夢幻コラムX【巨椋池(おぐらいけ)

 

巨椋おほくらの 入江響とよむなり 射目人いめひとの 伏見が田居たいに 雁渡るらし 柿本朝臣人麻呂

都名所図会『指月・豊後橋・大池(江戸時代の巨椋池)』

在りし日の巨椋池界隈の池図

今、目の前に大池(巨椋池)はありません・・・

今、巨椋池を目にすることはありません。昭和8年(1933年)に干拓工事が始まり昭和16年(1941年)に干拓工事完成と共に姿を消しました・・・干拓工事の完成から12年後の昭和28年(1953年)の大洪水で元の大池のような姿に戻りました。この大水害を教訓として上流にダムを建設する事に決まり昭和39年(1964年)に天ケ瀬ダムが完成しました。
干拓と埋め立ては違います。干拓とは、たくさんの水路を作りそこに水を集めていきます。その流れを一つにして大きな川の本流に送り出します。
つまり干拓の基本は、排水です。今も巨椋池干拓地の中に何本もの排水幹線や古川、大内川が流れ巨椋池排水機場、久御山排水機場に集められポンプで宇治川に排水され地域を洪水から守っています。

現代の風景に巨椋池を復活させてみました。(再現イメージ)

向島〜京滋バイパス久御山IC方面

向島〜久御山東一口界隈

現代に復活したとしたら大池は琵琶湖みたいに見えるのでしょう・・・か?(^^ゞ

巨椋池(おぐらいけ)

かつて、京都市南部の宇治川左岸に広がっていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池がありました。巨椋池は、太古の時代に京都盆地をすっぽり覆っていた「旧山城湖」の名残と伝えます。洪積世第三期末〜第四期にかけての大規模な地殻変動によって出来た凹地に水が溜まり、やがて周りの河川が運んでくる土砂の堆積によって、湖水は次第に狭められ、一番低地だった所が巨椋池として残りました。巨椋池の特徴は、淀川水系の中流域にあって洪水調節の機能を担い、水量によって大きくその形を変える遊水池という事です。巨椋池の由来は「大椋」、「巨椋」と称する部族がいたとか、巨椋神社の社号が地名となり、池名に転用されたとも伝えます。巨椋池は河川交通の中心であったのは勿論、魚貝類や水生植物の宝庫で、夏には蓮の花が咲き乱れるという自然の恵みに洪水の脅威があるにも関わらず、人々は沿岸に定住し農業、漁業や狩猟などを生業としました。明治後期、宇治川(澱川:よどがわ)などと分離され池の水位は著しく低下し、マラリアなどの疫病発生や水害が繰り返された為に昭和8年(1933年)、我が国初の国営干拓事業として着工され、昭和16年(1941年)に巨椋池干拓田が完成しました。戦中戦後は農地として貢献し近年は近隣の都市化が進み、交通の要衝ともなり、干拓田の様相も様変わりしてきました。

巨椋(おぐら)池古絵図

時と共に、この地域は次第に水面が支配していきます。桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川となる手前の低地に溢れ出た水が滞留し、やがて常水地となり、内水面は広がりをみせました。恒常的な水面を人びとは大池と呼びましたが、巨椋池の呼称は、むしろ近代になってからのようです。水面が視界から消え去ろうとする頃からの固有名詞として、あるいは干拓地全体の総称・広域地名として、「巨椋池」が広く用いられるようになったとも言えます。

淀川水系図

万葉の巨椋池(おぐらいけ)

巨椋(おぐら)の入り江として万葉の和歌にも詠まれ、その昔、宇治川・木津川・桂川の三川が流れ込み、満々と水を湛えていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池は、魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれていました。巨椋池が干拓される迄は、初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。

巨椋池と弥陀次郎縁起

                              

               薬師如来坐像(妙光寺)                                                                                   十一面観音立像(妙光寺)

