秀吉の聚楽第、平安京遺構探訪ウォーキング

 

いにしへの 宮の内野の 原をみて 袖さへぬるる 道芝の露 宗祇

 

一条戻橋〜黒田如水(じょすい:官兵衛孝高)邸跡、聚楽城鵲橋(かささぎばし)旧跡〜大極殿遺址〜立本寺〜聚楽第跡

 

豊臣秀吉が造営した聚楽第遺構をグルッとウォーキング探訪

現存最古の「洛中洛外図屏風」左隻(町田家本、歴博甲本:国立歴史民俗博物館蔵)

現存最古の「洛中洛外図屏風」右隻(町田家本、歴博甲本:国立歴史民俗博物館蔵)

聚楽第図屏風(三井文庫蔵)

 

聚楽第(じゅらくだい)

豊臣秀吉が天正15年(1587年)に築いた城郭風の邸宅で周囲に濠を廻らせたので一に聚楽第と言われました。これより先、秀吉は大阪城を築いて入城しましたが、次いで京都における館第を設けるべく天正14年(1586年)春、大内裏の旧地でもある内野の東北部の地を選び着工し翌、天正15年9月に竣工し移り住みました。その地域は智恵光院通上長者町をほぼ中心とし東は大宮通〜西は千本通まで、北は一条通〜南は下立売通に至る東西約600m、南北約700mに亘る広大な地で今の二条城を一回り大きくした程の規模だと推定されています。古典太閤記によれば・・・聚楽第と称し里亭を構え四方三千歩の間につい垣山の如し。楼門のかためは鉄の柱、瑤閣星を飾り、瓦の縫めは玉虎風に嘯き、金龍雲に吟ず。儲の御所は桧皮葺なり、御はしの間に御輿寄せあり、庭上に舞台あり、左右に楽屋あり、後宮の局に至るまで百工心をくだき、丹精手を尽くし侍りしかば、華麗尤甚し人皆目なれぬ事をのみ云あへけり云々・・・と記されています。多少誇張的であるが秀吉の勢威を誇示する為にも壮麗な建物であったと想像されます。秀吉は聚楽第に移ると翌、天正16年(1588年)4月に正親町上皇、後陽成天皇の行幸を仰ぎ、諸侯ほ率いて御前に忠誠を誓い歓待を尽くしました。この時の行幸は、後小松天皇の北山殿行幸にも比すべき盛儀であったと伝えます。その後、養子の秀次が住したが文禄4年(1595年)7月、秀次が誅せられるに及んで、翌8月に破却され造営以来僅か8年に過ぎなかったが、建物の多くは伏見城に移築され一部は寺院にも寄進されました。聚楽第遺構として伝承されている主な建築物は、大徳寺勅使門(唐門)、妙覚寺表門、西本願寺飛雲閣、白書院前舞台、南禅寺金地院方丈、唐門、二条城二の丸御殿、三渓臨春閣、醍醐三宝院枕流亭などがあります。かくて旧地は荒蕪の地となり、時々、勧進能などが空き地で行われ江戸初期の寛永年間に至って市坊ようやく形をなし、後に近傍を合して120ヶ町の聚楽組ができ、その西南部を聚楽廻と呼ぶに至りました。往時を偲ぶものは、殆どなく僅かに石碑などがあるだけです。

史跡・伊藤仁斎宅(古義堂跡)、書庫

江戸初期の儒者・伊藤仁斎の私塾で古義堂と称しました。創設当時の古義堂は延宝元年(1673年)の大火で焼失し明治23年(1890年)に遺構をもって再建され二階建、土蔵造りの書庫は当時のものと伝えます。仁斎は当初、徳川幕府の国教とする朱子(しゅし)学よりも古く正しいものと主張し寛文2年(1662年)、自宅に設けた私塾でその学派を堀川学派、又は、古義学派と言われ世に伝唱されました。仁斎は育英する事約40年、門下生は1000余名を数えたと伝えます。宝永2年(1705年)3月、79才で没するまで長子よく父の学問の紹述に努め、堀川学を大成しました。

