月とうずらの里・深草歴史探訪

 

夕されば 野辺の秋風 身にしみて うずら鳴くなり 深草の里 (千載集)藤原俊成

 

月とウズラの里・深草の歴史街道をポタリング・・・

 

藤森神社〜仁明天皇深草陵〜浄蓮華院〜真宗院〜嘉祥寺〜宝塔寺〜深草十二帝陵瑞光寺(元政庵)宝塔寺〜伏見稲荷大社

 

深草

古くは紀伊郡に属し、深草郷といった。紀伊郡とは紀氏一族がこの地に勢力を占めていたと伝え、紀氏とは神武天皇の御代、紀伊国(和歌山県)の国造(くにのみやつこ)になった天道根命を祖とする古代豪族の一です。神功皇后に仕えた武内宿禰は紀氏の女(影媛)が考元天皇々子(彦太忍信命:ひこぶとしのぶまことのみこと)と婚して生まれたもので、その子・紀角宿禰(きのつぬのすくね)は奈良時代の中央政界にあって活躍した。特に蘇我氏と同族であるが帰化人の秦氏を配下に国家財政を握り、各地に勢力を扶植した。紀伊郡深草の地もその一つで先住民を勢力下に吸収、紀氏と共に深草の地盤を築いた伝える事が藤森神社は紀氏の祖人を祀った氏神社だと伝える由縁です。次いで秦氏が来住し稲荷ノ神を祀って農耕守護神と崇め、深草一帯の開発に努めた。しかし、蘇我氏滅亡後、紀氏も次第に勢力を失墜し秦氏のみが栄えた。平安時代になると藤原氏の勃興により多くは藤原氏の荘園となり、一族の山荘、別荘の多くが寺院と共に造営された。桓武天皇や仁明天皇以下多くの貴紳を当地に埋葬したのは当地が単に風光明媚であったたげでなく、清浄の地でもあったからだと伝える。王朝時代の歌人が深草の風景を詠ったのは、往時はウズラや月の名所として嵯峨に劣らぬ所であった。在原業平もしばしば当地に住まいしたことがあり、深草少将は当地から小野小町の元へ百夜の間通い続けたなど古来、幾多のロマンスや伝説が今に語り伝えられている。今は、ウズラなくなりかつての深草の面影は見られないが、所々に往時を偲ばせる鄙びた風景があり古跡を愛する者には、また一入楽しいところである・・・

藤森神社(勝運の神)

神社の創建は平安遷都以前に遡り、神功皇后が三韓征伐より凱旋後、この地に纛旗(とうき)と兵器を埋納した事が起こりと伝わります。早良(さわら)親王は天応元年(781年)、蒙古追討にあたり当社に詣で戦勝祈願されたと伝わり、係る伝承などから祭神は神功皇后を初め、武内宿禰(すくね)、素戔嗚尊(すさのおのみこと)、別雷(わけいかづち)神、日本武尊(やまとたけるのみこと)、応神天皇、仁徳天皇、天武天皇、舎人親王、井上内親王、早良(さわら)親王、伊予親王と12柱に及ぶ神々を奉祀しています。祭神の中には怨霊と恐れられた井上内親王、早良親王、伊予親王などの名もあり駈馬、相撲、騎射、猿楽などは御霊会において怨霊を鎮める行事だと伝わります。藤森神社としての社名は室町時代以後で、「真幡寸神社」、「藤尾社」、「塚本社」など諸社を合祀して藤森神社とされました。

