花萌える古都の桃源郷・原谷

 

ねぶたさの 春は御室の 花よりぞ  蕪村

 

城南宮〜仁和寺〜五智山蓮華寺〜原谷苑〜鳴滝〜高雄〜西明寺〜清滝〜嵯峨野〜清涼寺〜嵐山

 

壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平家の落人が開村したと伝える原谷(はらだに) 地図

原谷・・・京都市北区大北山原谷乾(おおきたやまはらだにいぬい)町を中心とする地域の名称。古来、葬送地として知られる蓮台野(れんだいの)、衣笠山、宇多野と呼ばれた山野の外側にある原谷地域は、京都の中心からほど近くに位置しながら、歴史の表舞台に登場することはなかった。当地で祀られる「原谷弁財天」の縁起には、 壇ノ浦の戦いに破れた平家が、都に近い当地に落ち延びた旨を記載し、その後400年の間に水田八反歩(約7,933m²)、畑三町歩(約29,752m²)を開墾したものの、後に住民が次々と離れ過疎地帯になったと伝える。京野菜で著名な辛味大根は、原谷大根と呼ばれており、元禄年間(1688年〜1704年)までに、当地で栽培されていたと伝える。当地は近世までは葛野郡大北山村の一部であったが、明治22年(1889年)、周辺各村が合併し衣笠村の一部となった。同年に発行された陸軍部測量局「明治京都中部実測図」では、衣笠山官有地の北方に、鷹峯、宇多野、そして金閣寺西側へ伸びる小道とともに字原谷の文字が記載されている。なお、この地図を含め、昭和初期までに発行された地図からは、当地内に集落の存在を確認することはできない。先の縁起には、明治初期以降「恐慌と不便さのため、(中略)70年間、人の住まない山林と化した」と記されている。大正7年(1918年)に京都市上京区に編入されるも、民有地ながら手入れされない状況は変わらなかった。太平洋戦争の激化に従って山林の一部が乱伐されながら、昼なお暗い山林と化し、原野が広がるばかりの状態であったと伝える。  入植と開拓農協・・・昭和20年(1945年)、太平洋戦争が終結。在外日本人約600万人が帰国することとなり、彼らを国土へいかに収容するかについての計画が必要となった。国民の食糧確保が内政上の最緊急課題とされ、耕地の量的拡大による食糧増産および戦地からの引揚者の帰農を図るために、11月に緊急開拓事業実施要領が閣議決定された。この要領に従って京都府が当地を開拓農地として選定し、国が不在地主の土地を買い上げることとなった。しかし、全てが民有地であった為に買収は難航。当初計画の約八十余町歩(約0.8km²)は困難となり、入植時は約三十余町歩(約0.3km²)に留まった。その後、時間をかけて所有地主の理解と協力を得ながら、追加買収を進めることとなった。それでも、一世帯当たり農地1.5haや宅地180坪が割り当てられる計算で、食糧難の時代に行き場を探していた引揚者にとっては「御の字」ともいえる条件ではあった。昭和23年(1948年)、洛北開拓農業協同組合(開拓農協)が設立され、満蒙開拓青少年義勇軍京都第三中隊長・前原関三郎を組合長として、開拓計画を策定。19世帯が入植した。地域内外を結ぶ幅員4mの幹線道路は全額国庫で敷設されたものの、入植者たちは木を伐採し、直径50cm近い切り株を一日に一、二株ずつ取り続けた。それが終わると家の建築、井戸掘り、畑の開墾を同時並行で進めた。家が建つまでは、どの入植者も自宅から通いながら作業を続けた。