淀の三川昔風景を歩く
春くれば 浮田の杜に 引くしめや 苗代水の 便りなるらん 家隆
旧與杼(淀)神社鎮座地〜妙教寺(淀古城)〜旧宇治川河川道〜旧木津川河川道〜旧淀大橋、浜納屋〜與杼(淀)神社、淀城跡公園(新淀城)
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淀川と淀城 ☆地図 |
江戸時代中期、淀城の縄張図 古来、淀は桂川、宇治川、木津川が合流する交通の要所でした。中世は淀川の水運 によって様々な物資が、淀津で陸揚げされ平安京に運ばれました。戦国時代の歴史に度々淀城が登場するのは現在の納所付近に存在した淀古城です。淀古城は天正17年(1587年)に豊臣秀吉によって淀殿の産所として修築されたが、伏見城の築城と共に廃城になった。京阪淀駅に隣接して石垣と堀が残る淀城は、廃城になった伏見城に代わる新たな京都守護の城として、古淀城と宇治川を挟んだ対岸の中島に元和9年(1623年)〜寛永2年(1625年) にかけて築かれた。最初の城主は松平定綱、次いで寛永10年(1633年)に新たな城主として永井尚政 が入城。この永井藩政時代に木津川流路の移動による城下町の拡張が行われました。寛 文9年(1669年)には石川憲之、宝永8年(1711年)に戸田光熈、享保2年(1717年)には松平乗 邑と相次いで城主が変ったが享保8年(1723年)に稲葉正知が城主となった後は、幕末まで稲葉家が城主を努めた。歴代城主はいずれも譜代大名であるが、慶応4年(1868年)の鳥羽・ 伏見の戦いで、門を閉じて敗走する幕府軍を入城させず中立の立場をとった。この時の戦火で城下町と城内の一部が焼亡しました。新淀城は大阪城と共に西国大名に睨みを利かす為に築城されたが、皮肉にも旧幕府軍の敗北を決定付けた。廃藩置県によって淀藩の消滅に伴い、早くから淀城は廃城となり淀城東部にあった巨椋池の干拓によって地形が大きく変わり、本丸の一部を除いてすべて破壊された。さらに、本丸を京阪電気鉄道が貫通するに及び、淀城の消滅は必至となるが、保存運動が高まり本丸周辺の整備が進み、石垣や堀が保存され現在、淀城の再建計画もあるという・・・ |
冷たい雨が降る風呂屋町商店街 ☆地図 | 大手筋商店街、納屋町商店街(右)・・アーケードのお陰で雨も傘要らず(*^-^*) ☆地図 | |
納屋町商店街 ☆地図 | 寺田屋がすぐ近くにあり、坂本龍馬、お龍がイメージキャラの竜馬通り商店街 ☆地図 | |
酒蔵 ☆地図 | 黄桜酒の資料館 | |
伏見名水の一・伏水 | 黄桜酒造の酒蔵 | 酒蔵 |
坂本龍馬ゆかりの旅籠・寺田屋 ☆地図 | 坂本龍馬銅像と薩摩九烈士碑 | 龍馬らしいな・・ |
坂本龍馬碑 | かつて三十石船が出入港した寺田屋浜 | 酒蔵 |
春の運行を待つ十石舟 | 島の弁天さん・長建寺 ☆地図 | レトロな風情の風呂屋さん |
中書島繁栄会 ☆地図 | 京阪・中書島駅から1駅の淀へ・・・準急に乗ります。 | |
高架になった新・京阪淀駅の下り線(中ノ島・淀屋橋方面)・・・上り線(出町柳・宇治方面)は工事中ですが、駅からの眺めが変わりました。 | ||
新・京阪淀駅 | 淀駅完成イメージ図 | 駅界隈の案内図 |
もうすぐ無くなる淀駅舎 | 淀本町商店街 ☆地図 | |
明治時代の淀川改修工事 | ||
現在の三川(宇治川、木津川、桂川)の様子と明治の淀川改修工事前の三川、巨椋池の様子 現在の宇治川、木津川、桂川の三川は順次合流していますが、昔の三川合流とは姿が異なります。木津川、宇治川については明治時代になってから河川道を変えるという大規模な河川改修工事が行われました。淀は山川が合流する為、度々の大洪水で大水害が発生する水郷地帯でしたから江戸時代から多くの治水工事が繰り返されてきました。明治元年(1868年)、木津川の堤防が決壊した水害で京都府は淀藩との共同事業によって木津川と宇治川の合流点を下流側に付け替えた事によって木津川から巨椋池に向けて洪水時の逆流を防げるようになった。明治29年(1896年)以降、国による淀川改修工事となり宇治川を淀の南へ付け替えるなど大規模な河道付け替え工事が始まった。明治32年(1899年)〜同36年(1903年)、桂川の改修工事が始まり宇治川と桂川合流地点を淀の納所から八幡まで引き下げ現在の三川合流の姿になりました。 |
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かつて、納所の宮前橋(府道204号線、桂川)辺りに宇治川が合流していました・・・ ☆地図 | 大荒木の森と呼ばれた旧與杼神社鎮座地 | |
