桜花つれづれ・・・背割堤(剣先)、伏見水郷めぐり

 

石清水 清き流れの 絶えせねば やどる月さえ 隈(くま)なかりけり   能蓮法師(のうれんほうし)

 

西岸寺(油懸地蔵尊)〜寺田屋〜長建寺〜背割れ堤(剣先)〜十石舟〜三栖閘門(みすこうもん)

 

淀川河川公園背割堤(剣先)

宇治川と木津川の合流地点迄、約1.4kmの堤に約250本の桜並木(ソメイヨシノ:バラ科)が続きます。京阪電車の車窓からも美しい桜並木を見る事ができます。目の前に広がる桜のトンネルは格別で桜花とホトトギスなど野鳥のさえずりに包まれた桜の花繚乱の見事さは、洛南随一です。

西岸寺(油懸地蔵尊)

昔、大山崎から一人の油商人が油桶をになって西岸寺の門前にさしかかった時に転んでしまい、油桶がひっくりかえり、油はほとんど流れ出てしまいました。大切な油を失った商人が、これも災難とあきらめ、気をとりなおして、桶の底にわずかに残っていた油を地蔵尊にかけて帰りました。その後、商人の商売が繁盛し大金持ちになったという事です。地蔵尊は「油懸地蔵尊」と呼ばれ、この辺りの地名の由来になっています。この地蔵尊は、鎌倉期に作られたものです。

境内の桜@西岸寺(油懸地蔵尊) 松尾芭蕉の句碑 油懸地蔵尊
西岸寺(油懸地蔵尊)本堂 早速のランチタイム〜 σ(^◇^;) どもども Pちゃんの大好物「オムライス」!(^_^;) デカ〜

坂本龍馬所縁の船宿・寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍との恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁ぎました。伊助は放蕩者で宿は女将のお登勢が一切を切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育しました。義侠心が強く、志士達に援助を惜しまなかったと伝えます。

坂本龍馬ゆかりの船宿・寺田屋

坂本龍馬の碑 女将・お登勢と寺田屋由来碑 薩摩九烈士碑・坂本龍馬銅像
宇治川派流を巡行する十石舟@蓬莱橋 酒蔵 長建寺

長建寺

紅柄塗りの唐模様山門で知られ真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。

境内の桜 伏見名水の一「閼伽水」
本堂 おけいはん準急に乗車@中書島駅 車窓から雨に煙る背割堤@木津川鉄橋

背割れ堤(剣先)

背割堤は京都府八幡市の北辺に位置し宇治川と木津川を分ける細長い桜堤の堤防です。明治初期、木津川の付け替え工事に伴ってできた宇治川左岸、木津川右岸の堤防の一部です。明治30年(1897年)から宇治川の改修工事が始まり日露戦争による中断もあったものの明治43年(1910年)に完成し現在の姿となり「背割堤」と呼ばれるようになりました。両河が合流(淀川)する先端が剣の様な形をしている事から「剣先」とも呼ばれています。平成元年(1989年)4月、「淀川河川公園背割堤地区」が開園され毎年、この辺り一帯において八幡市、八幡商工会議所などが後援して『背割堤「やわた桜まつり」』を開催しています。この辺り一帯の河川敷にはヨシなどが茂り多種の野鳥や昆虫を見る事ができる都市近郊では貴重なエリアになっています。

御幸橋(木津川) 背割堤と天王山@御幸橋(木津川) 見事な桜花繚乱!!! O(^◇^)O ふぉ〜
約1.4kmの桜並木をテチテチ・・・雨が降ろうがPちゃんの手には、オヤツの袋が・・・恐れ入りまつ?! σ(^◇^;) どもども
背割堤の桜(ソメイヨシノ)並木

昭和50年代始めまで松並木で「山城の橋立」と称されていましたが害虫被害で松が枯れ昭和53年(1978年)3月、当時の建設省が桜(ソメイヨシノ)に植え替えて今日に至っています。府道・京都守口線(旧国道1号線)の御幸橋(ごこうばし)から下流方向に1.4kmの桜並木になっています。ソメイヨシノ約250本、ハナミズキ52本が植栽されています。

俳人・荷兮(かけい)、基角(きかく)の歌碑 桜のトンネルでつ!
桜並木は見事な桜吹雪! 男山 桜花繚乱!素晴らしい!!!
背割堤の先端までテチテチと桜繚乱を満喫します・・・
天王山 雨ニモマケズ・・・ ニモマケズ・・・

入口(御幸橋)から約1.4kmの桜のトンネルをテチテチ・・・誰もいない背割堤の西端に到着!出たぁ〜?! Pちゃんの「イナバウアぁ〜」 σ(^◇^;) 爆!

入口(御幸橋)へ戻りまつ・・・雨風強し!(>_<)
雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・人の少ない背割堤の桜を満喫します・・・
見事な桜花繚乱とです・・・ 雨に煙る男山 雨が上がったら風が強くなりまつた!(>_<)
御幸橋(宇治川) 御幸橋(木津川)と男山 しだれ桜
御幸橋(木津川) 八幡の町並みと男山 石清水八幡宮

男山合戦

清水八幡宮の歴史中で特筆すべきは、「男山合戦」といわれる南北朝時代最大の決戦が男山を中心に60日間もあった事で、この戦いを契機に南朝は急速に勢力を失いました。正平7年(1352年)春、南朝の後村上天皇は楠正義らと男山に立てこもり、対して足利尊氏の嫡子・義詮(よしあき)は東寺を本陣とし男山を四方から取り巻きました。戦いは激烈を極めたが楠正義の守備する洞ヶ(ほらが)峠が落ちると、後村上天皇はここを見限り大和大路を東大寺へと落ち、足利(室町)幕府は始めて基礎固めができたと伝わります。

