山城散策

 

瓜うへし 狛野の原の 御園生の しげく成りゆく 夏にも有哉   (家集) 好恵

 

歴史街道・サイクリングロード・・・流れ橋〜泉大橋〜恭仁(くに)大橋チャリ探訪

流れ橋(上津屋橋:こうづやばし)

十三重石塔(吉野期/石田(いわた)神社)

木津川鉄橋(近鉄京都線)

富野の渡し場跡碑

用水発起豊田碑(豊田義憲旧跡)

サイクリングロード泉大橋地点(嵐山渡月橋まで45km)

地蔵石仏(山城大仏:鎌倉期/泉橋寺)

五輪石塔(重文:鎌倉期/泉橋寺)

高麗寺跡

奈良〜平安期の瓦片(国分寺跡/恭仁京跡)

一面のコスモス(国分寺跡/恭仁京跡)

平重衡(たいらのしげひら)供養塔(墓所/重美:鎌倉期)

不成柿(ならずのかき)と重衡(しげひら)首洗い池

十三重石塔(吉野期/大智寺)

和泉式部墓所(和泉式部邸苑池跡/屋敷跡)

 飯岡の渡し場跡碑

夕暮れ(流れ橋)

銀河鉄道(京阪電車/木津川鉄橋)

 

嵐山サイクリングロード(京都八幡木津自転車道線)とは・・・

「嵐山サイクリングロード」は、桂川「渡月橋」右岸(嵐山公園)〜木津川「泉大橋」左岸間の全線45kmにも及ぶ【自転車と歩行者の専用道】で「京都八幡木津自転車道線」と言います。道中は舗装整備された道で走りやすく、四季折々の自然を満喫しながらファミリーでも安心して自転車散策を楽しめます。春の嵐山・嵯峨野散策、先の流れ橋・八幡散策、そして今回の山城散策でサイクリングロード全線走覇できました。今回は悪天候で出発時間が大幅に遅れ残念ながら局長のPちゃん不在での単独走行となりました。サイクリングロード(全線45km)は流れ橋を基点に北部(嵐山方面)と南部(木津・泉大橋方面)の歴史蹟、風景も一変し平安、平城京の歴史街道と感じました。参考までに羽束師橋〜嵐山まで約14km、木津・泉大橋まで約31kmの全線45kmです。

草津の湊(くさつのみなと)

下鳥羽は、古くは草津と言い、木津、今津とも言われ船で西国に向かう人達の乗船地でした。延喜元年(901年)、太宰府へ流された菅原道真、保元元年(1156年)、讃岐国へ流された崇徳上皇、治承4年(1180年)、厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207年)、法然上人が讃岐国へ流された時も当地より乗船したと伝わります。又、瀬戸内海の鮮魚などが陸揚げされ都に運ばれた水路、陸路交通の中継地として重要だった河川港でした。

サイクリングロード(羽束師橋/草津の湊)

木津・泉大橋まで31.1km(羽束師橋)

宮前橋

京滋パイパス、国道478号線

天王山

男山(御幸橋/宇治川)

京阪電車鉄橋(木津川サイクリングロード)

国道一号線

第二京阪国道

流れ橋(上津屋橋)

木津川に掛かる木造の橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為に水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、平成9年(1997年)7月までに通算15回も被災(流失)し9/20現在、増水で被災した為に通行止めになっています。

流れ橋

流れ橋と茶畑 流れ橋の石碑(木津・泉大橋まで約20km)

石田(いわた)神社

岩田村の産土神で神社は東岩田、西岩田、上津屋(こうづや)の三ヶ所に分祀されています。石田君(いわたぎみ)の始祖・五十日足彦命(垂仁帝皇子)を祀る石田氏の氏神です。石田氏に関しては不詳ですが当社が延喜の制に大社に列せられ月次・新書に預かっている事から有力な氏族であったと推察されます。上津屋の石田神社境内には吉野時代作の十三重石塔が一基あります。岩田地区では綿で布を織り毎年の正月に厄除けを祈願して石田神社に奉納し、拝殿の鈴に結わえ妊婦が5か月目になると、その鈴に結わえた布を分けてもらい安産を願ってお腹に巻きました。これが岩田帯の発祥だと伝わります。

石田(いわた)神社

十三重石塔(吉野期)

京奈和道

洞ヶ峠(ほらがとうげ)

日和見の事を「洞ケ峠を決め込む」と言います。天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉と明智光秀が天王山で雌雄を決した際、大和郡山城主・筒井順慶がこの峠に陣取り優勢な方に就くべく形勢を伺ったという伝説(誤伝説)から、「優勢な方に就こうと形勢を伺う」事を「洞ヶ峠を決め込む」と言います。実際に洞ヶ峠にいたのは筒井順慶ではなく明智光秀で順慶の参陣を京都と大阪の境にある洞ケ峠で待ったと伝えます。事実、順慶は光秀から養子を貰うなど姻戚関係にあったのですが何故か中立的な立場をとって郡山城に籠城しました。

