祇園祭(祇園御霊会)の山鉾めぐり

 

かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水のながるる 吉井 勇

 

日本三大祭りの一 ・祇園祭(無形文化財)」

♪コンコンチキチン、コンチキチン・・祇園囃子と豪華絢爛な京の暑い夏を彩る祇園祭りは八坂神社の祭礼で正しくは、祇園御霊会(ごりょうえ)と言い、大阪・天神祭、東京・神田祭と共に日本三大祭の一とされます。祭りの起源は清和天皇の貞観11年(869年)、都下に悪疫が流行し疫神退散を祈る為に神泉苑に66本の矛(ほこ)を建て、祇園社から神輿を招いて神泉苑に疫神を送ったのが起こりと伝えます。今日見る規模が大きく舶来品のコブラン織りや綴錦(つづれにしき)など絢爛豪華に山鉾を飾るようになったのは、桃山〜江戸時代にかけて氏子各町衆が台頭し貿易が盛んになったからです。祭は神事、町衆の財力と美意識に支えられてきました。祭事は7月1日の吉符入り〜31日の疫神社夏越祭までの1ヶ月間と長い。15日の宵々山、16日の宵山には駒形提灯に灯が入りコンチキチンのお囃子が四条通りに鳴り響き、山鉾の装飾品、護符をもらう人々などで賑わう。最高潮は、17日の山鉾巡行。午前9時、例年先頭に立つ決まりから「くじ取らず」の長刀鉾が四条烏丸からゆっくりと動き出す。後に8基の鉾と23基の山が続き四条堺町近くでまず「くじ改め」の儀式、巡行の順番を確認するもので京都市長が行う。長刀鉾の稚児が注連縄を切るとお囃子も盛り上がり、四条通り〜河原町通り〜御池通りと巡行が始まる。見所の一つは四条河原町と河原町御池の辻回し。約11tもある大きな鉾が90度方向転換する様を見ている方も力が入る。御池通りには有料観覧席が設けられている。この他の神事には祭神の分霊を乗せた3基の神輿が出る神幸祭や花傘巡行、神楽、鷺舞などの奉納がある。宵山には、「屏風祭」と呼ばれ商家、旧家が秘蔵する屏風、美術品を公開する慣わしもあり、祭全体を通して京町衆の美意識を感じさせる。

竹田街道(R24号線)を北上ing かつて銭取橋と呼ばれた勧進橋 八条口
「さきの祭:巡行」 、 「あとの祭:巡行」と「くじ取らず」

「さきの祭:巡行」「あとの祭:巡行」・・・昭和40年(1965年)まで、山鉾巡行は17日の「さきの祭:巡行」と24日の「あとの祭:巡行」に分けて行われていました。巡行が分かれていたのは、祇園祭の「御神輿」が17日に八坂神社から御旅所へ(神幸祭)、また、24日に御旅所から八坂神社へ(還幸祭)と渡御され、山鉾巡行は、その渡御の露払い的な役割を担っていたからです。現在、24日に行われる「花傘巡行」は、この「あとの祭:巡行」に代わるものです。「くじ取らず」・・・あらかじめ巡行順序が決まっている山鉾ですが、その他の山鉾も全く自由なくじ引きという訳ではなく、 順番が山を指定するのか、鉾を指定するかは決まっています。あとの祭の巡行列というのは山鉾巡行が、かって、二日に分けて行われていた名残です。因みに、くじ取らずで巡行順序が決まっている山鉾は、一番「長刀鉾:なぎなたほこ」、五番「函谷鉾:かんこほこ」、二十一番「放下鉾:ほうかほこ」、二十二番「岩戸山:いわとやま」、二十三番「船鉾:ふねほこ」、二十四番「北観音山:きたかんのんやま」、二十五番「橋弁慶山:はしべんけい」、三十二番「南観音山:みなみかんのんやま」の8基です。平成22年(2010年)現在、山鉾は32基が巡行しています。

京都の玄関口・JR京都駅 真宗大谷派の本山・東本願寺(真宗本廟)の飛地境内地の渉成園(枳殻邸:きこくてい)
保昌山(ほうしょうやま) 下京区東洞院通松原下ル

和泉式部(いずみしきぶ)の夫である丹後守・平井保昌(たんごのかみ・ひらいやすまさ)が恋した女官から紫宸殿前の梅の花を手折ってほしいと頼まれた保昌が首尾よく一枝を得た姿を表わしているので明治初年までは花盗人山(はなぬすびとやま)と呼ばれた山。この時、保昌は首尾よく一枝を得たが、北面の武士に発見され射かけられた矢が頭をかすめ、ほうほうの態で逃げ帰ったとも伝える。(^▽^;)・・前掛と両胴掛が円山応挙の円熟期の下絵として有名。また、その下絵が3点とも屏風に仕立てられて大切に保存されています。水引は孔雀の羽を縫い込んだ刺繍の逸品で、前掛、胴掛も刺繍なので、刺繍美の楽しめる山。宵山では山の故事にちなんで盗難除け、縁結びのお守りが授与される。