昭和24年(1949年)に開拓農協事務所が落成し、換金かつ栄養確保のため、畜産動物の導入と、野菜栽培を軸とした営農計画を策定。しかし、苦心して畑を開墾するも、 酸性度の強い土壌のために種すら取れない状況が続いた。また、仔豚を購入して豚舎を急造するも、その年の秋に豚肉相場の暴落で価格は購入時の3分の1にも満たず、多くの組合員が失意のうちに養豚に見切りをつけたと伝える。それでも土づくりのため、開墾と酪農を続けざるを得なかった。昭和25年(1950年)5月より、その後の建設事業について京都府の失業対策事業で行われることが決定。連日100名を超える作業員に支えられ幅員2、3m前後の支線道路や山腹水路、排水路が次々と設けられることとなった。同年12月、当地内に待望の電気が開通した。京都市内にありながら当初は電気も水道も通じておらず、まして開拓に必要となる初期投資さえも得ることができなかった中で、入植者は困難を極めつつ荒地の開墾や居住地の譲受、そして農地開発のための基盤整備を進めていった。入植者の子供たちも、家畜の飼料を得るために毎日のように峠を越えて魚屋などを巡ったという。1950年代の写真や映像記録などからは、養鶏、養豚、果樹園や、畑を歩く牛と酪農設備などの営農風景が映し出されている。この頃にようやく農地が完成し酪農や養鶏も本格化。市内の農家の中でも高い収入を得られるようになったとされる。昭和37年(1962年)に、就労延べ人員90万人超、事業費3億7,887万円に達した失業対策事業は完了することとなり、地域内の道路、水路、広場などの施設は、開拓農協に有償で引き渡された。                              開拓農協解散へ・・・居住環境に改善がみられることで、昭和40年(1965年)頃から徐々に一般住宅の建設が増加し始めた。昭和46年(1971年)に市街化区域に指定され、2年後に都市計画上の原谷特別工業地区に指定されると西陣織の職人やマイホームを求める人たちが次々と引っ越してきた。さらに、昭和51年(1976年)に上水道の給水と京都市営バスの(M1系統・原谷線)運行が開始され、地域内の既耕地が急速に居住地に変わるなど、地域内各所で宅地開発、住宅建設が顕著に見られるようになった。さらに、1980年代のバブル景気が入植者の代替わりの時期とも重なった。酪農施設に対する臭いや鳴き声などの苦情が相次ぐ中、入植以来携わってきた農業を止め相続税対策を兼ねた分譲やマンション建設、貸工場経営などへ転業する動きが進んだ。平成に入り、平成9年(1997年)に市道衣笠緯40号線(氷室道)の拡幅改良工事、平成13年(2001年)に下水道の敷設工事がそれぞれ完了したことで人口増のピークを迎えた。平成20年(2008年)、ほぼ完全に京都市中心部へのベッドタウンと化した今日、町づくりの役割を終えた開拓農協は解散総会を行い、初代組合長・前原関三郎の子である、開拓農協最後の組合長・前原英彦が府に解散申請を届け出て、60年に及ぶ開拓史に幕を下ろした。ただし、開拓農協が所有していた財産(袋小路の道路11か所)の一部は「公共性が低い」とされ、京都市への移管を拒まれたままで、今日に至るまで処分が確定していない。現状は開拓農協解散と同時に設立された認可地縁団体に所有権を移転し、地域で補修などの維持管理を実施する体制が採られている。  By wikipedia