洞ヶ峠方面

茶畑

木津川運動公園(木津川水泳場跡)

山城大橋

新山城大橋とも言われ木津川に架かり京田辺市草内と城陽市を結んでいます。平成10年(1998年)に新しく架橋され長さ540.5m、幅21m(四車線)の鉄筋コンクリート造、単弦ローゼ式の京都府最長の橋です。

富野渡し場跡碑

山城大橋

ススキ河原を疾走

玉水橋

用水発起豊田碑

開橋

祝園(ほうぞの)神社

正式名は「式内郷社 祝園神社」と言い天児屋根命(あめのこやねのみこと)、健御雷命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)の三柱を祭神とします。第十代崇神天皇の御代に第八代孝元天皇の皇子武埴安彦(たけはにやすひこ)が朝廷に反逆を企て当地で討伐されましたが、霊が鬼神となって柞の森(ははそのもり)に留まり、人々を悩ませました。この霊を鎮める為に始まったのが、天下の奇祭と称される「居籠(いごもり)祭」と伝えます。官人、武人の崇敬が篤く社殿の修造などの寄進が多々と見受けられ慶応3年(1867年)8月、有栖川宮家より寄進を受け同宮家の祈願所となり明治6年(1873年)に郷社と定められ祝園村の産土神になりました。

祝園(ほうぞの)神社

拝殿

本殿

泉大橋、地蔵石仏(山城大仏)

泉大橋・・・京都〜奈良を結ぶ国道24号線の木津川に架けられた橋で天平年間(729〜48年)、僧行基によって泉橋寺の門前に架けられたが流れが早く洪水の度に流失し朝廷は貞観18年(1893年)、大船二艘、小船一艘を寺家に施入し人馬の渡しに使わせました。明治26年(1893年)12月、泉橋寺より西方300mの河岸に架橋されましたが国道24号線の開通によって現在地に架け直されました。橋長383.6m、幅7.5m鋼ゲルバートラス橋です。地蔵石仏(山城大橋)・・・花崗岩からなる巨大な丈六(じょうろく:4.8m)の石仏で俗に山城大仏と称されます。徳治3年(1307年)に地蔵堂が完成し堂中に安置されていましたが文明3年(1471年)の「応仁・文明の乱」時に大内政弘軍の木津・上狛攻めで地蔵堂も焼失し地蔵石仏の周りに堂宇の礎石が残るだけの露仏で日本一大きい地蔵石仏です。兵火を浴びた為に黒ずんでいますが鎌倉期の様式を留めています。顔と両手は元禄3年(1690年)に後補されました。

泉大橋到着!(サイクリングロード)

泉大橋(木津川)

地蔵石仏(山城大仏:鎌倉期/泉橋寺)

泉橋寺(せんきょうじ)、五輪石塔(重文:鎌倉期)

泉橋寺(せんきょうじ)・・・玉竜山と号する浄土宗の寺で俗に橋寺と言います。天平13年(741年)3月、僧行基が泉川(木津川)に橋を架けた時、供養の為に建立した寺です。当時、聖武天皇が当寺に行幸し終日清遊され左大臣・橘諸兄(もろえ)は琴を弾じ歌を詠んだと伝わります。天皇は食封一百戸を下賜、諸兄も食封五十戸を施入しました。当寺は行基が五畿内に建立した四十九院中の一とされ永く橋の管理にあたりました。往時の寺領は広く本堂、五重塔、鐘楼、経堂、方丈などの伽藍があったが治承4年(1180年)の兵火にかかり灰燼しました。元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は南都潜幸時に立ち寄り朝食を摂ったと「太平記」に記され境内には立ち寄られた時に御袖が摺れたという一株の古松(袖摺りの松)があります。当寺より東北100mの畑中に大きな花崗岩でできた五重塔の中心礎石(天平期)があるとの事で探したのですが見つかりませんでした。一説に売却されたとも・・・五輪石塔(重文:鎌倉期)・・・鎌倉時代の作で高さが2.4mの花崗岩製で光明皇后の遺髪塔とされましたが移転に際し多くの遺骨が発掘され、平重衡の南都焼討ちの犠牲者の供養塔であると断定されました。

堂宇の基礎石

山門

五輪石塔(重文:鎌倉期)

