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第2京阪国道(高架道工事中)をチャリチャリ・・・
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宇治川 |
久御山JCT(ジャンクション)
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久御山の水田(木津川右岸堤防) |
流れ橋を通過・・・ |
木津川右岸堤防をチャリチャリ・・・
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石田神社遥拝の碑
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野辺の地蔵祠
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指月の碑
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平井神社 |
素戔鳴命(すさのうのみこと)、八十猛命(やそたけるのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)の三神を祭神とします。本殿は一間流造で象鼻を彫刻した海老紅梁で身社と向拝をつなぎ中央に蟇股が置かれ桃山時代の意匠を伝えます。江戸時代は平川村の産土神で牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)という社名でした。平井神社境内脇に真言宗の蓮開寺があり、創建年代は不詳ですが享保18年(1733年)には存在し宮寺とも言われていました平川村の祈祷所で当寺の僧侶が神社の管理人的な役割も果していた神仏習合が一般的でしたが明治の神仏分離令により全国の宮寺は廃止され僧侶も不在となりましたが平川では地区全体で蓮開寺を守り続けています。又、蜻蛉日記に登場する「久世の三宅」だとも伝わります。三宅とは穀物を収めた倉庫の事で作者の道綱の母は日暮れになったので此処で夜明けを待ったと記されています。
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平井神社 |
割拝殿 |
本殿(京都府登録文化財:桃山期) |
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牛頭庭園 |
蓮開寺 |
指月の碑 |
史跡・芭蕉塚古墳、久津川車塚古墳、丸塚古墳 |
芭蕉塚古墳は、全長約143mの前方後円墳で、この地方では第2の規模とされます。詳しい調査がされていないので不詳ですが埴輪の作り方が久津川車塚古墳より新しく久津川古墳群最後の大型古墳と推定されています。久津川車塚古墳は南山城屈指の前方後円墳で二重の周濠を含めた全長は約272m、墳丘部は約180mの規模です。丸塚古墳は前方部が低く短い帆立貝形の前方後円墳で墳丘部は約107mの規模です。
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芭蕉塚 |
久津川車塚古墳 |
丸塚古墳 |
史跡・正道官衙(しょうどうかんが)遺蹟、平川廃寺 |
正道官衙(しょうどうかんが)遺蹟は奈良時代の久世郡衙(ぐんが:役所)跡と推定され小さな古墳、竪穴式住居などが見つかった複合遺蹟で遺蹟公園として遺構の一部が復元されています。平川廃寺は奈良時代に建立された寺で西に塔、東に金堂のある法隆寺式の伽藍配置をとっていました。寺域は東西約172m、南北約115mと推定されています。
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正道官衙(しょうどうかんが)遺蹟 |
平川廃寺 |
久世神社(久世廃寺跡) |
旧久世村の産土神で創祀年代は不詳ですが日本武尊(やまとたけるのみこと)を祭神とし本殿は室町末期に建築されました。一間社流造、檜皮葺きで笹竜胆の唐草模様の透かし彫りは見事です。近年、神社境内背後地より奈良時代後期の平瓦や鉄釘を発掘し早くから当地に寺院が建立されていた事が実証されました。
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古都ペイントの電車(近鉄・寺田駅) |
久世神社 |
参道途中を電車が走っているとです・・・
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久世鷺坂旧跡 |
鷺(さぎ)坂は旧奈良街道にあたり坂の中程に久世鷺坂旧跡碑があります。「万葉集」巻九雑歌に「鷺坂にして作れる歌」と題して詠まれるなど古来、和歌の名所とされ源氏物語に出てくる玉鬘(たまかずら)も通ったとされます。
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二の鳥居 |
拝殿、本殿(重文:室町期) |
鷺坂跡碑
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三縁寺、地蔵石仏 |
元、洛東・建仁寺の霊屋の門を明治に移したと伝わる向唐門は江戸初期の建築です。本堂に安置される阿弥陀立像(室町期)を本尊とし脇壇には旧正面寺の遺仏と伝える観音立像を安置します。像は乾漆造の天平仏と言われるが明らかでありません。表門と共に城陽市登録文化財に指定されています。地蔵石仏は三縁寺近くの道路脇に建つ辻堂内に安置され像は右手を胸にあて左手は膝に垂れて与願印を結ぶ坐像で彫りは浅いが鎌倉時代の作とみられます。石材は古墳の長持形石からなり元、付近の橋板にしていたものを当地に移して安置したと伝えます。
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三縁寺(城陽市登録文化財:江戸期) |
