伏見裏道案内『中書島、横大路、羽束師、淀界隈』

 

花人の 落ち合ふ駅や 中書島 高浜虚子

 

中書島界隈・長建寺、月桂冠大蔵記念館〜横大路界隈・飛鳥田神社〜羽束師界隈・羽束師(はづかし)神社〜淀界隈・與杼(よど)神社

 

高浜虚子に詠まれた中書島 地図

「花人の 落ち合ふ駅や 中書島」と虚子に詠まれ、京阪本線と宇治線の乗り継ぎ駅でもある中書島。かつて太閤秀吉が築いた伏見城の城下町として開かれ、伏見城廃城後は、葦が生い茂る島となっていたが元禄時代、時の伏見奉行・建部匠頭政宇によって再開発され、水運だけでなく傾城(けいせい)町としても栄えた洛南伏見・中書島界隈。当時を偲ばせる建築意匠は随分と姿を消して町風情も様変わりしたが、表通りから一つ裏筋に入ると京都らしい路地風景に昔風情を僅かに感じられる。

伏見五福の一・長建寺(弁財天/開運・商売繁盛の神) ☆地図

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)、時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊・八臂弁財天(弘法大師作の説あり)は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は「伏見の弁天祭」と言われます

宇治川派流 柳と水と酒蔵は伏見らしい風情 十石舟弁天橋乗り場
えぇ感じや〜(*^▽^*)/ 本尊・弁才天は、音楽を司る神とし古来、花柳界の信仰を集め境内は桜と椿の花名所
かつては三十石船に時を告げていた梵鐘 伏見名水「閼伽水:あかすい」 飲用は自己責任
こま札 かえる石・・ETではありません!(^^ゞ爆 弁天型灯篭(伏見奉行・建部内匠頭奉納)
住職に朱印帳に朱印をお願いしたのですが、当寺はあらかじめ書置きした別紙(朱印)を・・・と言われたので参拝だけさせて頂きました。
伏見とキリシタン

キリスト教の布教は、慶長年間(1600年〜)頃、織田信長によって庇護され南蛮寺も建てられた。しかし豊臣秀吉が天下統一を成した後の天正15年(1587年)、キリシタン追放令を発布して厳しく弾圧した。慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いで石田三成率いる西軍に勝利した徳川家康が江戸幕府を開くと、再びキリスト教の布教が自由になり、旧南蛮寺よりはるかに美しいと伝える慶長天主堂など新たにキリシタン寺が建てられ宣教師が常駐し荘厳なミサが行われた。しかし慶長17年(1612年)、徳川幕府はキリシタンの大弾圧を開始し慶長天主堂も焼き払われた。日本におけるキリシタン大殉教と呼ばれるものは三つとされ、いずれも元和年間に起きたもので、元和の大殉教とも呼ばれている。元和5年(1619年)、京都の大殉教(六条河原正面)では52名、元和8年(1622年)、長崎の大殉教では55名、元和9年(1623年)、江戸の大殉教では50名が処刑されたと伝える。元和5年(1619年)の京都の大殉教(六条河原正面)はキリシタン弾圧強化に伴い、約60名の信者が捕らえられ、小川牢屋敷に投獄された。うち8名は、劣悪な収容環境に獄中で死亡したと伝える。当時、伏見城に上洛していた二代将軍・秀忠は、伏見にキリシタン投獄者がいることを知ると、激怒し釈放した信者まで再度捕らえ、全信者を火あぶりで処刑するように命じたと伝える。老若男女52名のキリシタン信者は、男性26名、女性26名そして、2歳の幼児を含む15才以下の子供11名も含まれていたと伝える。

水天尊堂 マリア(キリシタン)灯篭 解説
ツツジ 高浜虚子が詠んだ中書島歌碑 解説
会津藩駐屯地跡(東本願寺伏見別院/伏見幼児園)地図

伏見御堂は桃山時代の慶長年間に東本願寺の第12代法主・教如が創建しました。本堂は徳川家康の居城・向島城の殿舎の遺構を改築したものと伝えられ、大正4,年(1915年)に刊行された『京都府紀伊郡誌』に、寺域は徳川家康の寄進によるもので、蓮池を埋めたことから蓮池御坊とも呼ばれたと記されています。ここを拠点にして教如は家康に働きかけ、七条烏丸に広大な寺領を寄進され、本願寺から東本願寺を分派独立することに成功しました。幕末の慶応4年(1868年)1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸、ここ伏見御堂を宿陣としました。翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえる一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を盾に鉄砲の撃ち合いがあったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝えられています。そのため、創建当初、建物は東向きにつくられましたが、明治18年(1883年)に南向きに縮小して建て替えられました。平成2年(1990年)に建物は老朽化のために取り壊され、現在は大銀杏・鐘楼・山門が残されている。