高瀬川右岸堤防を北上ing・・・ 方避けの社・城南宮
鳥羽伏見戦が開戦した小枝橋と鴨川 地図 鳥羽水保全センターの藤棚 地図 桂川左岸堤防(サイクリングロード)
・・・ 久世橋下へ・・・ 菜の花が咲き乱れている。。。
堤外人道橋(天神川)を渡ります。・・・ えぇなぁ〜\(●⌒∇⌒●)/
サイロを離脱して天神川右岸堤防を北上 日本酒じゃないけど黄桜 (;^_^A ・・・
・・・ 京都外大の八重桜も見事やな〜!\(●⌒∇⌒●)/
国道162号線(周山街道)を北上 一ノ岡、二ノ岡、三ノ岡からなり西麓に徒然草を著した吉田兼好が庵を結んだと伝える双ヶ丘
名所「桜のトンネル」で知られる嵐電(京福電車)・白梅町線 光孝天皇後田邑陵(のちのたむらのみささぎ)
光孝天皇後田邑陵(のちのたむらのみささぎ) Beautifulだぜ〜l!! (・_・)☆ヾ(^^ ) スギちゃんか?!
世界文化遺産・仁和寺(にんなじ) ☆地図

真言宗御室派の大本山で第58代・光孝天皇によって、先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願された事に始まりその後、宇多天皇が仁和4年(888年)に造営を完成されました。「御願寺」と称する寺院は、皇室の私寺を意味しますが、西山御願寺は完成と共に、先帝から受け継がれた「仁和」の年号をもって寺号と定められ、大内山仁和寺と呼ばれました。応仁元年(1467年)、応仁の乱によって一山ことごとく灰燼しました。徳川幕府三代将軍・家光の御代に再興されました。京都御所の再建とも重なり御所から仁和寺金堂になっている「紫寝殿」、他多数の建造物と再建資金として20数万両を徳川幕府から得て再興されました。明治の大火で本坊、寝殿などが消失しましたが現存するほとんどの伽藍は寛永年間の遺構で明治維新では第30世・純仁法親王が還俗した事で皇族が門跡となる宮門跡になる時代が終わりました。平成6年(1994年)に仁和寺は世界遺産に登録されました。仁王門は、知恩院の「三門」や南禅寺の「山門」と共に、京都三大門と呼ばれ、同時代を代表する建築物として知られますが知恩院や南禅寺の門が禅宗様式(唐様)であるのに対し、仁和寺の仁王門は和様である事に違いがあり寛永14年(1637年)〜正保元年(1644年)にかけて建てられました。

仁王門(重要文化財:江戸期) 御衣黄(緑桜) 境内
中門(重要文化財:江戸期) 桜は青空が似合います!(*゜▽゜)/
御室桜(お多福桜)と五重塔(重要文化財:江戸期)
遅咲きで知られる御室桜(お多福桜)ですが、今年はもう落下盛ん!( ̄□||||!! 境内
参拝者が多いので、ご朱印を頂戴するには番号札をらって順番待ちです・・・ 金堂(国宝:桃山期)
八重の桜が美しい!(*゜▽゜)/ 鐘楼(重要文化財:江戸期
ミツバツツジ(山ツツジ) 水掛不動 水掛不動尊と管公腰掛石
えぇなぁ〜(*^-^*) 改修工事中の御影堂(重要文化財:江戸期)
金堂(国宝:桃山期) ミツバツツジ(山ツツジ)

日本最古の織部灯篭(重文:江戸)九所明神(重文:江戸)

五重塔(重要文化財:江戸期) (*^▽^*)

名勝・御室桜(仁和寺) ☆地図

御室桜は遅咲きで知られ、背丈の低い桜で花(鼻)が低いところから、お多福桜とも呼ばれます。近年まで、桜の下が硬い岩盤である為に根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが判明し、土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根を伸ばせず背丈が低い要因の一つだと推察されています。あながち今までの通説が間違いと言う訳ではなさそうです。詳しくは現在も調査中です。寺伝によると御室桜は、古くは江戸時代の頃から庶民の桜として親しまれ、数多くの和歌に詠われています。花見の盛んな様は江戸時代の儒学者・貝原益軒が書いた京城勝覧(けいじょうしょうらん)という京都名所を巡覧できる案内書にも次のように紹介されています。「春はこの境内の奥に八重桜多し、洛中洛外にて第一とす、吉野の山桜に対すべし、…花見る人多くして日々群衆せり…」と記され、吉野の桜に比べて優るとも劣らないと絶賛されました。そして大正13年に国の名勝に指定されました。

名勝・御室桜(入園料\500-)・・お多福桜、泣き桜とも呼ばれる。明日から無料だとか・・あ・し・た!からでつか!!; ̄ロ ̄)!! 泣き桜やの〜(≧▽≦)ぷっ
明日から無料にするのなら・・・今!でしょ?!(≧▽≦)ぷっ 遅咲きで知られる御室桜(お多福桜)ですが、今年は残念ながら落花盛ん!(≧▼≦;)
ハナが低いのでお多福桜 花見で賑わう仁和寺境内
八重の桜 御衣黄(緑桜) 済信僧正塚
花の菩薩 Beautiful!! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
仁和寺境内案内図 八重の桜 お酒やないけど・・黄桜
五智如来石仏群(五智山蓮華寺) ☆地図

前方に胎蔵界の大日如来を中心とする丈六の五智如来(薬師、室生、大日、阿弥陀、不空成就釈迦)、後方に地蔵菩薩を中心に観世音などの諸像11体が並び伏見深草・石峰寺のそれと共に京都市における石仏群の双璧です。

