菟道うじ源氏物語「宇治十帖」古跡散策その弐

 

麓をば 宇治の川霧 たちこめて 雲居に見ゆる 朝日山かな (新古今集)権大納言公実(きんざね)

 

源氏物語「宇治十帖」古跡探訪など・・・萬福寺〜三室戸寺〜宇治十帖古跡など

 

宇治

一に菟道、干遲、宇遲、鵜路とも記され京都市の東南、宇治川が京都盆地に入る谷口扇状地に拓けた地域を称し古来、山水明媚をもって世に知られ宇治院(平等院)を始め貴族の山荘が多く作られました。紫式部は宇治の風物を主題とし源氏物語「宇治十帖」を著し、源隆国(たかくに)も「宇治拾遺物語」を著するなど古典文学の舞台としても有名です。宇治とは宇治川の内、大和国より奥まった処に位置して内つ国、宇治川の落ち口にあたるところから称するなど地名起源について諸説があり明らかではありません。

宇治橋

三の間

昔は瀬田の唐橋、山崎大橋と共に三名橋の一に数えられました。大化2年(646年)、奈良元興寺の僧・道登(どうと)、又は道昭(どうしょう)によって架橋された我が国最古の橋と伝わりますが定かではありません。一説には天智天皇が近江に大津宮を造営された頃、道昭一派の人達によって架橋されたものとも伝わります。

宇治橋の特徴は欄干上流に面して三の間と称する広さ2mばかり張り出した箇所がある事で、昔、橋の鎮守神の橋姫神を祀った場所と伝え更に豊臣秀吉が茶湯の水を汲み上げさせた場所とも伝わります。

浮島(塔の島、橘島)

平等院前の川中にある河州をいいます。上流側を塔の島、下流側を橘島と称します。現在はこれらを総称して浮島と称し「都名所図会」には浮舟の島として洪水に際しても水中に没する事なくあたかも浮かべる舟の如しと記されています。

浮島(橘島、塔ノ島)

天ヶ瀬吊橋

浮島十三重石塔(重文:鎌倉期)

塔ノ島中央にあり花崗岩製で高さ15m、我が国現存中最大の十三重石塔です。弘安9年(1286年)、奈良西大寺の僧・叡尊(興正菩薩)が宇治橋の架け替えに際して建立したもので上人は橋の流失は乱獲される魚霊の祟りであるとし殺生の罪を戒め網代を捨ててこの地に経巻共に埋め供養塔としたものと伝わります。石塔は宝暦6年(1756年)の大洪水で倒れ、約150年間埋没していたものを明治41年(1908年)に発掘されて再建されました。一説に上から五番目の塔芯を石川五右衛門が盗み出し伏見の藤森神社の手水の水鉢であるとされます。

朝霧橋

日本最大の浮島十三重石塔

宇治川先陣碑

承久年間、源義経(みなもとのよしつね)と木曽義仲(きそよしなか)の合戦時に源義経旗下・佐々木四郎高綱と梶原源太景季(かげすえ)の二名が宇治川の先陣を争った故事を偲んで昭和6年(1931年)4月、帝国在郷軍人宇治分会が建てたものです。

宇治川先陣碑

琴坂(興聖寺)

平等院(世界遺産)

10円硬貨のデザインとしても有名です。宇治上神社と共に平成6年(1994年)、世界遺産登録されました。朝日山と号し元は天台・浄土兼学であったが今は単立寺院となり最勝院と浄土院によって交互に管理されています。藤原氏一族によって多くの伽藍が建立され栄華を誇りましたが藤原氏の衰退、中世以降の兵火によって多くの諸堂を失い創建当時唯一の建物の阿弥陀堂(国宝)は、永承7年(1052年)、宇治関白・藤原頼通が、父・道長の別荘の宇治院を寺改し平等院と名付けました。鳳凰堂は翌年に阿弥陀堂として建てられ、仏師・定朝の作になる阿弥陀如来像が安置されている中堂は入母屋造り、床下の高い左右の翼廊、楼閣は宝形造、背面の尾廊で構成され正に鳳凰が両翼を広げて飛び立とうとする姿に見せています。大屋根には鳳凰が飾られ、内部は絢爛な宝相華文様や極彩色の扉絵で装飾され、御堂と池が一体化された浄土庭園は史蹟名勝庭園にも指定されあたかも極楽浄土を再現したような絢爛豪華さです。