旧與杼神社鎮座地・・対岸は旧宇治川合流地 | 現在進められている国による桂川改修事業により移転した水垂の浄土宗・常念寺跡 | |
同じく綱曳(つなしき)天満宮旧鎮座地 | 移転した浄土宗・常念寺 ☆地図 | |
境内 | 雪混じりの雨と風が冷た〜い(>_<) | 路傍の石地蔵さま |
遷座した網曳天満宮 ☆地図 | 神石 | 祭神は菅原道真 |
寒うぅ〜・・・ | 大阪(鳥羽)街道(府道13号線) | 横大路沼跡から流れ桂川に注ぐ排水幹線 |
法華宗・妙教寺(豊臣秀吉、淀の君ゆかりの淀古城跡) ☆地図 | ||
元は、細川氏綱の居城で、天正16年(1588年)に豊臣秀吉が「淀君」の為に修築を行った「淀城」です。混同をさける為「淀古城」とも呼ばれています。築城時期は、はっきりしませんが、「細川両家記」などに、永正元年(1504)摂津の守護代薬師寺元一が管領・細川政元に反抗して「淀之城」に篭城し攻め落とされたとあります。元亀3年(1572年)三好三人衆の一人である岩成友通が淀城にあって、足利義昭と呼応して織田信長に対抗したが信長の武将・細川幽斎に攻略されました。淀城は一時小野木重次があずかり、天正17年(1589年)、秀吉は側室・茶々(淀殿)の出産の為、弟の秀長に修築させました。伏見城建設とともに文禄3年(1594年)破却された。 |
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法華宗・妙教寺 | 境内 | 蝋梅のいい香りが漂います。 |
鳥羽伏見の戦いの慰霊碑(榎本武揚筆) | 歌碑(木村久夫) | 秀吉、淀殿ゆかりの淀古城跡碑 |
鳥羽伏見の戦いで砲弾が貫徹した本堂 | 大阪(鳥羽)街道(府道13号線) | 戊辰役戦場跡碑(元・愛宕茶屋碑) |
唐人雁木(とうじんがんぎ)旧跡 ☆地図 | ||
雁木とは、雁行形の階段の事で唐人雁木は、江戸時代に李氏朝鮮王から徳川幕府へ派遣した朝鮮通信使が、上陸した船着場の石の階段でした。当時は宇治川がながれており、宇治川右岸にあった唐人雁木は道路舗装にあたって撤去されました。 |
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寒うぅ〜・・・ | 唐人雁木跡碑 | かつて、この方向に宇治川が流れた |
淀小橋旧跡 ☆地図 | ||
昔、淀小橋は宇治川に架かっていて淀小橋〜伏見までの京街道筋に豊臣秀吉が植えた松が見事だった事から「千両松」と呼ばれました。 |
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旧宇治川河川道右岸だった府道124号線・・ | 宇治川に架かっていた淀小橋跡碑 | 旧淀川河川道にある淀川水車跡碑 ☆地図 |
木津川河川改修工事 | ||
明治政府は明治元年(1868年)、各地で洪水による被害が発生した為、現在の八幡市上奈良付近より同市橋本に向けて新川道を開削し淀川に合流させ木津川河川改修工事として明治元年〜同3年(1870年)に実施され、現在の三川合流付近における木津川の姿になりました。それ以後は流水疎通が良くなり水害が軽減されましたが、流出してくる土砂が堆積し疎通が悪くなりつつあります。旧河川道は工場や住宅地に変貌しています。 |
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水車跡から眺める淀城跡(R13) | かつて、この方向(府道15号線)に木津川が流れた淀木津 | 旧木津川河川道跡にある京阪淀車庫 |
まっすぐ宇治川に架かる淀大橋に至る府道15号線は旧木津川右岸だった・・・ | 京街道に旧淀大橋が架かっていた大橋辺 | |
この道筋(京街道)に沿って大橋辺〜美豆に旧淀大橋が木津川に架かっていた・・・この辺りは旧木津川河川道でした・・・ | ||
美豆町(旧木津川河川道左岸)にある浜納屋 ☆地図 | 浜納屋内部 | |
納屋に設けられた石段を使って浜から直接船に荷物を積み降ろしていた。 | この方向に木津川が流れていた・・ | |
淀大橋に沿って木津川が流れていた・・ | この辺りの地名は大橋辺 | 木津川右岸だった道(府道15号線) |
八大龍王・辨財天社 | 京街道 | 天満宮 |
天満宮 | 雪混じりの雨が降ってます・・・ | 文相寺(戊辰役東軍戦死者埋骨地) ☆地図 |
伊勢向神社 ☆地図 | ||
天照大神を祀る旧村社で元、淀小橋の東方、宇治川の中島(浮田の杜)にあったが、古来、和歌の名所となり神社より杜の方が有名でした。中島(浮田の杜)は淀川の改修工事で埋没し現在地に移転されました。因みに伊勢は五十瀬(いつせ)の意味で祭神は、水神と思われます。 |
