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創建者・村野山人像 |
拝殿と本殿(一間社春日造り) |
伏見城お舟入り常夜灯 |
大善寺(六地蔵) |
京都は昔から地蔵信仰が深く、約400年前から京都へ入る街道口にお地蔵さんを奉り、この大善寺を最初として時計回りに巡拝します。大善寺は、浄土宗のお寺で六地蔵の名で知られています。地蔵堂に安置されている地蔵菩薩立像は辺庵時代の始め小野篁(おののたかむら)が一度息絶えて冥土へ行き、そこで生身の地蔵尊を拝して蘇った後に一本の桜の木から刻んだ六体の地蔵の一つといわれています。当初、ここに六体の地蔵尊が祀られていたのですが後白河上皇の勅命により平清盛が西光法師に命じ、都に通じる主要街道の入り口に残りの五体を分祀したことから。これらの地蔵を巡拝する「六地蔵巡り」の風習が生まれたとされています。 |
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六地蔵(大善寺) |
境内 |
地蔵菩薩立像 |
許波多(こはた)神社(木幡:こはた) |
初め木幡(柳山)山中に創祀されたとされ旧地の柳山に因んで一に柳大明神とも言いますが創祀年月は不詳ですが平安末期の応保年間(1161〜62年)と伝えます。延喜式神名帳に掲げる「宇治郡許波多神社三座」とある内の一座は当社とされ二座は五ヶ庄の許波多神社に祀るとされます。天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、を祭神とする木幡の産土神で五ヶ庄の許波多神社とともに旧郷社として崇敬されています。二つ並んだ本殿向かって左側を田中神社で天照大神、天津日子根命(あまつひこねのみこと)を祭神とし元、河原村の産土神でしたが明治41年(1908年)に移し一説に式内許波多神社三座の二座は当社とされるも明らかでありません。 |
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許波多神社 |
本殿 |
狐塚(宇治陵三十六号) |
西方寺(弥陀次郎:みだじろう) |
無量山と号する浄土宗知恩院派の寺で俗に「弥陀次郎」と呼ばれます。「山州名跡跡志/巻15」によれば、むかし淀の漁夫に悪次郎と称され大変に嫌われた男がいましたが、ある時に淀川々中より一体の阿弥陀像を感得した事から仏心をおこし出家し世の人々から「弥陀次郎」と賞賛されたと伝わります。当寺は寛永年間の再興で「弥陀次郎」伝説は江戸時代に大いに流布し付近を流れる川を弥陀次郎川と言います。関白・近衛兼基(かねつね)の墓所が二子塚古墳の前方部(西方寺庭園背後)にあり墓石は笠塔婆形の石塔を墓石にしています。 |
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西方寺参道の専用踏み切り |
ゲゲッ・・・参道途中を電車が通過!!(@_@) |
本堂 |
二子(ふたご)塚古墳 |
長さ約150m、南北を主軸とする巨大な前方後円墳で隆然たる封土を遠望すればあたかも二子のように並び立っているので二子塚と呼ばれ一に「ダンノヤマ」とも言われます。この古墳は宇治川東側の沖積台地に作られた横穴式古墳で大正初期頃、土砂の採掘によって北の後円部は破壊されたが南前方部は完存し西〜南にかけて堀があり「ダンノ池」と呼ばれます。石室はすでに破壊され原型を留めませんがその周囲に用いたとされる巨大石は発掘され西方寺庭園に遺存されています。 |
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供養塔 |
二子塚古墳(西方寺庭園背後) |
関白・近衛兼基(かねつね)の墓所 |
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墓参りへ(萬福寺塔中・宝蔵院) |
宝蔵院 |
鉄眼一切経版木収蔵庫内(江戸期:重文) |
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参道からの眺め |
龍興院開山堂(江戸期:京都府指定文化財) |
堂内 |
黄檗山・萬福寺(江戸期:重要文化財) |
萬福寺は、1654年(江戸時代)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の崇敬を得て1661年に開創された中国風の寺院。日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など中国の名僧を原点とする黄檗宗の大本山です。 |
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宝蔵院開山塔(江戸期:京都府指定文化財) |
駒の蹄影園跡碑 |
風情のある普茶料理店 |
駒の蹄影園跡碑 |
昔、宇治の里人が茶樹を植える距離が分からず栂尾(とがお)の明恵上人に教えを乞うた時、上人が馬に乗り畑地を駆け巡りその蹄跡に茶樹を植える様にと教えました。当碑は同上人への感謝と功績を讃えて建てられました。 |
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竜目井 |
萬福寺総門(江戸期:重文) |
竜目井 |
竜目井 |
萬福寺門前左右にあり隠元禅師が掘らしめたと伝わり萬福寺を竜に例えて竜の目としたので天下の竜衆(僧侶)が挙げて萬福寺に集まる事を象徴したものと云います。 |
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菊舎句碑 |
三門(江戸期:重文) |
天王殿(江戸期:重文) |
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天王殿の額(木庵筆)と弥勒菩薩(布袋)坐像 |
威徳荘厳の額(即非筆/天王殿東側) |
韋駄天立像(天王殿東側) |
仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/江戸期:重文)、月台(げつだい)、梵檀石(ぼんだんせき) |
大雄宝殿(江戸期:重文/だいおうほうでん)とも称し五間六面、重層、屋根は入母屋造、本瓦葺の大殿で上層に「大雄宝殿」(隠元筆)、下層に「万徳尊」(木庵筆)の額を掲げ柱は全て角柱とし前面一間通りを吹き放しとします。廊下天井を蛇腹状(俗に黄檗天井)とし正面中央入口に桃実を浮彫りとした半扉を立て両端の壁に大きな円窓を設けるなど中国風の溢れた黄檗独自の建物です。仏殿の前にある白砂の基壇を「月台」と言い黄檗建築の特徴の一つです。月台とは常に月光を受けるという意で水陸会(水陸の生物に食べ物を供養する法会)を行う時の祭壇で、その中央の長方形の石は梵檀石(ぼんだんせき)と言い行状のよくない僧侶を石上におき一切の言葉を交じわせないとされ一に擯罰石(ひんばつせき)とも言います。 |
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仏殿(大雄宝殿:だいおうほうでん/江戸期:重文) |
境内 |
伽藍堂 |
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雲版(うんばん) |
開梆
(魚梆 /かいぱん) |
布袋絵馬 |
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釈迦如来坐像(大雄宝殿) |
法堂(江戸期:重文) |
大雄宝殿(江戸期:重文) |
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境内 |
合山鐘 |
卍くずしの匂欄(こうらん) |
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開山堂(江戸期:重文)と舎利殿 |
三門(江戸期:重文) |
天王殿(江戸期:重文)への参道 |
指月の浜 |
宇治川に臨む川畔を称し豊臣秀吉が伏見城築城に際し、建設資材の荷揚げ場として造営した所と伝えます。 |
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京阪電車・宇治線 |
山科川、宇治川合流地点 |
たそがれの宇治川(指月の浜) |
観月橋 |
宇治川に架かる国道24号線の橋で文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城築城時に架けたのは「豊後橋」と言い大和街道の起点で、長さ206m、幅8mと立派な橋だったそうですが明治6年(1873年)に再建され豊臣秀吉の月見宴などに因んで「観月橋」と名付けられました。。 |
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観月橋 |
京阪電車・宇治線 |
殿川鉄橋(近鉄・京都線) |
Tourist
2005.01.24(M)
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