三条大橋〜逢坂山峠越え・・・東海道歩(ほ)っこ〜り探訪

 

これやこの ゆくもかえるも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸

 

三条大橋〜池田屋跡〜明智光秀首塚(梅宮社)〜粟田神社(あわたじんじゃ)〜日向(ひむかい)神社〜牛若丸腰掛石と血洗い池〜

月心寺〜旧東海道本線・逢坂山隋道東口(トンネル:鉄道記念物)〜関蝉丸神社下社〜山吹地蔵(秋岸寺、山吹塚跡)

 

日ノ岡峠

日ノ岡より蹴上を経て粟田口に通じる峠路を言います。元は一筋の小路ですこぶる険しい坂路でしたが文禄年間に木食応基(もくじきおうぎ)上人が往来する旅人の難儀を救うべく道路の拡張に努めました。明治8年(1875年)、京都府によって大々的な改修工事が行われました。この改修工事を記念して建てられた京津国道改良工事紀念碑が今も峠の傍にあります。

宇治川派流(蓬莱橋)

おけいはん特急(京阪・中書島駅)

牛若丸と弁慶

京阪三条駅ビル

寛政の三奇人と言われた高山彦九郎像

三条大橋

東海道五十三次の起点・・・三条大橋

最初の三条大橋は何時頃に架けられたか定かではなく天正18年(1590年)、豊臣秀吉が増田長盛を奉行として改築したと伝わります。紫銅で作られた擬宝珠(ぎぼし)を冠した長さは101m、幅約7mの石柱木造大橋でした。現在も風情のある橋として広く親しまれ欄干の擬宝珠14個は当時のものが使われています。東海道五十三次の起点であり、西詰にはその事を示す里程元標や弥次郎兵衛、喜多八像もあります。三条大橋が架かる三条河原には豊臣秀次一族39人が処刑され、また天下の盗賊・石川五右衛門が釜ゆでにされたのもこの三条河原と伝えます。明治元年(1868年)、新撰組局長・近藤勇は下総国(千葉県)流山で大久保大和と名乗って倒幕軍に出頭したが薩長軍にいた元・御陵衛士(元・新撰組隊士)によって近藤勇だと発覚し板橋の刑場で斬首刑になり首は京都に送られて三条大橋の河原に晒されました。現在の橋は昭和25年(1950年)に改修されました。

鴨川(三条河原)

池田屋事件の刀痕の残る天正年間の擬宝珠

天正18年(1590年)の年号を刻む石碑

池田屋事件

文久3年(1863年)8月18日の政変後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫され、長州・土佐・肥後藩などの尊王攘夷派達が勢力回復をめざして中川宮や京都守護職・松平容保の暗殺計画を企てた。元治元年(1864年)年6月5日(祇園祭宵々山)、近藤、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤周平(養子)、原田の7人は三条小橋西入ルの旅籠・池田屋において会合中の尊王攘夷派達30余名を襲撃。後、縄手付近を探索していた土方歳三らも加勢し2時間ほどの斬り合いだったという。新撰組に襲撃され長州藩の吉田稔麿、杉山松助、土佐藩の望月亀弥太、肥後藩の宮部鼎蔵、松田重助ら多数の死傷者が出ました。会合に参加するはずだった長州藩の桂小五郎は近くの対馬藩邸にいて無事だった。新選組では奥沢栄介、新田革左衛門、安藤早太郎が亡くなり、藤堂平助と永倉新八らが負傷しました。この時に沖田総司が吐血したとも伝わります。主人・池田屋惣兵衛も翌日捕まり、六角獄舎で獄死しました。捕縛された古高俊太郎も、六角獄舎で獄死しました。1ヶ月後の禁門の変を誘発する一因となり、その後の政治情勢に多大な影響を与える事件となった。維新が1年遅れたとも1年早まったとも言われています。世に新撰組の名を一気に高めた事件となりました。

三条小橋

池田屋騒動之地碑

弥次郎兵衛・喜多八像

京阪本線、京津線旧三条駅跡

京津線が併走していた三条通り

白川橋

明智光秀首塚(梅宮社)

天正10年(1582年)6月、天王山の戦いで秀吉に敗れた光秀は、近江坂本城へ敗走の途次、小来栖の竹藪で飯田一党に襲われ落命し首は粟田の刑場に晒された後、当地に埋葬され供養塔を築いたという伝説があります。その傍に洛西の梅宮神社の分霊を祀る梅宮社という小祠があり首より上の病者が、この塚に祈れば霊験があるとされます。光秀が落命した所は明智薮と言われ伏見小栗栖に旧跡を留め、山科勧修寺には明智塚(光秀胴塚)があります。

