伏見歴史蹟チャリン覇(その三)

 

よろこびの 裸踊りや 日野薬師  丈石

 

伏見全域歴史蹟チャリチャリ「小栗栖エリア、醍醐エリア、日野エリア」

 

小栗栖、醍醐、日野エリア

院即成就院跡(そくじょうずいんあと)

平安時代後期、関白・藤原頼道の子・橘俊綱が桃山丘陵に豪壮な山荘を構えました。俊綱没後、山荘内の持仏堂を伏見寺とし、後に即成就院と称しました。「伏見山寺宮近廻地図大概」には中世にはこの辺り一帯を即成就院村と称し伏見殿、大光明寺、蔵光庵などの寺院が描かれており付近には庶民の家屋も点在していました。伏見山荘は後に白河天皇に寄進され皇室領となりやがて伏見宮家に伝領されこの間にも即成就院も何度か建替えられましたが、応仁の乱で完全に荒廃し文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見山荘跡地辺りに伏見城を築城する事となり当地に移転する事となり明治5年(1872年)迄あった即成就院跡です。現在、即成就院は方安寺と共に泉涌寺(せんにゅうじ)に遷され、その名跡を残しています。即成就院(そくじょうずいん)跡地には那須与一の墓所と称する方墳や与一誕生井と称する古井戸がありますが、これは下野国の那須荘をこの寺領として寄進した事による付会した伝説です。

即成就院跡

那須与一の墓所

記念山へチャリチャリ・・・σ(^◇^;)

記念山

小栗栖道の途中、深草官谷町の一丘を称します。日露戦争後、北村宗次郎なる人が山を切り開き歩兵38連隊の戦没者の為に記念碑を建てた事から一に記念山と呼ばれました。他に楠正成や乃木将軍の銅像もあったようですが今は、取り壊されています。道の東側の丘上に元、白砂稲荷社と称する小社がありましたが、社殿を取り壊されて現存しません。東側は深い渓谷となり火打谷と呼ばれています。山城盆地の南部を一望できる景勝地ですが、近年、宅地開発が凄まじく以前の山姿が大きく変貌しているようです。

ダートな激坂をチャリチャリ σ(^◇^;) 記念山では大規模な宅地開発! (@_@;)

記念山からの眺め

石像、石碑など

歩兵38連隊の戦没者記念碑

北村宗次郎像?

記念山々頂辺りの田畑

稲荷山の見事な紅葉

大亀谷陵墓参考地(古御香陵墓参考地)

明治初年に桓武天皇柏原陵と内定していた所で室町期の文安2年(1445年)に作成されたとする「旧光厳院古図(伏見山図)」が発見され柏原陵が記され、それが大亀谷陵墓参考地を指すと見られる付近から花崗岩の板材を組み合わせた石棺(石槨:長さ2.57m、幅1.28m、高さ1.10m)が出土し石棺は仏国寺境内に移転、台石は古御香宮神社の社殿前にあります。

小栗栖道をチャリチャリ σ(^◇^;)

大亀谷陵墓参考地(桓武天皇陵候補地)

古御香宮神社

文禄年間、豊臣秀吉が、伏見築城に際し御香宮神社を移築し伏見城の鬼門除けとして祀りました。神社は、伏見城の廃棄後に徳川家康によって現在の御香宮に遷されました。旧地は古御香と呼ばれ同社のお旅所になりました。参道は結構な上り坂で大きな石(伏見城石)がゴロゴロとあります。当社辺りが、桓武天皇陵だという説もあり御陵参考地に指定されています。

古御香宮の境内

桓武天皇?石棺の台石(花崗岩製)

桃山様式?の狛犬

古御香宮神社々殿

明智光秀が通った道と伝え「明智越え」と言われる小栗栖道を右へチャリチャリ σ(^◇^;)
弘法大師が杖の先で掘ったと伝える「弘法大師杖の水」 おぐりす灸
日本三体地蔵の一「子安地蔵(こやすじぞう)」

地蔵尊の守護により、小栗栖には難産の人が少ないといわれます。元、本経寺の近くに粗末な祠(ほこら)がありましたが、日本三体地蔵の一つであることが分かりました。

日本三体地蔵の一「子安地蔵(こやすじぞう)」 日蓮宗「本経寺」
明智薮、明智塚(明智光秀胴塚)

