新撰組幕末回廊散策その弐

 

たたかいの 名残りの弾(たま)の 跡あれど しづけく黒き 門ばしらかも 吉井 勇

 

島原〜新撰組壬生屯所跡〜六角獄舎跡〜二条陣屋〜神泉苑〜二条城〜御所散策

 

新撰組

近藤勇、芹沢鴨達は当初、八木邸を宿舎としました。その後、京都守護職御預りとなり隊士が増え、八木邸だけでは手狭になりました。次に屯所となったのが、近所の前川邸でした。池田屋事件の発端となった、古高俊太郎を拷問した土蔵があります。局中法度に触れ、切腹を命じられた隊士も多く、総長・山南敬介は局を脱走し沖田総司に連れ戻され前川邸で切腹しました。文久3年(1863年)8月18日、浪士隊は新撰組と命名され「八.一八の政変、(七卿落ち)」に出動。新選組隊士を「壬生狼」とも呼ばれるのは、壬生屯所での活動が広く知られたからで壬生は新撰組誕生の地にあたります。八木邸を屯所としてから程なく、前川邸にも分宿し、慶応元年(1865年)2月に西本願寺に屯所を移転する迄の2年間、壬生を屯所としました。新撰組は京都守護職・松平肥後守容保(かたもり)の御預りとして、京都市中の治安にあたった浪士隊で今で言う市中警察隊でした。彼らは毎日、約20人づつで隊を編成し市中を巡羅し不逞浪士達の取締りをしました。創設当時の半年余り、芹沢一派によって粗暴な振る舞いもあったが、近藤勇が隊の実権を握ってから後は隊規も厳粛を極めました。近藤らの尊皇攘夷思想は徳川幕府を助け公武合体によるべきものとしたのに対し、王政復古派は旧体制を脱して皇国的新体制を樹立しようとした事に対立が生じました。幕府は内外の治政に対策を欠き倒幕に逸る諸国の浪人を弾圧する事が先決となり新撰組の他に京都見廻組などを新編入し浪士の取り締まりなどを強化しました。その為、新撰組は幕府の走狗の如くになり図らずも近藤勇、土方歳三、山南敬介らが抱いていた思想とは全く違った方向へ押し流されていきました。後年、新撰組を暴力団体の如く言われるのは当時、新撰組の追補を逃れた者達が明治維新後に己に敵対したものは全て「朝敵」という汚名を持って私怨を晴らさんとしたからであるとされます。(子母沢寛著「新撰組違聞」、平尾道雄著「新撰組史録」より)

出口の柳(島原大門)

島原大門

置屋の輪違(わちがい)屋

揚屋の角(すみや)屋

島原西門跡

八木家(南)住宅

八木邸

旧前川邸(非公開)

壬生寺

壬生塚(芹沢鴨ら新撰組隊士の墓など)

東南隅楼(二条城)

東大手門(二条城)

六角獄舎跡、山脇東洋観臓の地碑

弾痕(蛤御門)

御苑の夕暮れ

月と大宮御所(仙洞御所)

 

島原〜壬生寺〜新撰組壬生屯所跡〜六角獄舎跡〜二条陣屋〜神泉苑〜二条城〜京都守護職屋敷跡〜御所散策

 

島原大門

出口の柳と常夜灯

当地は上古は東鴻櫨(とうこうろ)館の北にあたり、中古には観喜寿院の封境に接し近世は葛野朱雀野と呼ばれる茫漠たる広野でしたが忽然と不夜城が現出しました。我が国最初の公許遊郭として公認されたのは天正17年(1589年)と伝え当初は二条柳馬場にあったから柳町と称しました。慶長7年(1602年)、六条に移転し寛永17年(1640年)、現在地に移転しました。当時、肥前国(長崎県)島原に吉利支丹(キリシタン)一揆が勃発し城郭に立て篭っていたが、この郭の造りが似ていたところから戯れに島原と称したのが通名になったと伝えます。一説には急な移転の為に遊郭中大騒ぎとなり島原の乱の様な騒ぎだったからともされます。

置屋の輪違屋

揚屋の角屋(重要文化財:江戸期)

