禁葷酒(きんくんしゅ)散策

 

山門を 出れば日本ぞ 茶摘うた 菊舎(きくしゃ)

 

桃山御陵〜伏見城址(明治天皇陵)〜大善寺(六地蔵)〜黄檗山・萬福寺

黄檗山萬福寺の全容図

萬福寺の建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。正面 一間を吹放しとした主要伽藍を中心軸上に置き、同じ大きさの諸堂が左右対照に配されています。このように創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例が無く、代表的禅宗伽藍建築群として主要建物23棟、回廊、額、聯などが国の重要文化財に指定されています。

伏見城址・・・明治天皇陵、昭憲皇太后陵

明治天皇は、孝明天皇の皇子で15代将軍・徳川慶喜に大政奉還の勅許を与え、王政復古の大号令を発し幕府を廃し、新政府を樹立しました。戊辰戦争で旧幕府勢力を制圧し、五箇条のご誓文を発して新政府の基本方針を宣言、明治と改元して東京に遷都しました。廃藩置県の断行や大日本帝国憲法の発布など数多くの執政をし近代国家の礎を築きました。明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。

明治天皇陵

昭憲皇太后陵

230段の大階段(上から)

明治天皇陵前からの向島、槇島方面

明治天皇陵前からの宇治、黄檗方面

230段の大階段(下から)

大善寺(六地蔵)

京都は昔から地蔵信仰が深く、約400年前から京都へ入る街道口にお地蔵さんを奉り、この大善寺を最初として時計回りに巡拝します。大善寺は、浄土宗のお寺で六地蔵の名で知られています。地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀したことから。これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたとされています。

本堂

地蔵堂

観音堂

臥竜(がりゅう)の松

山門

参道

黄檗山萬福寺

萬福寺は、1654年(江戸時代)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の崇敬を得て1661年に開創された中国風の寺院。日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など中国の名僧を原点とする黄檗宗の大本山です。

巡照(じゅんしょう)板と匂欄(こうらん)

開梆((かいぱん)と雲版(うんばん)

七福神の置物と達磨(だるま)おみくじ

黄檗山の一日は、朝の巡照板によって始まり、夜の巡照板によって終わります。ここで修行する雲水(修行僧)が正覚をめざして精進を誓い、自覚を促すために巡照板を打ち鳴らして各寮舎を回ります。山内には禅堂を始め5ケ所の巡照板が設置されており、長い回廊を巡るため巡廊板とも呼ばれます。

開梆((かいぱん・手前)は、飯(はんぽう)と記されています。また魚、魚鼓とも呼ばれます。叢林における日常の行事や儀式の刻限を報じる魚の形をした法器のことです。雲版(うんばん・奥上)は、朝と昼の食事と朝課の時に打つものです。青銅製。とにかくデカイです。

萬福寺内で七福神の置物と達磨(だるま)おみくじを買いました。達磨の底におみくじが入っています。ちなみに見ていません・・・多分、大吉か大凶か?

総門

三門

三門前の禁葷酒の石碑

中央の屋根を高くし、左右を一段低くした中国門の牌楼(ぱいろう)式を用い、漢門とも呼ばれました。中央上部裏面には円相が型取られています。これは風水的モチーフの一つ、「白虎鏡」です。

三間三戸。重層の楼門作りで、左右に裳階(もこし)、山廊があります。大棟中央に火付宝珠があります。正面 の額「黄檗山」、「萬福寺」は隠元書。背面の額「旃檀林」は千呆(せんがい)書。ここを入れば脱俗の清浄域です。

なまぐさもの、酒を禁じるという意味で禅宗(曹洞・臨済・黄檗宗)の三門前に建てられます。

天王殿

弥勒菩薩(布袋)坐像

鼓楼

寺の玄関として天王殿が設けられています。中国では一般 的な建て方で、四天王と弥勒菩薩と韋駄天を同様に祀ります。

范道生作、寛文3年(1663)造立、木造、像高110.3cm。布袋は弥勒菩薩の化身といわれ、本山では弥勒仏とされています。布袋は名を契此(かいし)といい、南北朝末後梁の高僧で、定応大師と号しました。高泉禅師の「洗雲集」に、寛文3年11月末に隠元禅師の命を受けて道生が造立し松隠堂に安置されたとあり、おそらく寛文8年(1668)の天王殿建立に際し移されたと思われます。

二階四周に縁と逆蓮柱付の匂欄を廻らし、大棟両端に鯱を起きます。鼓楼は鐘楼と相対し、朝4時半開静、夜9時の開枕に大鐘と太鼓をもって、時刻と消灯、本山の大衆に起居動作の始終を知らせています。また賓客来山のときに鐘鼓交鳴して歓迎を表わします。

伽藍堂

開梆((かいぱん) 大雄宝殿(だいおうほうでん)

本尊には華光菩薩像が安置され、両側には三面大黒天、弁財天も祀られています。

黄檗清規には、飯(はんぽう)と記されています。また魚、魚鼓とも呼ばれます。叢林における日常の行事や儀式の刻限を報じる魚の形をした法器のことです。デカイです。

萬福寺の本堂であり、最大の伽藍。日本では唯一最大のチーク材を使った歴史的建造物として、大変重要かつ貴重なものです。

大雄宝殿(だいおうほうでん)

大雄宝殿(だいおうほうでん)

慈光堂

本尊は釈如来坐像。両脇侍は葉、阿難の二尊者。両単に十八羅漢像を安置。大棟中央に火付、二重の宝珠。

正面 入口は魔除けとされる桃の実の彫刻を施した「桃戸」、左右に円窓。上層の額「大雄寶殿」は隠元書。下層の額「萬徳尊」は木庵書。本堂内部須弥壇の上の額「真空」は明治天皇の御宸筆。

一般信徒の位牌を納め、永代供養する場所。又、隠元禅師300年遠諱のときに納骨堂が併設され、宗旨を問わず納骨を受け付けています。

祖師堂

寿蔵

開山堂

禅宗初祖「達磨大師坐像」と、開山隠元禅師から57代までの歴代管長の位 牌が祀られています。この坐像は、中国の名工范道生の作です。

本瓦葺六角堂。屋根は宝形造り。頂に露盤・宝珠を置く。寿蔵は禅師の生前に築造された墳墓。木庵禅師を中心に、法子・法孫らが建立。中央円窓戸板の題「寿蔵」は隠元書。額「眞空塔」は霊元天皇の御宸筆。半円形石垣が寿蔵を囲んで築かれています。

黄檗開山隠元禅師をお祀りしてあります。歇山重檐式、蛇腹天井、正面 の半扉の桃戸、そして全て角柱であるところは、大雄宝殿と同じで、また卍の匂欄があるのも黄檗ならではの特徴がみられます。

Tourist  2003.9.22(M)

 

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