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黄桜酒造 |
伏見名水『伏水』 |
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伏見庚申堂(明寿院) |
庚申堂の開祖である浄蔵貴所が、父の病の治癒祈願にコンニャクを捧げ、見事に治ったという伝承があり、一年間の無病息災を祈る。 |
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寺田屋 |
酒蔵 |
伏見庚申堂(明寿院) |
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旧奈良鉄道の鉄橋橋脚跡(レンガ部分) |
大石良雄(内蔵助)ゆかりの撞木町遊郭跡 |
疎水右岸を北上 |
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旧国鉄・稲荷駅から船に荷上げ下ろした旧跡 |
おけいはん(京阪電車) |
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JR琵琶湖線(東海道本線) |
七条大橋 |
五条大橋 |
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牛若丸と弁慶が戦ったのは松原大橋 |
三条大橋 |
鴨川の飛び石・・・亀石も(^^♪ |
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加茂大橋を過ぎて鴨川遊歩道をあとに・・ |
一乗寺へ・・・ |
八大神社へ・・・ |
一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)「宮本、吉岡決闘之地」、「大楠公戦陣蹟」 |
一乗寺下り松町の三叉路になった道路傍に松を植え「宮本、吉岡決闘之地」なる石碑があります。慶長9年(1604年)、剣豪として有名な宮本武蔵と吉岡又七郎始め門弟数十人を迎えてこの松の木の下で決闘をしたと伝えます。一説に上京区堀川一条の戻り橋にある下り松が、その跡とも伝えますが真偽は、明らかでありません。この付近は、南北朝時代に度々合戦のあった所で楠木正成が3,000余騎を率いて比叡山を下り、この付近に布陣して足利尊氏の軍勢を迎撃したとも伝え近世まで一乗寺背後の山中には城塞を築いた際の堀跡があったと伝えます。 |
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武蔵と吉岡一門決闘の地「一乗寺下り松」 |
宮本、吉岡決闘之地碑(左)、大楠公戦陣蹟 |
宮本武蔵ゆかりの八大神社 |
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映画「宮本武蔵一乗寺の決斗」(昭和39年・東映)など、武蔵を萬屋錦之助が佐々木小次郎は高倉健が演じた・・・お通さん・・・ベッピンさん(^^♪ |
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境内 |
武蔵と吉岡一門の決闘地にあったと伝える松の古株 |
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「小次郎敗れたり!!!」宮本武蔵像 |
本殿 |
狸谷山不動院へ・・・ |
狸谷不動 |
真言宗の独立寺院で正しくは、一乗寺大本山狸谷不動院と号する。本尊・不動明王は、本堂内の石窟中に安置する。外面は忿怒門の不動尊で内面と中間には阿弥陀如来と如意輪観音をあらわす三尊合体の霊像という。当地は都の東北鬼門に当たることから都の守護仏として安置されたと伝える。享保3年(1718年)、木食の行者・村上正禅明厚が参篭修行してより庶民の崇敬を得るに至ったが、その後荒廃した。昭和22年(1947年)、中興開山・亮栄上人に至り、四隅の峭壁を切り開き、懸崖造りの本堂、幾多の堂宇を建立されてより信仰するもの多く、月に三日の縁日には参拝者で賑わう。山頂には、奥の院・幸竜堂が建てられ、山中には三十六童子廻りの小祠があります。 |
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狸谷山不動案内図 |
自動車祈祷殿 |
駐車場からの眺望 |
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おタヌキさん |
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虎ファン必見の玉垣、優勝記念碑(^-^)v・・・来年こそは、5年ぶりの優勝をっ?!まさに虎ぬタヌキの皮算用???(^^ゞ爆 |
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250段あると言われる健康階段 |
七福神 |
迎え大師 |
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弘法大師光明殿 |
健康階段 |
懸崖造りの本堂 |
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宮本武蔵が悟りを開いたと伝える宮本武蔵修行の滝 |
解説碑 |
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本尊・不動明王を祀る懸崖造りの本堂 |
健康階段 |
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本堂の舞台からの眺望・・・恋するハニカミでロケされ年間ランキングベスト10入りしたとか(^_-)-☆ |
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奥の院・幸竜堂(瓜生山山頂:北白川城本丸跡)へ進撃開始・・・o(*^▽^*)oスズメ蜂注意!!!(@_@;) |
山中は三十六童子廻りにもなります・・・ |
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旧勝軍地蔵堂道 |
