丹波街道・善峯寺道散策

 

大原や 小塩(おしお)の山も けふこそは 神代のことも 思ひ出づらめ 在原業平

 

長岡京遺跡〜十輪寺〜善峯寺〜三鈷寺〜大歳神社

 

史跡長岡京(宮)跡〜十輪寺〜善峯寺〜三鈷寺〜大歳(おおとし)神社〜在原業平(ありわらのなりひら)父母塔

 

大原野

大枝の南、向日市の西方にあたり背後に大原山(小塩山)を負い、乙訓の広野を前方に臨む西高東低の傾斜段丘地です。

古くは乙訓石作郷(いしづくりごう)と称され石作氏繁栄の地でしたが平安時代には遊猟地として桓武天皇も度々、行幸されました。

藤原氏は春日神を勧請し大原野神社を創建し多くの氏人をして大原野祭を行ったので王朝時代は煌びやかな光景を呈しました。

山野の醸し出す幽邃な風光美は早くより仏徒の目のつける所となり金蔵寺、花の寺(勝持寺)、善峯寺、三鈷寺、十輪寺など

幾多の寺院が建立され洛北大原と共に傷心を癒すに相応しい所として西行法師、木下長嘯子(ちょうしょうし)なども当地に隠棲しました。

旧乙訓郡屈指の名所旧跡地です。大原野は元、石作(いしづくり)、小塩(おじお)、上羽、石見、上里、外畑、出灰(いずるは)

七集落を合して大原野と言いましたが昭和34年(1959年)11月、京都市に編入され右京区となり今は西京区に属しています。

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史跡長岡京(宮)跡「春宮坊」

説明碑によると平成8、9年(1996、97年)の発掘調査で宮城(きゅうじょう:役所街)の東を区画する南北方向の溝(東一坊大路西側溝)が発見され溝からは、皇太子に関係する木簡、墨書土器、漆冠、装飾品の鼈甲(べっこう)、琥珀など珍しい品々が数多く出土し春宮坊という役所から長岡京廃都の時に捨てられていた事が判明しました。春宮坊は、東宮(皇太子)の教育、警護、身の回りの世話をする役所でこの付近に安殿皇太子(あずこうたいし/平城天皇)の住まいと春宮坊があったと考えられています。

東院跡(向日市温水プール) 春宮坊跡(かしのき公園)
祓所(はらいじょ)

説明碑によると鎌倉時代鶏冠井(かいで)の集落に疫病が流行った際に向日神社が当地でお祓いをしたと伝えられ、因んで町名となったとされます。

北真経寺 祓所(祓所公園)
長岡宮大極殿跡碑 長岡宮跡碑 長岡宮大極殿跡
史跡長岡京(宮)跡「朝堂院西第四堂跡」

説明碑によると朝堂院は、現在の国会議事堂に相当する施設で太政官院とも呼ばれ国家的儀式や朝政(政務)を行う場として用いられました。長岡宮の正面玄関である朱雀門の真北に配置され、その正殿が天皇の高御座を置く大極殿です。瓦葺き、白壁、朱塗りの柱をもつ朝堂は長岡京遷都当初(784年)に大阪の難波宮から移築され、東西四堂ずつからなる事が知られています。西第四堂は、昭和57年(1982年)の発掘調査で確認されましたが、大変貴重な遺跡として平成4年(1992年)に国史跡に指定され保存される事になりました。土壇が西第四堂のあったところですが、堂は東西49.5m、南北17.7mの広大な建物で南北3ヶ所ずつに階段が設けられ、役人の職と位に応じて昇降する階段までが決められていました。

長岡宮小安殿跡(しょうあんでんあと) 長岡宮閤門跡(こうもんあと:大極殿の正門) 朝堂院西第四堂跡
朝堂院西第四堂跡 南真経寺 光明寺参道
十輪寺(じゅうりんじ)