81系統「京都駅」@竹田街道大手筋バス停 9系統「西加茂車庫」@堀川下立売バス停 史跡「伊藤仁斎古義堂跡、並びに書庫」
古都、ひと、チンチン電車

京都は古いものと新しいものが、見事に調和している街だと言われます。象徴的な路面電車(市電)は、京の町の点景には欠かせぬ存在だと言われました・・・明治維新後、首都の座を東京に明け渡して粛然としていた京都の町に活気を取り戻させたのは、我が国最初のチンチン電車の開通でした。その日から寺殿の堂宇や神社の鳥居などもレールと車輪が軋む聞きなれない音を耳にしてチンチンと走る路面電車を眺める事になりました。権力闘争の血なまぐさい歴史など京都を長い間、目にしてきたものにとって実に可愛い存在でした。そして80年後、路面電車は姿を消しました。これも一つの歴史の流れでしょうか?・・・市民は勿論、観光客も市電は頼りになる足でした。遠足の子供には温かな母の懐、通勤客には自分の足となり、観光客には信頼できる案内人となりました。こうした期待に応えられなくなったのは、道路を埋めつくす車のラッシュが原因でした・・・車の間でもがいている路面電車の姿は痛ましかったと古老は伝えます。

                                

「昭和36年(1961年)7月頃の市電・北野線の堀川中立売鉄橋界隈(保存版 京都の市電) 」   「堀川中立売鉄橋を渡るN電(保存版 京都の市電)」

京都市電(旧京都電気鉄道)・北野線遺構の中立売橋梁・・・なぜか?またまた、堀川の下にいるとです・・・σ(^◇^;)
堀川中立売にあった珍しい人力転車台

乗客を乗せたまま転車台に乗りポールを外すと、車回しの人が電車の向きを変えてくれました。中立売まで運行していた堀川線を更に西進させ北野天満宮まで走らせようとした時、堀川をそのまま渡れる鉄橋を造る土地買収が、できなかった為に転車台が誕生しました。転車台に乗る時に勢いあまって電車が飛び出し何度も民家に衝突したというエピーソードがあります。

  

「明治28年秋頃の京都電気鉄道・堀川線終点の堀川中立売(保存版 京都の市電)」 「堀川中立売にあった転車台(保存版 京都の市電:立風書房)」

この辺りに人力転車台がありました・・・ 堀川第一橋はレトロチックなアーチ形の石造橋

一条戻橋

名の起こりは定かでないが平安中期、延喜18年(918年)、文学博士・三善清行の葬列が、丁度この橋を通りかかった時、紀州熊野にあった息子・浄蔵が急ぎ帰京し棺にとりすがり泣き崩れ神仏に熟誠を込めて祈願したところ不思議にも父・清行が一時蘇生し父子物語を交じたという故実により「戻橋」と名付けたと伝えます。陰陽師・安部晴明は鬼のような容貌した式神(職神:しきじん)12体を作り人間と同様にこれを駆使したが晴明の妻が恐れるあまり常は戻橋の下に封じ込め用事の時だけ呼び出し吉凶の橋占に用いたとも伝えます。戻橋を最も有名にしたのは河竹黙阿弥が「太平記」(剣の巻)を主材として作った歌舞伎芝居「戻橋」によるからで梗概は、源頼光の家来で四天王の一人である渡辺綱が、ある夜、この橋の畔で容貌美しい女子に出会ったが、川面に映る鬼女の形相によって正体を知り遂に鬼女の片腕を斬り落としたという。これは、戻橋の東南一帯に清和天皇の諸皇子の屋敷があったが、後に源頼光の居住するところとなり、かかる伝説が生じたとされます。戻橋という名を嫌って縁談一切は渡るのを避けると言われ、反対に戻橋の縁起をかついで出征兵士はこの橋を渡って出兵すると無事、帰還が叶うと言われます。

陰陽師・安部晴明が自在に操った式神を橋の下に封じ込めていたと伝える「一条戻橋」・・・橋下に封じ込められた式神さまっ、いずこへ? σ(^◇^;)

