平安京道「鳥羽の造り道:楽水編」

 

城南の杜〜塔の森探訪

 

楽水苑(城南宮神苑)〜恋塚寺(壇ノ上)〜鳥羽水環境保全センター(鳥羽下水処理場)

 

雅の杜・城南宮から鳥羽の造り道をチャリ散策しました。鳥羽水環境保全センターで藤棚の一般公開を楽しみました。

藤などの花香りが漂う花木が大変綺麗に手入れされているのに驚きました。市区民などの憩いの場として開放して欲しいと思います。

 

万寿松とツツジ(城南宮・楽水苑「室町・桃山の庭」)

一般公開された「ノダフジ」と「ヤマフジ(白)」(鳥羽水環境保全センター)

 

鳥羽の造り道

平安京朱雀大路の南端、羅城門に通じる道をいいます。その末は桂川を経て久我畷に達する平安京と西国を結ぶ大切な道路で平安遷都時に造作されたと伝わります。

高瀬川

角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。

高瀬川と酒蔵

高瀬川と疎水放水路合流地点

高瀬川と七瀬川合流地点

楽水苑(城南宮神苑)

社殿を取り巻く約1万坪(33,000u)の社苑は、春の山(本殿西側)、平安の庭(本殿東側)、室町、桃山、城南離宮の庭(本殿南側)と繋がり、総称して楽水苑(らくすいえん)と称します。

中宮塚(陵墓参考地)

城南宮

春の山

椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリと春の草木が次々と景色を彩るのが春の山です。6月末、半年間の穢を小川に流して心身を清める「人形(ひとがた)流し」が禊(みそぎ)の小川で行われます。白河上皇は城南離宮を築く際に、「源氏物語」に描かれた光源氏の四季の庭を備えた六條院をモデルにしたと伝わり、「春の山」と対を成す「秋の山」が国道1号線を隔てた西側にあり、史蹟公園になっています。

菊水若水井

藤棚(春の山)

平安の庭

貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。

大杉社とツツジ(平安の庭)

万寿松とツツジと臥竜石(室町・桃山の庭)

室町の庭

藤棚とツツジ(室町の庭)

城南離宮の庭

城南の地が最も華やかであった離宮時代を表す枯山水庭園です。玉砂利が離宮の池を、緑濃い龍の鬚(ひげ)が覆う部分が陸地を、そして岩組みが殿舎を表現しています。

城南離宮の庭

西参道と鳥居

恋塚寺(壇ノ上)

遠藤武者盛遠(文覚上人)が、上西門院(後白河法皇の姉)に北面の武士〔上皇の院御所を守衛する武士の事〕として仕えた。同僚の妻・袈裟御前に横恋慕し、夫・渡辺左衛門尉源渡を殺そうと侵入したが、身代わりとなった袈裟御前を切ってしまった。袈裟御前の首を、付近の池で洗った時、池の水が、まっ赤になったので「赤池」と呼ばれるようになった・・・僧となり文覚と名乗り、赤池の地に墓を作り恋塚と称し一宇を建てたのがこの寺の興りと云われています。同所は「壇ノ上」があったとも伝わります。「鳥獣戯画」の筆者として知られる鳥羽僧正覚猷(かくゆう)は鳥羽離宮の護持僧となり証金剛院に長く住まいし当地は僧正が宝作無窮を祈願し護摩を修した壇の跡とも伝えます。「恋塚」のコイは「小枝」の転訛によるものと伝わり「小枝塚」が「恋塚」と訛り、繋る物語が作られたと伝わります。もう一宇、上鳥羽の浄禅寺も恋塚寺と称されています。

恋塚寺

鳥羽離宮跡公園

鳥羽離宮跡公園(鳥羽離宮南殿跡)

鳥羽離宮は平安時代後期に白河上皇が造営した離宮です。広大な敷地に鳥羽殿と云われた南殿、 北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造られた と云います。その光景は広大な池を有する 庭園、舟が行き交う遊園の地、浄土の地とも云われました。

鳥羽・伏見の戦い(小枝橋、鳥羽離宮跡公園:秋の山)

慶応4年〔1868年〕1月3日夕刻、東軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。小枝橋界隈から戊辰戦争の開戦となった「鳥羽・伏見の戦い」の火ぶたが切られました

鳥羽伏見の戦い碑(鳥羽離宮跡公園)

鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡・秋の山)

塔の森(賽の河原:さいのかわら)

西高瀬川と桂川の畔一帯を称し、古くは平安京右京佐比大路の南端にあたり、佐比ノ里又は佐比河原ともよばれ、早くから庶民の葬送地でした。「三代実録」によれば貞観11年(869年)、付近に佐比寺があり桂川に佐比橋が架けられ弘野宿禰河継(ひろのすくねかわつぐ)が送葬者の便を図って橋を修理し、費用を寺に寄進したとされます。貞観13年(871年)閏8月、当地を農民の葬送地、放牧地とされ一般耕作を固く禁じました。塔の森とは多くの庶民を葬った墓石などがあたかも森の様に林立した様が地名の由来になりました。因みに佐比大路は道祖大路ともいい、道祖を一に塞神(さえのかみ)ともいいます。この佐比と塞が混同視され後に地蔵和讃に詠われる「賽の河原:さいのかわら」地であった所以です。

鳥羽伏見戦跡碑(小枝橋)

塔の森界隈

下水処理施設

鳥羽水環境保全センター(鳥羽下水処理場)

西高瀬川と桂川に挟まれた塔の森にあります。京都市における下水処理場は昭和9年(1934年)4月、吉祥院下水処理場(処理能力7,800立法m/日)が最初で昭和14年(1939年)4月、鳥羽下水処理場(処理能力78,000立方m/日)が165,840u(50,166坪)の規模で新設され活性汚泥法による処理で下水は先ず沈砂池で土砂、ゴミなどを取り除きポンプにより沈殿池に送り込みクラリファイアー(池の中に出ている橋状)で池中の泥を攪拌し、曝気糟(ばっきそう)で殺菌浄化し更に最終沈殿池を経て西高瀬川に放流されています。現在、5か年計画(平成13年〜平成17年度まで)で計画総事業費1,150億円、整備面積190ha(累計15,211ha)、処理能力累計138.4万立方m/日(うち高度処理能力累計26.2万立方m/日)という処理施設拡張に着手しています。平成16年(2004年)4月1日〜施設の名称を「鳥羽水環境保全センター」に変更され甲子園球場13個分もの広大な敷地面積を有し、全国4番目の処理能力を誇る下水処理場です。

沈砂池、沈殿池クラリファイアーなどの下水処理施設

藤棚やツツジなど緑が多い処理場々内

一般公開された藤棚

一般公開された藤棚

遊歩道

見事なツツジ

 Tourist  2004.04.26(M)

 

関連コラム

鳥羽の造り道:羅城門編

平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」散策

城南宮、鳥羽水環境保全センターの藤棚散策

鳥羽の造り道:楽水編

上鳥羽、羅城門、東寺〜伏見街道散策

鳥羽の造り道:羅城門編

城南宮の「楽水苑」

城南宮の「楽水苑」

雅の杜〜絢爛の山散策

絢爛の華道

花・水・木散策

源氏物語ゆかりの華庭

鳥羽殿の雅散策

雅の里

王朝〔貴族〕文化散策

王朝ロマン

伏見下鳥羽界隈

伏見下鳥羽界隈

   

 

戻る 洛雅記2004年探訪コラム

 

inserted by FC2 system