八幡、男山歴史街道チャリチャリ散策

 

松も生(お)いて また苔むすに 石清水 行くすえ遠く 仕へまつらむ   (家集)紀 貫之

 

流れ橋(上津屋橋)〜石田(いわた)神社〜奈良御園神社〜洞ヶ峠(ほらがとうげ)〜円福寺〜正法寺〜善法律寺〜石清水八幡宮

 

石清水八幡宮

応神天皇、神功皇后、比(ひめ)神を祭神とする旧官幣大社で男山八幡宮とも呼ばれ伏見稲荷大社と共に京都南郊屈指の大社として崇敬されています。初め男山々中に湧き出る清泉を神社化したとされますが貞観元年(859年)、奈良大安寺の僧・行教が九州の宇佐八幡宮を勧請した事から始まります。創建以来、朝野の崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と崇められ天元2年(979年)、円融天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸数多く特に源氏は、この神を氏神と仰いだので武家間で大いに広まりました、「延喜式」にその名を見ないのは神社としてよりも寺院として栄えていたからで往時は山上、中、下に多くの堂舎僧坊が瓦を並べ江戸末期においても尚23坊を数えましたが明治の神仏分離によって神社一色に改されました。往時を物語る石灯籠は320余基を数え奈良の春日大社の1800余基、大阪の住吉大社の560余基に次いで多いですが江戸時代以降のものが多く関心を持たれませんでしたが近年、鎌倉後期の石灯籠(永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)が見つかりました。社殿(重文:江戸期)は山上と山下の二ヶ所に分かれていますが主なる社殿は山上にあり上院とも言います。何れも創建以来、度々兵火によって焼失したが寛永11年(1634年)、徳川家光の造営によるもので廻廊に囲まれた中に楼門、幣殿、本殿、神庫などが複雑に入り混じっています。本殿は外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ両方の屋根が接する所に織田信長寄進の黄金の雨樋を架けその下を合の間とし三間社を一間づつ開けて一棟とする八幡造りの形式になっています。石清水社(末社)は山腹にあって当社発祥の所以となった清泉が今も湧き出しています。

酒蔵(高瀬川)

上三栖の産土神「一切神社」

第2京阪国道(高架道工事中)をチャリチャリ・・・

おけいはん特急(義経バージョン)

宇治川

宇治川の葭原は野鳥の楽園(巨椋池跡)

強風にもマケズ久御山へチャリチャリ・・・

広大な巨椋池を干拓した水田

久御山へ着いたとです・・・

幾つも流れる巨椋池排水幹線(左:前川、古川)

おっと!木津川にデカ〜いカニ発見?!(;^_^A

木津川(R1)をチャリチャリ渡るとです・・・

第2京阪国道が見えます・・(サイクリングロード)

流れ橋に着いたとです・・・

流れ橋(上津屋橋)

木津川に架かる全長356m、幅3mの日本最長級の木造橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為に水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、平成16年(2004年)9月20日、増水で16回目の被災(流失)をし半年以上も通行止めになっていましたが現在は改修され通行可能です。

流れ橋石碑

府道京都八幡木津自転車道線案内板

茶摘が真っ盛り・・・

流れ橋とキララ

八幡側から初渡橋・・・

天橋立?!(;^_^ゞポリポリ

久御山側へ渡りました・・・

流れ橋の全景・・・増水など過去16回も流れました!(@_@;)

庄屋屋敷(伊佐家住宅)

享保19年(1734年)に建てられた入母屋造で正面には、屋敷に通じる路の両側に堀割があり木津川の水を利用して防禦と水利を兼ねたもので環濠住居と言います。1mにも及ぶ厚さの茅葺屋根は豪壮でそれを支える梁組や柱の木柄は太く、どっしりとしています。茅は巨椋池畔の水芦を用いたが、同池の干拓によって茅の生産がなくなり確保が難しく内部は奥座敷、仏間の二間に縁を巡らし、書院風に構成され庄屋屋敷に共通する間取り手法で都に近かった為か雅な風情を醸し出しています。

漁師さんが仕掛け網を引き上げています・・・

庄屋屋敷(伊佐家/重要文化財:江戸期)

