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この辺りに人力転車台がありました・・・ |
堀川第一橋はレトロチックなアーチ形の石造橋 |
一条戻橋 |
名の起こりは定かでないが平安中期、延喜18年(918年)、文学博士・三善清行の葬列が、丁度この橋を通りかかった時、紀州熊野にあった息子・浄蔵が急ぎ帰京し棺にとりすがり泣き崩れ神仏に熟誠を込めて祈願したところ不思議にも父・清行が一時蘇生し父子物語を交じたという故実により「戻橋」と名付けたと伝えます。陰陽師・安部晴明は鬼のような容貌した式神(職神:しきじん)12体を作り人間と同様にこれを駆使したが晴明の妻が恐れるあまり常は戻橋の下に封じ込め用事の時だけ呼び出し吉凶の橋占に用いたとも伝えます。戻橋を最も有名にしたのは河竹黙阿弥が「太平記」(剣の巻)を主材として作った歌舞伎芝居「戻橋」によるからで梗概は、源頼光の家来で四天王の一人である渡辺綱が、ある夜、この橋の畔で容貌美しい女子に出会ったが、川面に映る鬼女の形相によって正体を知り遂に鬼女の片腕を斬り落としたという。これは、戻橋の東南一帯に清和天皇の諸皇子の屋敷があったが、後に源頼光の居住するところとなり、かかる伝説が生じたとされます。戻橋という名を嫌って縁談一切は渡るのを避けると言われ、反対に戻橋の縁起をかついで出征兵士はこの橋を渡って出兵すると無事、帰還が叶うと言われます。
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陰陽師・安部晴明が自在に操った式神を橋の下に封じ込めていたと伝える「一条戻橋」・・・橋下に封じ込められた式神さまっ、いずこへ?
σ(^◇^;) |
黒田如水(じょすい:官兵衛孝高)邸跡、聚楽城鵲橋(かささぎばし)旧跡 |
黒田如水邸跡・・・黒田如水は、播州御着城主・小寺政職の家老・黒田(小寺)職隆の嫡男として生まれました。豊臣秀吉の臣下で、竹中半兵衛重治とならぶ知将で毛利攻めなどに活躍しました。竹中半兵衛が播州三木城侵攻中に結核で没した後、軍師として秀吉の天下取りに貢献しました。しかし、秀吉の天下統一後は、優れた謀才ゆえに警戒心を持たれ多大な貢献の割に豊前中津12万石の禄高でした。秀吉に警戒されている事を察して出家し如水(じょすい)と号し隠居を申し出ましたが領国に戻る事を許されず、秀吉の側に仕え聚楽第の東北部に邸宅を構えました。当地を如水町というのは黒田如水邸に因むものです。聚楽城鵲橋旧跡・・・聚楽第の濠に架かる鵲(かささぎ)橋跡で聚楽第の南二ノ丸の南東内郭と伝えます。北は元誓願寺通、東は堀川通、南は下立売通、西は千本通を外郭とし内郭は本丸を中心に北ノ丸、南二ノ丸、西ノ丸の曲輪が築かれたと推定されています。
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旧一条戻橋々梁 |
黒田如水(じょすい:官兵衛孝高)邸跡碑 |
聚楽城鵲橋(かささぎばし)乃遺跡 |
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聚楽城鵲橋乃遺跡(松永稲荷社) |
聚楽第天秤濠跡界隈・・・今は平地の天秤町、史跡を示す石碑もなく地蔵堂、町名だけ? |
平安宮一本御書所跡 |
説明札(駒札)によると平安時代、この付近は天皇の住いである内裏の東側に当たり、一本御書所がありました。一本御書所は、平安時代中期の天暦2年(948)頃から「貞信公記」などの文献に現れ、世間に流布した書籍を各一本(一部)書き写して保管、管理した所で、侍従所の南にあって、公卿別当をもって長官に任じ、その下に預(あずかり)や書手などの役がありました。「日本紀略」には、康保元年(964年)10月13日条には、一本御書所で清書した二百二十二巻を大蔵省の野御倉に遷納した事が記されています。平安時代後期、鳥羽天皇や崇徳天皇が度々ここに行幸されました。「平治物語」によると、平治の乱(1159年)に際して、藤原信頼らが後白河上皇を一本御書所に幽閉した事が記され、つとに有名です。陽明文庫本「宮城図」には、この付近を裏外郭北門(朔平門)西の式乾門内の東掖門に御書所があったとし、天皇の書物等を管理する内御書所は内裏内の承香殿の東片廂にあったとする・・・一本御書所は、平安時代の国会図書館にあたります。 |
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平安宮一木御書所跡(食用油専門店・山中油店)・・・邸内外には、「出水:でみず」を利用して水車が回る見事な庭園 |
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水車が周り池には鯉が優雅に泳ぐ庭園 |
平安宮一本御書所跡碑 |
京都の典型的な町家「上京歴史探訪館」 |