木造二階建て、表全体を格子造りとした揚屋建築の唯一の遺構で表、裏、台所の三部からなっています。表二階は緞子(どんす)の間を主室に翠簾(みす)の間、扇の間があり奥二階には草花の間、馬の間、孔雀の間、囲いの間など諸室があり一番奥に壁を始め随所に青貝を散りばめ数奇を凝らした青貝の間があります。これらの部屋は電灯を用いず行灯を使い階下台所は三十畳敷きの大部屋で古い民家の台所遺構として最も注目されるべきとされます。幕末期、長州の久坂玄瑞などが密談をしたとされます。置屋とは太夫、遊女などを抱えているので置屋と言います。太夫、遊女など一切に抱えず遊客を上げて遊ばせるから揚屋と言います。

東鴻櫨(とうこうろ)館跡

島原西門跡

八木家(南)住宅

壬生寺

宝憧三昧寺、心浄光院と号し地蔵菩薩立像を本尊とする律宗の大本山です。寺伝によれば奈良時代の創建で正暦2年(991年)、三井寺の快賢僧都により復興され小三井寺としょうされました。火災により堂宇を焼亡しましたが正元元年(1259年)、平政平によって再興され正安2年(1300年)、円覚上人が「壬生大仏狂言(壬生狂言)」を創始しました。「壬生さんのカンデンデン」とも称され古来から庶民に親しまれています。近藤勇、土方歳三ら隊士も壬生狂言を鑑賞したり沖田総司が子供達とよく遊んでいたと伝える。

八木家(南)住宅

壬生寺

本堂

壬生塚(新撰組隊士墓など)

新徳寺

新撰組壬生屯所跡(八木邸)

新撰組壬生屯所跡・八木邸

文久3年(1863年)、将軍警護の為に組織された浪士隊(新徴浪士組)として上洛した近藤勇、芹沢鴨ら13名の宿舎として、前川荘司邸、南部亀二郎邸と共に、慶応元年(1865年)2月に西本願寺へ屯所が移るまでの2年間、新撰組屯所として使用されました。現在、八木邸は一般公開されています。門を入って右側の式台のある奥座敷が、芹沢鴨等が暗殺された部屋で、刀傷が鴨居に残っています。慶応元年(1865年)2月頃、西本願寺・集会所に屯所を引っ越す時に近藤勇、土方歳三らは主なる郷士の家々へ挨拶回りを行い二年間の部屋代の謝礼として八木家に金子5両、前川家へ金子10両を差し出し郷士の人達をア然たらしめたと伝える。

隊士腰掛の石

八木邸

旧前川邸

新撰組壬生屯所跡・旧前川邸(非公開)

山南敬介は、島原の明里に会いたいと永倉新八に頼み駆けつけた明里と出窓越しに別れを惜しんだと伝わりますが当時の出窓は現在ありません。前川邸は非公開です。総長・山南敬介他2名の墓と松原忠司他11名、副長助勤・大石鍬次郎の実兄・大石造酒蔵(非隊士)の3つの墓が光縁寺にあり何れも些細な事が隊規に触れて切腹、断首の憂目にあった隊士らで新撰組の局中法度がいかに峻烈を極めていたかを物語っています。

旧前川邸

旧前川邸玄関

光縁寺

六角獄舎跡、山脇東洋観臓(やまわきとうようかんぞう)の地碑

平安時代の獄舎は左獄、右獄の二ヶ所があって右獄は早くに廃され左獄が京都府庁の西側にあったが天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命によって小川通り御池上ル下古城町に移転されました。宝永5年(1708年)、大火に類焼して当地に移転し六角通りに面していたので俗に六角の獄舎と呼ばれました。東西約69m、南北約53m、敷地面積約3640uと伝わり罪科の軽重によって構造を別にし上がり屋、本牢、切支丹牢がありました。天明の大火で類焼し維新後は監獄署と改名し上京区竹屋町通り日暮西入ルに移転し昭和大典にあたって山科に移転したのが現在の山科刑務所です。史上有名になったのが幕末期の元治元年(1864年)7月19、20日の両日に起こった蛤御門の変で牢獄中の平野国臣(くにおみ)ら33名が処刑された事です。この時の兵火は蛤御門付近から生じ河原町・長州屋敷の放火にもよるもので兵火は京都市内の大半を焼き尽くし翌20日には堀川を越えて六角獄舎に及ばんとしました。時の町奉行・滝川讃岐守具挙(ともよ)は「破獄を企てた」として平野国臣始め大和義拳の乾嗣竜(つぐたつ)、足利尊氏の木像を斬った長尾武雄、池田屋騒動の発端となった古高俊太郎や横田精之、大村包房ら33人が切支丹牢の東側に集められ昼〜夕刻にかけて断首されました。当時、勤皇という美儀の元に行われた長州勢の暴挙がいかに京都市民などに甚大な被害を与えたかを物語っています。又、山脇東洋は山脇玄修に医学を学び養子となり宝暦4年(1754)年、六角獄舎で日本で初めて男性刑死人の解剖を行い人体構造を観臓し解剖記録として「臓志」を著しました。