黒田如水(じょすい:官兵衛孝高)邸跡、聚楽城鵲橋(かささぎばし)旧跡

黒田如水邸跡・・・黒田如水は、播州御着城主・小寺政職の家老・黒田(小寺)職隆の嫡男として生まれました。豊臣秀吉の臣下で、竹中半兵衛重治とならぶ知将で毛利攻めなどに活躍しました。竹中半兵衛が播州三木城侵攻中に結核で没した後、軍師として秀吉の天下取りに貢献しました。しかし、秀吉の天下統一後は、優れた謀才ゆえに警戒心を持たれ多大な貢献の割に豊前中津12万石の禄高でした。秀吉に警戒されている事を察して出家し如水(じょすい)と号し隠居を申し出ましたが領国に戻る事を許されず、秀吉の側に仕え聚楽第の東北部に邸宅を構えました。当地を如水町というのは黒田如水邸に因むものです。聚楽城鵲橋旧跡・・・聚楽第の濠に架かる鵲(かささぎ)橋跡で聚楽第の南二ノ丸の南東内郭と伝えます。北は元誓願寺通、東は堀川通、南は下立売通、西は千本通を外郭とし内郭は本丸を中心に北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれたと推定されています。

一条戻橋々梁 黒田如水(じょすい:官兵衛孝高)邸跡碑 聚楽城鵲橋(かささぎばし)乃遺跡
聚楽城鵲橋乃遺跡(松永稲荷社) 聚楽第天秤濠跡界隈・・・今は平地の天秤町、史跡を示す石碑もなく地蔵堂、町名だけ?

平安宮一本御書所跡

説明札(駒札)によると平安時代、この付近は天皇の住いである内裏の東側に当たり、一本御書所がありました。一本御書所は、平安時代中期の天暦2年(948)頃から「貞信公記」などの文献に現れ、世間に流布した書籍を各一本(一部)書き写して保管、管理した所で、侍従所の南にあって、公卿別当をもって長官に任じ、その下に預(あずかり)や書手などの役がありました。「日本紀略」には、康保元年(964年)10月13日条には、一本御書所で清書した二百二十二巻を大蔵省の野御倉に遷納した事が記されています。平安時代後期、鳥羽天皇や崇徳天皇が度々ここに行幸されました。「平治物語」によると、平治の乱(1159年)に際して、藤原信頼らが後白河上皇を一本御書所に幽閉した事が記され、つとに有名です。陽明文庫本「宮城図」には、この付近を裏外郭北門(朔平門)西の式乾門内の東掖門に御書所があったとし、天皇の書物等を管理する内御書所は内裏内の承香殿の東片廂にあったとする・・・一本御書所は、平安時代の国会図書館にあたります。
平安宮一木御書所跡(食用油専門店・山中油店)・・・邸内外には、「出水:でみず」を利用して水車が回る見事な庭園
水車が周り池には鯉が優雅に泳ぐ庭園 平安宮一本御書所跡碑 京都の典型的な町家「上京歴史探訪館」

内裏跡、平安宮内裏内郭回廊跡(へいあんきゅうだいりないかくかいろうあと)

内裏跡・・・千本通より東、出水通をほぼ中央とする南北各150mに亘る地とされ天皇日常の御在所たる皇居で朝堂院の東北にあたり正門に建礼門院があり、これを入ると紫宸殿があって、その周辺に清涼殿、春興殿など多くの御殿があり、その背後には後宮がありました。後世の里内裏もほぼこの制を守りました。平安末期の安元3年(1177年)の大火で応天門、朱雀門と共に全て焼亡した後は全く再建されず旧地は荒廃しました。平安宮内裏内郭回廊跡・・・内裏南西の武徳門の南にあたり、平安宮内裏内郭の一部が昭和44年(1969年)と同48年に発掘されて回廊の東西縁の基壇の延石列が約27m確認され基壇幅は10.5mと判明しました。出土瓦によって保元3年(1157年)、再建当時の回廊と考えられています。

平安宮内裏内郭回廊跡 平安宮内裏内郭回廊説明碑 大極殿跡プレート

大極殿遺址碑(だいごくでんいしひ)