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・・・ | 元宇治川の中島にあったが淀川の改修工事で現在地に移転した伊勢向神社 | |
與杼(よど)神社 ☆地図 | ||
淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神です。祭神は、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱です。僧・千観内供が応和年間(961年〜963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると伝えるが、延喜式(901年〜)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。※当社由緒書きより |
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京阪淀駅 | 與杼(よど)神社 | 参道 |
境内 | 復活された三基の神輿蔵 | ご神石 |
社殿 | 本殿 | |
寒い日のお神酒は心身温まります〜(^^ゞ | 権殿跡 | 城跡の石垣と堀 |
京都守護の目的で徳川によって再建された新淀城 | ||
元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は伏見城を廃城とし、松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。秀吉、淀君ゆかりの淀城は、淀城跡公園から北東へ約500m行った妙教寺辺りで淀古城と言われます。 |
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淀城跡碑 | 明治天皇御車駐処碑 | 淀城の三等三角点(点名:淀城標高:17.53m) |
石垣からの眺め | 天守台石垣 | |
天守台石垣 | 夏には淀姫というハス花が咲く城堀 | 城跡内にある稲葉社と稲荷社 |
天守台石垣 | 城跡内に放置されていた旧唐人雁木跡碑 | 京街道道標石 |
新撰組六番隊々長・井上源三郎の首級と刀を埋葬したと伝える欣浄寺(廃寺) ☆地図 | ||
文久2年(1862年)2月、浪士組に近藤勇、土方歳三らと参加。文久3年(1863年)、芹沢鴨一派が粛清されると副長助勤に就任。元治元年(1864年)、池田屋事件では土方隊の支隊を指揮。近藤隊が斬り込んだという知らせを受けて隊士と共に池田屋に突入、8人の浪士を捕縛。慶応元年(1865年)6月、組織再編成で六番隊々長に就任、慶応3年(1867年)6月、新撰組が幕府直参に取り立てられ副長助勤として七十俵三人扶持を与えられる。慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発、新撰組は伏見奉行所から淀まで退却。1月5日、淀千両松で薩長軍と戦闘中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死。甥の井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとするも、あまりに重かった為、仲間の隊士から諭されて戦場近くの寺院の門前に首と刀を埋葬したと伝えていた。後に息子・覚太郎の妻・ケイに、大阪の方に行くことがあればお参りするようにと、寺の名前(欣浄寺)を告げたが失念して今に至っていた。(源三郎生家の隣にも欣浄寺が存在しケイが失念したと思われていた。)欣浄寺のあった場所は、明治になって廃寺になり、更に淀川河川改修などにより町並みが一変してしまい不明となっていたが、近年に古地図などから欣浄寺の場所が判明。泰助の宇治川に架かる橋近くの寺だという言葉なども一致、日野から縁者が来られました。因みに源三郎は、八番楳木(千両松埋骨地)に眠っていると伝える。 |
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淀城跡道標石 | 欣浄寺跡 | 淀名物と言われるチキンカツなどをゲッツ! (^^♪ |
光明寺跡 | 東軍戦死者埋骨地碑 | 下り線が撤去された既存の淀駅(上り線) |
京阪淀駅、上り線は既存の駅舎 ☆地図 | 京阪・中書島駅 | |
Tourist 2010.02.01(M) |
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