天台宗延暦寺派の寺で小塩(おじお)山と号し一に業平(なりひら)寺とも呼ばれます。寺伝によると創建は嘉祥3年(850年)、文徳天皇の染殿(そめどの)皇后(藤原明子:あきらのけいこ)の世継ぎ誕生を祈願し、めでたく皇子を生まれ、後に清和天皇になられた事から文徳天皇勅願所となり後に藤原北家(花山院家)が帰依され一統の菩提寺とされました。創建当時の伽藍は応仁の乱の兵火によって焼失、寛延3年(1750年)の再建で本堂の屋根は鳳輦形(ほうれんがた)という神輿を模った非常に珍しいもので内部天井の彫刻も独特の意匠が施され文化財に指定されています。平安時代の歌人で「伊勢物語」の主人公・在原業平(ありわらのなりひら)が晩成に隠棲し塩焼きの風情を楽しんだと伝え当地を小塩というのは、これに因んだ地名とされ境内裏山に業平墓(恋愛、結婚成就の神)、塩釜の跡、門前手前の街道脇に潮汲池があります。これらの伝説により毎年の5月28日、業平を偲んで業平忌が行われ導師の長素絹を纏った住職が三弦を弾きつつ読経し「祈請:きじょう」、「般若心経」などの法曲を披露し献茶、献歌、献句、小唄、山城舞楽などが奉納されます。

汲池(十輪寺の飛び地境内) 十輪寺参道
山門 境内
本堂 鐘楼(文化財指定)
光源氏?在原業平(ありわらのなりひら)

歌人として古今和歌集に30首が入集し和歌序に六歌仙、三十六歌仙の一で「伊勢物語」の主人公とされます。父は平城天皇の皇子・阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王で業平は桓武天皇の孫として皇統血筋でしたが「薬子の変(嵯峨天皇の時、薬子と薬子の兄・藤原仲成が奈良・平城京に遷都を画策)」で平城上皇が出家し阿保親王も太宰権帥(だざいのごんのそち/太宰府)に左遷され親王の子供は在原の姓を賜り臣籍に下り圧倒的な勢力を握る藤原氏の下位にある事を余儀なくされ政治的には不遇な生涯を送りました。仁明天皇の蔵人となり嘉祥2年(849年)、従五位下に昇進、文徳天皇の代になると13年に渡って不遇時期を過ごし清和天皇の代でようやく従五位上に序せられ右馬頭、右近衛権中将、蔵人頭に昇進しました。惟喬(これたか)親王の従妹である紀有常女(きのありつねのむすめ)を妻とし紀氏と交流がありました。子に棟梁、滋春、孫に棟梁の子・元方があり皆、歌人として知られます。業平は「三代実録」に体貌閑麗と記される程、眉目秀麗な美男子で自由気儘な色好み、人並み優れた歌才を持っていたとされます。伊勢物語中、藤原高子(二条后)、伊勢斎宮などとの禁断の恋も記され「源氏物語」の光源氏のモデル説(藤原道長説あり)もあります。

石仏(鎌倉期?) 業平所縁の塩釜跡
在原業平(ありわらのなりひら)塔

元はここより下檀にあったとされ中世にここに移す時に土中から甕(かめ)を発掘したと伝えます。古来、当地を業平閑居の地と伝え彼が難波(大阪)から塩水を汲み寄せて塩を焼いたという塩釜跡、潮溜池(潮汲池)と称する小池などが現存しています。

在原業平塔 花山院家累代墓所 三界萬霊六親春属石像
三方普感の庭(高廊下、茶室、業平御殿)
思わず手を合わせました・・・合掌 善峯寺参道(一の橋) 源算上人座禅石
西山宮門跡「善峯寺」