明智光秀首塚(梅宮社)

光秀首塚、供養塔

粟田神社(あわたじんじゃ)

粟田神社(あわたじんじゃ)は京の七口の一つ、粟田口の華頂山麓に鎮座し古来、粟田天王と称し八坂神社と同じく素盞嗚尊(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る事から感神院新宮とも呼ばれたが明治初年に今の社名に改めました。創祀については諸説があり室町中期の明応年間に卜部(うらべ)兼倶の勧請するところで粟田青蓮院宮の鎮守社として崇敬されてきました。今の社殿は文政年間、光格天皇の叡旨によって再建されました。毎年10月の祭礼では、祇園祭の山鉾の原型といわれる高さ6〜7mの剣鉾数基が町内を練り歩きます。粟田焼(京焼)もここで発祥したとされます。

神宮道(平安神宮)を通過・・・

粟田神社参道

二の鳥居

牛若丸(義経)ゆかりの出世恵美須神社

義経が牛若丸と称した頃、金売吉次に伴われ奥州へ下向する際に源氏再興を祈願した恵美須神で出世恵美須または門出恵美須と称されました。元は日ノ岡夷谷に祀られていましたが、約500年前に山崩れにより土砂と共に流されてきた所が現在の鎮座地と伝え夷町という地名が残っています。御神体は日本最古の寄木造の恵美須神像で伝教大師(最澄:さいちょう)の作と伝えます。

参道の石段

出世恵美須神社

拝殿

本殿

境内からの眺め

蹴上をテクテク・・・

蹴上第二発電所跡(京大化学研)

蹴上インクライン

煉瓦積みが捻れているので「ねじりまんぼ」と言います。

琵琶湖疏水

明治14年(1881年)2月、京都府知事に就任した北垣国道は琵琶湖に着目し疏水を開削する事で琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き同時に動力(水車)、灌漑、防火などに利用して京都の産業を振興しようとしました。明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疎水(第一疎水)は当時の京都市年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業の主任技師として北垣知事に選ばれたのが、工部大学(東京大学)を卒業したばかりの田辺朔郎(さくろう:当時21才)が設計し僅か5年で完成し水力発電などに利用され日本初の電気鉄道(伏見線)を開通させるなど京都の近代化に大きな役割を果たしました。当時は我が国の重大な工事は全てを外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業でした。

「ねじりまんぼ」を通過・・・

田辺朔郎像と顕彰碑

第1琵琶湖疎水の水位調整堰?浄水取水口?

疎水分水路

蹴上発電所水圧鉄管取水口

蹴上発電所水圧鉄管

蹴上インクライン

第1、第2琵琶湖疎水が合流する蹴上の船留から岡崎動物園前の船留まで1/15という急勾配でこの間約600mだけ斜面にレールを敷き運輪船を乗せた四輪付き船台の鋼索を電力で上下に動かしました。この斜面をインクラインと言います。

疏水分線(南禅寺水路閣へ)

蹴上インクライン

蹴上インクライン

第1琵琶湖疎水の第3トンネル西口

竪坑(シャフト)と第2琵琶湖疎水(左)と第1疎水

日向(ひむかい)神社

山間幽邃の地にあり社殿は伊勢の内宮、下宮を模して造営され内宮(上ノ本宮)には天照皇大神、三女神(みはしらのひめ)を外宮(下ノ本宮)には天御中主命(あまのなかぬしのみこと)、迩迩芸命 (ににぎのみこと)を祀ります。清和天皇は貞観年間、菅原船津に勅し社殿を修造させ日向宮の勅額を下勅されたと伝えます。中世建武、応仁の乱の兵火で社殿並びに古記録が焼失したが松井藤左衛門によって清泉の涌出する当地に仮宮を造営、禁中より修理料を賜り社殿が再興され後陽成天皇は内宮、外宮の御宸筆の額を賜いたと伝えます。

日向神社参道

境内

外宮(下ノ本宮)

内宮(上ノ本宮)

祭石の「影向石」

義経所縁の地蔵尊(義経大日如来(粟田口)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)

金売吉次に伴われ奥州への旅立つ途中、粟田口を過ぎ九条山の坂にさしかかった時、馬に乗った関原与市と従者9人の武士が、水溜りの泥水を蹴りかけました。咎めた牛若丸と争いになり相手が平家の武士と聞いた牛若丸は激怒し9人を切り倒したが不憫に思い、9体の地蔵尊を安置し菩提を弔いました。日ノ岡峠を境として山科よりを九体町と言い、斬り倒された関原与市ら9人の菩提を弔う為に牛若丸が石仏9体を安置したのが地名の由来と伝え、蹴り上げた場所は蹴上(けあげ)という地名として残っています。9体の石仏のうち6体は所在不明ですが、3体は街道筋に残されていると伝え義経大日如来(疎水公園)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)の3体だと思われます。

天の岩戸・・・潜り抜けると厄除け、開運!!