酒蔵 疎水を渡るおけいはん稲荷山 藤森神社
南参道の石鳥居 こま札 額は今も近藤勇によって外されたまま
伏見義民一揆(天明義民一揆)、蒙古塚

伏見義民一揆(天明義民一揆)・・・安永7年(1779年)11月、伏見奉行・小堀和泉守政方(まさみち)は着任後間もなく、その地位を利用して暴政を振舞うになりました。その為に数万もの伏見住民を窮地に陥れる結果となり、こうした町民を救おうと立ち上がったのが町年寄・文珠九助初め焼塩屋權兵衛ら7人の義民でした。彼等は江戸幕府に命がけの直訴に及び悪奉行を失墜させました。奉行罷免後、權兵衛は京都東町奉行所の再吟味による尋問に遭い、遂に天明7年(1788年)11月4日、獄中にて病臥し非業の最後を遂げました。蒙古塚・・・一に「七塚」とも呼び蒙古の将兵の首を埋めた所と云われ神功皇后が兵器を埋納した所とも伝わります。「かえし石」は別に「力石」とも呼ばれ、大・中・小の三つの餅型の石が積まれています。江戸時代より藤森祭の京都所司代巡検時に当社の神人が拝殿より鳥居迄この石を転がす行事があったとか祭りに集まった力自慢が力試しに石を抱き上げたとも伝えます。

駈馬、騎射が行われる参道(馬場) 伏見義民・焼塩屋権兵衛碑 蒙古塚
かえし石、石川五右衛門ゆかりの水鉢台石(手水舎)

かえし石・・・別に「力石」とも呼ばれ、大・中・小の三つの餅型の石が積まれています。江戸時代より藤森祭の京都所司代巡検時に当社の神人が拝殿より鳥居迄この石を転がす行事があったとか祭りに集まった力自慢が力試しに石を抱き上げたとも伝えます。水鉢台石(手水舎)・・・手水舎の水鉢の台石は宇治浮島にある十三重塔の上から五番目の石を石川五右衛門が盗みここへ持ち運んだと伝わり現在も十三重塔を見るとその部分だけ色が違っているとか・・・

かえし石(力石) 拝殿 水鉢と五右衛門が盗んだという台石
いちの木さん(旗塚)

旗塚の上に、いちいの木があり今は枯れた株となっているだけですが、 かっては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛などの治癒にご利益があり新撰組局長・近藤勇も 「いちの木さん」を信仰し、足しげく通っていたと伝えます。 旗塚の「旗」は 「秦」につながると云う説もあります。 平安遷都以前に当地を治めていたのは 紀氏一族で産土神(うぶずながみ)として深草山々頂に雷神を祀ていたのが最初で、やがて新羅系渡来人の秦氏の勢力が大きくなり守護神として真幡寸(まはたき) 神社と称するようになり神護景雲年間(767〜769年)頃の事で社地も現在地に定まりました。「旗塚」、纛旗(とうき)の埋納説などは秦氏に因んでの伝説です。

本殿 いちの木さん(旗塚) 鎧武者像
伏見名水・不二の水 藤森七福神 京都歩兵連隊跡碑
仁明天皇深草陵

南面する方墳で周囲に空壕をめぐらし陵上に松樹が茂っています。陵は、後世その所在を失い江戸時代には、諸説粉々、容易に決定できなかったが、安永・天明頃に善福寺の住職が東車塚とよぶ荒墳を発掘、石棺や陶壺に入った乾元大宝の古銭を得た事から深草陵と決定し元治元年〔1864年〕修治されました。

直違橋(すじかいばし:伏水第四橋)

仁明天皇深草陵
桓武天皇御陵?浄蓮華(じょうれんげ)院

天台宗妙法院末寺院で洋風建築の本堂には阿弥陀如来像を安置しています。境内の後に俗に谷口古墳と称する一堆の円墳があり江戸時代の頃、桓武天皇御陵と言われました。文政4年(1821年)、比叡山の僧・尭覚は有栖川韻仁(つなひと)親王を奉戴して一宇を草創し浄蓮華院と号しました。万延元年(1860年)、その弟子・尭雄は御影殿を建てて天皇の菩提を弔ったが明治になり種々検討された結果、御陵は単なる伝説に過ぎないと判定されましたが未だに桓武天皇御陵地には諸説がありミステリーとされています。又、当院は幕末期に勤皇派の飯田忠彦が隠栖し「野史」291巻を執筆した所であり彼が参考資料を移しとり書きとどめた手記などが当寺に保管されています。

