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パッサージュなや町商店街 |
竜馬通り商店街 |
宇治川派流 |
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宇治川派流(寺田屋浜) |
京阪・中書島駅へ・・・(中書島繁栄会) |
京阪・中書島駅 |
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宇治線 |
おけいはん特急 |
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準急で八幡市へ |
JRA京都(淀)競馬場@新淀駅下り線 |
完成を急ぐ新淀駅上り線 |
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淀車庫 |
男山 |
八幡市駅 |
男山ケーブル線 |
八幡市駅〜男山山上駅の約400mの短路線高低差も82mと全国のケーブルの中では最も低く、所要時間も約3分。しかし、沿線の地形は起伏に富み、途中にトンネルや鉄橋もあります。ケーブルカーの鉄橋としては日本一の高さを誇る(最高部:50m、全長:111m)男山橋梁から八幡市〜京都市の眺望が広がります。 |
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男山ケーブル線・八幡市駅 |
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ケーブルカーの鉄橋としては日本一の高さを誇る(最高部:50m、全長:111m)男山橋梁 |
トンネルを抜けると男山山上駅 |
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男山展望台 |
谷崎潤一郎文学碑『蘆刈』 |
石清水八幡宮(男山) |
応神天皇、神功皇后、比(ひめ)神を祭神とする旧官幣大社で男山八幡宮とも呼ばれ伏見稲荷大社と共に京都南郊屈指の大社として崇敬されています。初め男山々中に湧き出る清泉を神社化したとされますが貞観元年(859年)、奈良大安寺の僧・行教が九州の宇佐八幡宮を勧請した事から始まります。創建以来、朝野の崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と崇められ天元2年(979年)、円融天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸数多く特に源氏は、この神を氏神と仰いだので武家間で大いに広まりました、「延喜式」にその名を見ないのは神社としてよりも寺院として栄えていたからで往時は山上、中、下に多くの堂舎僧坊が瓦を並べ江戸末期においても尚23坊を数えましたが明治の神仏分離によって神社一色に改されました。往時を物語る石灯籠は320余基を数え奈良の春日大社の1800余基、大阪の住吉大社の560余基に次いで多いですが江戸時代以降のものが多く関心を持たれませんでしたが近年、鎌倉後期の石灯籠(永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)が見つかりました。社殿(重文:江戸期)は山上と山下の二ヶ所に分かれていますが主なる社殿は山上にあり上院とも言います。何れも創建以来、度々兵火によって焼失したが寛永11年(1634年)、徳川家光の造営によるもので廻廊に囲まれた中に楼門、幣殿、本殿、神庫などが複雑に入り混じっています。本殿は外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ両方の屋根が接する所に織田信長寄進の黄金の雨樋を架けその下を合の間とし三間社を一間づつ開けて一棟とする八幡造りの形式になっています。石清水社(末社)は山腹にあって当社発祥の所以となった清泉が今も湧き出しています。 |
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石清水社、泉殿(八幡宮所縁の石清水井) |
泉坊
松花堂跡碑 |
泉坊
松花堂跡(茶室) |
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駒返し橋 |
影清塚 |
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八幡の町並み |
勅祭・石清水祭の準備中 |
源頼朝の手植えと伝える松 |
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勅祭・石清水祭の絹屋殿 |
八幡八景の一・安居橋(あんごばし:通称「たいこ橋」) |
石清水放生会が行われる放生川(大谷川) |
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能蓮法師歌碑@さざなみ公園(安居橋) |
八幡銘菓・走井餅老舗 |
新しくなった御幸橋(木津川) |
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天王山 |
男山と御幸橋(宇治川) |
京阪電車・澱川鉄橋 |
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淀大橋 |
旧木津川がこの方向に流れていた・・ |
美豆町(旧木津川河川道左岸) |
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浜納屋に設けられた石段を使って浜から直接船に荷物を積み下ろしていた。 |
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美豆〜大橋辺の道筋(京街道)に沿って旧淀大橋が木津川に架かっていた・・・ |
淀大橋に至る府道15号線は旧木津川右岸だった・・・ |
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長円寺(榎本武揚書の戊辰役東軍戦死者之碑、戊辰役東軍戦死者埋骨地) |
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戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
閻魔堂のえんま法王 |
曹洞宗・東運寺 |
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境内 |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
天満宮 |
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京街道 |
文相寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地) |
天照大神を祀る旧村社・伊勢向神社 |
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大専寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地) |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
でんわ、でんぽうと書かれたレトロな看板 |
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東軍戦死者埋骨地碑(光明寺跡) |
完成間近?高架になる淀駅 |
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JRA京都(淀)競馬場 |
淀本町商店街案内図 |
與杼(淀:よど)神社 |
淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神です。祭神は、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱です。僧・千観内供が応和年間(961年〜963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると伝えるが、延喜式(901年〜)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。※当社由緒書きより |
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與杼(よど)神社 |
神木の大イチョウ |
境内 |
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社殿 |
道標石、唐人雁木碑 |
江戸時代中期、淀城の縄張図 |
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天守台石垣 |
本丸跡に鎮座する稲葉神社、稲荷社 |
淀城跡碑 |
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天守台石垣 |
旧巨椋池の花ハスとも伝える城堀の淀姫 |
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新淀駅完成イメージ図 |
京阪電車・淀駅(上り線) |
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ホームから見える淀城石垣と堀 |
淀駅から準急で中書島駅へ |
千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 |
長建寺 |
紅柄塗りの唐模様山門で知られ、真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。 |
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中書島駅 |
道標石 |
島の弁天さんと呼ばれる長建寺 |
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境内 |
三十石船に時を告げた梵鐘 |
伏見名水・閼伽水 |
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かえる石 |
本堂 |
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十石舟 |
宇治川派流域の歴史 |
酒蔵 |
御大典記念埋立工事竣工記念碑 |
今富橋が現在の竹田街道の京橋〜中書島のちょうど中間地点にありましたが、この水路が埋め立てられられました。当時の宇治川の流れは年毎に変化が激しく蓬莱橋の畔は広い空閑地がでたので夏の夜に納涼相撲なども催されました。昭和3年(1928年)〜5年の年月をかけて柳町一帯の埋立護岸工事が23万2295円の工費をかけて行われ現在の町を形成しています。 |
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伏見らしい風情 |
御大典記念埋立工事竣工記念碑 |
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竜馬通り商店街 |
スイカと桃をゲット!(^^♪ |
店先に吊るされるくくり猿(身代わり猿) |
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パッサージュなや町商店街 |
大手筋商店街 |
風呂屋町商店街 |
Tourist
2010.09.13(M) |