釈迦嶽支峰の善峰の中腹にある西山(せいざん)と号する天台宗延暦寺派の寺院で伽藍は険しい山崖に建っていて山麓から仁王門迄の山道の途中に座禅石と称する大石があり源算上人が座禅修法中、一老翁から仏寺の建立を頼まれ地形の険しさに困窮していると野猪の群れが現れ土地を均したので伽藍を建立できたと伝わります。寺伝によると平安中期の長元2年(1029年)、源算上人によって開かれました。源算上人は「往生要集」を著した恵心僧都の高弟で、因幡(鳥取)に生まれ横川(比叡山)の恵心僧都に従い顕密の蘊奥を極め47歳の時、当山に入り小堂を結び、十一面千手観音像を刻み本尊とし仏法を興隆しました。長元7年(1034年)9月、後一条天皇より鎮護国家の勅願所に定められ「善峯寺」の寺号を賜り歴代天皇の崇敬篤く、長久3年(1042年)、後朱雀天皇の時、洛東鷲尾寺の仁弘法師作・十一面千手観世音菩薩像を当山に遷して本尊となし先の十一面千手観音像を脇壇とし白河天皇が諸堂を建立しました。中世には「西山宮」と号する門跡寺院となり、室町時代には後花園天皇が伽藍を改築され僧房52の多きを有する大寺院となりましたが応仁の乱(1467〜77年)の兵火で焼失し現在の諸堂の多くは江戸時代に徳川5代将軍・綱吉の生母である桂昌院によって再建されました。元和7年(1621年)、再建の多宝塔は山内最古のもので「大元帥明王軸(鎌倉時代)」と共に重要文化財に指定されています。京都府指定の文化財としては「善峯寺曼荼羅」二幅があります。日本一の松とも称される樹齢約600年の五葉松は「遊龍の松」と呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。西国三十三所観音霊場の第二十番札所、洛西一番札所でもあります。

仁王門 参道
観音堂(本堂) 青竹の手水に氷が付着しています!(@_@) お香水(閼伽水)
日本一の松と称される「遊龍の松(天然記念物)」 護摩堂 不動明王五大尊(護摩堂)
市内の絶景(峰定山〜比叡山〜伏見方面:ズーム撮影)
鐘楼、良い鐘の音色でした!(;^_^A 山内最古の多宝塔(重要文化財:江戸期) 樹齢600年と伝える「遊龍の松(天然記念物)」
幸福地蔵 桂昌院廟参門
桂昌院廟宝篋印塔(ほうきょういんとう)

桂昌院廟は宝永2年(1705年)6月22日、79歳で逝去した徳川5代将軍・綱吉の生母である桂昌院の遺髪を納めています。宝篋印塔には鎌倉時代に慈円大僧正により伝教大師筆の法華経が納められました。

桂昌院廟 宝篋印塔 十三仏堂(桂昌院建立)
本坊 境内 青竹の手水・・・氷が付着!(@_@)
釈迦堂 薬湯殿 奥の院参道
市内の絶景(鞍馬山〜比叡山〜伏見方面)
徳川5代将軍・綱吉の生母・・・桂昌院

伝によると寛永4年(1627年)、京都堀川の八百屋仁右衛門の次女として生まれ名をお玉と言いました。父・仁右衛門は、二条関白の家司である本庄家と交流があり、後にお玉は徳川家光の愛妾・お万の方と二条家に所縁があった為に3代将軍・家光の側妾・お万の方の侍女として江戸へ下りました。18歳のお玉は、家光の寵愛を受け側室に加えられお玉の方と呼ばれました。20歳の時に徳松(5代将軍・綱吉)を生み慶安4年(1661年)4月20日、26歳の時、家光の死に際し落飾(尼)して桂昌院と称し綱吉と共に江戸藩邸に住みました。延宝8年(1681年)8月、54歳の時に綱吉が5代将軍に就任し江戸城の三之丸に居を移し三之丸様と呼ばれ大奥での力は絶大となり元緑15年(1702年)3月、76歳の時に従一位という最高位に叙せられました。宝永2年(1706年)6月22日、江戸城中にて79歳で逝去し芝増上寺に葬られ善峯寺にも遺髮、歯が納められたと伝えます。

けいしょう堂・・・桂昌院を祀り傍らに仔犬が・・・桂昌院様の御手と頬は冷たかった?!(;^_^A 仔犬の頭も・・・ 薬師堂
薬師堂 十三重塔 蓮華寿院庭
青蓮院宮墓、慈鎮和尚墓