鳥羽伏見戦開戦前夜の慶応4年正月二日、会津藩の先鋒隊約200名が宿陣した会津藩駐屯地跡(東本願寺伏見別院/伏見幼児園)
治療中の歯医者さんへ。。。`s(・'・;)おろろ〜 酒蔵へ・・・
四辻の四つ当たり地図

慶応4年正月二日、会津藩の先鋒隊200名が宿陣した東本願寺別院(伏見幼稚園)前の通りは、城下町の名残で、四つ辻の四つ当たりと呼ばれている。東西南北どこから来ても突き当たるこの通りは、遠見遮断される城下町の町割りの名残です。

蔵元と言えば酒林(杉玉) ・・・ ・・・
伏見は酒蔵の風情が似合う街や〜(*゜▽゜)/
南浜にあったキリシタン大名・高山右近伏見屋敷 地図

秀吉の伏見城下町時代、キリシタン大名・高山右近の屋敷や伏見キリスト教会のあった所が南浜と伝える。江戸時代になると船着場からの旅人に馬を供する馬方が参集、馬借前とも呼ばれた。室町時代の伏見を詳細に記録した『看聞御記』に著された伏見宮貞成親王の松林院陵が南浜小学校に隣接している。その西側には親王に仕えていた女官の庵があったが、これが現在の松林院という浄土宗の寺となっている。

旧月桂冠本社辺りも突き当たる枡形で遠見遮断される城下町の町割りの名残・・・。 月桂冠本社辺りはキリシタン大名・高山右近屋敷跡
日本を代表する伏見の酒蔵、蔵元・月桂冠

徳川三代将軍・家光の時代の寛永14年(1637年)、初代・大倉治右衛門が、京都府最南部・笠置の里を出て、京都伏見の地で屋号は月桂冠の前身の笠置屋、酒銘を玉の泉として、清酒の醸造・販売をする酒屋を創業。当時の伏見は城下町、港町、宿場町として発展し、交通の要衝として賑わっていました。しかし、幕府の減醸令による酒造制限や、京の市中への他所酒の移入禁止、鳥羽伏見の戦で伏見の街が兵火にみまわれ、伏見酒に苦難が続きました。江戸期の笠置屋は、地元を中心に商う小さな造り酒屋で、その生産量はおよそ数百石(1石=180L)にすぎませんでした。苦難の江戸時代を乗り切り、明治の躍進期を迎え明治38年(1905年)、11代目・大倉恒吉は勝利と栄光のシンボル「月桂冠」を酒銘に採用。同42年、大倉酒造研究所(月桂冠総合研究所)を創設、科学技術の導入を開始、同44年より防腐剤ナシびん詰酒を本格的に販売、駅売用のコップ付小びんなど次々と新機軸を打ち出し、酒銘が全国に知られていきました。昭和36年(1961年)、日本で初めて四季醸造システムを備えた酒蔵を完成させました。江戸中期以後絶えていた年間を通じての酒造りを蘇らせたもので、その後に開発・導入した新規技術の活用と共に、高品質で多彩な酒づくりを行うもとになっています。創業375年を超える伝統に安住することなく、品質の安定と向上に努め、長年親しまれてきたレギュラークラスの特撰や上撰、大吟醸酒や純米酒、生酒、ソフトタイプ酒、発泡性清酒など多彩な商品を次々と生みだしています。永年培ってきた醸造技術と共に、歴史的風土を生かしながら、新たな日本酒文化の発信を続けています。地元伏見では月桂冠大倉記念館を公開、ミニプラント「月桂冠酒香房」(見学要予約)も併設し、年間十数万人の来訪があります。