明智薮は天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀は勝龍寺城から間道を抜けて伏見大亀谷を経て坂本の居城を目指して逃れる途中、当地にて竹槍で刺され最期を遂げたと伝えます。碑には「信長の近臣小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃により・・・」と記されています。明智塚(明智光秀胴塚)は小栗栖で刺され自刃した明智光秀の胴体が埋められた所と伝わります

明智日向守光秀供養塔 光秀が竹槍で刺されたと所と伝える明智藪 法淋寺跡碑
法淋寺跡、小栗栖瓦窯跡

法淋寺跡・・・今なお、白鳳時代の瓦を出土し江戸時代の頃は毘沙門天を安置した小堂(太元堂)、太元井と称する井水などがあったが今は一面の田畑になっています。法淋寺は天智天皇の御代、藤原鎌足の長子・定恵和尚が建立した寺で三重塔、弥勒堂、薬師堂などの伽藍があったが早くに荒廃しました。平安時代の入唐僧・暁律師は元、小栗栖の捨て子と言われるが荒廃した法淋寺を再興すべく承和7年(840年)、清涼殿の建物を賜り太元堂とし太元師明王を安置し鎮護国家の修法院としました。太元師法は真言宗の大法の一となり毎年の正月に宮中真言院で修せられる事になり、これが御修法(みしゅうほう)の起こりで供養人は小栗栖の人々によって勤められたと伝えます。御修法は宮中の年中行事となりましたが、今は東寺で修されています。法淋寺がいつ頃廃寺になったか定かでなく太元師法は醍醐の理性院に継承されています。小栗栖瓦窯跡・・・瓦窯は法淋寺の伽藍の瓦を焼く為に造られ近年まで焚口、煙出しなどが完全に残っていたが破却され埋没し一面の竹薮になっています。出土瓦は法隆寺式複弁瓦の正系で対として重弧文(じゅこもん)の瓦も出土し、何れも藤原氏が建立した山階寺の瓦と同一とされます。

法淋寺跡 小栗栖瓦窯跡 明智塚(明智光秀胴塚)
醍醐天皇後山科陵

陵は円形で墳丘を造らずに平とし周囲に空堀をめぐらしています。天皇は敦仁(あつきみ)といい、宇多天皇の第一皇子として仁和元年(885年)、降誕され母は藤原胤子。13才で即位し菅原道真を登用し国を統治したので世に延喜の世と称せられました。「三代実録」、「古今和歌集」が撰修されたのもこの時期です。在位33年、延長8年(930年)9月29日に46才で崩御されました。元は山稜を築かず平地に卒塔婆三基を建て周囲に空堀をめぐらせただけだったと伝えます。

醍醐天皇後山科陵 朱雀天皇醍醐陵
朱雀天皇醍醐陵

人皇61代・朱雀天皇は醍醐天皇の13番目の皇子で延長元年(923年)藤原忠平の五条第において降誕され8才で即位しました。在位16年で天暦6年(952年)8月15日、30才で崩御されました。同月20日、来定寺の北野(東山区泉湧寺雀森町)で火葬し父帝の醍醐陵の傍に葬られました。江戸時代、人家の後方の竹薮に覆われていましたが元治元年(1864年)に修治され現在の陵は方形とし墳丘を造らず鬱蒼とした樹木に覆われています。

朱雀天皇醍醐陵 醍醐寺北門 長尾天満宮
頼政道(長尾天満宮)

摂津源氏の棟梁である源頼政は、平治元年(1159年)、平治の乱では源義朝を裏切り平清盛に加勢し、従三位となり源三位頼政と称した。治承4年(1180年)、以仁王に平氏追討の令旨を出させ、挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中の宇治平等院で自刃しました。この時、醍醐〜宇治に通り抜けた山道を里人は「頼政道」と称しました。

参道の石段(頼政道)をテチテチ・・・
長尾天満宮

慶長5年(1600年)、金堂は延喜帝の遠忌にあたり豊臣秀吉が紀伊(和歌山)・湯浅からの移建を命じたが大工の棟梁が度々病気などになり工事が遅れました。これは菅公が延喜帝の追善供養を妬む祟りであるとされ勅詔によって天満宮に奉幣されたところ無事に金堂も竣工に至ったと伝わります。醍醐町一帯の産土神で本殿は三間社流造、こけら葺。文政4年(1821年)の再建と伝えるが建築の細部には豪華な桃山風の彫刻が見られます。