六角獄舎跡、山脇東洋観臓の地碑

二条陣屋

二条陣屋(重要文化財:江戸期)

同家の伝えによると中興の祖・小川土佐守は豊臣秀吉臣下で伊予国(愛媛県)今治を領していたが秀吉の没後、近江国(滋賀県)高島に蟄居しました。その子・千橘は叔父を頼って上洛し現在地に住して「よろず」屋平衛門と称し米、両替、薬種商を営み禁裏、二条城へ出入りし諸大名の恩顧を受けました。そのうち京都に本陣を持たない大名の為に自分の家を宿所としたのが陣屋の起こりとされますが定かではありません。二階建て(一部三階建て)、総桟瓦葺、外部は全て土蔵造りとされ完全な防火設備が施されています。内部は表と奥の二つに大別され階下に十一室、階上に十三室の大小様々な部屋があり入念贅沢な材料で出来ています。

二条陣屋

神泉苑

放生池

神泉苑(史跡)

義経と静御前が出会った所で平家の祖・桓武天皇のお気に入りの場所でもあったと伝えます。平安京造営当時の遺蹟としては現存唯一のもので昭和10年(1935年)に史跡に指定されました。現在の神泉苑は元和年間、筑紫の僧・覚雅が官に請うて再興したもので方一町に亘る苑内には池中の島に善女竜王を祀り傍らに弁才天祠があり本堂には本尊の聖観音像を安置します。現在は真言宗東寺派の寺となっていますが昔、弘法大師が雨乞い祈願をしたという旧縁によるもので寺宝に竹内栖鳳が若年の折に描いたと伝わる竜神の絵馬を有します。

弁財天祠と善女竜王堂(右)

本堂

鯉塚、亀塚

東町奉行所跡

大学寮跡

龍頭船

二条城(世界文化遺産)

慶長5年(1600年)、関が原の戦いに勝利し政権を握った徳川家康が慶長8年(1603年)、京都の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営し、3代将軍・家光により伏見城の遺構を移すなどして寛永3年(1626年)に完成しました。慶長8年(1603年)2月、征夷大将軍に任ぜられると竣工早々の二条城で拝賀を受けました。当城で徳川家康が豊臣秀頼と会見したり大坂冬・夏の陣には二代将軍・秀忠らと軍議を凝らしました。寛永11年(1634年)、家光の上洛以降は将軍上洛の必要もなく城内殿舎は次第に取りこぼち留守居役の武士が留まるに過ぎませんでした。寛延3年(1750年)、雷火で天守閣を焼失、天明8年(1788年)正月、市中大火に再び本丸内殿舎や櫓などの類焼をみたが再興はなく家康が建てた二之丸御殿のみが残りました。文久3年(1863年)、家光上洛から229年ぶりに将軍・家茂が孝明天皇の勅を奉じて上洛し慶応3年(1867年)10月、将軍・慶喜が大政奉還を決し城中から上表、ここに武家政治の幕を閉じましたが豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合された桃山時代様式の全貌を垣間見る事ができます。

西南隅楼

東南隅楼

東大手門

京都守護職屋敷跡

京都守護職は江戸末期の文久2年(1862年)、京都の治安維持を主務とし朝廷の動向探索、尊攘志士取締などの目的で設立された幕府の役職で京都所司代、町奉行などの上層部でした。当初、島津久光(ひさみつ)を守護職に就けようとしましたが外様大名をこの任に就けると政治混乱を招くとして福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)に依頼しますが辞退され文久2年(1862年)8月1日、会津藩主・松平容保(かたもり)が拝命する事になりました。孝明天皇から絶大な信頼を得ていた容保が後に朝敵とされ会津戦争(鳥羽伏見の戦い/戊辰戦争)に至る悲劇の始まりとなりました。当初、黒谷の金戒光明寺に設立されましたが文久3年(1863年)末、当地に移転し大政奉還、小御所会議などで慶応3年(1867年)12月に廃止され跡地に京都市中取締所が設けられ明治元年(1868年)2月に京都裁判所に改められ次いで京都府庁と改称し現在に至ります。

