大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)御陵
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室町時代初期、この辺りに北朝の御願寺として七堂伽藍を完備した大光明寺がありました。文和年間(1352〜55年)、後伏見天皇の皇后・広義門院藤原寧子(やすこ)の発願で夢窓疎石(むそうそせき)を開山し建立された臨済宗の寺であったが応永8年(1401年)、失火で消失しました。伏見城築城時に相国寺に移転し現在は、光明天皇、崇光天皇の陵墓と崇光天皇の孫の治仁(はるひと)親王の陵が東西に並んでいます。
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大光明寺(光明、崇高天皇、冶仁親王)御陵 |
伏見城址・・・明治天皇陵、昭憲皇太后陵
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明治天皇は、孝明天皇の皇子で15代将軍・徳川慶喜に大政奉還の勅許を与え、王政復古の大号令を発し幕府を廃し、新政府を樹立しました。戊辰戦争で旧幕府勢力を制圧し、五箇条のご誓文を発して新政府の基本方針を宣言、明治と改元して東京に遷都しました。廃藩置県の断行や大日本帝国憲法の発布など数多くの執政をし近代国家の礎を築きました。桃山丘陵の頂であるこの辺りが木幡山伏見城の本丸や天守閣があったと伝わり明治天皇陵への230段もある石段ですが、登りきると眺望絶景のポイントで明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。
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桃山御陵参道 |
230段の石段 |
石段上からの眺望とです・・・ |
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明治天皇御陵(伏見城本丸跡) |
昭憲皇太后御陵(伏見城名護屋丸跡) |
伏見城お舟入り常夜灯 |
大善寺(六地蔵)
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京都は昔から地蔵信仰が深く、約400年前から京都へ入る街道口にお地蔵さんを奉り、この大善寺を最初として時計回りに巡拝します。大善寺は、浄土宗のお寺で六地蔵の名で知られています。地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀したことから。これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたとされています。
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大善寺(六地蔵) |
地蔵菩薩立像(地蔵堂) |
本堂 |
子安地蔵(日本三体地蔵)
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地蔵尊の守護により、小栗栖には難産の人が少ないといわれます。元、本経寺の近くに粗末な祠(ほこら)がありましたが、日本三体地蔵の一つであることが分かりました。
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日本三体地蔵の一とされる子安地蔵(こやすじぞう) |
日蓮宗「本経寺」 |
明智薮、明智塚(明智光秀胴塚)
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明智薮は天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀は勝龍寺城から間道を抜けて伏見大亀谷を経て坂本の居城を目指して逃れる途中、当地にて竹槍で刺され最期を遂げたと伝えます。碑には「信長の近臣小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃により・・・」と記されています。明智塚(明智光秀胴塚)小栗栖で刺され自刃した明智光秀の胴体が埋められた所と伝わります。
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明智藪 |
龍瓦(西方寺山門) |
明智塚(明智光秀胴塚) |
山科本願寺跡
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山科本願寺は現在の東西本願寺の前身で寛正6年(1465年)、東大谷の地を追われた蓮如上人は各地を転々とし難を逃れたが文明9年(1477年)本願寺の最有力被護者である園城寺(おんじょうじ:三井寺)の支配下にある当地を選んで本願寺再建を計りました。文明12年(1480年)に御影堂が落成し翌年、阿弥陀堂が竣工し次いで寝殿、向所、常屋、小堂など多くの坊舎が建てられ庭園座敷の美麗さは人目を大いに驚かせたと伝えます。寺の周囲に土畳(土塁)を廻らし「山科本願寺ノ城」と言われる程の城郭的設備を備え門前には八丁にも及び現在の京都御所にも匹敵する広大な寺内町ができました。中世の山科は本願寺によって占められました。しかし、蓮如の死後、実如、証如が法主を継いだが天文元年(1532年)、細川晴元と事を構え、六角定頼と法華宗徒4万の来攻によって再び京都から逃避の憂目に会いました。本願寺が山科にあったのは53年間で旧地は永く廃墟となり現在、西野一帯に往時の土塁跡を偲ばせる土手薮などが点在し山科中央公園には大きな土塁が残っています。