菅原道真の遺衣を埋納した菅公衣装塚 境内 満天の星のような紅葉
醍醐寺(世界文化遺産)

醍醐寺は、真言宗を学んだ理源大師が山中で修行を積もうと、貞観16年(874年)、笠取山々上に草庵を建てた事に始まり山岳信仰の拠点となり薬師堂・五大堂などが次々と建ち、上醍醐が形成されました。延喜7年(907年)、醍醐天皇の帰依によって朝廷の保護を受ける御願寺(ごがんじ)となり、朱雀・村上天皇の帰依により発展を遂げ、山麓にも伽藍を広げ金堂(こんどう)の前身となる釈迦堂が延長4年(926年)、五重塔が天暦5年(951年)に落成し醍醐寺は、山の上(上醍醐)と下(下醍醐)に伽藍を連ねる大寺院となりました。山の上下にまたがる約8万坪にもおよぶ寺域の広さ、伽藍の規模などは、洛南随一と言われ、上醍醐は西国33カ所巡り第11番札所の准胝(じゅんてい)堂、薬師堂、如意輪堂など佇まいです。山麓の下醍醐には、桃山時代の豪華絢爛さが漂う三宝院(さんぼういん)、京都府で現存最古にあたる木造建築の五重塔、霊宝館などがあります。伽藍ばかりではなく春には広大な境内を約2000本の桜が薄紅色に、秋には山一帯を紅葉が人々の目を楽しませてくれます。

拝殿 本殿 仁王門(西大門/京都府指定文化財:桃山期)
五重塔(国宝:平安期)

五重塔は、醍醐天皇のご冥福を祈る為に朱雀天皇が起工し村上天皇の御代、天歴5年(951年)に完成しました。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものと伝えます。

仁王門〜金堂への参道 清滝宮本殿(重文:室町期) 五重塔(国宝:平安期)
金堂(国宝:平安期)

金堂(国宝:平安期)は豊臣秀吉の命により紀州(和歌山県)の湯浅から移築され主要部は平安末期の様式を完全に残しています。本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財に指定されている。「五大力さん」として親しまれているこの法要は、千百余年のの歴史があり、醍醐寺開山以来継承され、毎年の2月23日には、「五大力尊仁王会」があり、「五大力さん」の分身御影は、醍醐寺一山の僧侶によって7日間、21座にわたり、上醍醐の五大堂においてご祈願されたものです。ご祈願された御影・御守は、あらゆる災難を除いてくれる利益があると伝わり、毎年2月23日のみ授与されます。名物の餅上げの法要は、男子150Kg、女子90Kgの大鏡餅に挑戦します。

金堂(国宝:平安期) 日月門(上醍醐入り口) 弁天堂と林泉(池)
弁天堂と林泉(池) 金堂〜仁王門への参道
葉隠れの術?キララでつ・・・σ(^◇^;) 唐門(勅使門@三宝院/国宝:桃山期) 西総門〜仁王門参道
醍醐寺西総門 塔頭の参道
太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡

太田垣蓮月は、本名を誠といい、夫・子供・養父に先立たれ、33歳で出家し蓮月尼と称した。孤独を求めて岡崎、西賀茂等転々と住まいを移りましたが、ここもその一つで歌を詠み陶器を焼いて静かに余生を送ったと伝わります。

醍醐寺南門 太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡 一言寺
一言寺、頼政道

一言寺・・・千手観音を本尊とする真言宗醍醐寺派の寺で正式には金剛王院と言います。少納言信西の女、阿波内侍が清水寺本尊の霊告によって建立したと伝わる。明治になって「金剛王院」と合併し現在に至っています。本堂には千手観音、不動明王像、阿波内侍像が安置されています。本尊・千手観音菩薩は本堂に安置され、ただ一心に祈ると言下に願いが叶うとされ、一言寺という名の由来になっている。境内に大きなヤマモモの木があり、天然記念物に指定されていて春に見事な花が咲き、6月頃に赤い実をつけます。頼政道・・・一言寺の石段途中を横切る小道は、治承4年(1180年)平家追討に立ち上がった源頼政が、利あらず大和へ逃げ落ちる為、この道を通ったとされる所以から頼政道と里人に言われています。

