宇治川、瀬田川(宇治川ライン)チャリチャリ散策「瀬田川編」

 

夕月は 二つ有りても 瀬田の月  芭蕉

 

宇治川ライン〜立木観音〜石山寺〜瀬田の唐橋〜宇治川ライン〜晋化(ふけ)塚〜伏見

 

立木観音

安養寺と号し弘仁6(815)年、弘法大師が瀬田川の畔に立ち寄った時、対岸の立木山に光を放つ霊木があるのが目にとまりましたが急流の瀬田川を渡りあぐね佇んでいたところ、突然白鹿が現れ、その背に弘法大師を乗せ霊木まで導き、そこで観世音菩薩に変化し、虚空の中に消え去りました。この奇跡に感じ入った弘法大師が、霊木に観世音菩薩を刻んだのが立木観音の始まりと伝わります。弘法大師が観世音菩薩を刻んだのが、42歳の厄年で、人々の厄難を救って欲しいと願いつつ刻んだ事から、立木観音は古来、厄除けの観音様として信仰されています。

滋賀県大津市に入ったとです・・・瀬田川です。

立木観音

参道からの眺め(瀬田川、R422:宇治方面)

手水

700余段の石段を上るとです・・・(;^_^A

弘法大師像

ひたすら700余段の石段をテチテチ上るとです・・・途中で坊さんを追い抜きました(>_<)・・・どもども(;^_^A

境内

茶所

おっと・・・茶釜とです!

白鹿に跨った弘法大師像 ハイヨ、シルバー?!

本堂

本堂からの眺望・・・

奥の院参道口

奥の院

鐘楼

白鹿苑

南郷(瀬田川)洗堰

石山寺

石山寺

近江八景の一つ「石山秋月」として有名な石山寺は真言宗東寺派の別格本山で、石光山と号し西国33カ所霊場の第13番札所です。奈良時代後期の天平19年(747年)、聖武天皇の勅願により東大寺の良弁僧正が当寺を開基すると伝えます。一説では天平宝字5年(761年)、東大寺の建築資材の集積地として石山院という東大寺別当の出先機関が置かれ良弁も深く関与したともされます。平安遷都後は、京に近い観音霊場として天皇、藤原氏を始めとする貴族らの物見遊山を兼ねた「石山詣」が盛んになり平安文学の舞台となり寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に七日間の参籠し、折から昇る月を眺めつつ「源氏物語」の筆を初めたと伝え他に「枕草子」、「更科日記」、「宇津保物語」、「和泉式部日記」などに石山詣の話が記されています。建久年間(1190〜1199年)、源頼朝の寄進により東大門(重要文化財)及び勝南院毘沙門堂が建立され天文26年(1555年)、足利義昭と織田信長と争った時、当寺に布陣した為、兵火にかかり慶長5年(1600年)、淀君の寄進により、本堂の礼堂なとが再建されました。

源頼朝が寄進した東大門(重文:鎌倉期)

仁王像

待機のキララ

緑が清々しい参道

大黒堂

くぐり岩(胎内くぐり:左から、入り口、岩内、出口)・・・くぐり抜けたとです・・・生まれ変わったかも?!(*≧m≦) プッ
毘沙門堂(左)、観音堂 観音堂内 硅灰岩(天然記念物)
蓮如堂 御影堂 懸造(かけづくり)の本堂
本堂(国宝:平安期) 紫式部が七日間、参籠した源氏の間 校倉造の経蔵
紫式部供養塔(左)と芭蕉句碑 鐘楼(重文:鎌倉期) 源頼朝(右)、亀谷禅尼供養塔
めかくし石 源頼朝が寄進した多宝塔(国宝:鎌倉期) 月見亭
瀬田川、琵琶湖方面の眺望 源氏の苑 可憐な後姿・・・もしや、そなたは?(;^_^A どもども
式ちゃん(紫式部)でしたか?!・・・?!(*≧m≦) プッ 山吹 無憂園
射干(シャガ) 藤棚 島崎藤村所縁の蜜蔵院
那須与一地蔵尊 比良明神影向石 霧島ツツジ
緑が清々しい参道 八重桜が満開の京阪・石山寺駅 瀬田川の屋形船

瀬田の唐橋

近江八景の一つ「瀬田の夕照」の名勝で知られています。古来より宇治橋、淀橋と共に日本三大名橋として都の要害的な役割を担っていて壬申の乱、源平の戦、応仁の乱、明智光秀の乱の度に焼かれました。この唐橋と瀬田川の守り神である龍王宮と「百足退治」で有名な俵藤太(藤原秀郷)を祀った秀郷社が、瀬田川左岸の唐橋袂にあります

日本三大名橋と讃えられる瀬田唐橋 琵琶湖方面(瀬田唐橋)
新幹線が通過しとるとです・・・ 臨湖庵(瀬田城跡) 宇治発電所用水門
遊覧船(水産センター港) 南郷水産センター 南郷(瀬田川)洗堰
南郷(瀬田川)洗堰を渡るとです・・・ 瀬田川畔の博満地蔵 立木観音通過・・・
茶畑 南大津橋 滋賀県大津市〜宇治市へ(R3)
曾束橋を渡るとです・・・ 宇治川ライン(R3)をチャリチャリ・・・ 天ヶ瀬ダム(鳳凰湖)が見えてきたとです・・・
天ヶ瀬ダム・・・今日は警告なしとです!(;^_^ゞ どもども 第四十九帖・宿木(やどりぎ)之古跡
日本最大の浮島十三重石塔(喜撰橋) 平等院(世界遺産/国宝:藤原期) 紫式部像と宇治橋
紫式部像と宇治橋 三の間(宇治橋) 浮島方面(宇治橋三の間から)

晋化(ふけ)塚

一に風穴塚、虚無僧塚とも言い虚無僧の始祖とされる虚竹禅師朗庵が晩年、当地に吸江庵を建て永仁2年(1294年:一説に同6年)に没した所と伝えます。朗庵は一に良庵とも記し又、中国の帰化僧の芦安とも言われ出所生没を明らかにしません。建長6年(1254年)、宋国より晋化宗を伝え聖一国師の法弟・覚心(法燈国師)の高弟と言われます。朗庵は覚心より尺八の秘曲を伝授され尺八を吹いて踊経に和し庶民救済の方便としました。「山城名勝誌」によれば朗庵は宇治川南岸の槇島村に円音寺を建立したが洪水で流失の憂き目に遭い黄檗辺に再興したとされます。

夕暮れの宇治橋 晋化塚 川鉄橋(近鉄電車京都線)

Tourist  2005.04.25(M)

 

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