弥陀次郎(みだじろう:左)と常照阿闍梨坐像

弥陀次郎縁起

巨椋池の漁師と縁が深い観音信仰と西方寺と安養寺に伝わる弥陀次郎縁起

宇治川東岸の五ヶ庄の西方寺は「弥陀次郎さん」と呼ばれている。その本尊は、巨椋(おぐら)池の漁師たちと縁深いことで知られている・・・平安末期の頃、淀の一口(いもあらい)に水次郎という漁師が住んでいた。大層な荒くれ者で周りから悪次郎とあだ名されていた。そんな水次郎の元へ托鉢の僧が施しを求め訪ねる日々が続いた。ある日のこと、漁の成果も芳しくなかったこともあり、不機嫌な水次郎は僧の胸に焼き火箸を押し当て追い帰した。僧は、何事もなかったかのように立ち去っていった。不思議に思った水次郎は、不思議に思って僧の後をつけていった。僧は淀〜水垂(みずたれ)へ川の上を歩くように渡り北西に進んだ。気づくと粟生(あお)の光明寺(長岡京市)に辿りついた。水次郎は、寺に入って托鉢僧のことを他僧に尋ねてみると托鉢僧はいないが堂内の釈迦如来像が時折、托鉢に出るという。その仏像を間近に見ると仏の胸に火箸を当てられた痕があった。驚いて帰宅した水次郎はその夜、夢で聞いたお告げ通り、巨椋(おぐら)池に小舟を進めた。漆黒の闇に包まれた水面に一筋の光明がほとばしった。その巧妙に向かって網を放つと、網の中から紫金に輝く仏像が現れた。時に治承4年(1180年)、水次郎38才の時である。以後、殺生をやめ悪行を改めて大念仏の行者となった水次郎を世の人々は尊び、悪次郎を改め弥陀次郎と呼んだ。当時の西方寺は天台宗で住職を勤めていた常照阿闍梨(じょうしょぅあじゃり)は石清水八幡宮に篭り修行をしていたが、弥陀次郎の噂を耳にし池中からあげられた霊仏を拝そうと彼の元に通い続けた。弥陀次郎は常照阿闍梨の熱心さにうたれ阿弥陀仏と共に西方寺に移り、後の貞応元年(1222年)7月11日、二人同時に果てたと伝える。

広大な巨椋(おぐら)池が干拓されるまで池畔の漁村として栄えた京都府久御山町東一口(いもあらい)にも、集落内の安養寺にまつわる伝説にも巨椋池の漁師が登場する。安養寺の「弥陀(みだ)次郎縁起」によると、平安末期の十二世紀中頃、巨椋池のほとりに子宝に恵まれない漁師夫婦がいた。朝夕、神仏に祈願して、やっと男の子を授かった。次郎と名付け大切に育てたが、幼くして両親は亡くなり、次郎は人々に「悪次郎」と呼ばれるほどの荒くれ者になった。ある日次郎は、何度も物ごいに来る僧に腹を立てて、僧の左の頬に焼火箸を押しつけた。気になって僧の後を追うと、僧は粟生の光明寺(長岡京市)で姿を消し、同寺の中尊・釈迦如来像の左のほおにやけどの跡があった。驚いた次郎は、以後、善行を心掛けるようになったという。そして次郎が夢のお告げに従い、淀川に網を投げ入れると、水中からまぶしく輝く観音像が現れた。同縁起には建久3年(1192)年3月18日の事と書かれている。次郎は精進を重ね、人々から「弥陀次郎」と呼ばれるほどになった。その観音像が、安養寺の本尊・十一面観音像という。