内裏跡、平安宮内裏内郭回廊跡(へいあんきゅうだいりないかくかいろうあと) |
内裏跡・・・千本通より東、出水通をほぼ中央とする南北各150mに亘る地とされ天皇日常の御在所たる皇居で朝堂院の東北にあたり正門に建礼門院があり、これを入ると紫宸殿があって、その周辺に清涼殿、春興殿など多くの御殿があり、その背後には後宮がありました。後世の里内裏もほぼこの制を守りました。平安末期の安元3年(1177年)の大火で応天門、朱雀門と共に全て焼亡した後は全く再建されず旧地は荒廃しました。平安宮内裏内郭回廊跡・・・内裏南西の武徳門の南にあたり、平安宮内裏内郭の一部が昭和44年(1969年)と同48年に発掘されて回廊の東西縁の基壇の延石列が約27m確認され基壇幅は10.5mと判明しました。出土瓦によって保元3年(1157年)、再建当時の回廊と考えられています。
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平安宮内裏内郭回廊跡 |
平安宮内裏内郭回廊説明碑 |
大極殿跡プレート |
大極殿遺址碑(だいごくでんいしひ) |
大極殿は大内裏朝堂院の正殿で、天皇の即位など国儀大礼が行われる最も重要な建物で結構な壮麗を極め今の平安神宮の拝殿は大極殿を模造しましたが、その規模は当時の約2/3に過ぎず、その広壮たる威容、輪奐の美は想像に絶するものがあります。貞観13年(871年)に大極殿が焼失し天徳4年(960年)に内裏が焼亡して以来、15回も焼亡し、その都度、天皇は貴族の邸宅に移り住みました。これを里内裏と言います。安貞元年(1227年)の内裏焼失以降、内裏は再建されなくなり里内裏が政治の中心となったので内裏一帯は荒廃し、「内裏があった野」という意味で「内野」と呼ばれました。大極殿の正確な位置は明らかにされませんが明治28年(1895年)、平安遷都千百年紀念祭にあたり湯本文彦氏が平安京の実測を行って千本丸太町付近と比定しました。近年、この位置より南東で遺跡が見つかっています。
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明治28年(1895年)に比定された大極殿跡に建つ大極殿遺址碑(だいごくでんいしひ) |
朝堂院跡(宣政門跡:せんせいもんあと) |
大内裏は桓武天皇が国家統治の理念から心血を注いで造営され大内裏の中心である朝堂院は八省院とも言われ、元来は八省の官人達の執務場所とされ周囲は複廊で囲まれ南の正門、応天門を入ると東西に朝集堂の建物が建っていました。出仕時、官人達が集まった場所で、更に北の会昌門を入ると、十二堂が左右対称に建ち並んでいました。昌福堂、含章堂、承光堂、明礼堂、延休堂、含嘉堂、顕章堂、延禄堂が東西に向かい合い、南北に暉章堂、康楽堂、修式堂、永寧堂の四堂がありました。朝堂院の正面奥に建つのが大極殿、東西十一間、南北五間、両翼に蒼龍、白虎の二楼を持つ建物でした。その後、国家体制が大きくなるにつれ、職掌ごとの官衙が求められ、それら独立官衙が朝堂院の周囲に群立するようになります。それに伴って朝堂院の持つ朝政の場としての性格は薄れ平安時代には、天皇の即位や外国使節の謁見など国家的儀式や行事の場所となりました。
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大極殿跡パネル(大極殿イメージ図) |
朝堂院跡パネル(平安宮イメージ図) |
木村長門守重成公旧館地(弘誓寺) |
聚楽第が築かれた際の木村長門守重成邸跡です。重成は、豊臣秀頼の家臣で大坂夏の陣で戦死しました。この地を長門町というのは、木村長門守重成の邸宅に因むものです。
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昭慶門跡プレート |
木村長門守重成公旧館地
(弘誓寺) |
観音寺、百叩き(たたき)の門 |
慈眼山と号する浄士宗の寺で慶長12年(1607年)、梅林和尚が一条室町に創建しましたが、寛文、天明の二度の火災後、現在地に再建されました。度々の火災で正確な寺史は不詳です。本尊・聖観世音菩薩は、元、一条戻橋付近の寺にあり浄蔵貴所が父・三善清行を一時蘇生させた時に祈念を込めたという伝説(一条戻橋伝説)があります。表門は伏見城の牢獄門を移建したと伝え、昔、この門の右側にある小さなく潜り戸から罪人が釈放される時に100回叩いて再び牢獄へ戻らないように諭したので百叩きの門と言われました。潜り戸は楠の一枚板で出来ており、風で開く時に人の泣声を発したとも言われ「出水の七不思議の一」に数えられています。
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境内 |
建仁寺垣と椿、梅・・・ |
百叩きの門(伏見城牢獄門)@観音寺 |
慈眼寺(じげんじ) |