鳳凰堂(阿弥陀堂)が落成し、堂内には平安時代の最高の仏師・定朝によって作成された丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めたと伝え約1000年前に建立された建造物や仏像などが今に伝えられ、世界遺産にも登録されています。

宇治川先陣碑 平等院鳳凰堂(阿弥陀堂) 宇治橋

紫式部と第五十四帖 夢浮橋之古蹟

紫式部が著した世界的に有名な古典文学「源氏物語」は全編五十四帖からなり最後の十帖は宇治を舞台にしている事から、通称「宇治十帖」と呼ばれ、そのゆかりの古跡が後世、好事家達により定められ、宇治橋を中心とした宇治川の両岸に10ヶ所点在しています。

[第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡

紫式部と夢浮橋?宇治橋

三の間(宇治橋)

浮島(橘島、塔ノ島)@宇治橋三の間

巨椋池(おぐらいけ)水の道

巨椋池説明パネル 巨椋池(おぐらいけ)水の道 花咲く桜の木に幾つもの宿木が寄生!(@_@;)

室町幕府終焉の地・槇島城跡

槇島城は室町時代、足利家々臣・真木島(まきしま)氏が城主でした。京都を追われて槇島城に篭城した足利15代将軍・義昭は元亀4年(1573年)7月18日、槇島合戦で織田信長軍に敗れて河内へ敗走し事実上、室町幕府は滅亡しました。豊臣秀吉による伏見城築城、宇治川の改修工事などに伴って廃城にされましたが、城遺構は残っておらず城があったと推定される当地に石碑のみがあります。

槇島城跡 槇島城跡説明パネル
かっては巨椋池(おぐらいけ)だった干拓田 宇治川の夕暮れ@京滋バイパス側道橋
六地蔵〜黄檗〜三室戸の眺望@京滋バイパス側道宇治川橋

坂本龍馬ゆかりの寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、十八歳のとき寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が一切きりもりし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く、志士たちにも援助をおしまなかった。

山科川(六地蔵) 酒蔵

坂本龍馬所縁の旅籠・寺田屋

 Tourist  2006.04.03(M)

 

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