酒蔵の風情がええ感じや〜ヾ(≧▽≦)ノ
月桂冠大倉記念館 地図

伏見城の外堀・濠川(ほりかわ)沿いの柳並木。京都の酒造りの街・伏見にある月桂冠大倉記念館の白壁土蔵酒蔵は明治42年(1909年)建造の実際に使われた酒蔵を改装したもの。冬、寒作りの頃ともなると酒造りの最盛期、蔵の近くを通ると、米を蒸したり、もろみが発酵する香りが漂い、酒の街ならではの趣をたたえています。そんな伏見の街並みの一角に私の知人のK・Sさんが唄う酒唄が流れる館内には、貴重な酒造用具類(京都市指定・有形民俗文化財)や実際に発売された商品、写真などの資料の数々を保存・展示し、伏見の酒造りと日本酒の歴史を分かりやすく紹介、展示しているのが月桂冠大蔵記念館です。京都市指定有形民族文化財に指定された6,120点にも及ぶ酒造用具の中から代表的なものを酒造りの工程にしたがって見学できます。見学の後に利き酒体験も可能。(未成年者・車を運転される方はご遠慮下さい)また、予約すれば実際の酒造りの様子を見学することもできます。 (入館料\300-)

蔵元だけに新酒ができた事を知らせる酒林(杉玉)が軒に吊るされている月桂冠大蔵記念館
酒蔵を利用して貴重な酒造用具類を保存し、伏見の酒造りと日本酒の歴史をわかりやすく紹介しています。
昭和初期の商業ポスター 酒樽と酒樽を包む藁菰(わらごも) 庭園へ・・・
ええなぁ〜(*^▽^*)
 

築山など手入れが行き届いている庭園

切支丹(キリシタン)灯篭

近世茶庭の発生にともなって、庭に石燈籠を用いることが起こり、旧来の社寺系燈籠を流用するほかに、新しく庭系燈籠が案出されました。その一種に織部燈籠と名付けられる形式があり、古田織部(ふるたおりべ)の考案といわれますが確証はありません。この形式は竿の上部が左右に円形に張り出した点に特色のある四角型石燈籠で,現在知られる初期のものは慶長20(1615)年の銘があり、元和・寛永のものも数基残されています。その後、茶庭に好まれて諸方に作られましたが、大正末年頃からこれを潜伏キリシタンの礼拝物とする説がうまれました。竿の張り出しを十字架の変形とし、そこに時々刻まれる意味不明の記号めいたものをキリシタンに関係づけ、下方に長身像のあるものをキリスト、マリア、宣教師像などと称しますが、何ら具体的な根拠はありません。石燈籠研究家はこの竿が地輪部を長くした板状五輪塔から発生したものと考えており、キリシタン文化の研究者もキリシタン燈籠説は信じていません。キリシンタン燈籠は、京都では北野天満宮や桂離宮、北区紫野大徳寺町の孤篷庵(こほうあん)など。そして伏見にも私的に知る範囲で5基現存します。

織部灯篭とも呼ばれるキリシタン灯篭・・灯篭の竿の部分が十字架を表しているとも言われます。

織部灯篭とは、千利休に茶の湯を学んだ古田織部の発案とされている四角形の火袋を持つ活込み型の灯籠であり、茶室のしつらえとして、各地の庭園にも見られるものです。灯火が入る火袋の下側にある竿の部分に、十字架を連想させるふくらみが施され、竿の下端に神像または仏像を思わせる彫像が見られることから、切支丹灯籠とも言われています。弾圧の厳しかった時代、信徒はこの彫像を土中にほとんど隠れるように埋めて、ひそかに礼拝していたとの説もあるようです。伏見で本陣宿を営んでいた福井源三郎家から寄贈されたもので阪神淡路大震災の被災により、笠の部分などが破損していましたが、補修のうえ当館の中庭に置きました。笠の幅58cm、高さ128cm。 織部灯籠をキリシタン遺物説としたのは昭和初期からであり、否定的な学者も多いのが事実。

酒蔵の中庭

月桂冠大倉記念館と、隣接する明治期建造の内蔵酒造場との間に、広いスペースの中庭があります。木製の桶を用いていた昭和初期頃までは、中庭一面に大桶を並べ、日光乾燥していました。蔵の南の井戸端には洗い場があり、その東側に分析・検査室が設けられ、西側に杜氏や蔵人の生活する会所場(かいしょば)が配されています。月桂冠の酒蔵は、働く人達の生活場所が酒造りをする棟から完全に離れているところに特徴があります。

・・・ ・・・ 内蔵酒造場と中庭

月桂冠大倉記念館の中庭に面した内蔵は、明治39年(1906年)に建築されました。その後、増改築を経て現在の形となったのは大正初期のこととされます。内蔵の名称は、本宅に隣接する内蔵形式であることに由来し蔵内には、四季醸造ミニプラント「月桂冠酒香房」を設けており、年間を通して、ガラス越しに昔ながらの酒造りの様子を見学できます(見学要予約)。