善峯寺の住職を務めた宮様の廟所です。覚快(鳥羽皇子)、道覚(後鳥羽皇子)の両法親王墓は五輪塔、慈道(亀山皇子)、尊円(伏見皇子)、尊道(後伏見皇子)の三親王墓は宝塔をもって標しとされています。慈鎮和尚墓は高さ1mあまりの笠石付無銘の円筒です。慈鎮は一に慈円とも言われ藤原兼房の弟ですが出家し天台座主となり嘉禄元年(1225年)71歳で没しました。

本庄家一族塔 青蓮院宮御廟 慈鎮和尚
宇都宮頼綱(実信房蓮生)墓

頼綱は北条時政の娘婿ですが元久2年(1205年)、疑われて出家し法然の門下となり実信房蓮生と号しました。和歌を嗜み藤原定家と親交があり定家の嫡子・為家の夫人は頼綱の娘でした。正元元年(1257年)11月12日に没し遺言により証空上人の墓側に葬られました。

蓮生(左)、証空(中)、観性上人塔(右) 経塚跡(慈母観音菩薩像) 善峯寺の伽藍
市内の絶景(比叡山〜伏見〜宇治、山城方面)
青蓮の滝 稲荷神社 阿弥陀堂
径堂(絵馬堂) 桂昌院の歌碑 桂昌院手植えの「しだれ桜」
桂昌院手植えの「遊龍の松(天然記念物)」 下乗石で待機していた馬?基!キララ号
阿知坂明神(善峯寺鎮守社) 三鈷寺への山道
三鈷寺参道・・・春の気配・・・
三鈷寺(さんこじ)

叡山横川の源信(恵心)僧都の高弟で善峯寺を開基した源算上人が承保元年(1161年)、隠居所庵の往生院と号したのが当寺の起こりで第二代・観性、第三代・慈円の隠居所でした。善峯寺第四代住職・証空が、この隠居所を慈円から譲り受けて不断如法念仏道場としました。開祖・証空が、背後にある三ヶ峯が密教法具三鈷杵に似ている事から三鈷寺と改められ善峯寺より独立しました。証空は、法然上人の高弟でもあったが、以前は慈円僧正の弟子で慈円僧正に法然同様に庇護されていました。証空上人は、曹洞宗開祖・道元禅師と兄弟で久我家の出であるが清貧を貫き家来共々、上人に帰依し宇都宮頼綱が庇護したとされます。中世は浄土宗西山派の根本道場として多くの寺領や末寺を有したが応仁の乱後、諸堂ことごとく転退し近世は豊臣秀吉の寺領没収、徳川綱吉の寺域縮小惜置に遂に旧観の再興はできませんでした。現在は、西山宗の本山として単立寺院です。

拝堂 本堂
境内 山門 市内の絶景(伏見方面)
市内の絶景(鞍馬山〜比叡山〜伏見方面:ズーム撮影)
大歳(おおとし)神社

灰方、小塩の産土神で古くは栢森大明神と称され大歳神を祭神とします。一に大年神とも記し穀物、特に稲作を司る神として古来、農民から崇敬されました。創祀年月は定かでないが、養老2年(718年)とも伝えられる式内社で延喜の制には大社に列せられている古社です。石作神社は相殿に石作氏の祖神を祀った氏神(石作神、豊玉姫)を合祀しされています。石作氏は垂仁天皇の后、日葉昨姫(そはすひめ)が逝去の時に石棺を献上し、石作大連公(おおむらじのきみ)の姓を賜ったとされます。

大歳神社 神門 拝殿、本殿
在原業平(ありわらのなりひら)父母塔

「伊勢物語」第83段に業平の母(桓武天皇皇女・伊登内親王)が長岡の里に隠棲されたと記されている事に因んで後世、当地に業平、母・伊登内親王、父・阿保親王の墓とされる小五輪石塔が造られたものです。

神石 在原業平父母塔(左より業平、業平の母、父の墓) 山麓(上羽町)から善峯寺、三鈷寺をズーム撮影

Tourist  2005.02.21(M)

 

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