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旧山科駅跡碑 |
親鸞が東野に堂を建立した仏光寺旧址碑 |
「山科本願寺土塁跡西南角」碑と解説板 |
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昔ながらの風情ある町並みとです・・・ |
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山科本願寺の土塁跡 |
蓮如上人御廟所
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蓮如上人は明応8年(1499年)3月25日、山科本願寺で85才で示寂し遺骸は当地に埋葬されました。天文の法乱には本願寺が大阪石山に移った後も墓だけは残りました。江戸時代、この墓地に関して東西本願寺間で紛議を生じたが現在は両寺の共同で管理されています。
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蓮如上人御廟所(後部に山科本願寺の二の丸土居の一部現存)
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西宗寺 |
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蓮如上人放鷺の像 |
境内 |
脇門 |
奴(やっこ)茶屋
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旧街道筋に設けられた腰掛け茶屋で片岡丑兵衛の創始と伝えます。丑兵衛は南朝の遺臣の家来とされ頗る武芸に長じ義侠に富んでいました。京都大津間を往来する人の為に茶店を設け常に店先に弓、刀、槍などを飾って旅人の護送にあたりました。それより茶店を「奴茶屋」と呼ばれ武勇と任侠は世の賞賛するところになったと伝えます。和宮(孝明帝妹)が徳川家降嫁にあたってここで休息され明治天皇も東篭東行にあたりしばし鳳輿を留めました。
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明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡) |
琵琶湖疎水(第一疎水) |
毘沙門堂 |
毘沙門堂
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天台宗門跡寺院の名刹で鎌倉時代の建久6年(1195年)、平親範が上京区出雲路に平等寺(葛原親王建立)、尊重寺(乃祖親信建立)、護法寺(亡父範家)の三ヶ寺を合わせて再興した寺を言い毘沙門天を本尊として安置したので毘沙門堂と言いました。出雲寺の寺蹟を継いだので山号も出雲寺と号し伝教大師を開祖とし一に北辺毘沙門堂とも言い鎌倉〜室町時代に京北の名刹として知られました。応仁の兵乱に焼亡し久しく荒廃していたのを慶長年間、江戸幕府の政治顧問的な存在だった天海僧正が再興を計り徳川家は安祥寺の寺域を割いて与えました。天海は工事半ばにおいて没したが寛文5年(1665年)に再建工事が終了し公弁法親王(後西帝皇子)が入寺され世々、法親王をもって住持とし門跡寺院となりました。
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キララです。待機とです・・・ |
仁王門への石段とです・・・ |
仁王門です。ゲゲッ!改修中とです・・・(>_<) |
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本堂です。改修中とです・・・ここもかい?!(T_T) |
経蔵 |
弁財天 |
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弁財天 |
お滝場とです・・・ |
境内とです・・・ |
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玄関 |
寝殿 |
山門 |
山科聖天(護法山双林院:毘沙門堂門跡塔頭の一院)
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寛文5年(1665年)、公海大僧正によって毘沙門堂とともに毘沙門堂門跡の塔頭の一院として再建され本尊とされる大聖天歓喜天像は、十一面観音と大日如来の化身とされ頭が象で、首から下は人間の姿で二体が向かい合って抱擁されているので「男女合体神」、「陰陽和合」を表わすとされ厨子に納められ秘仏として拝まれ霊顕崇める天尊とされ本尊のほか70体近い歓喜天像を合祀しています。
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勅使門 |
参道とです・・・ |
山科聖天(双林院) |
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山門 |
大聖天歓喜天像を祀る聖天堂 |
比叡山・無動寺より勧請した不動明王を祀る不動堂 |
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お滝場 |
琵琶湖疎水です。涼しかとです・・・ |
第一疏水洞門(どうもん)