浄蓮華院のモダンな御影殿と背後の谷口古墳には桓武天皇御陵説あり 真宗院
真宗(しんじゅ)院

浄土宗西山深草派・根本山と号し、後深草天皇の発願により宝治年間(1247〜1249年)に円空立信によって建立されました。当時の寺領は後の深草北陵も含み後嵯峨上皇から山門、経蔵などが寄進され後深草天皇が亡くなられると境内の法華堂に納骨され深草北陵(十二帝陵)の始まりとなりました。安政7年(1778年)、伏見義民では文殊九助ら36人が真宗院に集まり将軍(幕府)への直訴が決議されました。裏山の墓地には日本初の人体解剖を行い、その成果を「蔵志」として著した山脇東洋の墓所があります。

真宗院 ・・・
嘉祥寺(かしょうじ)

嘉祥寺は天台宗の寺院で、本堂に歓喜天、別名は 聖天を祀ることから「深草聖天」とも称され往時は七僧を置き、朝廷の御願を修する寺院であったと伝わり、貞観3年には西の院、清和天皇の御代には嘉祥寺西院でもって貞観寺を建立、その後の光考天皇の頃には五種の塔を建てたと記録が残るほど、南北に500mにも及ぶ境内を有する大きな寺院であったと伝わりますが「応仁の乱」により堂宇は殆どが焼滅し荒廃しました。現在の嘉祥寺は江戸時代の寛文2年(1662年)に、大僧正空心が、安楽行院の再興にあたり、 聖天像を祀る堂宇を建立し、安楽行院嘉祥寺 と号したことに始まります。 境内にある大きな石塔はかっての安楽行院の十二帝供養塔だと伝えます。

東方薬師如来像 本堂 嘉祥寺
こま札 十二帝供養塔 本堂
深草十二帝陵(深草北陵)

深草北陵とも呼ばれ、陵内に後深草、伏見、後伏見、後光厳、後円融、後小松、称光、後土御門、後柏原、後奈良、正親町〔おほぎまち〕、後陽成の十二帝、栄仁〔よしひと〕親王のご遺骨を泰安しています。鎌倉〜桃山時代にかけての天皇で多くの天皇が、一ヶ所に奉葬されたところに当時の皇室の衰退を物語っています。

深草十二帝陵(深草北陵) 元政上人(げんせいしょうにん)旧跡・瑞光寺
深草一風情がある・・・瑞光寺(元政庵:極楽寺の薬師堂跡)

当地は極楽寺の薬師堂跡と伝わり、明暦年間に元政上人が草庵を建て、父母と共に住し深草山瑞光寺と号した。竹薮を背にした萱葺屋根の本堂と山門は深草一風情があると言われています。この石標は元政の旧跡瑞光寺を示すものである。元政(1623〜68年)は、彦根藩士であったが出家、詩人として有名になりました。元政の墓は境内西隅にあり、遺命により塔を建てず封土の上に元政が好んだ竹を三本(一本は法華経の為、一本は両親の為、一本は人々の苦悩を救う為と伝えます。)立てただけの簡素なものです。毎年3月18日に元政忌が行われ遺品が公開されます。元政上人は戒律と孝道に努められた人で、その孝心は古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」と称される程に有名でした。水戸光圀が元政の親孝行と清楚な人柄を知って、「嗚呼孝子元政之墓」という墓碑を建てることを申し出ましたが、時の住職は遺志を尊重してそれを辞退したと伝えられています。元政上人の墓所にて年齢の数を回り酒、タバコ、病気、男女関係等の悪縁を切ってもらう「縁切り」信仰もあります。

茅葺の詫びな山門 三十番神祠(番神塚(藤原塚)跡) 境内
茅葺の庵の風情を醸し出している本堂 水戸光圀による「嗚呼孝子元政之墓」墓碑と元政の墓所
宝塔寺(ほうとうじ)

縁起は藤原氏の極楽寺に迄遡り、源氏物語にも登場する真言律宗の寺院ででしたが突如として、法華宗(日蓮宗)に改宗したと伝わります。徳治2年(1307年)日蓮の法孫日像は、京都で布教中に洛外へ追放されました。その時、真言寺(向日市)において、時の極楽寺住職・良桂と三日三晩の宗論を行い、良桂が屈服し極楽寺を法華道場に改めました。そして日像を開山とし、自らは二世となりました。室町時代の四脚門の総門(重要文化財:室町期)、本堂(京都府指定文化財:桃山期)、多宝塔(重要文化財:室町期)は文化財を有します。

