明智光秀、大石内蔵助(くらのすけ)ゆかりの地探訪

 

花に酔ひ 月にうかれし いつはりは やがてこころの まことなりけむ 冷泉為紀

 

明智薮、明智塚(光秀胴塚)〜征夷大将軍・坂上田村麻呂(花木塚)墓所〜中臣遺跡、中臣神社〜折上神社〜岩屋寺(大石寺)〜諸羽神社

 

大石良雄(よしお:内蔵助(くらのすけ)ゆかりの山科

元禄15年(1703年)12月14日未明、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の無念をはらそうと、家老・大石良雄(よしお:内蔵助(くらのすけ)ら赤穂義士47人は討入りを果たしました。忠臣蔵で世に知られる大石良雄は、討入りまでの1年有余、山科の地に住居を構えました。山科には、大石良雄旧居跡や義士の遺髪を供養している瑞光院(ずいこういん)など赤穂義士ゆかりの史跡が伝わり山科では毎年12月14日に山科義士祭が開催されます。

伏見を象徴する酒蔵の風景とです・・・ 澱川鉄橋(有形文化財:昭和期/宇治川)
おぐりす灸 日蓮宗「本経寺」 明智光秀供養塔

明智薮、明智塚(明智光秀胴塚)

明智薮は天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀は勝龍寺城から間道を抜けて伏見大亀谷を経て坂本の居城を目指して逃れる途中、当地にて竹槍で刺され最期を遂げたと伝えます。碑には「信長の近臣小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃により・・・」と記されています。明智塚(明智光秀胴塚)は小栗栖で刺され自刃した明智光秀の胴体が埋められた所と伝わります。

明智藪 明智塚(明智光秀胴塚) 旧東海道線の山科駅跡碑

征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ:花木塚)墓所

一に花木塚とも言います。田村麻呂は平安時代初期の武将で桓武天皇に仕え征夷大将軍に任命され蝦夷地を平定しました。 晩年は粟田(あわた:東山区粟田口)の邸宅に住まいする間に清水寺を創建したと伝えます。弘仁2年(811年)、坂上田村麻呂が没した時、嵯峨天皇はその死を惜しみ山科の栗栖野(くりすの)に墓所を造営させました。勅命により田村麻呂の遺骸は甲冑兵仗(かっちゅうへいじょう)を身に付けた姿で都を向き立ったまま葬られたと伝えます。これは、偉大な武勲を持つ坂上田村麻呂をして都を鎮護させようとしたと考えられます。

坂上田村麻呂墓所(花木塚) 臣(なかとみ)遺蹟跡碑(勧修寺小学校)

中臣(なかとみ)遺跡、中臣神社

中臣遺蹟・・・山科川と旧安祥寺川が交わる場所から北方、栗栖野丘陵一帯に広がり真ん中を新十条通が横断します。昭和44年(1969年)に発見され発掘調査が続けられています。弥生時代後期から何世紀にもわたり大集落があったと考えられ多数の竪穴住居跡、掘立柱(ほったてばしら)建物跡が見つかり、また時代をさかのぼって旧石器時代の遺物も発見されていますが現在、西金ヶ崎公園内に遺跡碑があるのみです。中臣神社・・・稲荷神、中臣氏祖・天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀る小さな祠がありますが祭祀年代、古代豪族・中臣氏との関係は不詳です。

中臣遺蹟(西金ヶ崎公園) 中臣神社

中臣十三塚(鎌足塚)古墳群の一「宮道列子後小野墓:みやじたまこあとのおのはか」

中臣遺跡内には中臣塚(鎌足塚)と言われる十三の小円墳がありましたが現在、墳丘を残している古墳は折上神社境内の稲荷塚古墳(円墳)と宮道古墳(円墳)の2つです。宮道古墳の前には宮道朝臣列子墓の碑があります。勧修寺流藤原氏の祖・藤原高藤の妻で高藤が南山科に鷹狩りをした際、雨宿りしたのが宇治郡大領宮道弥益の家で娘の列子(たまこ)と出会い醍醐天皇の生母・胤子(たねこ)を生んだ列子の墓と伝えます。