善照寺

石田(いわた)神社

岩田村の産土神で神社は東岩田、西岩田、上津屋(こうづや)の三ヶ所に分祀されています。石田君(いわたぎみ)の始祖・五十日足彦命(垂仁帝皇子)を祀る石田氏の氏神です。石田氏に関しては不詳ですが当社が延喜の制に大社に列せられ月次・新書に預かっている事から有力な氏族であったと推察されます。上津屋の石田神社境内には吉野時代作の十三重石塔が一基あります。

本堂

石田神社

十三重石塔(重美:吉野期)

奈良御園神社

旧奈良村の産土神です。社伝によると延暦6年(787年)、桓武天皇が長岡より河内国交野に行幸の途中に当地において鷹を放って遊猟をされた。この時、神託によって同年10月、藤原継縄をして春日神を勧請して祭祀したのが当社の縁起と伝えます。「奈良御園跡」は当地とも伝え奈良の御園は天皇の食膳に供する雑菜(瓜、茄子、大根など)を栽培したと伝え朝威の衰えで途絶えましたが伝統の遺風は今も引き継がれ毎年10月9日の御園神社祭で種々の青物で神輿を作り神饌に供する慣わしがあり「御園の青物祭」と言います。

拝殿

本殿

御園神社

覆屋の社殿

覆屋内の本殿

川口天満宮

獅子塚

貞観12年(870年)7月28日、山城国久世郡二階堂の池に釣鐘に乗った獅子が降臨し下奈良に住む都当之太夫が池から獅子を引き上げ身を清め天神社へ奉じ清和天皇に奏上したところ勅使がやってきて釣鐘だけ宮中へ持ち帰り、獅子は八幡宮の神前に奉納したと古書に記されています。

菅原道真を祀る本殿

国郡巡検使が通った巡検道

獅子塚跡

洞ヶ峠(ほらがとうげ)

日和見の事を「洞ケ峠を決め込む」と言います。天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉と明智光秀が天王山で雌雄を決した際、大和郡山城主・筒井順慶がこの峠に陣取り優勢な方に就くべく形勢を伺ったという伝説(誤伝説)から、「優勢な方に就こうと形勢を伺う」事を「洞ヶ峠を決め込む」と言います。実際に洞ヶ峠にいたのは筒井順慶ではなく明智光秀で順慶の参陣を京都と大阪の境にある洞ケ峠で待ったと伝えます。事実、順慶は光秀から養子を貰うなど姻戚関係にあったのですが何故か中立的な立場をとって郡山城に籠城しました。

京都、大阪の府境に位置する洞ヶ峠(R1)

筒井順慶陣所跡碑

円福寺

円福寺

一に達磨堂とも言い、天明年間(1781〜88年)、妙心寺の斯経禅師が開創した禅宗(妙心寺派)の修行道場で宗派を問わず江湖的なところに特色があります。寺地し洞ヶ峠の西麓の幽静な所にあり広大な境内には禅堂以下多くの建物を有しています。達磨堂には有名な達磨大師座像(重文:鎌倉期)が安置され高さ約82cm、寄木造彩色、玉眼入、頭から法衣をまとい両手を膝に重ねた座禅三昧の姿で我が国最古の達磨像です。他に寺宝として有する紙本墨書「大般若経」五七七巻(重文:天平期)は主に天平時代の写経からなり一部、平安、鎌倉、室町各時代の補填からなっています。天平の写経で全巻ほとんど揃っているのは珍しく元は巻子本でしたが今は折本になっています。

三門

庫裡

本堂

座禅堂

禁葷酒の石碑

西国三十三ヶ所巡拝道

車塚古墳

東高野街道を挟んで東西にある古墳を言いました。東車塚は現在、松花堂旧邸内となり後円部に八角院が立っています。何れも前方後円墳で破壊され原型は留めていませんが内部は東は粘土墩 を中心とし西は竪穴式石室からなり多くの鏡、石製品、玉類なとが出土しましたが元より明かではありません。

西国三十三ヶ所巡拝道

東車塚(松花堂庭園)