地蔵石仏 |
水度(みと)神社 |
旧奈良街道から神社へ至る約600mの参道は昔ながらの見事な松並木道になっています。祭神は、天照国照天火明命(あまてるくにてるあめのほのあかりのみこと)、高皇産霊神(たかみむすび)、和多都美(わだつみ)神を祀り農耕、水防の神とされます。創祀年代は不詳ですが貞観元年(859年)には従五位下の神位を授けられ延喜の制には小社となっているのでその古さが偲ばれます。平安初期の文献にも記され本殿は文安5年(1448年)の建築で一間社流造、檜皮葺きで正面に千鳥破風を付け側面を二間にした変化に富んだ本殿です。
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山背古道の始発地点(JR城陽駅) |
一の鳥居(水度神社) |
参道途中にある踏み切り(JR奈良線)
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夜叉と寺田庄司の伝説 |
むかし、寺田に寺田庄司とよぶ人があった。その娘は幾度も結婚したが不幸にも不縁ばかりであったので、ついに尼僧となり観音寺の観音菩薩に仕えて一生を終わった。世人は、この女性を「夜叉」とあだ名をしたという。夜叉とはインドの鬼神で顔かたちがきわめて悪く、しかも猛悪な神とされ仏教では毘沙門天の拳属とされている。この女性が夜叉神のような醜怪な顔であったかは定かでないが彼女の死後、観音堂の前を嫁入りの行列が通ると崇るといい、そこを避けて通ると伝えられる。この夜叉の石塔は、明治13年(1880年)まで寺田の観音寺の東南の隅にあったが、この年、明治天皇が大和畝傍御陵へ参詣されるにあたり、旧奈良街道の整備が行われ、当時無住となっていた観音寺が撤去され夜叉の石搭も移転したと伝えます。(中島敏景氏談)★城陽町史より |
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夜叉婆さん伝承地 |
夜叉婆さんのムクノキ・・・コブの形が夜叉婆さんに見える?! |
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二の鳥居(水度神社) |
拝殿 |
本殿(重文:室町期)
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「鴻ノ巣山やすらぎの広場」までキララで上りましたが、その先はテチテチと歩きました・・・ |
鴻ノ巣山々頂展望台(117,9m)
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展望台からの眺望・・・眼下に山城盆地、木津川が一望でき遠くは六甲山、生駒山、愛宕山、比叡山なども見えるそうな・・・ガスってまつ!(爆) |
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宇治、比叡山方面 |
山背古道・・・急勾配で狭い山道、階段をテチテチ・・・ |
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鴻ノ巣山運動公園に到着・・・ |
姉妹都市バンクーバー要塞をイメージしたバングーバー砦 |
大芝生広場(レクリエーションゾーン)
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ローラースライダーなどがあります・・・ |
鴻ノ巣山運動公園(城陽市総合運動公園) |
浄土宗・常光庵(西光院)
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その昔、奈良街道を通った松尾芭蕉(左)と柿本人麻呂像 |
幸せ観音、賽銭を入れると「お賽銭、ありがとう・・・」 |
山背古道・・・友愛の丘へチャリチャリ・・・
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史跡・森山遺蹟 |
近畿地方でも数少ない縄文、弥生、古墳時代の集落遺蹟です。約4000年前、縄文時代後期の集落で大小複数の竪穴式住居見つかりました。周囲を溝で囲んだ一辺45mの四角い土壇も見つかり、その構造や出土した土器から古墳時代前期(約1600年前)の豪族の居館(住居)跡と推察されています。
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森山遺蹟・・・縄文、弥生、古墳時代前期の歴史蹟 |
荒見神社 |
平安中期に編されて「延喜式」神名帳に記されている名社です。本殿は慶長9年(1604年)の再建で三間流造、檜皮葺き、丹塗りの美しい神殿で桃山時代の建築様式を伝え重要文化財に指定されています。
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荒見神社 |
拝殿 |
本殿(重要文化財:桃山期) |
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長池の駅碑 |
旧郵便局舎 |
大蓮寺 |
大蓮寺・・・甘藷(サツマイモ)元祖の地 |
故あって琉球鬼界ヶ島に流され享保元年(1716年)に赦免され帰国に際し密に甘藷(サツマイモ)の苗を持ち帰り青木昆陽より十数年も早く寺田の地で栽培に成功したと伝えられる島利兵衛の墓所があり墓石はサツマイモを模っています。この辺りは寺田イモの産地として名をはせました。
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甘藷翁利兵衛墓所(甘藷元祖の碑) |
本堂 |
二本松碑 |
旦椋(あさくら)神社 |