中臣十三塚の一「宮道列子後小野墓(宮道古墳)」 折上神社

折上(おりかみ)神社

伏見稲荷大社奥宮、栗栖野稲荷として知られ境内には中臣十三塚の一とされる稲荷塚古墳があります。

境内 中臣十三塚の一「稲荷塚古墳と中臣群集墳跡碑 稲荷塚古墳上にある五社稲荷社
工事中の新十条トンネル(新十条通) 大石神社 境内とです・・・
大石桜 強そうな狛犬とです・・・ 大石良雄(よしお:内蔵助(くらのすけ)
天野屋利兵衛を祀った義人社 拝殿 本殿とです・・・

岩屋寺(大石寺)

一に大石寺とも言われ神遊山と号する曹洞宗の寺です。創建年代を明らかにしませんが山科神社の神宮寺として建立されたと推察されています。中古久しく荒廃していましたが明暦元年(1655年)に再興され寛永年間、浅野家の縁戚にあたる浅野長祚(ながい:京都町奉行)の助力によって堂宇を修営したと伝えます。赤穂浪士・大石良雄の隠棲地とて知られ本堂には大石の念持仏と伝える不動明王を本尊とし木像堂には浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)を始め47士像を安置し境内には大石良雄の遺髪塚(大石良雄旧跡)があります。

岩屋寺参道 境内への石段 境内とです・・・
大石自作の弁財天が祀られる弁財天社 大石良雄の遺髪塚(大石良雄旧跡)

山科神社

日本武尊(やまとたけるのみこと)、稚武王(わかたけおう)を祭神とし寛平9年(897年)の創建と伝えます。江戸時代には西岩屋大明神と呼ばれ、明治に山科神社と改称されました。三間社流造(さんげんしやながれづくり)、桧皮茸(ひわだぶき)の本殿は江戸時代初期の造営で京都市指定文化財です。万治3年(1660年)に建立された鳥居には山城國宇治郡山科郷西山村と刻まれています。

更に急坂の参道 境内 本殿

花山(かざん)神社

社伝によると延喜3年(903年)、醍醐天皇の勅命により創建され祭神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、神大市比売大神(かむおおいちひめのおおかみ)、大土之御祖大神(おおつちのみおやのおおかみ)の三神を奉ります。通称、花山稲荷とも呼ばれ拝殿の右側に「稲荷塚」と呼ばれる古墳があり平安時代後期に、三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が、稲荷大神の神徳により、名刀「小狐丸」を鍛えたところと伝えます。江戸時代には、当社近くに隠栖していた大石内蔵助(くらのすけ:良雄)も当社を崇敬し大願成就を祈願したとされ境内に大石献納の鳥居、断食石、血判石などが残っています。

花山神社 大石ゆかりの断食石?(血判石??) 本殿
遍昭、平重盛ゆかりの福応寺 小松重盛(平重盛)の歌碑 本堂

昭(へんじょう)僧正

万葉の六歌仙(ろっかせん:平安初期の代表的歌人)の一で桓武天皇の孫であった遍昭僧正の墓所です。

遍昭の墓所 竜宮造りの山門

元慶寺(がんけいじ:西国三十三札所の番外札所)

元慶元年(877年)遍昭僧正によって開創された天台宗延暦寺派の寺で華頂山と号します。旧地は今の所より西北にあたる東山花山にあったと伝えます。寛和2年(1005年)、花山(かざん)天皇は19才で当寺において出家落飾され寺名をとって花山法皇と号しました。往時の寺格は頗る高く定額寺に列せられ多くの寺領を有する名刹でしたが応仁の兵火によって鳥有に帰しました。今の建物は安永年間の再建とされ本堂に本尊・薬師如来像、遍昭自作と伝える木像や花山法皇の宸影を奉安し鐘楼には寛政9年(1797年)在銘の梵鐘(江戸期)を掲げます。西国三十三札所の番外札所です。