義経大日如来(疎水公園)

大日如来(蹴上口)

この中の一体が義経が祀ったとされる

蹴上浄水場をテクテク・・・

テクテクと日ノ岡峠を越えるとです・・・

京津線九条山駅跡辺り

延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)とです

荷車と車石

旧東海道(右)への分岐

京津国道改良工事紀念碑

基礎には車石が使われているとです・・・

題目碑

名号碑

亀の水(亀の水不動尊)

木食上人が元文3年(1738年)、峠道の改修工事と共に木食寺梅香庵を営み、 道路管理と休憩所を設けた所です。不動尊を祀り亀の口より井水が湧き出しているので井名となり街道を往来する人馬の喉を潤しました。傍らに木食上人が使用したとされる竃(カマド)が残っています。

亀の水不動尊

亀の水・・・亀さんに耳がある!(@_@;)

木食上人が使ったとされる竃(カマド)

旧東海道から山科の眺望

風情のあるお風呂屋さん

京津線跡・・・陵ヶ岡みどりの径

天智天皇山科陵

天智天皇は即位10年(671年)12月3日、46才で大津宮で崩御。遺骸は当地に埋葬されたが間もなく壬申の乱が勃発し山稜造営は中止され28年後の文武天皇3年(699年)、修造されたと伝えます。中世乱舞の世に荒廃したが江戸時代には山科郷人によって管理され桓武天皇柏原陵が早く荒廃し所在を失ったのに比して山科陵は古来、厳然と所在を明らかにしているのは管理の宜しきを得たからだとされ陵前街道筋を御陵(みささぎ)と称するのは陵守のいた所が村落になったからだと伝えます。現在、墳丘等は見ることができないが墳丘は上円下方墳で下段方形部は1辺約70m、上円部は直径約40m、高さ約8mで上円部は截頭八角錐(せっとうはっかくすい)とされます。

天智帝の水時計(漏刻)に因んだ日時計

約500mの緩やかな上りの参道

天智天皇山科陵

牛若丸腰掛石と血洗い池(義経刀洗い水)

牛若丸腰掛石は、京都薬科大学(京都市山科区)のグラウンド南端にあり牛若丸が金売吉次に伴われて京都から奥州平泉に下向途中、腰掛けて休憩した石だと伝えます。血洗い池は、義経刀洗い水とも称された池で昔は竹林で鬱蒼としていた。四つ辻地蔵の背後辺りにあったと伝え、現在は宅地となり当時の姿を留めていません。

旧東海道(左)と街並み

牛若丸腰掛石

四つ辻地蔵(この背後が伝・血洗いの池跡)

奴(やっこ)茶屋

旧街道筋に設けられた腰掛け茶屋で片岡丑兵衛の創始と伝えます。丑兵衛は南朝の遺臣の家来とされ頗る武芸に長じ義侠に富んでいました。京都大津間を往来する人の為に茶店を設け常に店先に弓、刀、槍などを飾って旅人の護送にあたりました。それより茶店を「奴茶屋」と呼ばれ武勇と任侠は世の賞賛するところになったと伝えます。和宮(孝明帝妹)が徳川家降嫁にあたってここで休息され明治天皇も東篭東行にあたりしばし鳳輿を留めました。

五条別れ道標

明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡)

旧東海道標

東海道は真っ直ぐ行くとです・・・

京阪山科駅

浜大津行きの電車が到着

大津算盤の始祖・片岡庄兵衛

説明碑によると江戸時代、東海道筋のこの辺りで売られていた大津算盤は慶長17年(1612年)、片岡庄兵衛が明国から長崎に渡来した算盤を参考に製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったと伝えます。

大谷駅で下車

R1号線を追分方面へ戻ります・・・(; ̄ー ̄A

大津算盤の始祖・片岡庄兵衛邸

月心寺と走井(はしりい)