名水・さかみず井

昭和36年(1961年)に掘った井戸で、地下約50mから汲み上げています。月桂冠大倉記念館に隣接する内蔵で、酒造りにも用いています。内蔵酒造場の前には石で組んだ井戸と、記念館には木製の枠で囲った井戸があります。桃山丘陵から酒蔵の集まる西南方向へ流れ出る水は、ひじょうにきれいで、鉄分が少なく酒造りに適しています。花崗岩層から、ほどよい量のミネラル分が水に溶けだし、硬度60〜80mg/Lの中硬水となっています。この清らかな水は、きめ細かくまろやかな酒質を生み出す源になっています。

レンガ積みの煙突 酒造りに欠かせない名水・さかみず・・・井戸の覆いを開けるとオバケが出るとか。。。(^▽^;)
酒桶

昭和初期頃までは、発酵に木桶が使われていました。木桶の場合、木質の内部にも雑菌が残りやすいため、使い終えて再度使用する前に何度も熱湯をかけて、竹を細く割って束ねたササラで木目に沿ってしごき、念入りに洗っていました。さらに、洗浄した木桶は日干しにして乾燥されるため、蔵の前は広いスペースをとっていました。

立派な酒林(杉玉)と注連縄 酒蔵の風情がええ感じや〜ヾ(≧▽≦)ノ

酒林(さかばやし)は、神木である杉の葉を束ねて球状に整えたものです。昔は酒屋の看板として、新酒ができたことを知らせるため、新しい酒林を軒先に吊るしました。今では、酒の神として有名な奈良県の大神神社(三輪明神)から授与される酒林をかかげることが通例で、大きな引き戸の上に張った注連縄(しめなわ)は、神聖な酒蔵への入り口を区切る結界としての意味を持っています。

酒造りに欠かせない名水・さかみず・・試飲してペットボトルに汲みました。飲用は自己責任 笠置寺へ至る道標として並んだ笠置灯篭

笠置灯篭は、寛永14年(1637年)、初代・大倉治右衛門が笠置から伏見に出て店を構え、出身地にちなんで屋号を笠置屋としたのが月桂冠の始まり。その創業の由来を伝える象徴として、平安時代の笠置寺(京都府相楽郡笠置町)にあった灯籠を復元し、当館に設置しました。笠置山山頂にある笠置寺へ至る道標として、この形の灯籠が参道に並び立っていたと伝えます。炎が燃え上がるさまを表す宝珠を頂部にいただく簡素な形に、当時の素朴で敬虔な心が伝わってきます。高さ130cm、直径25cmの独特な形をしています。

☆酒造り工程の解説パネル ☆酒造りの工程 1-洗米・浸漬、浸漬工程で使用する道具類など

1-洗米・浸漬:白米についている糠(ぬか)分を水で洗い落します。ご飯を炊く前に、米を研ぐことと同様です。浸漬(水に浸す)時間は、米の品種や硬軟、精米歩合によって異なり、数分から数時間で、適量の水分を含ませます。

2-蒸米

2-蒸し米:程よく水分を含んだ米は、一晩おいて甑(こしき)で蒸される。蒸し時間は40分〜60分。良質の蒸し米は、適度の硬さと弾力のある手触りである。手で引き伸ばすと餅状になり(これをひねり餅と言う)、この時に蒸し米の良否が判定される。蒸すことによって白米の澱粉をα化し、麹菌の繁殖を容易にする。蒸しあがると「ぶんじ」と呼ばれている木製スコップで掘り起こされて放冷場に運ばれる。この時、普通酒よりも吟醸酒に使用される蒸し米の方が繊細なので、丁寧に扱われるのは言うまでもない。時々蒸し米に温度計が差し込まれるのは、人の体温ぐらいになったら、麹室に運ばなくてはいけないからである。

2-蒸米 3-放冷

3-放冷:所定の温度まで、蒸米を冷却します。布の上に広げて所定温度まで冷却する自然放冷と、送風で冷却する強制通風放冷があります。

4-麹づくり 5-酵母づくり

4-麹づくり:麹(こうじ)は、麹菌を穀類に生やし、酵素(こうそ)を分泌させたものです。日本酒では、黄麹菌(きこうじきん、Aspergillus oryzae)の胞子を種麹(たねこうじ)として、蒸した米にふりかけ約2日間培養することで酵素を生産させます。 5-酵母づくり:アルコール発酵を担う酵母(こうぼ)を培養して、大量に増殖させたものが酒母(しゅぼ)です。