巨椋(おぐら)池をめぐる堤

豊臣秀吉の治水工事によって姿を変えた巨椋池

天下統一を果たした豊臣秀吉は、天正20年(1592年)、自身の隠居所として指月山に伏見城を築城し伏見に居を移した。 それに伴い宇治川(巨椋池)に堤防を築き、河川改修を行った。※槇島堤の造築・・宇治橋下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、槇島堤によって伏見に向かって導いた。これによって、宇治川から巨椋池に直接流入する形から、洪水時にのみ伏見より下流で流入する形になった。槇島堤は宇治堤とも称された。※淀堤の造築・・伏見から納所(現・京都市伏見区)に向けて宇治川の右岸に堤防を築き、宇治川の流路を定めた。これによって、横大路沼(現在の伏見区横大路の京都市南清掃工場を中心とする一帯に位置した。)が宇治川・巨椋池と分離された。堤上は伏見と淀城(江戸期)とを結ぶ道にもなり、江戸時代には京都通らずに大津と大坂を結ぶ東海道五十七次の一部となった。淀堤は文禄堤とも称された。※小倉堤の造築と豊後橋の架橋・・巨椋池の中を縦断する小倉堤を造り、伏見城下から向島に宇治川を渡る豊後橋(現在の観月橋)を架橋し、堤上を通り伏見と奈良の距離を縮める大和街道を造った。小倉堤は巨椋堤、太閤堤とも称された。この3つの堤のほか、大池堤、中池堤がこの時期に築かれ、巨椋池は、大池、二の丸池、大内池、中内池に分割された。そのため、江戸時代には一般に大池(おおいけ)と呼ばれており、巨椋池という名が広く使われるようになったのは近代に入ってからである。

大池というより湖の様相を呈している巨椋(おぐら)池・・・満々と水を湛える巨椋(おぐら)池と虹

巨椋(おぐら)池の漁師が使用した漁具

巨椋(おぐら)池の漁師仲間が独占した魞漁(えりりょう:左)と浸木漁

大池漁の退潮・・・漁民と農民の対立

かつての巨椋池における稲作は、大雨で増水し、すぐ冠水状態となるようなところで行なわれており、平常の水位になるのに半月から1ヶ月も要しました。冠水した場合、田植え後の稲苗は、その経過日数や生育の程度により被害に差が生じますが、最悪の場合、収穫が皆無となることもありました。一方、巨椋池での漁業を許可されていたのは古来、漁業を営む弾正町(京都市伏見区)・小倉村(宇治市小倉町)・東一口村(久御山町東一口)のわずか三ヵ町村だけでした。農業と漁業では、好都合とされる条件が相反するものでした。池の水が増水すると、田や水路は水没し、農地は荒れ果てます。しかし、漁師にとっては、水かさが増す増水時の方が収穫が増します。逆に、水が少なくて米のできがよい年は漁師の方が悪く、この事が常に両者間で対立を生じました。また、水際の土地についての対立もありました。河口や池の水際は、魚の生息に絶好の条件を備えています。漁師は他村の湖岸にも漁具を設置して漁を行ないます。これが、漁業権を持たない沿岸農民の反発を引き起こしました。逆に、農民が漁具を仕掛けて漁を行なうこともあったため、漁師側に訴えられることも度々ありました。池の魚類の量は限られており、漁師やその家族の生活を支えるのに十分な量ではなかったのでしょう。それは農民たちも十分承知するところでしたが、よほど農民の生活も行き詰まっていたものと思われます。その為に度々裁判沙汰となり、文政8年(1825年)1月25日、江戸での判決では漁師側にかなり厳しい判決が出ました。大池漁の運上を伏見奉行に納めているとは言え、村が水つきになった年貢地で何の補償もせず漁をすることに道理のあるはずもなく、水の及ぶ所全てに漁業権利を有するという事は、まったくの際限がなくなる。これまで漁師が慣習的に認められていると言い張ってきたことが一蹴されました。沿岸村落の権益が及ぶ所での操業の見返りとして伊勢田村、小倉村に一定額を納めるように命じられた。更に漁師と一緒に漁をしてもよいと容認する内容でもあった裁定は享保年間よりはるかに漁師に不利なものとなった。こうなると漁師側の退潮傾向は否めず、その後は、沿岸村のから漁師を突き上げるような行動が相次いだ。江戸時代の中頃からは、土砂の堆積のため、宇治川の川底が極端に浅いものとなってしまったことが原因となって、湛水や洪水の被害がより一層深刻になり、収穫がほとんど期待できなくなりました。この混乱は、天保期(1830〜1844年年)になると飢饉などで、より一層激しさを増し、凶作は慢性化し米価は高騰、天保5年(1834年)の秋、鴨川や桂川でも、素人漁を禁止する触れが出され、以降毎年繰り返し法令が出されることとなります。大池の水面が上昇し拡大した