キララくんでつ(^▽^;) 五智山蓮華寺 五智如来石仏群
五智如来石仏群
五智如来石仏群
黄桜 五智不動明王を祀る不動堂(本堂) お待ちかね?原谷苑迄、激坂上りで〜す!(-_-;)
ヤマブキ 分岐を試しに左へ入ると以前Pちゃんと巡った御室八十八ヶ所めぐりのお堂に出ました。(ーー;)
ルートに戻って・・・再びの激坂上り。。。 こっ、こら〜いつまで上がらせよんね?!(ーー;) やっほ〜(*゜▽゜)/
宇多天皇大内山陵参道分岐 漕ぎ上がってようやく峠で〜す?!(*´ο`*)=3ホッ 待ってました!ダウンヒル〜ヾ(≧▽≦)ノ

夢の天国さくらの園原谷苑 地図

例年、3月下旬〜4月下旬にかけて二十数種の桜を中心に椿・日向みずき・吉野ツツジ・馬酔木・木瓜・雪柳・レンギョウ・山吹・石楠花・桃ほか色々な花が楽しめることで知られます。
【昭和初め】
花好きな二代目が、鷹峯土天井町(松野醤油店北側)に梅・桜・紅葉などの樹木を植え農園を創めるが、加賀前田公爵の別荘を建てたいとの要望によりその地を譲渡した為に、何処かに花を植える場所が無いかと探していたところ、原谷開拓団の方からお話があり現在の村岩農園の所在地を得ることとなった。
【原谷開拓団】
終戦後、満州から引き上げて来た方が国より山林とは言え、京のゴミ捨て場状態の荒地の開墾を命じられ、開拓団として入植されたが、火葬場の裏山でもあり余りの辺境さに一夜にして逃げ出した家族もおられたし、残って開拓に一心不乱に取り組まれた方々も果樹園や農園、牛の放牧や養鶏等にも取り組まれたのですが,中々開拓の成果も上がらず、困り果てた方より話が有り原谷乾町の一角を譲り受ける事と相成りました。その際に、阪急電鉄から原谷全地域を譲り受け第二の宝塚化計画のお話も持上がっていたのですが、開拓団の都合により立ち消えになりました。
【昭和60年頃〜】
三代目が、山で手入れし育てていた北山台杉を植木販売用に園内に植え込みました。この頃は、台杉の販売も順調でしたが、スギ花粉症の影響で売れ行きが落ち込みます。実際は、差し穂で育てた白杉の台杉は、花が付かないし花粉も出ないのですが。又、この頃から入重紅枝垂れ桜が弱ってきたので、大きく成り過ぎた関山等の人重桜を切る。台風や干ばつで枯死した木の植え替えを順次行う。
【平成元年頃〜】
四代目が中心になり、土壌養分が無くなって来たので土の入れ替えを順次始める。土場の改良で新しい品種の草木(山吹・つつじ・林檎・石楠花・ミズキ・桃・沈丁花・木瓜等)を植始め現在に至る。  原谷苑パンフ引用

ガイドブックに載らない原谷苑ですが、団体客で賑わっています!入苑料は花の咲き具合で変動する時価相場?!今日は平日Maxの1200円でした。
上も下も色とりどりの花尽くし!花に埋もれるってこんな感じや〜(@_@;) 後ろの小母ちゃんたちから極楽浄土やな〜って声が(^▽^;)
馬酔木(あしび)も満開 桃源郷?!まさに百花繚乱や〜\(●⌒∇⌒●)/
メインの八重紅しだれ桜、一重の山吹・木瓜・花海棠・しだれ桃・利休梅なども綺麗に咲いて見事!
ここからは、解説なしで映画・細雪のロケ地にもなった見事な百花繚乱をお楽しみください。(*゜▽゜)/
写真や言葉では表現できないけど・・・原谷苑は、まさに桃源郷?花園?極楽浄土?百花繚乱?
埋もれるような花々のパワーに圧倒され花酔いで疲れた感じがするくらい・・・(*´ο`*)=3ホッ
原谷苑をあとに・・・ 快適なダウンヒル〜(*゜▽゜)/ 市内俯瞰
・・・ 仁和寺を通過。。。 周山街道(162号線)を高雄へ・・・
仁和寺の鎮守神・福王子神社 御室川にある落差3m程の二段の鳴滝 芭蕉歌碑「梅白し 昨日ふや鶴 を盗れし」
滝の水音が遠くまで鳴り響いていたことから鳴滝と名付けられたと伝える。 綺麗に手入れされ花が供えられている。
平岡八幡宮 地図