5-酵母づくり 6-醪(もろみ)仕込

6-醪(もろみ)仕込:日本酒になる前の発酵中の状態を「モロミ」といいます。「酒母」「麹」「仕込水」「蒸米」 を発酵タンクに仕込み、およそ20日から30日間かけて発酵させます。発酵タンクの中では、米のデンプンが麹の酵素によりブドウ糖へと分解され(糖化)、そのブドウ糖は酵母によりアルコールへと変えられていきます(発酵)。この糖化と発酵の2つの働きが同時に進行します(並行複発酵)。

7-酒搾り 様々な酒造りの道具が展示されている。

7-酒しぼり(上槽:じょうそう):醗酵の終わったもろみを清酒と粕に分離する操作を上槽といいます。ゆっくりと搾ります。上槽したばかりの清酒は、まだ活性を有するアミラーゼなどの酵素類を含んでおり、酵母も混在しています。貯蔵・熟成:上槽後、加熱処理を一切行わない酒を生酒と言います。上槽した清酒は、濾過、火入を経て貯蔵されます。香味が整うまでには、一定期間の貯蔵が必要です。貯蔵条件によって酒質が向上するか、また劣化するかが決まるので、製造工程と同様に注意を払う必要があります。その後、製品調合仕上濾過割水壜詰製品出荷

エントランス 昔の帳場 伏見土佐藩邸跡
・・・ ・・・ 竜馬通り商店街
 
伏見名物?龍馬寿司をくださいな〜(^^♪ ちなみに私は鯖を食べられませんが・・・ナニカ?(^^ゞ爆 たくさん芸能人が取材に来て食べてるな〜
伏見城の廃城後、水運や港町として再び栄えた中書島は、かつて柳町とも呼ばれていた。
時の流れが止まっているように感じる建築意匠・・・
表通りからほんの一筋入ると昔を彷彿させてくれる路地裏がある・・・
一見、先斗町?西陣??京都らしい路地風景に昔風情に和みます。(*´ο`*)=3ホッ
普段よく目にしている町並みなのに、ひと筋、路地へ入るとちょっとした新発見がある?
京都らしい路地の風景に昔風情がわずかに残っている。
路地奥にお地蔵さんの祠があるのも京都らしい 光と影そして石畳の空間が小さな別世界を醸し出している・・・。

昭和チックな家並み・・・えぇなぁ〜(*゜▽゜)/
濡れ縁などノスタルジックな建築意匠・・・
かつては大阪・八軒茶屋まで三十石船が発着していた寺田屋浜 幕末維新のステージになった旅籠・寺田屋
寺田屋は薩摩藩の定宿、寺田屋騒動だけでなく坂本龍馬とお龍さんの恋宿でも知られる。
龍馬が屋根伝いに脱出したと伝える・・ 贈正四位坂本龍馬君忠魂碑 寺田屋恩賜紀念碑
坂本龍馬像と薩摩九烈士(寺田屋騒動)顕彰碑 ハト龍馬さんとポッポお龍さん?(≧▽≦)ぷっ 三十石船の乗船場になっている寺田屋浜
坂本龍馬とお龍@寺田屋浜・・・昔は龍馬像の右側へもう1つ宇治川へ川が流れていたのでT型になって島になっていた。

鳥羽伏見戦開戦前日の慶応3年正月二日夕刻、会津藩先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸、伏見御堂を宿陣として戦いました。伏見奉行所に陣を置いた旧幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀城へ敗走したのでこの辺りの多くの民家が焼かれ、大被害となりました。

京橋から竹田街道を南へ少し下がった土木事務所は長州藩伏見屋敷跡 旧観月橋欄干石柱
土木事務所だけあってかつての道標石が幾つもある。 日本発のチンチン電車発祥碑
・・・ 路端の地蔵石仏など ・・・
梅姫塚

塚は東面する方形墳で梅の老木と一体石像地蔵尊を安置する。「山城名跡巡行志」第5巻に掲げる蓮如上人の息女・妙勝尼の塚とはすなわち此処を云ったものですが「山城志」に記す「女郎塚」がこれに該当するかは不詳です。三栖付近に現存している唯一の古墳です。