大極殿は大内裏朝堂院の正殿で、天皇の即位など国儀大礼が行われる最も重要な建物で結構な壮麗を極め今の平安神宮の拝殿は大極殿を模造しましたが、その規模は当時の約2/3に過ぎず、その広壮たる威容、輪奐の美は想像に絶するものがあります。貞観13年(871年)に大極殿が焼失し天徳4年(960年)に内裏が焼亡して以来、15回も焼亡し、その都度、天皇は貴族の邸宅に移り住みました。これを里内裏と言います。安貞元年(1227年)の内裏焼失以降、内裏は再建されなくなり里内裏が政治の中心となったので内裏一帯は荒廃し、「内裏があった野」という意味で「内野」と呼ばれました。大極殿の正確な位置は明らかにされませんが明治28年(1895年)、平安遷都千百年紀念祭にあたり湯本文彦氏が平安京の実測を行って千本丸太町付近と比定しました。近年、この位置より南東で遺跡が見つかっています。

明治28年(1895年)に比定された大極殿跡に建つ大極殿遺址碑(だいごくでんいしひ)

朝堂院跡(宣政門跡:せんせいもんあと)

大内裏は桓武天皇が国家統治の理念から心血を注いで造営され大内裏の中心である朝堂院は八省院とも言われ、元来は八省の官人達の執務場所とされ周囲は複廊で囲まれ南の正門、応天門を入ると東西に朝集堂の建物が建っていました。出仕時、官人達が集まった場所で、更に北の会昌門を入ると、十二堂が左右対称に建ち並んでいました。昌福堂、含章堂、承光堂、明礼堂、延休堂、含嘉堂、顕章堂、延禄堂が東西に向かい合い、南北に暉章堂、康楽堂、修式堂、永寧堂の四堂がありました。朝堂院の正面奥に建つのが大極殿、東西十一間、南北五間、両翼に蒼龍、白虎の二楼を持つ建物でした。その後、国家体制が大きくなるにつれ、職掌ごとの官衙が求められ、それら独立官衙が朝堂院の周囲に群立するようになります。それに伴って朝堂院の持つ朝政の場としての性格は薄れ平安時代には、天皇の即位や外国使節の謁見など国家的儀式や行事の場所となりました。

大極殿跡パネル(大極殿イメージ図) 堂院跡パネル(平安宮イメージ図)

木村長門守重成公旧館地(弘誓寺)

聚楽第が築かれた際の木村長門守重成邸跡です。重成は、豊臣秀頼の家臣で大坂夏の陣で戦死しました。この地を長門町というのは、木村長門守重成の邸宅に因むものです。

昭慶門跡プレート 木村長門守重成公旧館地 (弘誓寺)

観音寺、百叩き(たたき)の門

慈眼山と号する浄士宗の寺で慶長12年(1607年)、梅林和尚が一条室町に創建しましたが、寛文、天明の二度の火災後、現在地に再建されました。度々の火災で正確な寺史は不詳です。本尊・聖観世音菩薩は、元、一条戻橋付近の寺にあり浄蔵貴所が父・三善清行を一時蘇生させた時に祈念を込めたという伝説(一条戻橋伝説)があります。表門は伏見城の牢獄門を移建したと伝え、昔、この門の右側にある小さなく潜り戸から罪人が釈放される時に100回叩いて再び牢獄へ戻らないように諭したので百叩きの門と言われました。潜り戸は楠の一枚板で出来ており風で開く時に人の泣声を発したとも言われ「出水の七不思議の一」に数えられています。

境内 建仁寺垣と椿、梅・・・ 百叩きの門(伏見城牢獄門)@観音寺

慈眼寺(じげんじ)

天正16年(1588年)閏5月14日、領内(肥後国:熊本県)での国人一揆鎮定に失敗し豊臣秀吉の責めを受け摂津国(兵庫県)尼崎の法園寺で切腹した佐々成政の女(鷹司信房の北の方)が、父・成政の菩提を弔う為に僧・大雲永端を開山として建立したと伝える曹洞宗の寺で本尊は聖観音座像です。最初は西陣の石屋図子にありましたが、寛文3年(1663年)に現在地へ移りました。墓地には江戸末期の南宗書家・山本梅逸や神沢杜口(かんざわとこう)の墓があり、寺宝に梅逸筆による「名花十友園」を有します。神沢杜口は京都町奉行与力で自らから見聞した事項を200巻にまとめた「翁草:おきなぐさ」を著しました。

