鳥羽の里史跡散策

 

何となく 物がなしくぞ 見えわたる 鳥羽田の面の 秋の夕暮れ 西行

 

近衛天皇安楽寿院南陵(多宝塔)

三尊石仏の祠

冠石(かんむりいし)

五輪石塔(如法経塚)

冠石は保延7年(永治元年:1141年)、鳥羽上皇が法皇になった時この石の下に冠を埋めたと伝わります。上皇が出家されると法皇(法王)と称します。

本堂(北向山不動院)

中宮塚

中宮塚の詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。

成菩提院塚

本殿(城南宮)

成菩提院塚の詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。

展覧菊(城南宮)

白河天皇成菩提院陵

鳥羽離宮田中殿跡碑

白河上皇没後、鳥羽上皇も継承し28年間に亘り院政を執りました。当時に建てられたのが田中殿でした。田中殿は皇女・八条院の御所として鳥羽上皇が造営し殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂)などが附属していました。

金剛心院塚(後宮塚)

比叡山(桂川洗い堰)

金剛心院塚(後宮塚)の詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。白河院没後、鳥羽上皇も引き続き28年間院政を行ったが、その時建てられたのが田中殿(御所)であった。田中殿は皇女八条院の御所として鳥羽上皇が造り、金剛心院は田中殿内にあった御堂でした。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。

愛宕山(久世橋)

夕暮れ(嵐山サイクリングロード名神高速付近)

伏見の名跡旧跡

伏見は文禄年間(1592〜96年)、豊臣秀吉が伏見城を築き、城下町を形成した事で繁華地となりました。

特に淀川の水運を利用した物資の集積地として伏見は淀と共に繁栄しました。参勤交代による西国大名の行列や伊勢参宮に赴く者は

全て伏見の京橋に上陸し陸路で山科を経て東上しました。明治以降、陸運の発達によって衰徴し加えて陸軍第十六師団の設置に

よって多くの遺蹟が破壊されたと伝えます。洛南(山科、南、伏見区などの京都市南郊)地域は他地域より名跡、旧跡が

少ないのはこの為とされますが城南宮、安楽寿院のある鳥羽界隈は、伏見の中でも名跡旧跡が数多く点在していると思います。

 

酒蔵(高瀬川)

「伏見百景」でも有名な酒蔵で春に菜の花が咲き乱れた様は絶景です。高瀬川に鴨が泳いでいます。

酒蔵(高瀬川)

高瀬川、疎水放水路合流地点

桃山城(高瀬川)

安楽寿院

平安京の羅城門(正門)から「鳥羽の造り道(つくりみち:鳥羽街道)」を南進すると当地界隈に出ます。この所以から鳥羽離宮を城南(せいなん)離宮と称したと伝わります。鳥羽離宮として往時を偲べるのが安楽寿院です。安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿でしたが、保延3年(1137年)、覚行法親王が寺院に改めました。

近衛天皇安楽寿院南陵(多宝塔)

安楽寿院

明治天皇御小休所安楽寿院石碑

大師堂(左)、阿弥陀堂(旧本堂)

三尊石仏の祠

鳥羽、白河法皇院政之地碑

鳥羽天皇安楽寿院陵

籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で位につけ、後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事で史上有名な天皇で保元元年(1156年)、鳥羽殿において崩御されました。

冠石

鳥羽天皇安楽寿院陵

五輪石塔

北向き不動院

鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立されました。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝えます。

北向山不動院山門

千手観音、虚空蔵、文殊、普賢菩薩(左から)

鳥羽上皇寵愛の松

本堂

洗心井(せんしんい)と御滝

城南宮

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と伝えます。

成菩提院塚

一の鳥居(城南宮)

城南宮

手水(菊水井)

展覧菊

本殿

白河天皇成菩提院陵

鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬しました。

境内

白河天皇成菩提院陵

西行寺跡碑(火消地蔵堂)

鳥羽離宮田中殿跡碑

金剛心院塚(後宮塚)

鳥羽伏見の戦い戦碑(小枝橋)

鳥羽・伏見の戦い(小枝橋、鳥羽離宮跡公園:秋の山)

慶応4年(1868年)1月3日夕刻、東軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。小枝橋界隈から戊辰戦争の開戦となった「鳥羽・伏見の戦い」の火ぶたが切られました

鳥羽・伏見戦跡碑〔秋の山〕

鳥羽・伏見の戦い碑(鳥羽離宮跡公園)

鴨川と比叡山(京川橋)

神川神社

神川座住吉神社と称した 式内社です。鴨川村の産土神で元は住吉神社といわれました。文政年間の当社神主古川為猛の「住吉社之略記」によれば、鴨川、桂川の落ち合う瀬の為に度々難破船があり、摂津の住吉社の御神霊を勧請したものとされています。

桂川と愛宕山(久我橋)

神川神社

割り拝殿

久我神社

8世紀末、桓武天皇の長岡京遷都の延暦3年(784年)頃に、都の北東の守護神として鎮座されたと云われる。延喜式内社であり京都市でも最古の神社の一つである。一説には『山城国風土記』逸文にいう賀茂氏が、「久我の国」に居をすえ、祖神を祀ったのが当社であり、更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとも云われる。又、西方から丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、別雷神が生まれたと云われる。尚、境内には「お唐臼」という石臼が奉られている。これを持ち帰った者に祟り、元に戻したと伝える。

本殿

久我神社

割り拝殿

本殿 お唐臼(おからうす) 誕生寺山門

妙覚山・誕生寺(みょうがくさん・たんじょうじ)

誕生寺は久我家(道元の父・久我通親:みちちか)の旧跡と伝えられ、大正8年(1919年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(こが:くが)に越前小松荘にあった妙覚寺の本堂を移築した為、安置されている道元御尊像、50世玄透(げんとう)即中禅師木造も妙覚寺のままです。昭和63年(1988年)11月、本堂や庫裡などが、完成し伽藍の整備もされました。道元禅師が幼少で出家した比叡山延暦寺、深草・欣浄寺、円山公園内の道元荼毘所なども所縁の聖地です。

本堂 豊川咤枳尼眞天(だきにしんてん/豊川稲荷)堂 宝篋印塔:ほうきょういんとう/久我雅美墓所

道元禅師産湯の井戸

ブッタカヤの仏足跡

道元禅師幼少像

菱妻(ひしづま)神社

旧久我村の産土神です。平安時代初期〔永久元年(1113年)〕、鳥羽天皇に久我家の祖右大臣・源雅実が奈良の春日大明神から藤原氏の祖神、天児屋根命を勧請し、源氏の安護神・火止津目大明神として祀られました。広大な神鎮社殿であったが、桂川の大洪水で久寿元年には、菱妻大明神と改められ久我の郷の鎮守、学問運筆上達の神として崇拝されています。

慈母観音像

一の鳥居

二の鳥居

割り拝殿

本殿

一の鳥居

原(すはら)神社跡(菱妻神社)

原神社は乙訓郡における式内社の一で今は所在を明らかにしませんが「神社覈録:じんじゃかくろく」によれば久世の東南、築山村の菱妻神社(旧村社)がその旧跡地と伝えます原は州原の意にも解せられるが各河川がより集まって一面の水原を成している様を簀とも言うので当社は桂川の水辺に祀られていたとされます。

二の鳥居

拝殿

本殿

桂川(久世橋)

愛宕山(久世橋)

夕暮れの名神高速道路(嵐山サイクリングロード)

 Tourist  2004.11.01(M)

 

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