水車と小舟

沈みゆく小舟

淀城下から臨む八幡、淀川

水車の回りを良くするために油が注されていたので水車辺りで獲れた鯉や鮒など川魚は格別に美味であったと文献に残されている・・・

宿場町・淀のにぎわい

淀小橋旧跡、千両松慰霊碑(新撰組隊士の幽霊伝説)

淀小橋旧跡・・・昔、淀小橋辺りは宇治川が流れており淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だった事から「千両松」と呼ばれました。千両松の激戦で敗れた幕府軍は淀小橋を焼き、淀城付近に退却しました。千両松慰霊碑(戊辰役東軍戦死者:新撰組隊士ら)埋骨地・・・慶応4年(1868年)1月5日、土方歳三率いる新撰組ら東軍(幕府軍)と鳥羽方面から攻めてくる西軍(薩長軍)で淀堤上は大激戦となった。最初は、新撰組などの活躍で優勢だったが、砲兵隊や騎兵隊などの援軍で西軍が、盛り返し東軍は、敗退。同盟であった淀城への入城も拒まれた為に淀堤の戦いで東軍は、戦死者が続出。新撰組幹部・井上源三郎、戦死。副長助勤・山崎烝も重傷を負った。(慶応4年(1868年)1月10日、幕府軍々艦・富士山丸で江戸へ向かう途中、死去し和歌山沖で水葬。)・・・千両松には、激戦で戦死した新撰組隊士と幕臣の慰霊碑が、建てられていました。が、競馬場拡張工事の為に小さな碑が削られました。それから事故が多発し毎晩、誠の旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元に戻せ!」と現れた・・・工事関係者は、慰霊碑の管理寺・妙教寺に依頼し盛大に供養を行いました。そして工事終了後、元の場所に碑を戻し墓を整備した。以来、幽霊は出没しなくなったと伝えます。・・・当時、西軍の戦死者は、手厚く埋葬されたが東軍の戦死者は、野ざらし状態だった。地元のお寺や村人達が、鳥羽伏見の戦いで廃墟と化した住居の廃材などで東軍の戦死者達を火葬し手厚く埋葬したとも伝えます。下鳥羽、淀界隈の寺院などに慰霊碑、塚、墓、埋骨地、記録文書などが多数ある由縁です。

             

         現在の千両松堤                千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」             淀小橋旧跡

 

淀城下を流れる川筋(左から木津川、宇治川、桂川)

洪水の記録

巨椋(おぐら)池の氾濫

三川合流付近河道付け替え図

木津川と宇治川の付け替え

明治18年の洪水を受けて、治水目的の大規模な改良工事が行なわれました。指揮をとったのは、内務省技師・野忠雄博士でオランダ人技術者の工法をわが国の河川様式に取り入れた功績で名高い人物です。瀬田川を浚渫し、川幅を広げ、そこに巨大な南郷洗堰(なんごうあらいぜき)を設置することで、琵琶湖の水位を安定させ、宇治川の流量を調節することが可能となります。この画期的な発想が実現されたのは、明治38年のことでした。これによって、長年、巨椋池が果たしていた遊水池としての役割は著しく減少し、宇治川、桂川、木津川の三川合流部分の付替えが可能となりました。淀の町の北側を通って、桂川に合流していた宇治川は、新水路が作られ、三川の合流地点は、下流へと移転されました。川幅は広げられ、伏見〜木津川との合流点に至る約10kmに至る両岸には、新堤が造られたほか、約5.7kmの旧堤の拡張などが行なわれました。明治39年、工事が完了すると、巨椋池は宇治川と切り離された独立した湖となりました。