本堂 琵琶湖疎水の第2トンネル東口洞門 永興寺参道
清々しい境内 山科豊川稲荷社 本堂

本圀(ほんこく)寺

大光山と号する日蓮宗の大本山で日蓮上人が住まいした鎌倉松葉谷法華堂に始まり興国6年、康永4年(10/21→貞和元年:1345年)、足利尊氏が光厳天皇に懇願して鎌倉から京都堀川六条に移転されました。足利氏の庇護により宗勢を拡大し妙顕寺とともに京洛法華宗の双璧となり豊臣秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに)、加藤清正、徳川家などの庇護も受けました。昭和44年(1969年)、山科の現在地に移転しました。開運門は天正20年(1592年)、加藤清正が寄進した山門で平成8年(1996年)に復元されました。加藤清正の祈願所、菩堤所で清正廟(眞生廟)もあります。経蔵は慶長12年(1607年)に建立され重要文化財(江戸期)に指定されています。鐘の寄進者には日秀尼と父母、夫、息子らの名も記されています。

正嫡橋 開運門(山門) 金色の仁王さんとです・・・仁王門
本堂 金色の灯籠 金色の鐘とです・・・どんな鐘音?
金色の鳥居など豪華絢爛とです・・・加藤清正廟(清正宮)
祖師堂 九頭龍銭洗弁財天 涼風が心地よい疎水沿いの道をチャリチャリ・・・

瑞光院

紫雲山と号する臨済宗大徳寺派の寺で元は上京区瑞光院前町にあったが、昭和37年(1962年)に現在地に移転しました。浅野長政の別荘を寺に改めたもので、後に浅野内匠頭長矩(たくみのかみながのり)の妻である遙泉院の縁故によって浅野家の祈願寺として再興されました。元禄の吉良邸討ち入り後、47人の赤穂義士の遺髪が祀られ浅野内匠頭の供養塔などがあります。

赤穂義士47人の遺髪が祀られる瑞光院 浅野稲荷社 諸羽トンネル(新設)西口とです・・・
諸羽トンネル東口は舟溜まり場とです・・・新設トンネルで山を迂回していた水路を短絡しました。 一燈園資料館(香倉院)
風情ある門構えとです・・・ 琵琶湖疎水第1トンネル西口 小関峠越道の案内とです・・・
小関峠越ルートの坂道 下)JR東海道線、上)JR湖西線とです・・・

小関越道標石(おぜきごえみちしるべいし)

石碑には三井寺観音道、小関越、定飛脚問屋 京都江戸大阪 (商標)三店と記された高さ約2.5mの道標石で文政5年(1822年)に建立されました。小関越はここから東北に向かい西近江へ抜ける道で三井寺から今熊野観音への巡礼道であったと伝える峠道です。

JR新逢坂山トンネル 小関越道標石 な、なんじゃ〜?!トラ!虎!!トラ!!77!!!(@_@) スゲ〜

徳林庵(四ノ宮地蔵)

徳林庵は柳谷山(りゅうこくざん)と号する臨済宗南禅寺派の寺で門前の地蔵堂は四ノ宮地蔵と言われ京都六地蔵巡りの一として知られます。人康親王(さねやすしんのう)の菩提を弔う為に雲英正怡(うんえいしょうい)禅師が建立し天文年間、兵火にかかり現地に移転したと伝えます。親王は琵琶を弾く事に優れ後世、親王を琵琶の始祖と仰ぎ江戸時代には検校位を有する盲人が全国から集まり親王の霊を慰めたと伝えます。

四ノ宮地蔵堂(徳林庵) 六地蔵 人康親王供養塔(蝉丸塔:吉野期)

諸羽(もろは)神社

山科郷内で4番目の神社にあたるとされ四ノ宮とも呼ばれ貞観4年(862年)の創建と伝えますがあきらかでなく境内には諸羽山麓にあったと伝えられる人康親王(さねやすしんのう)山荘跡碑、その山荘内にあった琵琶石があります。古来、四ノ宮、安朱、竹鼻の三ヶ町の産土神として崇敬され明治16年(1883年)に郷社となりました。

京都六地蔵の一、四ノ宮地蔵尊 諸羽神社参道 境内とです・・・

拝殿 観月橋 澱川鉄橋(有形文化財:昭和期/宇治川)

 Tourist  2005.8.29(M)

 

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