湧き水・・お助け水(^^♪ |
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道すがら旧北白川城の切り岸、土塁、曲輪を結ぶ通路のような遺構らしきものが現存しています・・・ |
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曲輪を隔てる切岸 |
瓜生山山頂 |
解説 |
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瓜生山山頂にある奥の院・幸竜堂は元・勝軍地蔵菩薩が祀られた北白川城・本丸跡 |
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勝軍地蔵菩薩が祀られていた石室・・今、石室に祀られているのは???(~ヘ~;) |
現在地 |
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これも城跡遺構かな |
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山中からの眺望 |
懸崖造りの本堂 |
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平成狸ポンポコを連想(^^ゞ |
健康階段 |
弘法大師光明殿 |
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四国八十八ヶ所お砂ふみ霊場・・・発心門〜菩提門〜成就門まで八十八ヶ所お砂ふみを廻ります!☆⌒(*^∇゜)v |
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四国八十八ヶ所お砂ふみ霊場 |
健康階段 |
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迎え大師・・帰りなので見送り大師かな(^^ゞ |
七福神 |
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参道途中にある白竜弁才天 |
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申し込めば誰でも利用できる修行滝 |
石川丈山 |
三河出身の詩人・石川丈山は元、徳川家康の譜代家臣だったが、大坂夏の陣で一番乗りで敵将を討ち取って功をあげるが、先駆けを咎められ、論功行賞どころか蟄居の身となり浪人として上洛し妙心寺に入山した。後に林羅山の勧めで藤原惺窩に師事し儒学を学んだ。一乗寺に庵を結び遁世した。その庵に狩野探幽が中国歴代の36人の詩人(三十六詩仙)像を掲げ詩仙堂と号した。 |
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一乗寺不動降慮明王堂 |
石川丈山翁旧跡碑 |
詩仙堂 |
石川丈山隠棲の山荘で堂内四方の小壁に漢、晋、唐、宋の詩人36人の肖像画を掲げるにより詩仙堂と称します。石川丈山は江戸初期の文人で名は重之、字は丈山と号し別に四明山人、凸凹窠
、藪里、東渓など多くの号があります。三河の出身で徳川家康に仕え大坂夏の陣で軍規を犯して先駆けをした為に家康の忌避に触れ禄を辞して京都に来住し藤原惺窩の門に学び一時、広島藩に仕えましたが母の死後、当地に隠棲し寛文12年(1672年)5月23日、90才で没するまでの30年間、煙霞(えんか)に嘯き(うそぶき)、風月に吟じ琴を撫でし悠々自適しました。かって、後水尾天皇のお召しを受けた事もあったが「渡らじな
瀬見の小川の 浅くとも 老いの波そふ
影ぞはづかし」と一首の歌を奏って拝辞したと伝えます。 |
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詩仙堂 |
駒札 |
キララくんニャン(=^・^=) |
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白川通りを南下・・・ |
4才まで過ごした北白川別当町の家 |
大文字山 |
哲学の道 |
大正時代、京都帝国大学(京都大学)の哲学者・西田幾太郎や経済学者・河上肇などが散策しながら思索にふけった事に因んで命名されたと伝えます。北は銀閣寺参道に架かる銀閣寺橋から琵琶湖疏水分線に沿って南は若王子橋までの全長約1.8kmの散策路として市民や観光客に親しまれています。春は桜の名所としても知られ見事な桜並木は日本画家・橋本関雪画伯の夫人が絵画が売れた時、桜の苗木を買い当時、荒れていた小道沿いに植樹され現在の見事な桜並木道に至るとも伝え「日本の道百選」にも選ばれています。 |
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哲学の道@銀閣寺橋から南下・・・ |
法然院の苔むした侘びな山門 |
法然院 |
寺伝によると、鎌倉時代の初め、専修念佛の元祖・法然房源空上人は、鹿ヶ谷の草庵で弟子の安楽、住蓮と共に、念佛三昧の別行を修し、6時礼讃を唱えました。建永元(1206年)12月、後鳥羽上皇の熊野臨幸中に、院の女房・松虫、鈴虫が安楽、住蓮を慕って出家し上皇の逆鱗に触れるという事件が生じ、法然上人は讃岐国へ流罪、安楽、住蓮は死罪となり、その後、草庵は久しく荒廃しました。江戸時代初期の延宝8年(1680年)、知恩院第38世萬無和尚は、法然上人ゆかりの地に念佛道場を建立する事を発願、弟子・忍澂和尚によって、現在の伽藍の基礎が築かれました。浄土宗内の独立した一本山であったが、昭和28(1953年)、浄土宗より独立し、単立宗教法人となり現在に至ります。 |
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白砂壇(びゃくさだん) |
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仏足石 |
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本堂 |
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白砂壇(びゃくさだん)と苔むした茅葺の山門 |
