三尾(高雄(尾):たかお、槙尾:まきのお、栂尾:とがのお)華街道散策06年

 

ほとゝぎす 嵯峨へは一里 京へ二里 水の清滝 夜の明け易き  与謝野晶子

 

城南宮〜木嶋神社(蚕の社:かいこのやしろ)〜広隆寺〜蛇塚古墳〜源光寺(常盤地蔵)〜仁和寺〜高山寺〜西明寺〜神護寺〜清滝川

 

清滝

愛宕一の鳥居より試み坂を越えた清滝川の流域にあり川を挟んで料亭、旅館が建ち並んでいます。昔は愛宕詣での宿場町でしたが、今は紅葉の勝地として知られます。清滝川は桟敷ヶ嶽の山中より発し中川、高雄を経て愛宕山の東麓をめぐり、末は保津川に注ぎます。長さ約20km、その間山谷幽遠、潤水曲折し、川中には奇岩突飛兀としてすこぶる奇観を呈しています。清滝〜高雄に至る間を錦雲渓、清滝〜保津川に下る間を金雲渓と言います。春秋の花時はもとより、ハイキングコース(東海自然歩道など)として市民、観光客に親しまれています。

城南宮(方除、鬼門除の神)

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来とされます

酒蔵(新高瀬川) 一の鳥居(城南宮) 黄桜(御衣黄)
伏見名水の一「菊水若水」 城南宮 境内
山ツツジ(楽水苑:春の山) 菜の花(桂川堤防:サイクリングロード)の中をチャリチャリ・・・
堤外人道橋(嵐山サイクリングロード:天神川) 阪急電車「西京極駅」 学生時代の思い出の地・・・西京極球場

 木島神社(蚕の社:かいこのやしろ/木島坐天照御魂神社:このしまにいますあまてるみむすびのかみやしろ)

雙ヶ岡(双ヶ岡:ならびがおか)の南方、太秦(うずまさ)の東の広漠たる肥沃の土地に鎮座する旧郷社で境内は老杉巨木が繁茂し、あたかも木の島の如くに見えるので社名になったとされます。創建はすこぶる古く推古12年(604年)の創建と伝え、渡来人の秦氏(はたし)が養蚕と織物の神を祀ったのがはじまりといわれています。正式には、「木島坐天照御魂神社」ですが、本殿右側の養蚕神社から「蚕の社」(かいこのやしろ)の名で知られています。その名の通り、製糸機織業者の信仰が厚く、町の氏神様として、親しまれています。境内の奥には、神池、元糺の池にある日本唯一とされる珍しい3本柱で三方のどれもが正面で、上からは三角形に見えるという珍しい三つ鳥居(三柱鳥居:みばしらとりい)があります。

天神川沿道をチャリチャリ北上・・・ 八重桜@京都外大

 木嶋神社(蚕の社:かいこのやしろ)

手水井 拝殿 三つ鳥居(三柱鳥居)
本殿 嵐電(京福電車)太秦駅 広隆寺付近は路面を走りまつ・・・

広隆寺

推古天皇(603年)に建立された山城最古の寺で真言宗御室派に属し山号を蜂岡山と称します。蜂岡寺、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称があります。帰化人系氏族である秦氏の氏寺で平安京遷都以前から存在し京都最古の寺院です。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵する事で知られる四天王寺、法隆寺など聖徳太子が建立した日本七大寺の一です。

広隆寺 仁王門
山桜 赤堂と称される講堂(重要文化財:藤原期) 上宮王院太子殿(国宝)

蛇塚古墳 (遺跡・史跡)

詳細は早くに失われ、今は封土が洗い去られ巨石を積み重ねた石室のみが露出しています。横穴式前方後円墳で長さ17m、高さ4.5m余で以前、玄室に蛇が沢山生息していたので蛇塚と言われます。天塚古墳などと共に秦氏の造営によると考えられています。築造年代は、古墳時代末期の7世紀初頭と考察され元は、全長約75mの前方後円墳だったと考察され、当時の古墳としては、かなり大型のもので玄室 (古墳石室:棺を納める部分)の幅は、有名な奈良県の石舞台古墳よりも広く京都市最大規模の古墳です。昔、おしげという女賊がここを根城とし三条街道で追剥をしたと伝えます。かって、大映、松竹映画撮影所に囲まれ今も映画セットの一部の如き感があります。