巨椋池干拓

明治元年(1868年)に木津川の堤防が決壊したことで、京都府は淀藩との共同事業によって木津川の宇治川との合流点を下流側に付け替えた。これは木津川から巨椋池に向けての洪水時の逆流を少なくすることになった。しかし、それからも洪水の被害がたびたび起こったことから、淀川改良工事の一環として宇治川の付け替えが行われ、明治43年(1910年)に完成した。この工事によって巨椋池(大池)は、久御山町・一口(いもあらい)間の水路で宇治川とつながるのみとなった。 このため、周辺から流入する生活排水や農業排水の排出が滞ることになり、水質悪化による漁獲量の減少、マラリアの発生などの問題が生じた。そして、春から夏にかけて、蚊が大量発生し、付近住民は蚊燻をたかなければ、夕食の箸を取ることさえ、できなかった。このような状況の中での地元の働きかけもあり、国の食糧増産事業として国営第1号の干拓事業が実施されることになった。

巨椋(おぐら)池を歩く「淀〜久御山町・東一口(いもあらい)」

【京阪・淀駅〜淀城跡〜淀大橋〜宇治川堤防〜相島〜東一口(いもあらい)〜京阪・淀駅コースマップ

淀川と分離された巨椋池、国営第1号の干拓

明治39年、淀川と切り離された巨椋池は、長い水害の歴史に加え、新たな災害に悩まされます。巨椋池は、宇治川本流とは淀・一口(いもあらい)間の水路によって結ばれるだけとなったため、大雨が降ると流域内の水が排出できず一度に溢れ出すことになりました。同時に水の循環を失った巨椋池は、池周辺から流れ込む生活廃水や農業排水によって水質が悪化し、池の底には汚泥が堆積していきました。これが蚊の大量発生を招き、風土病ともいわれたマラリアが発生し始めました。昭和2年には、巨椋池沿岸19か村がマラリア流行指定地とされました。水質の悪化は、周辺の農家にも悪影響を及ぼします。さらに、宇治川と分離し、水位が低下したことで、池の魚類は減少し、漁獲量も減っていきました。農業者にとっても、漁業者にとっても、巨椋池での生活は立ちゆかなくなりました。

京都の自然200選に選定されている久御山町東一口(いもあらい)前川堤の桜と河川改修工事

改修工事は2005年4月の新排水機場完成に伴い、幹線の流量増を目的に実施。国道1号西側〜同排水機場までの両岸約730mの区間で、土手の補強や遊歩道の設置、水路にたまった汚泥の撤去などを改修工事する。地元住民の意見も取り入れ、桜や水路の管理もできる遊歩道を堤に設ける予定で、府山城土地改良事務所(京田辺市)が2011年度完成を目指している。2007年9月〜12月までに計5回、住民要望を聞くワークショップを開催し自治会や老人会、子ども会などから延べ約20人が参加、「護岸を強化して」、「桜を下から見上げられる道がほしい」などの意見が出された。これらの意見を踏まえ、桜を基本的には現状のまま残すほか、桜の手入れや水路のごみの回収もできる遊歩道を新たに設けることに。ただし、枝がこのまま伸び続けると民家まで張り出してしまう約50本分については伐採し、近別の場所に植え直す予定。

        

巨椋池排水幹線(前川)

素晴らしい桜花繚乱!!!o(*^▽^*)o 河川改修工事が行われています`s(・'・;)