小祠にキリシタン灯篭が大切に安置されています。夢の宣託でここに移転されたとか・・・ 梅姫塚
五輪さん、三栖神社 ☆地図

五輪さん・・・鎌倉時代の五輪石塔で昔の武人を葬った場所というだけで単に五輪さんと称する。近年、篤信者が神体化し「山城三好竜神」なる木札を建てて崇拝している。永禄年間当地に津田城を築いた三好左京太夫義継に因果があるかと思われますが不詳です。三栖神社・・・横大路下三栖の産土神で天武天皇を祀るところから天武天皇社、単に三栖ノ宮ともいいます。毎年10月に行われる祭礼では、世に炬火〔たいまつ〕祭りといい、直径1m以上もある大炬火一基を作り担ぎ回る慣わしがあります。※(昔は、2地域が、1本ずつを作り、奉納したとのことです。平成20年には、復活20年の節目として、二基の炬火が奉納されました。)これは、約1300年の壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子率いる近江朝廷との決戦に向かう途中、当地を通過された時に村人が、松明を灯して暗夜を照らしたという伝説によります。拝殿は入母屋唐破風向庇(いりもやからはふうむかいひさし)を持った立派な社殿でしたが焼失して以来、再建されていません。本殿は二重の基壇上に三間流造の社殿を構え周囲に堀が廻らされているのが特徴です。この辺りを城ノ前と言い、永禄年間(1558〜69年)、三好左京太夫義継が津田城という城館を構えていた所と伝えます。宝永2年の絵図には、三栖神社の南に城郭の一部であったと見られる「土居薮」という所があり最近まで堀も残っていたようです。

蓮如上人の息女・妙勝尼の塚とも伝える。 昔の武人を葬った所と伝える五輪さん 三栖神社
三栖神社は天武天皇の杜とも呼ばれています・・・ 弁財天
社殿 三栖城郭の一部だった土居薮? 下鳥羽、横大路の産土神・田中神社
羽束師橋側道 ・・・ ・・・
旧大阪(京)街道 飛鳥田神社お旅所(集会場)
飛鳥田(あすかだ)神社御旅所の五輪卒塔婆(鎌倉時代中期)と五輪石塔(鎌倉時代中期)地図

下鳥羽南部、横大路の桂川左岸に開けた堤防集落で元は紀伊郡横大路村といった。ここから東に伸びる八丁畷が伏見の町への唯一の道路だったが今は、中書島から市バスが通じ便利になっている。飛鳥田神社は横大路村の産土神として少し離れた横大路柿本町の国道一号線沿いあるがお旅所は桂川堤防沿いの旧集落にある。石塔はお旅所南側、民家の裏庭の中にある。 高さ240cmの花崗岩製、30cm角の石柱の上に五輪搭形を一石より刻みだし、正面上部に舟形の彫りくぼめの中に定印の阿弥陀坐像を彫り出し柱側面左右に観音・勢至の両脇侍の梵字を刻み、阿弥陀三尊を表している。正面に発願某者の慈父の十三年忌にあたり菩提のために建立したとの銘文があり向かって右側に文永十一年(1274年)のみが微かに読み取れる。全体的に出来映えがよく鎌倉時代の五輪卒塔婆としては、京都市における屈指のものと言える。傍らにある花崗岩製の高さ160cm余の五輪石塔は各部共に全部が揃っており見事で同じ時代の作と思われる。横大路は文禄年間(1592〜6年)、豊臣秀吉が伏見城を築いた時、淀川の水運を利用し大阪から運んだ物資の揚陸地であった。明治になって京都〜神戸間に鉄道が開通してからは寂れた。付近にこれと言った古寺院もなく、これらの石塔がどんな理由でここに建立されたのかは定かでない。一説に昔の村長の塔であるといい、石表面の茶色の染みは、夜な夜な怪異をなすという。ある時、勇猛の人が太刀で斬ったところ血跡が残ったという怪奇談が伝わっている。

京都屈指の古遺品であると言われる五輪卒塔婆と五輪石塔は路地奥の民家の裏庭の中にあるのでかなり見つけにくい。
黄檗宗・千手院
飛鳥田(あすかた)神社(横大路) ☆地図