霊宝館、霊宝殿点 京都市最大の蛇塚古墳
千代の古道碑 嵐電(京福電車)有栖川駅 嵐電(京福電車)蚕ノ社(かいこのやしろ)駅

常盤御前ゆかりの源光寺

京の六地蔵めぐりの一「源光寺」は源光庵とも呼ばれる臨済宗天龍寺派の尼寺です。昔、小野篁が冥土で生身の地蔵尊を拝し、蘇って後、一木から刻んだ六地蔵の一とされ世に常盤谷地蔵、北区の上等寺の姉子地蔵に対して乙子地蔵とも呼ばれます。寺伝によると弘仁2年(811年)、勅旨によって建立され嵯峨天皇の皇子・源常を創業開基とします。のちに後白河法皇が深く帰依され中興開山され、本尊に全ての救済を願われ宗教宗派に関係のない庶民の信仰の根源地と定められている。毎年、春夏秋冬の4回、全国地蔵信仰の唯一の総本山・天地万霊総菩提寺として、源光寺神聖霊場大祭が行われます。この地は、源義経の母、常盤御前の生地で御前が営んだ庵の跡地と伝えられ境内には常盤御前の墓があります。

源光寺 地蔵堂(常盤谷地蔵、乙子地蔵) トゲ抜き地蔵
石仏など 常盤御前墓(右) 嵐電(京福電車)名所「桜のトンネル」

仁和寺(にんなじ:世界文化遺産)

真言宗御室派の大本山で第58代・光孝天皇によって、先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願された事に始まりその後、宇多天皇が仁和4年(888年)に造営を完成されました。「御願寺」と称する寺院は、皇室の私寺を意味しますが、西山御願寺は完成と共に、先帝から受け継がれた「仁和」の年号をもって寺号と定められ、大内山仁和寺と呼ばれました。応仁元年(1467年)、応仁の乱によって一山ことごとく灰燼しました。徳川幕府三代将軍・家光の御代に再興されました。京都御所の再建とも重なり御所から仁和寺金堂になっている「紫寝殿」、他多数の建造物と再建資金として20数万両を徳川幕府から得て再興されました。明治の大火で本坊、寝殿などが消失しましたが現存するほとんどの伽藍は寛永年間の遺構で明治維新では第30世・純仁法親王が還俗した事で皇族が門跡となる宮門跡になる時代が終わりました。平成6年(1994年)に仁和寺は世界遺産に登録されました。仁王門は、知恩院の「三門」や南禅寺の「山門」と共に、京都三大門と呼ばれ、同時代を代表する建築物として知られますが知恩院や南禅寺の門が禅宗様式(唐様)であるのに対し、仁和寺の仁王門は和様である事に違いがあり寛永14年(1637年)〜正保元年(1644年)にかけて建てられました。

嵐電(京福電車)北野白梅町線 仁王門(重要文化財:江戸期)
待機のキララちゃん@仁和寺 勅使門@旧御室御所御殿(白書院、寝殿) 御室桜(お多福桜)
中門(重要文化財:江戸期) 花丈が低いのでお多福桜とも言われます・・・
黄桜(御衣黄) 名勝・御室桜(お多福桜とも泣き桜とも呼ばれる)

金堂(本殿:国宝・桃山期)

金堂は京都御所より下賜されたもので、慶長年間に建立された「紫宸殿」の遺構だけに平安時代の建築様式である「寝殿造」の様式を残し我が国の建築史上重要な建造物として国宝に指定され金堂には本尊の阿弥陀三尊像が安置されています。

山ツツジ 金堂(国宝:桃山期) 鐘楼(重要文化財:江戸期
御影堂(重要文化財:江戸期) 経堂
黄桜(御衣黄) 五重塔(重要文化財:江戸期)

五智如来石仏群

前方に胎蔵界の大日如来を中心とする丈六の五智如来(薬師、室生、大日、阿弥陀、不空成就釈迦)、後方に地蔵菩薩を中心に観世音などの諸像11体が並び伏見深草・石峰寺のそれと共に京都市における石仏群の双璧です。