参道からの眺め 境内の紅葉 本堂
栢杜(かやのもり)遺跡

醍醐寺の子院であった栢杜堂、大蔵卿堂、庭園遺跡で昭和47年(1972年)に発掘調査が行われ文献通り大蔵卿源師行の八角円堂の存在や重源が栢杜堂で九体丈六堂を建立した事が判明しました。平安〜鎌倉時代の建築様式がよくわかる貴重なものとされます。

頼政道をチャリチャリ・・・ ゲゲッ!イノシシを捕獲する罠?!(@_@;) 栢杜遺蹟碑
従三位平重衝(しげひら)卿墓

平清盛の五男で三位中将・平重衝は、一の谷の合戦で捕らわれ文治元年(1185年)6月、大津〜醍醐路を経て大和に向かう途中、日野へ立ち寄り北の方(妻)と今生の別れを惜しんだ。同年6月23日、大和・木津河原で処刑され遺骸は当地に埋葬されたと伝える。2人が相会した河原を阿以波川(現、合場川)、重衝が別離の情を琴の音に託した所以から琴弾山と称すると伝えます。

栢杜遺蹟 従三位平重衝(しげひら)卿墓

法界寺(日野薬師)

真言宗醍醐派に属する法界寺は、日野薬師とも言われ、一般に安産・授乳に霊験のあるお寺として知られています。弘仁13年(822年)、藤原家宗が薬師如来を祀ったのが始まりで、永承6年(1051年)、藤原氏一族、日野資業(ひのすけなり)が薬師堂を建立した寺院で「阿弥陀堂(国宝)」は兵火をかいくぐって残り、藤原時代の遺構として宇治・平等院鳳凰堂、大原三千院・往生極楽院や岩手県・中尊寺金色堂と並び貴重な平安時代の代表的な遺構とされる建物です。本尊の阿弥陀如来坐像も国宝に指定されています。僧によって元旦〜14日間、修正会と称して薬師堂で五穀豊穣、天下大平を祈願し結願の1月14日の夜、群参の内、精進潔斎した青少年、壮年の信徒が二組に分かれ、褌姿で水をかぶり身を清め、両手を上げて合掌しながら「頂礼ちょうらい頂礼ちょうらい」と連呼しながら踊ります。踊りに用いれられた下帯(褌)は、妊婦の腹帯として用いる信仰もあります。当夜は、牛王串(ごおうぐし)の御守が授与され、かす汁の振る舞いもあります。

法界寺 法界寺境内
親鸞聖人産湯の井戸、胞衣(えな)塚

親鸞聖人の誕生時に産湯に使われた閼伽井(あかい)の水で「産湯の井戸」と伝えます。聖人の「えな」(胞衣:胎児を包む膜と胎盤)を埋納したという胞衣塚(えなづか)もあります。

阿弥陀堂 本堂(薬師堂) 親鸞上人産湯の井戸、胞衣塚(えなづか)
誕生院

本願寺第20代・広如宗主の文政11年(1828年)9月、宗主・親鸞聖人の誕生地である日野を顕彰して1つの堂宇が建てられたのが日野誕生院の始まりです。親鸞聖人の父・日野有範(ありのり)卿に因んで有範堂とも宝物堂とも言われた。前代の本如宗主は、宗主の顕彰に熱意を示し、学僧に当地の調査をさせたり、日野家の菩提寺・法界寺との交渉をしました。文久2年(1862年)、講持の為、京都の同行の間に日野誕生講が結ばれました。第21代宗主・明如は、明治11年(1878年)、堂宇を日野別堂と改名、大正12年(1923年)、立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機に堂宇の一大改宗が計画され第23代宗主・勝如の昭和3年(1928年)5月、着工。昭和6年(1931年)5月、本堂が完成し落慶法要が営まれました。この時に、日野誕生院と改名され現在に至ります。

産湯の井戸 胞衣塚(えなづか) 日野誕生院
親鸞聖人の誕生之地碑 境内の紅葉
親鸞聖人童形の像(発心の像) 観月橋 夜の酒蔵
夜の酒蔵
カッパカントリーのX'masデコレ・・・

Tourist 2005.11.28(M)

 

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