「花の天井」で知られる平岡八幡宮は、梅ヶ畑八幡宮とも言われ応神天皇を祀る梅ヶ畑の産土神です。社伝によると弘法大師が平安初期(809年)、高雄山神護寺の鎮護の為に宇佐八幡を勧請したのが始まりと伝える山城国最古の八幡宮です。鎌倉時代に文覚上人が社殿を再興し貞応元年(1222年)に浄覚上人が旧知より下壇に移したと伝えます。流造りの本殿は文政9年(1826年)に再建され天井に極彩色の花弁画が描かれ白玉椿という名の椿でも知られます。本殿、社殿共に南面し正面南北約200mの馬場には桜、紅葉が植えられています。

対岸の壁に不動明王が祀られている。 お待ちかね?上り坂の始まり、始まり〜(^▽^;) 花の天井で知られる平岡八幡宮
まだこの区間の工事やってるんや(~ヘ~;) さすがに原谷の峠超えのあと高雄の峠越えは、ちと堪えますがな。。。(; ̄ー ̄川
周山街道最初の峠・御経坂峠・・・峠を越えると高雄です。 高雄パークウェー分岐
高雄の集落 ・・・ ヤマツツジか綺麗やな〜
見事に咲き乱れている槙尾山(西明寺背後)山ツツジ \(●⌒∇⌒●)/ Wonderful!! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
槙尾山(西明寺背後)の山ツツジ
槙尾山(西明寺背後)山ツツジ ・・・ 青もみじもえぇなぁ〜(*^-^*)
西明寺 地図

槙尾山と号する古義真言宗大覚寺派の寺で一に平等心王院と言います。天長年間(824〜34年)、空海の高弟・智泉が神護寺の別院として改創したが荒廃し鎌倉時代の建治年中、和泉国(大阪府)槙尾山の白証上人が再興し正応元年(1288年)、後宇多上皇が新たに堂塔を建立し平等心王院と号しました。永禄年中、兵火に掛かり伽藍を悉く焼失し一時は神護寺に合併され別院となっていたが慶長7年(1602年)、神護寺の僧・明忍によって再興され律宗を兼ねました。元禄年間(1688〜1704年)、徳川五代将軍・綱吉の生母・桂昌院は本寺に帰依し諸堂建立に努め再興しました。本堂の唐様須弥壇上に安置する本尊・釈迦如来立像(重文:鎌倉期)は高さ51cmの小像ですが嵯峨清涼寺像を真似た尊像で高山寺明恵上人の造顕と伝え、脇檀には千手観音立像(重文:藤原期)を安置します。境内は幽邃閑寂で三尾の一として紅葉の名所でもあります。

指月橋 参道の石段を上がります。。。 供養石塔
・・・ 山門 境内
シャクナゲも美しい!(*^-^*)
鐘楼 庫裡 本堂(ご朱印をゲッツ!)
山桜 茶畑 槙尾山(西明寺背後)山ツツジ
山ツツジを真下から見上げます・・・\(●⌒∇⌒●)/
・・・ ・・・ 高雄橋
清滝川上流 清滝川下流 洛西観光案内図
世界文化遺産・神護寺 地図 高雄ホテル界隈
料理屋さん専用の吊橋 高雄観光案内図
ダムの貯水はコバルトブルーです。 錦雲渓
東海自然歩道で清滝へ押したり担いだり・・・高雄〜清滝に至る渓谷を錦雲渓と言います。
・・・ まっすぐに伸びる北山杉がええ感じや〜
・・・ 湧き水で汗を拭います。(*´ο`*)=3ホッ キララくんも汗を拭う?(^▽^;)
・・・ ええなぁ〜(*^-^*)
清滝川に架かる一本橋 川原へ降りました。
ゲゲッ!これってクマさんの足跡や?!。。(@_@;) 念のため鈴を鳴らして走ります!(; ̄ー ̄A 見上げれば山桜も満開や〜(*゜▽゜)/
クマさんに出会わないように2つの鈴をリンリンいわせて・・・♪森のクマさんを口ずさみながら走ります。。。 (^^ゞ爆
こんな所でクマさんに出会ったら逃げ場もないし・・・鈴が鳴らないときはベルをチンチンいわせて先を急ぎます。。。(;^_^A爆
・・・ 愛宕山、高雄分岐 京都トレイルコース案内
愛宕山登山口 昭和チックな風情が漂う高雄の集落はかつて、愛宕山登山者で賑わった宿場町でした。
現在でも宿場町としての名残があります。 清滝川上流 清滝バス停留所は旧愛宕鉄道清滝駅跡
愛宕山鉄道遺構・清滝トンネル 地図