         
                             山田家の長屋門                                    巨椋池(前川)排水機場

大池神社

巨椋池に生息していた全動植物の鎮魂と農業の安全と繁栄を願って創建されました。昭和28年(1953年)に襲来した台風13号で宇治川左岸が決壊し、境内にある大池漁業記念碑の上端は、当時の洪水浸水線と伝えます。

        

    巨椋池の動植物を鎮魂する「大池神社」          洪水浸水線と伝える大池漁業記念碑                    巨椋池碑

特別展・巨椋池の告知ポスター

巨椋池の漁業と夏の風物詩・ハス見舟

巨椋池の漁業と夏の風物詩・ハス見舟

巨椋池は河川交通の中心であったのは勿論、魚貝類や水生植物の宝庫で漁業も盛んでした。

                     

当時、巨椋池で花咲くハスの群生のイメージ(写真:琵琶湖烏丸半島のハス群生地)

漁業だけでなく、文人墨客を集めた巨椋池のハス見舟は風物詩となりました。

 

今も個人の尽力で伝承されている巨椋(おぐら)池のハス

                       

個人によって栽培されている巨椋池のハス

                     

当時の花咲くハスの巨椋池のイメージ(写真:琵琶湖烏丸半島のハス群生地)

昔、宇治川・木津川・桂川の三川が流れ込み、満々と水を湛えていた約800ha(周囲16km)の広大な巨椋池は、魚介類が豊かに棲息し、沿岸の村々では漁業が営まれていました。巨椋池が干拓される迄は、初夏になると大池に蓮花が咲き乱れ、蓮見舟が出るなど文人墨客の往来が絶えませんでした。巨椋池は水深が浅くて泥深く、蓮の生育には最適で約20万本の美しい紅白の蓮花が盂蘭盆(うらぼん)に出荷されたと伝えます。ハスは虫媒花で、オシベとメシベが離れているため、品種が色々と交配して増えるようですが、大きくは紅蓮、爪紅蓮、斑蓮、白蓮、黄蓮・黄白蓮、黄紅蓮の6種類に大別されます。当時の蓮を彷佛させてくれるのが、地元の蓮愛好家の内田蓮園です。蓮園は大池神社の北側、東一口野菜洗場付近にあり、7〜8月の開花時期には巨椋池に自生していた品種や各地の蓮、200種以上が見事な花を咲かせています。

干拓直前の巨椋池

巨椋池干拓後・・・

巨椋池の干拓は、食料増産という効果と、農村での雇用機会の創出という失業対策の側面を持っていることが重視され、昭和7年、国内初の国営干拓事業としての実施が可決され、昭和8年に、事業の着工となりました。池の水を汲み出すために、宇治川の側に排水機場をつくることから始められ、排水ポンプ10台によって、池底であった約800haは陸地になり、そのうち634haが新しい干拓田として生まれ変わり、耕作のための道路や用排水路が整備され、整然とした区画の農地となりました。あわせて、周囲の水田1260haの用排水改良も行なわれました。昭和16年、事業が完成しますが、干拓田の払い下げが全て完了するのは、昭和23年でした。干拓田は沿岸農漁民にも払い下げられ、周辺農家約500戸は一挙に今までの2倍の約1.6haをもつ自作農となりました。周囲の水田と合わせて、戦中戦後の食糧難の時代には、食糧事情の改善に大きな貢献を果たすとともに、農家の営農意欲が高まり、農村経済安定の基盤が築かれました。また、干拓以前には、巨椋池沿岸地域は毎年数百haに及ぶ浸水被害を受けていましたが、排水ポンプによる排水が可能となり、水害を防止することもできるようになりました。

京滋パイパス開通前の巨椋(おぐら)池干拓地

京滋パイパス開通前の巨椋(おぐら)池干拓地図

 

伏見の洪水

昭和28年、宇治川左岸(向島の堤防)が決壊しました・・・巨椋池が現れたよう。右は昭和40年、京阪宇治線・観月橋駅付近 現・外環状線

 