平等院(国宝:藤原期)

朝日焼き

宇治茶と共に宇治の名産品の一つで鎌倉時代の末期頃、陶匠・藤四郎によって始められ慶長年間(1596〜1614年)初代藤作は豊臣秀吉から家禄500石を賜り正保年間(1644〜47年)に小堀遠州は二代目奥村藤兵衛に意匠を授けて茶器を作らせこれに「朝日」の二字を与え遠州七窯の一つに加えました。一時廃絶しましたが慶応年間(1865〜67年)に再興され現在は恵心院の門前に蔵元が一軒あります。

朝霧橋

朝日焼き蔵元

興聖寺

興聖寺

仏徳山と号する曹洞宗永平寺派の寺で道元禅師を開山とします。道元禅師は当初、深草極楽寺の境域に一宇を建て興聖寺と号したが寺は廃絶しました。慶安元年(1648年)、淀城主・永井信濃守尚政によってこの地に再興されました。 山吹、桜、ツツジやサツキなどが多く対岸の平等院に匹敵する名所で宇治十二景の一つとされます。法堂(はっとう:本堂)にある平安時代中期の木像聖観音立像は、源氏物語「宇治十帖」古跡(手習の社)に祀られている事から手習観音ともよばれてます。本堂には伏見城の遺構を移築したもので血の手形が残る天井や鴬張りの廊下などがあります。

石門(興聖寺)

三門

鐘楼

境内

鎮守社

法堂(はっとう:本堂)と境内

琴坂(興聖寺:こうしょうじ)

桜やカエデが茂る興聖寺の入り口〜三門に至る参道は、両脇を流れるせせらぎの音が琴の音色のように聞こえる事から琴坂と呼ばれています。

三面大黒尊天

開山堂

琴坂

天ヶ瀬吊橋

宇治川上流(天ヶ瀬吊橋上)

宇治川下流(天ヶ瀬吊橋上)

蛍塚(蛍ヶ淵)

宇治川は源氏蛍、平家蛍、姫蛍の生息に恵まれ夏は蛍狩りが盛んでした。特に源氏、平家蛍が交尾の為に入り乱れて乱舞する様を蛍合戦と称され「嬉遊笑覧:きゆうしょうらん」十二によれば宇治の蛍は他所より一回り大きく光がことさら明るいのは治承4年(1180年)、平氏追討の為に挙兵したが敗れ、南都に逃れる途中、宇治平等院で自刃した源三位頼政の亡魂が蛍になり今も合戦をするが如く水面に多数群がり・・・と頼政亡魂説を伝えています。

 天ヶ瀬吊橋

蛍塚(蛍ヶ淵)

 [第四十九帖・宿木(やどりぎ)]之古跡

喜撰橋

屋形船

浮島十三重石塔

鵜小屋

鵜ちゃんズ?(^_^;)

宇治川先陣碑

宇治橋方面(橘島から)

朝霧橋方面(橘島から)

平等院と源頼政

平等院は「平家物語」の舞台として一般の人々に注目されました。治承4年(1180年)5月、源三位頼政が平等院に立て篭もり平家の軍勢と戦い敗れて境内の一隅に軍扇を敷き「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 悲しかりけり」と詠んで自害した事が後世の人々の同情を誘い境内に「扇の芝」、頼政が鎧を脱ぎ捨てた「鎧掛けの松」、頼政が馬を繋いだ「馬つなぎの松」、頼政塔、頼政碑も建てられました。松は枯れて現存しませんが他は現存しています。

宇治橋方面(橘橋から)