高麗寺跡

飛鳥時代に創建された我国最古の寺院の一でかって相楽郡大狛郷に属する事から朝鮮三国の高句麗からの渡来系氏族の狛氏との因果が指摘され資料などから奈良時代(天平年間)に存在していた事が「日本霊異記」に記され伽藍は、木津川を見下ろす台地に南面して立地し西に金堂、東に塔を持つ発起寺式伽藍配置で塔、金堂、講堂は整美な瓦積基壇を外装し、講堂の両翼から伸びた回廊は塔、金堂を囲んで中門に繋がっていました。寺域は東西約200m、南北は190mの規模で周辺に諸堂塔に葺かれた瓦を生産した高麗寺瓦窯や高井手瓦窯が存在し北方には高麗寺造営氏族の居館跡とされる大規模な上狛東遺跡が発見されました。

後醍醐天皇袖摺りの松

高麗寺跡

塔心礎石

国分寺跡(恭仁京跡)、大極殿跡

国分寺跡(恭仁京跡)・・・諸説紛々とし明らかにしませんが、聖武天皇の勅願により恭仁京遷都が発表されて間もない天平12年(740年)12月、造都された皇都の一で急激の内の計画であった為充分な都域を定められず大極殿などの主な建物は平城京から移築し畿内の役夫5500人を動員し天平13年(741年)11月、大養徳恭仁宮(やまとくにのみや)と命名されましたが天平17年(745年)、わずか4年余りで廃都に至りました。京域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用され山城国分寺跡は、恭仁京の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北3町(約330m)、東西2町半(約275m)の広大な寺域の寺でしたが元慶6年(882年)に焼失し昌泰年間(898〜900年)に再建されたと伝えますが後の沿革を明らかにしません。出土する遺瓦によって当寺が平安〜鎌倉期に渡って存続し塔堂の修理が行われていた事だけが分かっています。大極殿跡・・・恭仁京の中心に、天皇の住居や国の行政官庁が入っていた恭仁宮が設けられ、宮の中央に国政を司る建物 が設置され、平城宮から大極殿が移築されました。恭仁小学校裏にある土壇が恭仁宮大極殿跡で、昭和51年(1976年)に京都府教育委員会によって発掘調査が実施されまし た。恭仁宮は、たった3年余りの都でしたが、恭仁宮の大極殿などは、後に山城国分寺となりました。

恭仁(くに)大橋へ(瓶原:みかのはら方面)

国分寺(恭仁(くに)京)跡

恭仁(くに)京大極殿跡

恭仁(くに)京大極殿跡

万葉歌碑

恭仁(くに)大橋(加茂方面へ)

木津方面(恭仁大橋)

御霊神社

社殿

平重衡(たいらのしげひら)の墓所と不成柿(ならずのかき)、重衡首洗い池

平清盛の五子で従三位左近衛中将。源頼政を宇治川の戦いで破り、治承4年(1180年)12月28日、清盛の命を受け、東大寺、興福寺を焼き払いました。寿永3年(1184年)一の谷の戦で敗れ、鎌倉に送還されたが東大寺、興福寺僧徒の要請で、奈良に送還され木津川の河原で処刑されました。安福寺に重衡の墓所とされる十三重石塔(重美:鎌倉期)があり塔高は約4.5mの花崗岩製で初重塔身に輪郭を巻いた地方色があります。近くに重衡が死に臨んで食べた柿の種が成長した柿の木があり何回植え替えても不思議に実が成らず不成柿と言われ稀に実が成ると不吉の年とされ嫌われると伝わります・・・ゲゲッ!たくさんの柿の実が成っていました!(@_@) 傍の形ばかりの池は重衡の首を洗った池だと伝えます。

安福寺

平重衡(たいらのしげひら)供養塔(墓所)

本堂

不成柿(ならずのかき)

重衡(しげひら)首洗い池

大智寺

本堂

十三重石塔と石仏祠

和泉式部邸苑池跡(屋敷跡)

泉式部墓所(式部邸苑池跡/屋敷跡)

焼けただれた高さ約1mの五輪石塔で、中世に建立されたと伝わります。口碑によれば和泉式部の誕生地で晩年を木津で過ごしたと言われ因んで町名も泉町と言い付近の梅ヶ辻には石灯篭、木津川べりにはナンテン塚、竹塚があり和泉式部の屋敷跡と伝えます。それを裏付ける資料がなく古来、木津の地を泉郷と称したのを和泉式部に付会した伝説に過ぎない。京都市中京区の誠心院を始め各地にある和泉式部の墓と言われるものも全てが決め手を欠いています。

大菩提(供養塔)

和泉式部墓所

飯岡の渡し場跡碑

収穫期の田園風景

夕暮れが迫る

山城大橋

延々と続く田園、茶畑風景

木津川運動公園(木津川水泳場跡)

あららら〜日没が・・・急がねば!

夕暮れの流れ橋

銀河鉄道・・・(京阪電車・木津川鉄橋)

Tourist  2004.9.27(M)

 

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