京都守護職屋敷跡

京都府庁

蛤御門

京都御所

東洞院土御門(ひがしのとういんつちみかど)内裏の一でしたが南北朝時代に北朝の皇居となり南北統一後は正統天皇の御座所として明治維新まで続きました。中世には兵乱と皇室の哀徴により大いに荒廃し当初は一町(109m)四方の小さな御所でしたが織田信長によって永禄年間に修理され、次いで豊臣秀吉、徳川家康によって周囲を整備拡張され旧観に復しました。江戸時代以降に度々火災にかかり光格天皇は寛政2年(1790年)、平安京内裏の古制に則って本格的に再建され現在の建物は安政3年(1858年)の再建ですが寛政造営の旧規に拠って造られていますが平安京内裏そのままではなく主要な部分は如実に再現され建築史的に注目されています。東西約249m、南北約448mに亘る広域内には紫辰殿を始め清涼殿(昼の御座、夜の御殿、殿上の間)など多くの優雅な建物があり内部の調度品と共に王朝時代の宮廷生活を偲ばせます。

門柱の弾痕(蛤御門)

椋の大木と築地塀(ついじへい)

御所

天明8年(1788年)の大火によって開門され「焼けて口開く蛤」に例えられ蛤御門と呼ばれました。文久3年(1863年)、大和行幸の計画が失敗し禁門の護衛を解かれて憤慨した長州藩は元治元年(1864年)7月19日、朝廷に強訴せんと大挙して御所に迫ったが御所九門を守備する会津、桑名、薩摩などの藩兵に撃退されました。禁門の変、 元治甲子の変とも言います。両軍が大砲で応戦しその砲声などに公卿達は慌てふためいたとされます。今でも御門の門柱に弾痕が残ります。この門から東へ行った所にある樹齢三百余年の椋(むく)の巨木は長州藩家老・来島又兵衛がこの木元で戦死したとされる場所で戦いは一日で終わりますが、京都は三日三晩の大火となり多くの民家が焼失し「鉄砲焼」とも言われます。幕末騒乱時、勤皇倒幕を口にする不逞の輩が横行し市民に多大な不安や危害を加え長州勢による蛤御門の戦いは武力によって市中を戦火の巷と化せし最も愚行だと言われ破れた長州藩は朝敵となりました。

建礼門

月と大宮御所(仙洞御所)

御苑の夕暮れ

仙洞御所、大宮御所、京都御苑

仙洞御所とは上皇の御所の意で寛永6年(1629年)、徳川幕府が後水尾上皇に寄進したもので桜町宮、桜町の仙洞と称しました。御殿は数度の火災に消亡し嘉永以降再興されなかったので今は庭園だけが残っています。大宮御所は嘉永年間に徳川幕府が後水尾天皇中宮東福門院の為に造進したもので皇太后、天皇の御生母である女院を大宮と称したので大宮御所と言います。嘉永7年(1854年)、焼亡後は再建されず現在は御殿と付属の建物を有するに過ぎません。京都御苑は京都御所周辺の公園地域を言い東は寺町通り〜烏丸通り、北は今出川通り〜丸太町通りに至る東西約700m、南北約1.3km、総面積65.785haにも及びます。周囲に石を畳んで筑土とし溝水を廻らせ南に堺町御門、西に下立売、蛤、中立売、乾の四御門、北に今出川御門、東に石薬師、清和院、寺町の三御門があります。

建春門

東山と御苑

清和院御門

Tourist  2004.11.22(M)

 

関連サイト

新撰組幕末回廊散策その壱

新撰組幕末回廊散策その壱

新撰組幕末回廊散策その参

新撰組幕末回廊散策その参

新撰組幕末回廊散策その四

新撰組幕末回廊散策その四

新撰組壬生屯所跡、御室仁和寺散策

きぬかけの道散策

幕末〔維新〕回廊

幕末(維新)回廊

新撰組

新撰組

 

戻る 洛雅記2004年探訪コラム

 

inserted by FC2 system