平等院(国宝:藤原期)

あがた神社

平等院の鎮守と言われ江戸時代迄は近江三井寺円満院の管理に属しましたが明治の神仏分離によって独立したと伝えます。祭神に関しては古来種々の節がありましたが木花開耶比売命(このはなのさくやひめのみこと)を主祭神とします。延喜式にはその名を見ないがその創祀は古いとされます。6月5日の夜にある「あがた祭り」は近畿圏の信奉者による梵天渡御があり「暗闇の奇祭」として有名です。

鳥居 本殿 稲荷社

橋姫神社

小さな境内には橋姫神と同じ水神の住吉神が並んで祀られています(写真左:橋姫社、右:住吉社) 。元は宇治橋の鎮守神として橋上(三の間)に祀られていましたが、明治3年(1870年)の洪水で流され、現在の場所に移された時に橋の西詰めにあった住吉社もここに移して合祀されました。橋姫神社前に宇治七名水の一つの「公文水」が湧き出ていましたが現在は埋没し石碑があるだけです。

弁財天社

橋姫神社

橋姫社と住吉社

橋姫伝説

諸説ある橋姫伝説の中で最も有名な一説は「丑の刻参り」の原型とされるものです。嵯峨天皇の御宇にある嫉妬深き公家の娘が貴船神社へ詣でて鬼神になって妬しいと思う男女一類を取り殺し給えと願いました。そして七日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川に三十七日間浸かれば鬼と化すという。そこで女は丈なす髪を五つに分け、五つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶり、その三本の足に松を燃やし火をつけた松明を口にくわえて大和路を南を指して急ぎました。その姿様は鬼神の形相そのもので途中で出会った人達は肝をつぶして倒れ伏し、死なすという事はなかった。そして念願通り、妬しいと思う男女一類を取り殺したという。(「源平盛哀記」剱の巻)この伝説は藤原為家の「古今為家抄」に記された物語の一説を物凄く修飾したものですがオゾマシイ話です。。。(@_@;)

[第四十五帖・橋姫(はしひめ)]之古跡

紫式部像

三の間(宇治橋)

宇治橋の特徴は欄干上流に面して三の間と称する広さ2mばかり張り出した箇所がある事で、昔、橋の守護神の橋姫神を祀った場所と伝え更に豊臣秀吉が茶湯の水を汲み上げさせた場所とも伝わります。宇治橋の東詰めにある通円茶屋には豊臣秀吉が三の間から水を汲ませたという釣瓶一個が秘蔵されています。

[第五十四帖・夢浮橋(ゆめのうきはし)]之古跡

宇治橋

三の間

浮島方面(宇治橋上から)

[第五十帖・東屋(あづまや)]之古跡

[第四十六帖・椎本(しいがもと)]之古跡

彼方(おちかた)神社

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

四世紀初頭の応神天皇の皇子とされ日本書紀によると、応神天皇は数多の皇子の中でも秀俊の誉れ稚郎子を皇太子と定めて亡くなった。しかし、稚郎子は自分よりも年長の大鷦鷯(おおささぎ:仁徳天皇)こそが皇位を継ぐべきだとし、大鷦鷯も父の言葉に背くことはできないとし、お互いに譲り合うこと三年、ついには兄をたてて自らの命を断ったという逸話が伝わります。

[第五十三帖・手習(てならい)]之古跡

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

櫃川(ひつかわ:山科川)橋跡

JRの鉄橋付近と伝え旧大和街道の櫃川(ひつかわ:山科川)に架かる重要な橋でしたが現存しません。旧道も田畑に埋没し現在は六地蔵橋などが架かっています。「都いでて 伏見を超ゆる 明方は まず打渡す 櫃川の橋」(新勅和歌集)皇太后太夫俊成

菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)陵墓

陪塚

櫃川(ひつかわ:山科川)橋跡

 Tourist  2004.06.28(M)

 

今回のコラム『菟道うじ:源氏物語「宇治十帖」古跡散策も二部構成となります。

 

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