五智山蓮華寺 五智如来石仏群
本堂 八重桜 平岡八幡宮

平岡八幡宮

「花の天井」で知られる平岡八幡宮は、梅ヶ畑八幡宮とも言われ応神天皇を祀る梅ヶ畑の産土神です。社伝によると弘法大師が平安初期(809年)、高雄山神護寺の鎮護の為に宇佐八幡を勧請したのが始まりと伝える山城国最古の八幡宮です。鎌倉時代に文覚上人が社殿を再興し貞応元年(1222年)に浄覚上人が旧知より下壇に移したと伝えます。流造りの本殿は文政9年(1826年)に再建され天井に極彩色の花弁画が描かれ白玉椿という名の椿でも知られます。本殿、社殿共に南面し正面南北約200mの馬場には桜、紅葉が植えられています。

境内 拝殿 本殿
平岡八幡宮 御経坂峠・・・高雄です!(;^_^A 嵐山高雄パークウェイ分岐
槙尾山(写真右:西明寺)の見事な山ツツジ

高山寺(世界文化遺産)・・・緑茶発祥の地

栂尾(とがのお)山と号する真言宗の単立寺院です。初め神願寺都賀尾坊(とがおぼう)と称する天台寺院でしたが久しく荒廃していたのを鎌倉時代の建永元年(1206年)、明恵(みょうえ)上人によって再興され、後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺(ひいでてまずこうざんをてらすやまのてら)」の勅額を賜り高山寺と改めました。以後、華厳宗興隆の道場となり次第に朝野の崇敬を集め北条泰時は政治の要諦を上人に謀り、建礼門院は上人より受戒したとされます。南北朝時代は寺域も広大でしたが室町時代の応仁の乱で退転し諸堂の多くを失ったが近世、豊臣秀吉から寺領58石を与えられ寛永11年(1634年)、仁和寺の旧御所の建物を移築し金堂を再建しました。本尊・釈迦如来像を安置し開山堂には明恵上人樹上坐像(重文・鎌倉期)を安置します。石水院は鎌倉時代初期の寝殿造りの形式を留める貴重な建造物で国宝に指定され文化財も頗る多く、絹本著色仏眼仏母像一幅(国宝・鎌倉期)、薬師如来坐像(重文:天平期)、善妙神、日光神立像(重文:鎌倉期)、狛犬四対(重文:鎌倉期)、華厳宗祖師絵伝(国宝・鎌倉期)など国宝8点、重要文化財51点にも及び中でも鳥羽僧正筆による紙本墨画鳥獣人物戯画四巻(国宝・鎌倉期)は有名で平成6年(1994年)にユネスコ世界文化遺産に登録されました。境内にある栂尾茶園は鎌倉初期に栄西禅師が宋から将来した茶種を明恵上人に送り栂尾の深瀬三本木に植えたのが我が国最初の茶栽培となって隆盛し宇治の茶は栂尾から移植したもので宇治の茶業家は現在も新茶を明恵上人の廟前に供えるのを慣わしとしています。

槙尾山(西明寺背後)の山ツツジ@周山街道 高山寺表参道 待機のキララちゃん
参道
参道 高山寺境内案内図 中門(客殿、石水院/国宝:鎌倉期)

日本最古の栂尾(とがのお)茶園

茶は平安時代以前にあっては珍味又は、薬用として貴顕の間に用いられるに過ぎなかったが鎌倉初期、栄西禅師が宋から将来した茶種を明恵(みょうえ)上人に贈り上人が栂尾(とがのお)の深瀬三本木に植えたのが茶の栽培が盛んになった起こりと伝え宇治の茶は栂尾から移植したものです。以来、栂尾は茶の本園とされ、その茶は本茶と言われました。この所縁を偲んで宇治の茶業者は毎年、自家製の新茶を上人の廟前に献供するを例とし、毎年11月8日には上人の御影に対して献茶会式を行います。