高倉宮以仁親王(もちひとしんのう)を祭神とする旧観音村の産土神です。口碑によれば平治の乱(宇治川の合戦)で平家に敗れ光明山の鳥居本にて流れ矢にあたって戦死した以仁王の冑を祀ったのが興りと伝わり冑神社とも言われます。旦椋(あさくら)は、穀物を収める校倉(あぜくら)の古語です。本殿は覆屋で囲われた二間社流造、こけら葺きで桃山時代の建築様式を伝えています。境内は樫(かし)の木が多く緑豊かな鎮守の森で京都府環境保全地区に指定されています。
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旦椋神社 |
本殿(京都府登録文化財:桃山期)
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中天満神社 |
旧中村の産土神で菅原道真を祭神とします。創祀年代は不詳ですが社殿に残されている棟札(むなふだ)で最も古いものとして慶長11年(1606年)のものがあり、本殿は覆屋を持つ1間社流造、檜皮葺で正面の梁上の蛙股(かえるまた)に古い様式を示す鳥獣の透彫が見られます。江戸時代に、境内で「雨乞い」が行われ慶応3年(1867年)の「おかげ踊り」を描いた絵馬が拝殿正面上に掲げられています。中天満神社周辺の丘陵端部および斜面や尾根上には黒土古墳群と呼ばれる10基からなる古墳が存在しています。
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のどかな青谷梅林をチャリチャリ・・・@山背古道 |
中天満神社
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割拝殿 |
本殿 |
山背古道
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建武役城氏館旧跡 |
建武年間、中村の城主・城大外記資茂の屋敷跡とされその子孫は稚尾山観音寺の再興に務めたと伝えます。
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龍福寺 |
建武役城氏之館旧跡碑 |
市辺天満神社 |
菅原道真を祭神とする旧市辺村の産土神です。本殿(京都府登録文化財)は慶長11年(1606年)に建築されたと伝わります。
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市辺天満神社 |
七福神 |
社殿(本殿)
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市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)故跡 |
第17代・履中天皇の皇子・市辺押磐皇子は皇位継承争いに巻き込まれ弟の大泊施皇子(雄略天皇)の為に暗殺されました。その遺児2人(億計王:おけのみこ、弘計王:をけのおおきみ)は逃れて播磨国(兵庫県)に身を隠したが、後に迎えられ第23代・顕宗(けんぞう)、第24代・仁賢(にんけん)天皇として即位しました。当地は市辺押磐皇子の居住していた所と伝えます。
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山背古道 |
市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)故跡
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山背古道 |
高神社
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山背古道・・・子供が魚を獲っています・・・谷川ホタル公園、南谷川沿いをチャリチャリ・・・ |
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山背古道・・・最大の難所?!強烈な坂道を上っているとです・・・(@_@) |
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強烈な坂道を上りきると清々しい竹林の中をチャリチャリ・・・@山背古道 |
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山背古道の名物・・・のどかな棚田風景・・・ |
山背古道・・・田んぼのあぜ道や細い竹林道をチャリチャリ・・・コワ〜(@_@;) |
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山背古道から玉津岡神社裏参道への分岐道をチャリチャリ・・・無茶強烈〜な坂道!(>_<) |
玉津岡神社裏参道に到着〜!(; ̄ー ̄A
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玉津岡神社 |
社伝によると天平3年(731年)、橘諸兄が下照比売(しもてるひめ)を勧請したのが起こりとされ元は玉岡神社とも言ったが明治になって現名に改めました。延喜の式外社ですがこの地方一帯の産土神として崇敬されています。
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拝殿 |
本殿 |
石段をキララを担いでテチテチ下ります!(>_<)
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地蔵院 |
曹洞宗永平寺派の寺で本堂には地蔵立像を安置し文殊堂には天橋立の文殊と同体と伝える文殊像を安置します。境内には正法寺から移された供養塔や十三重石塔(鎌倉期)の残欠があり元、井手町役場の敷石に利用されていたものを当寺に移したとされ残りの笠石は玉津岡神社境内にあったもので石材の年代が合致せず重要文化財とし認可されなかったそうですが学識者の中では笠の反りが見事だと認められています。当寺の枝垂桜は天然記念物に指定され円山公園の先代の枝垂桜と兄弟桜でした。因みに円山公園の先代の枝垂桜は昭和22年(1947年)に枯死し今は二代目です。