歴史探訪・深草トレイル案内図 宝塔寺総門(四脚門:重要文化財:室町期) ちぃ〜っス?!(^▽^;) H・ブリトニかっ?!(^^ゞ爆
極楽寺跡

宝塔寺より西、直違橋通り(6〜10丁目)に至る広大な寺領で現在は極楽町と呼んでいる所と伝わります。「大鏡」によれば藤原基経が幼童であった頃、仁明天皇が芹川行幸に供奉した時、天皇秘蔵の琴爪を紛失されそれを基経に捜し求められたが広大な荒野に於いて困難を極め、基経は一心に神仏に祈願を込め、もし勅命を果たす事が出来たならねそこに一伽藍を建立せんと誓い、無事にこの地に於いて発見したと伝わります。基経は承和3年(836年)、藤原長良の子として生まれ、叔父・義房の養子となり後に関白太政大臣になり没後、昭宣公と称されました。極楽寺は基経の子・時平が意志を継ぎ建立したもので寺域は今の七面山迄取り入れた広大であったと伝わります。「応仁の乱」以降、度々の兵火により荒廃し慶安2年(1649年)、宇治に興聖寺が移建された以外は極楽寺を偲ぶべきものは皆無でしたが、極楽寺の礎石がありました。

極楽寺礎石(平安期) 日像荼毘処 ・・・
仁王門 牡丹の天井画 多宝塔(重要文化財:室町期)
中興開山廟 慈母観音像 本堂(重要文化財:桃山期)
茶碗子の水 石峰寺 六地蔵
歯痛治癒のご利益で知られる、ぬりこべ地蔵 ウォーキング稲荷歴史案内図 キララくん
伏見稲荷大社

欽明天皇が即位(531年又は539年)される前の事について、「日本書紀」では次のように書かれています。稲荷大神のご鎮座は秦伊侶具(はたのいろぐ)によって和銅4年(711年)2月初午の日に、なったと伝えられており、秦大津父とこの伊侶具との200年足らずの脈絡については、ほとんど不明です。太秦の秦氏族は、記録の上では大宝元年(701年)、桂川畔にそびえる松尾山に松尾神を奉鎮、深草の秦氏族は、和銅4年(711年)、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして、御神威赫々たる大神があたかも鼎立する結果となりました・・・一千年前に清少納言も足を運んだと伝えます。

珍しいチュチュ(*^・^*)狐? 和合狐 (^▽^;) 千本鳥居
「義経千本桜」の舞台・千本鳥居 幽邃で幻想的な朱の世界を醸し出している千本鳥居
奥社奉拝所(命婦社) 稲荷大神(御神石) 後醍醐天皇「ぬば玉の歌碑」
神占石「おもかる石」 ・・・ 神官専用の神事用手水井
・・・ 権殿 本殿
東丸神社

稲荷社祠官・羽倉家に生まれた荷田春満(東丸)を祀っています。荷田春満は、大石内蔵助らに吉良邸の屋敷図を手渡し討ち入りの手助けをしました。僧契沖に始まる近世国学を発展させて「万葉集」、「古事記」、「日本書紀」研究の基礎を作り、門下生の賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らと共に国学四大人と言われました。学業向上、受験合格などのご利益があります。

東丸神社 荷田春満(東丸)旧宅(非公開) 拝殿
稲荷神遣いのキツネさまっ 豊臣秀吉が造営した楼門(重文:桃山期)
直違橋(すじかいばし:伏水第四橋)

文禄年間に豊臣秀吉が伏見築城に際し開通させた伏見街道の七瀬川に架かる橋を言います。川が道路を斜めに切っている為に橋も斜めに架けられた事から直違橋という名前になり、南〜北へ直違橋1丁目〜11丁目迄ある町名にもなっています。今の橋は明治初期に架けられ「伏見街道第四橋」と橋柱に刻まれています。

石碑

まいどぉ〜(^^ゞ

直違橋(すじかいばし:伏水第四橋)

Tourist  2009.8.31(M)

 

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