八角院、正平役血洗池古蹟

八角は建武年間(1334〜35年)、善法寺祐清の開創と伝え八幡市最大の前方後円墳である西車塚古墳上に建っています。現在は正法寺の境外堂宇の一で御堂は元、男山西谷にあった阿弥陀堂を明治元年の神仏分離令によって石清水八幡宮境内から仏教堂宇、仏像などが撤去された際に時の正法寺住職が堂宇、尊像とも迎請し、当地に移し建物が八角に因んで八角院と改めました。堂内には丈六の巨大な阿弥陀坐像(一光千仏丈六阿弥陀/重文:鎌倉期)、元三大師坐像(重文:鎌倉期)が安置されます。正平役血洗池古蹟は西車塚古墳の周濠の一部と考察され池に茅原が茂っていたので茅原(ちはら)が訛ったとされます。他説に池水の色に因んだ説、この辺りは南北朝時代の正平7年(1352年)5月、後村上、足利両軍の戦場に化した事に関連した説、江戸時代の寛保3年(1743年)の「注進記」は罪人の処刑時、刀をすすぎ候池也・・など諸説を伝えます。

八角院(西車塚)

安産地蔵大菩薩

八角堂

正平役血洗池古蹟碑

釣り池センター(さくら近隣公園)

徳川14代将軍・家茂に降嫁した皇女・和宮所縁の尼寺「水月庵」

小野篁公作 十王像 閻魔堂碑

橋本近道 西十五丁碑

正法寺

正法寺

浄土宗鎮西派の寺院で石清水八幡宮社家・志水氏(田中家分家)一族の菩提寺として建久2年(1191年)の開創と伝えます。慶長年間(1596〜1614年)、志水宗清の女・亀女(号相応院)が徳川家康の側室となり義直(尾張藩祖)を生んだ事から宗清は尾張藩家老に取り立てられ社職務を辞めました。寺も尾張藩の外護を受け江戸時代には隆盛しました。現在の建物は寛永7年(1630年)の再建で山門には後奈良天皇筆の「徳迎山」と記した勅額を掲げます。七堂伽藍を備えた八幡の名刹ですが第二次世界大戦後、寺運は衰退し檀家は一軒もないですが今尚、格式が高く庶民を寄せ付けない風格があり寺宝に石格筆、紙本墨画「ニ祖調心図」(重要文化財)ニ幅を所蔵します。

唐門

鐘楼

本堂

善法律寺

石清水八幡宮社務職を務めた善法寺家清が正嘉年間(1257〜58年)に私家を捨て建立した律宗(唐招提寺派)の寺で本堂は八幡宮にあった旧社殿を移築したと伝わり本尊・阿弥陀如来像始め不動明王坐像、愛染明王(鎌倉期)、僧形八幡坐像(吉野期)を安置し他に八幡宮の旧坊舎の遺仏を多数有しています。善法寺家は田中、新善法寺家両家と共に当地の旧家ですが通信の女・良子が足利詮に嫁して三代将軍・足利義満を生んで近親関係となり足利将軍もしばしば来訪し寺も足利氏の保護を受け隆盛しました。境内には良子が寄進したと伝える多くの楓樹があり一に紅葉寺とも言われ池畔には大乗院にあった見事な五輪石塔(鎌倉期)が一基あります。

地蔵堂

善法律寺

石仏

五輪石塔

足利3代将軍・義満の母・良子が寄進した境内の楓が清々しい・・・紅葉寺とも言います。

本堂

頼風塚(男塚)

正平役園殿口古戦場碑、金剛律寺故蹟碑

本妙寺

境内

本堂

薬園寺

浄土宗鎮西派の寺で森堂、薬園院とも言います。奈良時代、僧・行基が治療薬の薬草を栽培する園地を管理する寺院を建立したと伝えます。本尊・薬師如来立像(重文:貞観期)は一本彫成の等身像で八幡市現存古仏中の最古とされます。

薬園寺

境内

本堂

単伝庵(らくがき寺)・・・大黒堂の壁に願い事を書くと叶うという「らくがき寺」で有名です・・・

念仏寺

戊辰史蹟念仏寺の碑

五輪石塔

戊辰戦争で砲弾が命中し焼失、再建の本堂

昭乗所縁の泰勝寺(昭乗墓所)

八幡五水の一「山ノ井戸」

相槌神社

昭乗の筆「下馬石」(石清水八幡宮参道口)

安居橋(あんこばし:太鼓橋)