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地蔵院参道 |
山門 |
石仏祠
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本堂 |
十三重石塔の残欠、正法寺から移された供養塔など |
円山公園の先代の枝垂桜と兄弟の枝垂桜
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枝垂桜(天然記念物) |
境内からの眺望(*^-^*) |
玉津岡神社、地蔵院参道
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小野小町塔(墓所)、駒岩(左り馬:左り馬ふれあい公園) |
小野小町塔は「冷泉記」によれば小野小町は69歳で井堤寺において没したとあるに因んで近世、好事家によって玉津岡神社に至る参道傍に一に大妹塚とも言われる小野小町塔が造られました。・・・駒岩は説明碑によると数百トンの花崗岩の下部、奧の方に後ろ足を跳ね上げ躍動する馬が実写実的に半肉彫されています。平安時代後期の保延3年(1137年)5月6日に水神として造立され江戸時代には、女芸(裁縫、茶法、生け花、舞踊など)の上達を祈願する参詣者を多く集めました。元、玉川左岸の山腹にありましたが水害で現在地に移転されました。
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小野小町塔(墓所) |
駒岩(左り馬)
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井堤寺(いでじ)跡 |
天平時代、万葉集の撰者でもあった左大臣・橘諸兄が建立した氏寺で正しくは円堤寺(えんていじ)と記し光明寺と号した七堂伽藍の寺跡で「和歌色葉」(山城名勝誌:巻二十所引)によれば金堂の四面の廻廊の廻りに山吹を植え廊の内側に水を湛え花を咲かせて水面に映して見るように作られたが寺供養の日に思わぬ讒言(ざんげん)によって身まかった為、せっかくの目論見も実現させる事はできなかった・・・と記しています。寺跡から礎石の他、銅銭、海獣葡萄鏡、三色の釉薬をかけた三彩の垂木先瓦片等が出土しました。
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玉川石仏(地蔵磨崖仏) |
井堤寺跡 |
礎石
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蛙(かわず)塚 |
玉井の傍に蛙塚があり井手は山吹と共に古来、蛙(かわず)の名所として知られ多くの和歌、詩に詠まれ世に名高く鴨長明は「無名抄」に井手の蛙は色黒く大きさは普通の蛙と同じ位だが飛び歩くという事はなくいつも水中にいて夜になると物哀れな声で鳴くと記しています。昭和28年(1953年)の水害後、蛙は死滅したとされますが玉川上流、上井手の玉岡辺りで稀に鳴き声を聞くと言われています。
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蛙(かわず)塚 |
玉井、玉井寺跡碑 |
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桜と山吹が有名な玉川・・・玉川の下をJR奈良線が走っています・・・こういう川を「天井川」と言います。 |
六角井戸(公の井戸) |
井戸枠が六角形なのでこの名が生じました。此処は玉井頓宮(たまいとんぐう)の跡地で井戸は邸内にあったものと伝え公の井戸とも呼ばれます。玉井頓宮は天平時代の左大臣・橘諸兄の別荘で一に相楽別業、玉井山荘、玉井荘とも言いました。天平12年(740年)11月8日、聖武天皇が行幸され又、斎内親王が伊勢の帰路の途路、ここで休憩されたと伝えます。
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六角井戸
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山城大橋 |
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サイクリングロードをチャリチャリ・・・ |
流れ橋に着いたとです・・・
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流れ橋(上津屋橋) |
木津川に架かる全長356m、幅3mの日本最長級の木造橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為に水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、平成16年(2004年)9月20日、増水で16回目の被災(流失)をし半年以上も通行止めになっていましたが現在は改修され通行可能です。
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流れ橋 |
渡って帰ります・・・ |
橋上からの木津川の眺め
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久御山側へ渡りました・・・ |
第2京阪国道を伏見へチャリチャリ・・・ |
たそがれの宇治川
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Tourist
2005.5.30(M)
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