真如堂 |
正しくは、真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)と号する天台宗の寺院で世に真如堂と言われます。真如堂辺りは、古来、神楽岡と呼れ、仏法有縁真正極楽の霊地とされました。当地に寺を開基したのが、戒算(かいさん)上人です。戒算上人は比叡山延暦寺の僧で、永観2年(984年)に延暦寺常行堂にあった阿陀如来像を、神楽岡の東に位置する東三条院藤原詮子(藤原道長の姉)の離宮に移して安置したのが真如堂の起源と伝える。 |
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法然院をあとに・・・ |
真如堂 |
駒札 |
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宝暦年間(1751〜1763年)に建立され文化14年(1817年)に再建された。本瓦葺で、高さは約30mの三重塔(京都府指定文化財:江戸期) |
会津藩殉難者墓地 |
約300坪の敷地に会津藩殉難者墓地があり文久2年〜慶応3年の5年間に亡くなった237柱と鳥羽伏見の戦いの戦死者115柱を祀る慰霊碑があります。禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台上に22柱が3カ所に分祀されています。松平家が神道であった為、7割ほどの人々が神霊として葬られています。侠客の会津小鉄の墓もあります。会津小鉄は本名を上阪(こうさか)
仙吉といい、会津藩・松平容保が京都守護職在職中、家業は口入れ屋として新撰組の密偵として活躍をしたが鳥羽伏見の戦いで会津藩が政略的に朝敵の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽、伏見の路上に野ざらしに放置されていたのを子分200余名を動員して収容し近くの寺院で荼毘に付し回向供養したとされ、以後も容保の恩義に報いる為に黒谷会津墓地を西雲院住職と共に死守し、清掃や整備の奉仕を続けたと伝えます。 |
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明智光秀重臣、春日の局の父・斉藤利三墓所 |
俳人・松尾芭蕉十哲の一・向井去来墓所 |
会津藩殉難者墓地(黒谷金戒光明寺) |
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会津墓地由来碑、顕彰碑・・・遠く会津・鶴ヶ城や故郷の写真や絵が飾られています。 |
黒谷からの眺望 |
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文殊塔(三重塔) |
真如堂・本堂 |
三重塔(京都府指定文化財:江戸期) |
新撰組発祥の地・黒谷
金戒光明寺(会津藩主松平肥後守・京都守護職本陣旧跡) |
浄土宗鎮西派四ヶ本山の一で紫雲山と号し世に黒谷と称します。元延暦寺の白河禅房があったが法然上人に付与されたので承安5年(1175年)、西塔黒谷より移り念仏道場としたのが当寺の起こり。その後、上人は洛東吉水に移ったが此処の草庵を捨てず叡山黒谷と共に相往来し説法に務めたので世人から新黒谷と称され、後に黒谷と称しました。五世・恵(えがい)の時、寺としての伽藍が整備され浄土宗の興隆によって大寺となり後光厳天皇より金戒の二字を賜り、後小松天皇より浄土真宗最初門の勅額を賜りました。応仁の乱など度々の兵火に罹災したが、その都度、公武の庇護によって再建され今日に至ります。徳川家康は、京都での有事を想定し二条城(将軍宿舎)の他に浄土宗総本山・知恩院と金戒光明寺の二ヶ寺を戦用城郭に転用する予定でした。約四万坪の大寺域に一千名の軍兵が駐屯でき、本陣も戦国時代の野戦と違い野宿ではなく宿舎が必要で黒谷には大小52もの宿坊があり駐屯の為に大方丈、宿坊25ヶ寺を寄宿の為に明け渡したという文書が残っています。知恩院共々、丘上に広大な寺域が広がり、石垣、階段、そして山門や三重塔など重厚な造りの伽藍が城壁、城門、物見櫓など城郭にも見えます。 |
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京都映画誕生の碑 |
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黒谷金戒光明寺 |
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金戒光明寺境内 |
平敦盛を討った熊谷直美鎧掛けの松 |
御影堂(京都守護職・松平容保本陣旧跡) |
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鐘楼 |
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山門 |
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金戒光明寺 |
琵琶湖疏水の噴水と岡崎動物園 |
カメハメハ〜(^^ゞ
「巨大な輝き像」 |
明智光秀首塚(梅宮社) |
天正10年(1582年)6月、天王山の戦いで秀吉に敗れた光秀は、近江坂本城へ敗走の途次、小来栖の竹藪で飯田一党に襲われ落命し首は粟田の刑場に晒された後、当地に埋葬され供養塔を築いたという伝説があります。その傍に洛西の梅宮神社の分霊を祀る梅宮社という小祠があり首より上の病者が、この塚に祈れば霊験があるとされます。光秀が落命した所は明智薮と言われ伏見小栗栖に旧跡を留め、山科勧修寺には明智塚(光秀胴塚)があります。 |
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明智光秀首塚(梅宮社) |
明智光秀首塚、供養塔 |
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三条通りを西進・・・ |
白川のせせらぎと行者橋(一本橋) |
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川端通りを南下・・・ |
JR奈良線鴨川鉄橋 |
高瀬川 |
Tourist
2009.10.12(M) |