画家・橋本関雪(はしもとかんせつ)の別邸で没後に遺族の願いで寺院に改められました。室町期の絵師・相阿弥(そうあみ)作と伝わる池泉回遊式の庭園は見事で、走井(はしりい)の名水や小野小町の百歳像を安置する小町堂などがある尼寺で庵主・村瀬明道尼(むらせみょうどうに)は9歳の時、父親の希望で仏門に入り、京都の尼寺に入り37歳の時に月心寺へ入山しました。3年後、交通事故により右腕、右足の自由を失くされ法要の仕出しと一緒に作ったお汁が喜ばれた事で手料理(精進料理)を振る舞うようになり庵主手作りの胡麻豆腐は絶品とされます。平成13年(2001年)、NHK朝の連続テレビ小説「ほんまもん」で野際陽子演じる庵主のモデルとなりました。又、走井は安藤広重作「東海道五十三次・大津」に旅人の喉の渇きを癒す茶店が描かれ走井の清水で知られる茶店のあった場所が月心寺とされ走井は現存し、走井の水から創られた走井餅も街道名物で大津名菓になっています。当然、買ったとです!あと、三井寺力餅も!!(;^_^A まいう〜!・・・どもども

月心寺

侘びな風情

第13代・成務天皇の産湯にも用いられた走井

再び、大谷方面へ・・・

旧東海道線の逢坂山隋道(西口)跡碑

旧東海道線は名神高速になっています・・・

蝉丸神社参道

車石

安藤広重の「東海道五十三次・大津」絵図

逢坂山関址

平安時代に不破(岐阜県)、鈴鹿(三重県)と並ぶ三関であった逢坂山関は都と東国、北国を結ぶ東海道、北国街道などが集中する交通の要衝で古来、貴族や武将、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がこの道を通過、この関所や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に多く残っています。また、大津八景「関寺の晩鐘」、「逢坂の暮雪(ぼせつ)」として有名ですが実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りの関寺跡(長安寺)付近ではないかとも思われています。

逢坂常夜灯と逢坂山関址碑

関蝉丸神社上社

旧東海道本線の逢坂山隋道東口(トンネル:鉄道記念物)

旧逢坂山トンネルは明治13年(1880年)6月28日に竣工したもので、大正10年(1921年)8月1日の線路変更により廃線となるまで東海道本線として使用されていました。全長664.8mのトンネルは日本人技術者のみで造られた日本最初の鉄道トンネルとして鉄道記念物に指定され120年前の煉瓦組みトンネルが保存されていますが現在は京都大学防災研究所附属地震予知研究センター逢坂山観測所として利用されています。当時の太政大臣・三條実美による「楽成頼功」と刻まれた石額があります。

名神高速道路の橋梁を通過・・・

旧東海道本線の逢坂山隋道東口(左:下り線、右:上り線)

逢坂山隋道東口(下り線)

栄町に入るとです・・・

逢坂の碑

蓮如上人所縁の安養寺・・・改修中!(>_<)

旧東海道本線の煉瓦造の橋台跡

関蝉丸神社下社

「これやこの ゆくもかえるも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」という百人一首の十番の作者で琴や琵琶の名手として知られる平安時代の歌人・蝉丸を祀る。蝉丸が逢坂山に隠棲していたという伝説に因んで建てられた関蝉丸神社は上社、下社、分社の三社がありますが、関蝉丸神社と言えば、この下社を表します。元の祭神は、猿田彦命(さるたひこのみこと)、豊玉姫命(とよたまひめのみこと)、嵯峨天皇でしたが、合祀され現在も芸能成就を願う人々の信仰を集めています。

関蝉丸神社下社参道

参道途中を電車が通過!(@_@;)

境内

関の清水井

拝殿

本殿

時雨燈籠(重文:鎌倉期)

JR逢坂山トンネル手前(上:京阪京津線)

浜大津近く(上栄町辺り)

山吹地蔵(秋岸寺、山吹塚跡)

この辺りにあった秋岸寺内の地蔵堂でJR大津駅の拡張工事で山吹塚は義仲寺に移転されました。木曽義仲が敗れて戦死した粟津ケ原の戦いの時、義仲を慕って愛妾・山吹が京都から逢坂山を越えてきたのですが会えずに敵刃に倒れた所と伝わり後に地蔵堂を建立して山吹を弔いました。傍には「木曽殿を 慕い山吹 ちりにけり」という歌碑も立っています。

山吹地蔵(秋岸寺、山吹塚跡)

ようやくJR大津駅に着いたとです・・・

新快速電車が到着・・・JR大津駅

JR京都駅に到着、JR奈良線に乗り換え・・・

JR桃山駅・・・ここから又、歩き!(*≧m≦) 爆

 Tourist  2005.07.11(M)

 

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