保昌山は山建て中でした。(>_<) 山鉾巡行の先頭を受け持つ長刀鉾
一番(くじとらず)・長刀鉾(なぎなたほこ/女人禁制) 下京区四条通烏丸東入長刀鉾町

くじとらずで毎年、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。命名は、鉾頭に三条小鍛冶宗近作の大長刀を飾ることによる。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用したが何かと不思議が起こり、返納したと伝える。大永2年(1522年)、疫病が流行した時、神託で長刀鉾町で飾ったところ疫病が退散。創建は、嘉吉元年(1441年)説が有力視され真木は全長20mあり現在、生稚児が乗る唯一の鉾です。

長刀鉾の一般搭乗は13日午後1時〜 函谷鉾(かんこぼこ/ほこ) 

五番(くじ取らず)函谷鉾(かんこほこ) 下京区四条通烏丸西入函谷鉾町

正しくは、「かんこくほこ」と言います。中国古代史話、孟嘗君の故事に基づく。戦国時代、斉の孟嘗君は秦の昭王に招かれ、宰相に重用された。しかし讒言によって咸陽を脱出して、函谷関まで逃げたが、関の門は鶏が鳴かねば開かない。配下が鶏の鳴き声を真似たところ、あたりの鶏が和して刻をつくったので見事通り抜けたという。真木は22m。鉾頭に、三角形の白麻を張り、先頭に三日月が上向きにとりつけられている。

函谷鉾の一般搭乗は13日午前10時〜 下層櫓の縄絡みの結びや縄がけの数は山鉾ごとに異なり組み立てには釘を一切使わない。

鶏鉾(にわとりほこ) 京区室町通四条下ル鶏鉾町

中国古代の伝説「諫鼓」、天の岩戸の永世の長鳴鳥の故事にちなむとも伝える。「諫鼓」は、暦を制定した伝説の聖天子・尭帝が、宮廷の外に太鼓をすえ、政治に不満があればたたかせ、木を立てて、訴えを書かせた。世は治まり、太鼓は苔を生じて鶏が巣を作ったという。鉾頭は、紅白を互い違いに巻いた三角枠で、中に銅の円板が挟まれ鶏卵が諫鼓の中にある事を表していると伝え、真木の中程にある天王座には航海神である住吉明神を祀っている。3つの角には紺いろの苧束の房がつけられ、中ほどに舟を担いだ人形が飾られる。

鶏鉾の一般搭乗は13日午前10時〜 岩戸山の創建は嘉吉元年(1441年)の祇園会再興の際に建立されたと推測されている。

二十二番(くじ取らず)・岩戸山(いわとやま) 下京区新町通仏光寺下ル岩戸山町

『古事記』、『日本書紀』に記される「国生み」と「天の岩戸」の神話を故事にもつ、曳き山。「天の岩戸」は、素戔鳴尊の乱暴に天照大神が岩戸に隠れられたため、天地は常闇となり、八百万神は安の河原に集まって対策を練り、常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ、鏡を鋳造し、500個の勾玉を作り、天香山の榊を立て、天鈿女命が舞った伝承である。屋形内に、伊弉諾尊(いざのなぎのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、手力男命(たぢからおのみこと)の3体の人形が飾られる。

岩戸山の一般搭乗は13日午後6時〜 世代を超えて人気抜群の船鉾

二十三番(くじ取らず)船鉾(ふねほこ) 下京区新町通綾小路下ル船鉾町

『日本書紀』の神功皇后の新羅出船に由来する。屋形内に飾られた神功皇后の人形は、面を着け、頭に天冠を頂き紺金襴の大袖に緋の大口、緋縅の大鎧を付けている。応仁天皇を生んだゆかりから御神体に、晒を巻いて置き、巡行後に安産祈願の御腹帯として授与する習慣がある。現在の船鉾は、宝暦年間に計画され、天保年間に完成。船頭に「鷁(げき)」と呼ばれる高さ1.3m、両翼端2.7mの想像上の瑞鳥を飾る。