キララは待機とです・・・

石清水八幡宮

八幡五水の一「筒井」

頓宮北門

頓宮殿

頓宮南門

徒然草所縁の高良神社

本殿

八幡五水の一「藤井」

源頼朝手植の松

幾つもの上院参道で一番急勾配な太子坂

八幡五水の一「竹の下の井」???「竹雨水」

藤坊(塔坊(とうぼう:宿坊)跡碑

藤坊の礎石、柱跡

護国寺薬師堂跡碑

洛西の眺望・・・

洛中の眺望・・・

洛南(伏見方面)の眺望・・・

細橋

佐々屋畿橋(ささやきばし)とも書き今は石橋で下流は絶えてありません。この橋を「囁き」又は「私語」などと書くのは意味が違い「ささやき」とは古語の「ささやか」などを言う事で細小の字意です。往古は細木で橋を架けた事によりこの名になりました。昔、本殿東御門の傍らより石清水の流れ湧き出でこの橋の下を通り石清水社の傍らに落ち瀧本坊の南より駒返橋の所へ流れていました。この事により細橋は神水の上に架かる橋であり参詣人が渡る事は出来ない旨を記し、四隅に榊を立て木綿をかけた注連縄が引かれました。

谷崎潤一郎文学碑

細橋(左)と手水

南総門

一ツ石

社伝によれば当宮鎮座の当初、南北に延びる男山の尾根筋に整えられた山上の参道は石畳の道ではなく踏み固められた土道で、そこは馬を走らせる為の馬場として造成されました。北端に位置するのが、かって存在した「五ツ石」(南総門下付近)で、そこから現在の社務所前あたりにかけてを南側から見て「馬場先(ばばさき)(前)」と呼び、現在も存在する「一ツ石」(三ノ鳥居北側)は馬場の末端(起点)に位置していましたから、その辺りを北側から見て「馬場末(ばばすえ)」と呼んでいたと伝わります。

拝殿・本殿・・・改修中とです!(>_<)

永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)

今は、お百度参りの起点石?「一ツ石」

三の鳥居

風が清々しい竹林道「せせらぎルート」

石不動堂

お滝場(水行場)

石仏、石不動明王祠

不動堂

五輪石塔

折り返し、竹林が清々しい「ひだまりルート」をテチテチ・・・

エジソン記念碑

涌峯塔(ゆうほうとう:シンボルタワー)

伊勢神宮遥拝所

石清水社

泉殿(八幡宮所縁の石清水井)

瀧本坊跡碑

松花堂

松花堂は、松花堂昭乗が晩年に泉坊の横にかつて焼亡した瀧本坊の残木を集めて建てた方丈の勤行堂でした。のちに周囲の露地に待合や中門、灯籠、手水鉢を配して茶室風にしました。

泉坊 松花堂跡

泉坊 松花堂跡碑

松花堂礎石

松花堂茶室礎石

松花堂茶室の路地庭跡

宮本坊跡碑?祓谷明神跡碑??

影清塚

石清水の下流にあたり参拝者が、この流れに影を映し不浄を洗い清めた所と伝えます。

駒返橋

影清塚

大扉稲荷社

二の鳥居

絹屋殿礎石

日本一デカイ五輪塔!航海記念塔(重文:鎌倉期)

男山ケーブル

京阪電車「八幡市駅」と「男山山上駅」を結ぶ路線(全長400m)を2輌の車両で単線中央行き違い方式で運転されています。所要時間は約3分、朝7時40分〜夕方6時45分迄、運転されます。初代男山ケーブルは大正15年(1926年)6月15日に開業され路線は現在と同じでしたが山上駅が当宮北門直下まで延びていました。太平洋戦争で愛宕山ケーブル同様、鉄資材供給の為に撤去されました。昭和30年(1955年)12月3日、男山ケーブルは再興され現在に至ります。路線中程に高さ50mの日本一と称される鉄橋があり車窓から木津、宇治両川を擁した南山城平野が一望できます。

男山ケーブルの杉山谷鉄橋は全長111m、高さ50mで日本一の高さを誇ります・・・

山谷不動尊

平安初期、悪鬼が出没し人々に危害を加え悩ませていました。たまたま、諸国を行脚中の弘法大師がこの話を聞き、法力によって悪鬼を退治しました。そして、十一面観音菩薩と自身の彫像を刻んで安置しました。そして大師のお告げにより人々は大和国から厄除け不動明王を移し祀ったとされます。一説には八幡神を男山に勧請した行教律師が男山の鎮守として建立したとも伝えます。

ケーブル鉄橋下の参道

不動明王

不動

Tourist  2005.5.16(M)

 

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