日本最古之茶園(茶畑) 開山堂 開山廟(明恵みょうえ上人墓所)
仏足石 金堂 金堂への石段@境内
清滝川 清滝川@白雲橋 しだれ桜

西明寺

槙尾山と号する古義真言宗大覚寺派の寺で一に平等心王院と言います。天長年間(824〜34年)、空海の高弟・智泉が神護寺の別院として改創したが荒廃し鎌倉時代の建治年中、和泉国(大阪府)槙尾山の白証上人が再興し正応元年(1288年)、後宇多上皇が新たに堂塔を建立し平等心王院と号しました。永禄年中、兵火に掛かり伽藍を悉く焼失し一時は神護寺に合併され別院となっていたが慶長7年(1602年)、神護寺の僧・明忍によって再興され律宗を兼ねました。元禄年間(1688〜1704年)、徳川五代将軍・綱吉の生母・桂昌院は本寺に帰依し諸堂建立に努め再興しました。本堂の唐様須弥壇上に安置する本尊・釈迦如来立像(重文:鎌倉期)は高さ51cmの小像ですが嵯峨清涼寺像を真似た尊像で高山寺明恵上人の造顕と伝え脇檀には千手観音立像(重文:藤原期)を安置します。境内は幽邃閑寂で三尾の一として紅葉の名所でもあります。

天照太神宮? 指月橋 石段を上ります・・・
参道から見える槙尾山(西明寺背後)山ツツジ 山門 客殿(旧祖師堂)
石楠花(しゃくなげ) ゲゲッ!もう17時10分!!(>_<) 閉門を告げる鐘
本堂 槙尾山(西明寺背後)山ツツジ 谷山林道(愛宕山)、西明寺裏門分岐

神護寺

高野山真言宗の寺で高雄山と号します。延暦年間(782〜806年)に和気清麻呂が河内国に建立した神願寺をその子・真綱らにより天長元年(824年)、当地に移し神護国祚真言寺と改めたのが当寺の起こりと伝えます。後に弘法大師に譲られたが大師が高野山に入山時に高弟・真済が継承し伽藍を造営、鎮護国家の道場となりました。正暦5年(994年)、久安5年(1149年)の火災によって伽藍を焼失したが仁安3年(1168年)、文覚上人が来山し諸方を勧化して再興に努め朝野の外護を得て寺運は隆盛に赴いたが応仁の乱で罹災し再び荒廃し現在の建物は江戸時代以降の再建になるものが多いです。国宝9件、重要文化財20件を有しています。

槙尾山(西明寺背後)山ツツジ 高雄橋(清滝川) 神護寺参道の日本最古の下乗石(右)
清滝橋(清滝川) 高雄〜清滝に至る渓谷を錦雲渓と言います・・・
山谷幽邃の錦雲渓・・・北山杉、清滝川左岸をチャリチャリ@東海自然歩道 一本橋で清滝川右岸へ・・・
(注) 東海自然歩道を自転車で行くには、道幅、傾斜、落石、担がなければいけない難所も数ヶ所あるのでオススメは致しかねます。
愛宕山月輪寺方面から流れてきた堂承川を渡りまつ・・・清滝川(左)合流点 急勾配な坂道をチャリチャリ(@_@;)
愛宕山月輪寺(左)、高雄分岐 ふ〜〜っ、清滝までもう少し!σ(^◇^;) 待ってました!快適なダウンヒルを!!σ(^◇^;) 爆!!!
清滝でつ 以前に歩破した愛宕ケーブル橋梁 清滝川右岸の温泉堀削でつ!@金鈴橋
山桜 新緑が美しい楓樹 いざ行かん!突撃〜!!清滝隧道(愛宕鉄道遺構)
愛宕念仏寺(おたぎねんぶつでら)

醍醐天皇の延喜年間、千観阿闍梨の開創する等覚山愛宕院と号する天台宗延暦寺派の古刹で当初は奈良時代以前、東山の地に七堂伽藍を備える御願寺として建立されました。平安時代初期に洪水で堂宇が流失しましたが、醍醐天皇の命で六波羅蜜寺の近くに再興され、大正11年(1922年)に現在地に移されました。鎌倉時代に造られた本堂(重要文化財)周辺の境内には、参詣者の手で彫られた表情豊かな1200体もの羅漢石像が並び建築、仏像に見るべきものを有します。

神霊スポット?!清滝隧道(愛宕鉄道遺構)を通過中でつ・・・トンネル内は走り撮りでつ!σ(^◇^;) 愛宕(おたぎ)念仏寺
一の鳥居(奥嵯峨・鳥居本) 里山の風情に和む奥嵯峨・鳥居本
化野(あだしの)念仏寺通過・・・ まゆ人形の「まゆ村」 夕暮れの愛宕街道をチャリチャリ
しだれ桜 清涼寺(嵯峨釈迦堂) 天龍寺
渡月橋 黄昏の嵐山(渡月橋)

Tourist  2006.04.24(M)

 

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