こま札(解説)によると飛鳥田神社は別雷・市杵嶋姫命を祭神とし、創建に関しては不詳ですが 「日本紀略」には飛鳥田神社についての記載が見られる。ただし、式内飛鳥田神社が当社であるかどうかについては明確ではないが、「延喜式神名帳」に「一名柿本社」とあることから、 柿ノ本町に建つ当社が式内社である可能性は十分に考えられる。中世以降の状況について、享保19年(1734年)の『山城志』に記された上梁文からうかがうことができ、これによると応永25年(1418年)に社殿が造営され、その後文明9年(1466年)、天正4年(1576年)、慶長19年(1614年)に修理、また文禄5年(1596年)に屋根葺替がおこなわれた。更に17世紀半ば頃には境内の整備が進められたものと推定され、境内正面の鳥居に「慶安五壬申年/嶋潟弁財天御宝前」、また手水鉢には「島潟弁才天/御宝前/明暦3年/5月」の刻銘がみられる。覆屋の中に建つ本殿は大型の一間社流造の建物で、建築年代に関する史料を欠くものの、全体に木割が太くて装飾が少ない点、また蟇股や実肘木・虹梁の形状などから、境内の整備が行われた17世紀半ば頃までに造営されたものと考えられる。一部改変を受けているものの当所の姿を著しく損なうものではなく、また柱頭に舟肘木を落としこんで柱が直接桁を支持するという特異な手法が採用されている点に特色がみられる。

大きな楠が見事な浄土宗・浄貞院 別雷神 市杵嶋姫命を祭神とする飛鳥田神社
改修中?社殿 こま札 飛鳥田神社参道口
平成山と号する浄土真宗本願寺派・良福寺 桂川堤防へ・・・
草津の湊魚市場跡碑地図

下鳥羽は、古くは草津と言い木津、今津とも言われ船で西国に赴く人達の乗船地で道路交通上重要な遺跡地です。延喜元年(901年)、太宰府へ流された菅原道真、「平家物語」によれば保元元年(1156年)、讃岐国(香川県)へ流された崇徳上皇、治承4年(1180年)、厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207年)、法然上人が讃岐国へ流された時も当地より乗船したと伝える。又、瀬戸内海の鮮魚などが陸揚げされ都に運ばれた水路、陸路交通の中継地として重要だった河川港でした。魚市場跡碑は、明治10年(1877)まで生魚市場として賑わった横大路魚市場の記念碑で大正8年(1919年)4月、大橋家が的場正三郎の撰文により建てたものです。現在の碑は台風で倒壊した原碑を復元し昭和60年(1985年)に新たに建立されました。

船乗り場跡碑(草津の湊) 草津の湊辺りから眺める西山、柳谷方面
魚市場跡碑(羽束師) 嵐山サイクリングロード 桂川、鴨川合流地
羽束師(はづかし)神社 ☆地図

正しくは、「羽束師坐高産日神社(はづかしにますたかみむすひじんじゃ)」といい、旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。主祭神として高皇産霊神(たかみむすびのかみ)相殿に神皇産霊神(かみむすびのかみ)を祀ります。神社の由緒によると、両神は、天地開闢の際、高天原に現れて万物を造化したという三神の内の二神(他は天御中主神)であり、神名の産霊(むすひ)とは、万物の生産、生成を意味する言葉で、その成長する力を霊力とすることから、生産向上や諸縁むすび、安産の御利益があるとされます。また、高皇産霊神は、別に高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれるように、御神木(元々、神の宿る高木=御神木を神格化したものと考えられます)や神籬(ひもろぎ)との関係が深い神だったようです。(古代の神道では、祭事の際には、巨木(御神木)の周囲に注連縄や玉垣で囲った聖地となる場所(神籬)を造り、そこに神の降臨を招いて祭祀を行いました。羽束師坐高御産日神社(はづかしにいますたかみむすひじんじゃ)といい、創建は、すこぶる古く大宝元年(701年)以前からの鎮座と云われます。羽束師は、羽束首(はづかしのおびと)の居住地で一族は、土器を作り石灰を焼いたりする泥部(はつかしべ)の伴造家であった。羽束氏の祖神を祀ったのが羽束師神社と伝えます。

桂川右岸堤防 ・・・ 羽束師神社
境内の森が鬱蒼としているだけで歴史の古さや大きさを感じられる・・・ 飾り付けされている神輿二基
本殿 西神門
菅原道真ゆかりの北向見返天満宮地図