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明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疎水(第一疎水)は工部大学(東京大学)を卒業したばかりの田辺朔郎(さくろう)が設計し僅か5年で完成し水力発電などに利用され日本初の電気鉄道(伏見線)を開通させるなど京都の近代化に大きな役割を果たしました。第一疏水の各トンネルには明治政府要人による題字が彫られた洞門があります。第二トンネル東口には井上馨の「仁以山悦智為水歓(仁は山を以って悦び智は水と為るを歓ぶ)」、西口洞門には西郷従道の「随山至水源(山に随いて水源に至る)」と彫られています。
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第2トンネル(左:東口洞門、右:西口洞門) |
琵琶湖疎水 |
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取水場 |
ニャンだ君は?!(*≧m≦)プッ |
日本最初の鉄筋コンクリート橋 |
本邦最初鉄筋混凝土橋(ほんぽうさいしょてっきんこんくりーときょう)碑
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大津市三保ヶ崎の琵琶湖取水口〜山科・蹴上を経て京都市内に至る琵琶湖第一疏水の第三トンネル東口に明治36年(1903年)7月に架けられた日本最初の鉄筋コンクリートで造られた橋です。
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日本最初の鉄筋コンクリート橋 |
本邦最初鉄筋混凝土橋碑 |
大正10年(1921年)に開通したJR東山隧道の石額(題字)には「山紫水明」(右)、「古今相照」と彫られる。
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元慶寺(がんけいじ:西国三十三札所の番外札所)
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元慶元年(877年)遍昭僧正によって開創された天台宗延暦寺派の寺で華頂山と号します。旧地は今の所より西北にあたる東山花山にあったと伝えます。寛和2年(1005年)、花山(かざん)天皇は19才で当寺において出家落飾され寺名をとって花山法皇と号しました。往時の寺格は頗る高く定額寺に列せられ多くの寺領を有する名刹でしたが応仁の兵火によって鳥有に帰しました。今の建物は安永年間の再建とされ本堂に本尊・薬師如来像、遍昭自作と伝える木像や花山法皇の宸影を奉安し鐘楼には寛政9年(1797年)在銘の梵鐘(江戸期)を掲げます。西国三十三札所の番外札所です。
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電車が通過しているとです・・・ |
竜宮造りの山門 |
境内 |
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歌碑 |
本堂 |
花山(かざん)神社
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社伝によると延喜3年(903年)、醍醐天皇の勅命により創建され祭神は宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)、神大市比売大神(かむおおいちひめのおおかみ)、大土之御祖大神(おおつちのみおやのおおかみ)の三神を奉ります。通称、花山稲荷とも呼ばれ拝殿の右側に「稲荷塚」と呼ばれる古墳があり平安時代後期に、三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が、稲荷大神の神徳により、名刀「小狐丸」を鍛えたところと伝えます。江戸時代には、当社近くに隠栖していた大石内蔵助(くらのすけ:良雄)も当社を崇敬し大願成就を祈願したとされ境内に大石献納の鳥居、断食石、血判石などが残っています。
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庫裡 |
花山神社 |
境内 |
吉利倶(キリク)八幡宮(山科・勧修寺)
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仁寿3年(853年)の勧請で応神・仲哀天皇・神功皇后を祭神とし勧修寺、小野の産土神です。昔、境内の老杉が風で倒れ板にすべく裁断したところ木面に阿弥陀如来の種子(梵字)「吉利倶:キリク」の3文字があった。その板を建てた事に因んで吉利倶八幡と称しました。
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本殿(花山神社) |
吉利倶(キリク)八幡宮 |
拝殿 |
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本殿 |
山科川、宇治川合流地点 |
澱川鉄橋(有形文化財:昭和期/宇治川) |
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おけいはん(京阪電車・本線) |
十石舟 |
酒蔵 |
Tourist
2005.6.27(M)
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