観音寺境内 慈眼寺

立本寺(りゅうほんじ)

具足山と号する日蓮宗旧一致派の本山で日像上人を開山とします。元亨元年(1321年)四条大宮に創建され竜華院と号し、後土御門天皇の御代に勅願寺の綸旨を賜りました。その後、寺地を転々とし、宝永5年(1708年)に現在地へ移転したと伝えます。後水尾天皇の帰依篤く、親しく当寺に臨んで法華経を聴聞し一宇を建立して園林堂の書を賜ったと伝えます。本堂には法華首題牌を本尊とし祖師堂には日蓮上人像を安置します。この像は、冑の御影と言われ寺伝によれば松永久秀の家臣・佐々木広次なる者が年来信仰していたが、出陣に際して恙がなく凱旋すれば一宇を建立すべしと祈念し、像に冑を覆って地中に埋めました。賊がこれを知り暴き盗ろうとしましたが像は磐石の如く重くて動かずと伝えます。寺宝に法華経並観音賢経(重文)七巻などを有し明治維新前までは塔頭20ヶ寺を擁する大寺院でしたが、今は哀徴し境内の一部は児童公園になっています。

立本寺 梅、蝋梅 山門
妙見堂 鬼子母神堂 祖師堂
本堂 この辺り、聚楽第番屋敷跡

聚楽第跡 (じゅらくだいあと)

天正15(1587年)、豊臣秀吉が造営した華麗壮大な城郭風の邸宅で東西約600m、南北約700mと伝え二条城より一回り大きい規模で、周囲には濠が廻らされました。文禄4年(1595年)7月、養子の豊臣秀次を謀反の疑いで誅し聚楽第も翌、8月に破却されました。聚楽第遺構として伝承されている主な建築物は、大徳寺勅使門(唐門)、妙覚寺山門、西本願寺飛雲閣と現存最古と伝える北舞台、南禅寺塔頭の金地院方丈(伏見城遺構/聚楽第⇒伏見城⇒金地院)と唐門(明智光秀建立説あり)、二条城二の丸御殿(車寄)、醍醐三宝院庭園の枕流亭(茶室)などです。

秀吉が造営した聚楽第は、華麗壮大な城郭風の邸宅伝え聚楽第跡碑が中立売通裏門通角にありますが工事の為に移転されています。>_<;

唐津小笠原藩邸跡 太平洋戦時下での「空爆被災を記録する碑」 松林寺

聚楽第濠跡 (じゅらくだいほりあと)

濠跡として顕著な所は松林寺境内で本堂が表門より2m程の低地に建ち南にある墓地は更に1m程低くなっています。門前道路(新出水通)より一筋北にある出水通は約1.5mほど高くなっています。このように三段に亘って5m程の段差があるのは、ここが聚楽第南辺の濠であった事が推定されます。他に土屋町通中立売下がる所や大宮通一条下がる付近が急坂になっているのも聚楽第西北隅で一に北辺の外濠跡であるとされます。

聚楽第南辺の濠跡と伝える約2mの段差
境内に現存する聚楽第南辺の濠跡と伝える段差本堂

梅雨の井 (つゆのい)

今は民家の共用水となっています。この井戸は元、聚楽第内の井水と伝え、毎年の梅雨の頃に水が溢れ、この水が溢れる日を以って梅雨が明けると言われました。元は石の井筒があって内部を自然石で畳んだ立派な井戸でしたが、近年、井筒が倒壊し今は打ち込ポンプとなっています。出水通とは、この井水に因んで名付けられました。

梅雨の頃に水が溢れ、この水が溢れる日を以って梅雨が明けると言われた「梅雨の井」
9系統「堀川通京都駅」@堀川下長者町バス停 「京都駅」下車 「竹田街道大手筋」下車

Tourist  2006.03.06(M)

 

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