延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたのが、北向見返天満宮です。

道標石と説明碑 久我畷の四つ辻に立っていたと伝える道標石 北向見返天満宮
北向見返天満宮 ・・・
府道123号線 京都府警察自動車運転免許試験場 ・・・
淀地域の桂川右岸堤防はスーパー堤防拡張建設のため旧地から現在地に移転しました。
移転した浄土宗・常念寺地図 同じく移転した水垂地区 ツツジの花色が眩しい〜ヾ(≧▽≦)ノ
旧堤防拡張工事のために現在地に遷座した網曳天満宮地図 祭神は菅原道真
公園のフジ棚の下でハーフタイム〜(;´д`)ゞあちぃ。。。 旧桂川右岸堤防集落跡地
桂川に架かる宮前橋(府道204号線) 旧與杼神社鎮座地・・対岸は旧宇治川合流地 かつて、桂川に宇治川が合流した地図
納所交差点 新築移転して高架になった京阪電車淀駅
京都競馬場(JRA:日本中央競馬協会)地図

大正13年(1924年)、9月に船井郡須知町から移設され翌年の秋に竣工しました。敷地面積は585,000u、スタンドは鉄筋コンクリートの5階建てで規模の大きさは日本最大で淀競馬場、淀とも言われています。

淀駅と競馬場が高架通路で直結した。 JRA京都(淀)競馬場
高架駅になった京阪・淀駅 東軍戦死者埋骨地碑(光明寺跡) 京(大阪)街道
伊勢向神社地図

天照大神を祀る旧村社で元、淀小橋の東方、宇治川の中島(浮田の杜)にあったが、古来、和歌の名所となり神社より杜の方が有名でした。中島(浮田の杜)は淀川の改修工事で埋没し現在地に移転されました。因みに伊勢は五十瀬(いつせ)の意味で祭神は、水神と思われます。

元は宇治川中島にあった伊勢向神社 浄土真宗大谷派・大専寺
戊辰役東軍戦死者埋骨地 浄土真宗本願寺派・文相寺 睡蓮鉢にメダカさん
戊辰役東軍戦死者埋骨地 淀の三軒寺(高福寺、長円寺、東運寺) 浄土宗・長円寺
戊辰役東軍戦死者埋骨地 閻魔堂のえんま大王
本堂 戊辰役東軍戦死者埋骨地 改葬された旧幕軍歩兵指図役頭取・森田貫輔首級
曹洞宗・東運寺 吾唯足知(われ ただ たるを しる)のつくばい 珍しい?寄木造りの本堂
與杼(よど)神社 ☆地図

淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神です。祭神は、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱です。僧・千観内供が応和年間(961年〜963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると伝えるが、延喜式(901年〜)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。※当社由緒書きより

戊辰役東軍戦死者埋骨地 京(大阪)街道 淀の産土神・與杼(与杼:よど)神社
静寂に包まれた與杼(よど)神社境内
狛犬さん 大阪淀屋の高灯篭 こま札
稲葉神社 稲葉神社解説 稲荷社
淀城跡碑 淀城跡石垣からの眺めも随分と様変わりしたな・・・城濠
淀の水車 濠伝説の小判か?カメさんです!(≧▽≦)ぷっ 淀城本丸跡
知る人ぞ知る・・・淀城の三等三角点(点名:淀城標高:17.53m) 本丸跡から見た天守台石垣
当初、淀城に伏見城天守閣を移築予定だったが天守台が小さいため二条城の天守閣を移築し、伏見城天守閣を二条城へ移築したと伝える。
天守台石垣 薩摩・島津や長州・毛利の家紋が記された石垣
古老談によると姫様が使った手水鉢だとか・・ 同じく井戸跡 江戸時代中期、淀城の縄張絵図
立て替えられた道標など旧石碑 淀本町商店街・・淀駅が移転したので人の流れが変わった?
淀名物?を買って帰ります!(^^♪ かつて宇治川に架かっていた淀小橋跡 幕末は、ここを宇治川が流れていた・・・

千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 ☆地図

現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。綺麗に手入れされ、花なども毎日取り替えられている様子です。又、この埋骨地には幽霊伝説があります・・・千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。傍に建立された記念碑に「・・・一瞬の時差により、或る者は官軍となり或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。」と記された一説が鳥羽・伏見の戦の本質だとも言われます。

新撰組(旧幕府軍)と薩長軍が激戦を展開した千両松 千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」
千両松原

淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だった事から、「千両松」と呼ばれました。千両松の激戦で敗れた新撰組始め、幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。

京阪本線は宇治川旧河川道右岸 宇治川右岸堤防(京/大阪街道)
伏見百景の一・酒蔵 大手筋商店街

風呂屋はないけど・・風呂屋町(≧▽≦)ぷっ

Tourist.2013.5.13&20&27(M)

 

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