船鉾の一般搭乗は13日午後7時 綾傘鉾会所(大原神社) 巡行で使用する御面(新旧2種)がこわい?!(>_<)

綾傘鉾(あやがさほこ) 下京区綾小路通新町東入善長寺町

応仁の乱以前の古い鉾だが、徒歩の傘鉾として知られる。元治元年に焼けて以来、明治10年代に一時復活したが再度の中断。昭和54年(1979年)、巡行を再開した。形の上でも変転を繰り返す。江戸期、どうした理由からか徒歩から引き鉾に変化、御所車風の屋根に風流傘が乗る古図が残る。明治の復活で再び徒歩による巡行となった。鬼形の踊り手を中心に、棒振り、鉦、太鼓などの囃子方が行列する。現在、綾傘鉾棒振り囃子は壬生六斎念仏保存会の方々によって演じられています。

綾傘鉾の鉾建ては14日午前11時〜 月鉾の一般搭乗は13日午後1時〜

月鉾(つきほこ) 下京区四条通室町西入月鉾町

『古事記』によれば、伊弉諾尊(いざのなぎのみこと)が黄泉の国から戻り禊祓いをされたとき、左眼を洗って天照大神(あまてらすおおみかみ)、右眼を洗って月読尊(つくよみのみこと/つきよみのみこと)、このあと、鼻を洗って素戔鳴尊(すさのおのみこと)を生んだ。月読尊は夜を支配した神だが、水徳の神でもあり、月鉾は、この故事に由来する。鉾頭に、横40cm、上下24cmの金色の三日月。真木の中ほどに天王様を飾った天王台の下には籠製の船が真木を貫いてとり付けられる。元治元年の大火にも幸いにも真木を失っただけだった。

祇園祭ならではの風情・・四条通りを行く手前から月鉾、菊水鉾、函谷鉾の曳き初め o(*^▽^*)o 放下鉾は鉾の真木を立てる真っ最中!(@_@)

二十一番(くじ取らず)・放下鉾(ほうかほこ/女人禁制) 下京区新町通四条上小結棚町

鉾名は真木の中ほどの天王座に放下僧の像を祀るのに由来する。鉾頭は日・月・星三光が下界を照らす形を示し、その型が洲浜に似ているので別名・すはま鉾とも呼ばれる。かつては長刀鉾と同様に生稚児が乗ったが、昭和4年(1929年)以降に稚児人形に代えられた。稚児人形は久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名せられ、巡行の折には稚児と同様、鉾の上で稚児舞いができるように作られている。

こういう風に息を合わせて鉾の真木を立てていきます・・・鉾町の方々の熱気が伝わってきます!o(*^▽^*)o
無事、見事に放下鉾の真木が立ち上がりました!\(●⌒∇⌒●)/ 曳き始め中の月鉾が通過・・・
放下鉾の曳き初めは13日午後3時〜、一般搭乗は14日午後1時〜 真松を立てる南観音山

三十二番(くじ取らず)・南観音山(みなみかんのんやま) 中京区新町通錦小路上ル百足屋町

古来、「北観音山の観音様は男、南観音山は女なので、南では宵山の夜更けに翌日の巡行の無事を祈って“あばれ観音"の行をされる。」という伝承があり、あばれ観音という別名がある。楊柳観音像と善財童子像を安置する。楊柳観音は、三十三観音の筆頭とされ、姿を変えて、手に柳を持ち薬師観音と同様に衆生の苦難を救う。この山の楊柳観音は頭から袈裟をつけ趺座(ふざ)する。

南観音山の曳き初めは13日午後3時〜、一般搭乗は13日午後7時〜 尾長鳥が留まる真松が立つ北観音山

二十四番(くじ取らず)・北観音山(きたかんのんやま) 中京区新町通六角下ル六角町

応仁の乱の時代から隣町の南観音山と、1年おきの交代で山を出していたと伝える。隔年に出るというのは例がなく、この両山だけ。元は担山だったが、後に曳き山になった。楊柳観音像と韋駄天立像を安置する。鉾ではないので真木の代わりに真松を立てる。松は、毎年鳴滝から届けられ、籤で所有を決めている。史料には「左三の枝に尾長鳥あり」とあり一見、鳩のようにも見えるが尾長鳥が留まっている。

北観音山の曳き初めは13日午後3時、一般搭乗は不可 270匹の鯉さんが?!(@_@;) この中から二匹の金鯉を見つけると幸せになれるとか?!(^▽^;)