放生池 頓宮北門 八幡五水の一「筒井」
頓宮南門、頓宮の回廊 頓宮殿 徒然草ゆかりの高良神社

頓宮(お旅所)

「徒然草」に、仁和寺の法師が石清水詣でにやって来て、本社と間違えて参拝者で賑わう頓宮、高良神社を参拝しただけで帰ってしまい「さすが八幡様は立派であったが、参拝者がぞろぞろと山へ登っていくのには合点がいかぬが・・・」と言って笑い者になったいう一説があります。「あらまほしきは先達(案内人)也」と話を結んでいますが、頓宮だけでも満足できる事は事実です。

八幡五水の一「藤井」 二の鳥居 源頼朝手植の松
安居橋(あんごばし/太鼓橋)@さざなみ公園
さざなみ公園 トーマス・エジソンの胸像
淀屋橋行き特急が通過@京阪八幡市駅 出町柳行き特急が通過@京阪八幡市駅 準急に乗りまつ@京阪八幡市駅
車窓からの鹿野橋@放生川(大谷川) 宇治川派流に係留されている十石舟「秀吉丸」@弁天橋
16時20分発の十石舟に乗り遅れ17時30分まで待つ事に?!(>_<) 時間待ちに伏見ぶらぶら・・・ 黄桜広場

伏見と言えば・・・酒、酒蔵

伏見は「伏水」とも記され良質の地下水に恵まれ古来、酒造りが盛んで兵庫県の灘と並ぶ二大銘酒処として知られます。文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城を築き淀川を巨椋池から切り離し城の外濠として構築させました。酒蔵の多くは、宇治川派流、濠川に接して建てられ明治の終わり頃まで米、薪炭、樽材などの原材料が宇治川派流、濠川を上下する十石船で運ばれていました。

カッパッパ〜の河童と子ガッパでつ?!(爆) カッパカントリー 杉玉が架かる清酒工房
酒造りの道具 酒絞りに使われた酒 伏見名水の一「伏水」
酒米の解説 の酒造りジオラマ その1「洗米」 の酒造りジオラマ その2「蒸米」
の酒造りジオラマ その3「放冷」 の酒造りジオラマ その4「麹づくり」 の酒造りジオラマ その5「酛(もと)づくりり
の酒造りジオラマ その6「醪(もろみ)づくり」 の酒造りジオラマ その7「上槽」 黄桜記念館
お酒の香りが漂う清酒工房 ウィッとな〜?!σ(^◇^;) どもども 酒蔵@宇治川派流

人、物資を運んだ伏見名物「十石舟、三十石船」

伏見開港400年を記念して復元された江戸時代の過書船で春〜初冬にかけて定期運航では淀川船運の歴史を今に伝える水郷を巡ります。江戸時代、大方の旅人は伏見街道から京橋に出て寺田屋の前の船着場(寺田屋浜)から三十石船(一般的に旅客定員28名〜30名、船頭4名が定員)で大阪・八軒屋(堺屋源兵衛)へと向かった。急行便とする寺田屋の船は6人〜8人に増員した船頭で朝三便、昼四便、夜五便ほど往復、下りは早く夜に乗船すれば早朝には大阪に着いたが、上りは綱で引くから朝に大阪・八軒屋を出ても夕方にしか伏見に入る事はできなかった。船賃は天保銭一枚、一人座席で寝ころべば三人分の料金、船頭1人増す毎に水夫増賃(かこましちん)を取られたという。

十石舟弁天橋乗船場 長建寺 乗船する十石舟「千姫丸」
千姫丸に乗船 辺の雪柳(ユキヤナギ) 蓬莱橋
三十石船@寺田屋浜(京橋) あい橋 濠川合流地点@であい橋

角倉了以が開削した高瀬川

角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。

角倉了以水利功碑(旧高瀬川合流地点) 肥後 三栖(金井戸)神社の桜

豊臣秀吉が開港した河川内陸港「伏見港」

文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。

美しい桜 京阪電車橋梁 大橋

三栖閘門(みすこうもん)

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

伏見港 伏見港を跨ぐ外環状線 前扉@三栖閘門
三栖閘門船着場 閘室沿いの美しい桜並木
宇治川展望スポット(後扉室)へ 宇治川展望スポット(後扉室) 宇治川展望スポット(後扉室)からのパノラマ
伏見の町並み、宇治川や巨椋池干拓田なとが一望できる宇治川展望スポット(後扉室)
三栖閘門のパノラマ@宇治川展望スポット(後扉室)
三栖閘門の前扉室と閘室 閘室沿いの桜並木 三栖閘門後扉室
三栖閘門資料館 三十石船のモニュメント@伏見港広場 三栖閘門の後扉室と閘室
閘室沿いの桜並木と建設省三栖閘門碑
三栖閘門後扉室 龍馬丸に乗船@三栖閘門船着場
後扉@三栖閘門 閘室内はバックで出航します・・・ 港大橋
伏見港公園 京阪電車橋梁 一級河川の宇治川派流
肥後橋 濠川合流地点@であい橋 宇治川派流@であい橋
京橋 三十石船@寺田屋浜(京橋) 蓬莱橋
酒蔵 千姫丸@弁天橋乗船場 龍馬丸を下船@弁天橋乗船場

係留されている秀吉丸 十石舟弁天橋乗船場

千姫丸と宵の酒蔵 宇治川派流@蓬莱橋

Tourist  2006.04.10(M)

 

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