現在の巨椋(おぐら)池干拓地

漁業が盛んで鶴なども舞う野鳥の楽園で蓮見舟も伏見の風物詩でした。水害や水質悪化(マラリアの発生)などの為に干拓事業が、決定しました。昭和9年〜16年の干拓事業により幻の大池になってしまいました。今は、太閤堤(小倉堤)の上を近鉄電車が走り干拓地は水田から住宅地へと変貌し続けて、伏見最大のニュータウンとして発展しています。干拓地は現在も京都、大阪に近接した一大農業地帯として、米や野菜などが生産されている。干拓地や宇治川河川敷は渡り鳥の飛来地となっている。干拓地の北側にある宇治川堤外地は、西日本では有数のヨシ群落であり植生の面でも貴重である。ここは日本有数のツバメのねぐらともいわれ、8〜9月に掛けての最盛期には数万羽のツバメをみることができる。

巨椋(おぐら)池名残の地をめぐる・・・

巨椋(おぐら)池を歩く「巨椋池東岸コース」

【京阪・観月橋駅〜近鉄・向島駅〜西目川〜京滋バイパス〜三軒屋〜旧小倉村集落〜近鉄・小倉駅コースマップ】

巨椋(おぐら)池を歩く「伊勢田・安田コース」

【近鉄・伊勢田駅〜ドン場〜古川〜遊田〜名木旧流露〜旧伊勢田村集落〜近鉄・伊勢田駅コースマップ】

巨椋(おぐら)池を歩く「小倉〜槇島〜宇治コース」

北小倉小学校・西宇治公園〜山音道〜旧小倉村集落〜蛭子島神社〜旧槇島村〜宇治川コースマップ

                      

              かつて広大な巨椋池だった干拓地             室町幕府終焉の地・槇島城跡                                                 巨椋池水の道

豊後橋(観月橋)開発新田

 

豊臣秀吉が伏見城築城の際に開港した河川内陸港「伏見港」

文禄3年(1594年)豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。

                   

桜と酒蔵と十石舟 ※一石=180L(一升瓶100本)

          

かって河川内陸港だった伏見港と宇治川を繋いで洪水からも守った三栖閘門

伏見の町と巨椋(おぐら)池

伏見の町と巨椋(おぐら)池

古来、重視されてきた宇治川(淀川)筋の水運は、江戸時代に、旅人や物資の輸送を行なった三十石船などが行き交い、かなりの船が宇治川を上下していました。明治維新の史跡として名高い伏見の寺田屋も、舟宿として盛況しました。さらに、明治に入ると、伏見〜大阪間には、蒸気船が就航するようになります。しかし、徐々に土砂の堆積が進んだ宇治川は、明治の初めには、極めて浅い流れとなっており、水害が後を絶ちませんでした。巨椋池周辺では、明治4年、9年、17年、18年、22年、23年、29年、36年、40年と大規模な水害が頻発しました。淀川の水害もひどく、特に明治18年の水害では、被災者27万人余りという大災害を記録し、以降も多くの水害に襲われています。大型船の水路を確保する為、大阪を含む淀川流域で頻発する水害を防ぐ為にも、宇治川(淀川)筋の改修工事は緊急の課題でした。

かつての伏見港の中心・京橋界隈

現在の京橋界隈と宇治川派流

          

坂本龍馬ゆかりの船宿・寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍との恋宿としても知られています寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁ぎました。伊助は放蕩者で宿は女将のお登勢が一切を切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育しました。義侠心が強く、志士達に援助を惜しまなかったと伝えます。

          

かつての伏見港を彷彿させる宇治川派流と十石舟

※参考文献:巨椋池 宇治文庫3 

おぐら池 宇治市歴史資料館 

流域紀行 宇治市歴史資料館 

Wikipedia(ウイキペディア) 

農林水産省 近畿農政局 整備部、他 

 

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桜花繚乱・・・背割堤、石清水八幡宮散策(Pちゃんズ)

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流れ橋、八幡散策

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