鯉山(こいやま) 中京区室町通六角下ル鯉山町

前掛けや見送りは16世紀のベルギー製のタペストリーで重要文化財に指定されている。ギリシャの叙事詩に題材をとって人物や風景が描かれており、山鉾きっての貴重なものだ。人物でなく、魚をテーマにするのは山のなかで唯一。竜門の滝をのぼる鯉は竜になるとの言い伝えで、木製の鯉が勢い良く水しぶきを上げる様は勇壮。

二匹の金鯉を見つけたどぉ〜☆⌒(*^∇゜)v 山建て中の鯉山

菊水鉾(きくすいほこ) 中京区室町通四条上ル菊水鉾町

謡曲「菊慈童」から着想された鉾。魏の文帝の勅使が薬水を訪ねて山に入ったところ少年に出会う。聞けば、少年は 700年前に王の枕を誤ってまたいだのが原因で都を追われた。以後、普門品の偈を甘菊の葉に記しておいたところ露が滴り、この水を飲んで不老長生したという。慈童は、この薬水を勅使に献じた。昭和28年(1953年)に復興。鉾頭には天に向いた16菊。この鉾に限り「菊水」と篆書が掘り出した額がつく。

昭和28年(1953年)に復興した菊水鉾の一般搭乗は13日午後1時〜
坂本龍馬妻・お龍実家楢崎家跡

柳馬場三条下ルのこの付は、後に坂本龍馬の妻となるお龍(鞆)の実家跡です。お龍は、青蓮院宮に仕える内・外科医の楢崎将作の長女。天保12年(1841年)に富小路六角付近で誕生し、しばらくしてこの地に移り住んだと思われる。お龍には、父母の他に弟妹が4人もいましたが、家事を任されることもなく華道、香道、茶道など稽古事に専念できたようです。父の在世中は、良家のお嬢様として裕福に暮らしていたと伝える。父・楢崎将作は尊王の志士らと積極的に交流した為に安政5年(1858年)、安政の大獄に連座して捕えられ翌年には釈放されるが、文久2年(1862年)6月20日に自宅で亡くなると、一家の生活は一変した。長男・太一郎はまだ幼少で、亡父に代わって家族を養うことがきでず一家は離散します。お龍とは別行動をとった母・貞と末妹の君江は、洛東の大仏方広寺南門(現、三十三間堂南大門)前の河原屋五兵衛(又は、五郎兵衛)の隠居所に居住する土佐亡命志士の賄いの住み込みで働きます。ここに龍馬も住んでいました。これが龍馬とお龍の出会うきっかけとなった。龍馬はお龍の事を姉・乙女宛ての手紙に「まっことにおもしろき女」と書き送りました。

この付近、坂本龍馬妻・お龍実家楢崎家跡 弁慶石
弁慶石

弁慶は幼少の頃、三条京極に住まいし、この石を熱愛したと伝え、弁慶の死後に奥州高館の辺りにに移された。あるとき、三条京極に往かんとこの大石が泣き出して以来、周辺で熱病が蔓延したので土地の人が恐れをなし、享徳3年、三条京極寺に移し、以来この辺りを「弁慶石町」と呼ぶようになりました。その後、誓願寺万丈の庭に移されましたが、明治26年(1893年)3月、町内有志によりここへ引き取られ、昭和4年(1929年)7月12日、この場所に安置されました。男子がさわれば、力持ちになる。火魔・病魔から逃れることが出来る。といい伝えられ、町内の守り神として奉られています。この石には、力自慢の弁慶が比叡山からここまで投げ飛ばした。元々は鞍馬口あたりにあったこの石に弁慶がいつも腰掛けていて、それが洪水のときにここへ流されてきたとか諸説があります。

弁慶が叡山からここまで投げたら凄い?(@_@;) あっ!京都鉾?!・・・京都タワーです!(^^ゞ ・・・
R24号線を南下中・・・ かつて銭取り橋と言われた勧進橋・・・禁門の変に新撰組が宿陣した九条河原辺り
竹田街道(R24号線)を南下中・・・ 大黒寺で伏見名水・金運清水を汲んで帰ります。(*^-^*)

Tourist  2010.07.12(M)

あと書き・・・山鉾32基をめぐったのですが、特に山の山建て中であったり、まだ始まっていなかったりで網羅できませんでした。

しかし、鉾の曳き初めや山鉾建ての貴重な光景を見ることができコラムで紹介することができ一参考になりましたら幸いです。・・・管理人・Syo

 

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