平坦線跡地は清滝道(京都府道29号宇多野嵐山山田線、京都府道137号清滝鳥居本線)として道路に改修され、現在は京都バス嵐山営業所の路線が運行されている。また平坦線の遺構として単線の清滝トンネルが残存しており、片側交互通行で道路に転用されている。鋼索線の遺構も清滝川駅跡地や線路跡、愛宕駅の駅舎建物などが残存しているが、愛宕駅舎は崩壊しかけており、また6つあるトンネルのうち2つは内部が崩壊していて、非常に危険な状態になっている。橋梁などその他のコンクリート製構造物も風化が進んでおり崩壊の危険がある。中には片側が完全に崩壊しているものもある。鋼索線の廃線跡を愛宕神社への上級者向け登山道の一つとして通行する者がいるが、上記の理由により危険であるため経験者または経験者の同行がない場合は立ち入るべきではない(一部区間は崩壊などの理由で立ち入り禁止となっている)。携帯電話も殆ど圏外で通じないため、万一の際には救助が手遅れになることも覚悟する必要がある。清滝トンネルには『青信号を待たずに進入すると、白い服を着た女性がボンネットに落ちてきて、それを目撃すると発狂する・・・』などなど、幾つも怖い話があるようです。

清滝隧道はレイのものがでると言われる※※スポットで有名らしいけど、幸か?不幸か??・・まだお会いしたことがありませんが?!(^^ゞナニカ?
千二百羅漢石仏で知られる奥嵯峨の愛宕(おたぎ)念仏寺 奥嵯峨・鳥居本 地図
侘びな風情の愛宕街道(町並み保全地区) えぇなぁ〜(*^-^*)
清涼寺(嵯峨釈迦堂) ☆地図

嵯峨野でも有数の古刹で五台山清涼寺と号し源氏物語・光源氏のモデルとされる嵯峨天皇皇子で左大臣・源融(みなもとのとおる)所縁の寺。当地は、元、左大臣・源融の別荘・栖霞観(せいかかん)があった所で寛平8年(896年)、源融の一周忌に融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置する阿弥陀堂を建てて寺に改め棲霞寺(せいかじ)と号した。天慶8年(945年)、源融と血縁深い式部卿宮重明親王が亡室の為に新堂を建立し金色等身の釈迦如来一体を安置。42年後の永延元年(987年)、南都東大寺の僧・「念(ちょうねん)は宋より帰朝後、請来した等身大の釈迦如来像と摺本一切径を当寺に安置しました。一説に釈迦堂の名起はこの時であるとも伝える。本尊の三国伝来の釈迦仏は有名で嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)として、今も多くの人々に崇拝されています。「念は愛宕山を中国の五台山に擬えて、その麓に大清涼寺を建立しようと考えました。長和5年(1016年)、「念没後、弟子の盛算は師の遺志を継ぎ棲霞寺内に一宇を営み釈迦像を安置し五台山清涼寺と号し都下万民の信仰を集め隆盛したが、軒を貸した棲霞寺は衰徴し、今は境内の阿弥陀堂に名を留めるに過ぎません。本尊・釈迦如来立像(国宝:宋)は、体内に五色の絹で作った五臓六腑(ごぞうろっぷ)とお経を持ち、生身(いきみ)のお釈迦様と称されています。近年、大阪城発掘時に見つかった豊臣秀頼の首塚が本堂横に祀られています。

八重の桜 今日も嵯峨野豆腐を買いました!(^-^)v 嵯峨釈迦堂と言われる清涼寺
多宝塔(府指定文化財:江戸期) 光源氏のモデルと伝える左大臣・源融(とおる)墓所 清涼な境内
走れメロス?!間もなく日が沈んでサンセットや!許せメロス!さすがに足がパンパンで日没までに間に合わない???(>▽<;;爆 よ〜走りました!(^^ゞ

Tourist 2013.04.15(M)

 

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