秀吉と三成の出会いの碑・・・三献の茶 |
長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしました。その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄り茶を所望しました。対応した寺の小姓は、まずぬるめの茶を一杯に入れた大ぶりの茶碗を出しました。喉が乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干しもう一杯所望しました。次に小姓は、やや小ぶりの茶碗に、やや熱めの茶を出しました。秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの茶碗に熱い茶を入れて出しました。小姓の気心配りに感心した秀吉は、その小姓を城に連れ帰り家来としました。この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。 |
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高さ28mの琵琶湖大仏(良疇寺:りょうちゅうじ)
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JR長浜駅
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秀吉、三成出逢いの碑
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豊国神社(六瓢箪めぐりの一) |
安土桃山時代、秀吉の没後に長浜の町民が遺徳を偲んで建立しました。事代主大神、豊臣秀吉、加藤清正、木村重成を祭神としています。大坂夏の陣で豊臣家が滅びると徳川幕府は秀吉を神として祀る事を禁止し神社を取り壊すよう命じました。長浜の町民は、商売の神である恵比須(えびす)神を表向きにし奥殿に秀吉像を密に祀り神社を守り続けました。明治31年(1898年)、秀吉の300回忌に社殿を再興して現在の社容を整えました。 |
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長浜城家臣団屋敷跡
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豊鑑の歌碑(竹中半兵衛歌碑)
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豊国神社
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本殿
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福万年亀石
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秀吉が寵愛した虎石
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長浜城大手門跡
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壱夜門
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昔の風情を醸し出している北国街道
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長浜御坊「大通寺」 |
真宗大谷派(東本願寺)の別院で正式には無礙智山(むげちざん)大通寺と号します。長浜御坊の名で親しまれています。本願寺12世・教如上人が湖北門徒に仏法を布教する為の道場を旧長浜城内に開いたのが興りです。当時は長浜御堂と呼ばれ安土桃山時代末期、京都に東本願寺が建立され御堂を大通寺とし、その4年後に現在地に移築しました。伏見城の遺構と伝わる本堂や大広間は華やかな桃山文化の名残を感じさせます。山内一豊の時代に長浜城の大手門を移築した脇門(台所門)など建造物の多くが国や市の重要文化財です。県指定の文化財としては、南北朝時代の銘を刻んだ梵鐘など建物やその内部の美術品は国の文化財に指定されています。客室(含山軒、蘭亭)内部の障壁は、狩野山楽・山雪、円山応挙によって描かれました。鑑賞式枯山水の「含山軒庭園」は伊吹山を借景とし鑑賞式池泉庭園の「蘭亭庭園」も優れた名園で共に国の名勝に指定されています。 |
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大通寺表参道からの山門とです・・・
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大通寺山門(長浜市指定文化財:江戸期)
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脇門(長浜城遺構・大手門/長浜市指定文化財:桃山期)
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玄関付大広間(伏見城遺構/重文:桃山期)
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本堂(伏見城遺構/重文:桃山期)
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知善院(長浜城の搦手門:からめてもん/裏門)
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知善院(六瓢箪めぐりの一) |
宝生山と号し山門は長浜城の搦手門(からてもん)を移されました。本堂には阿弥陀三尊が祀られ大坂城落城の際に持ち出された太閤秀吉の木像も祀られています。境内の観音堂には十一面観音(重文:鎌倉期)が安置されています。秀吉ゆかりの六社寺の「六瓢箪めぐり」の一です。 |
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観音堂
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豊臣秀吉の木造が祀られている本堂
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北国街道にある安藤家
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妙法寺(秀吉の子・秀勝の墓所)
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秀吉の子・豊臣秀勝廟堂
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舎那院
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舎那院(しゃないん)(六瓢箪めぐりの一) |
勝軍山と号し平安時代に空海が開山した由緒ある寺で元々長浜八幡宮の神宮寺でした。秀吉の厚い保護を受け秀吉が本尊・愛染明王(重文)に一族の息災を祈願した懸仏が現存しています。8月初旬〜9月にかけて境内一面に咲く芙蓉は必見の価値ありです。秀吉ゆかりの六社寺の「六瓢箪めぐり」の一です。 |
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境内には芙蓉の花が咲いているとです・・・
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本堂
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長浜八幡宮(六瓢箪めぐりの一) |
毎年4月15日は八幡宮の祭礼「長浜曳山まつり」が行われ日本三大山車祭りの一として名高く豪華な山車と子ども歌舞伎は見応え充分です。長浜城主・秀吉の厚い保護を受け千年の歴史を持つ長浜の氏神で秀吉が寄進した庭園も見事。秀吉ゆかりの六社寺の「六瓢箪めぐり」の一です。 |
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8月初旬〜9月、芙蓉の花が美しいとです・・・
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長浜八幡宮
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拝殿
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本殿
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亀願石
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清々井
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芭蕉句碑
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旧長浜戸長役場跡碑・・・美しい!(;^_^Aおいおい
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山内伊右ェ門(一豊)屋敷跡碑
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長浜城 |
湖北は室町時代末期〜安土桃山時代に織田信長、豊臣秀吉の天下統一の動乱に巻き込まれ特に長浜は秀吉が湖畔(今浜)に初めて居城を築き長浜と名付けました。城下に楽市楽座を設け商業都市・長浜の基礎となった城下町を築きました。現在の城は昭和58年(1983年)に歴史博物館として再興され歴史的な資料を数多く展示しています。秀吉は天正2年(1574年)夏に築城を開始し長浜に改めました。長浜城は南北朝時代に京極導譽が建てた今浜城を改修したと伝えます。後に柴田勝豊、山内一豊、内藤信成らが長浜城主になりましたが、元和元年(1615)、一国一城令によって廃城され建造物や石垣の大半が彦根城建設の為に運び出されました。 |
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長浜城(歴史博物館)とです・・・
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稲荷明神社・・・旧本丸跡には人柱となった姉娘・きくの霊を弔う為に祠が建てられました。
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長浜城の人柱伝説 |
昔、橋など大工事の場合、大水で流されたりせずにいつまでも丈夫であるようにと、橋台に娘を生き埋めにしました。城を建てる場合も城が戦になっても落城しないように人柱として娘を生き埋めにしました。天正元年(1573年)、秀吉は今浜(長浜)の湖畔に居城を建てる計画をしました。その築城の命を受けたのは京極氏でしたが人柱となる娘は、中々見つかりません。ある時、付近の漁師に出会い「この辺りに、娘はいないか?」と尋ねました。漁師は「私の家に、二人おりますが・・・」と答えました。京極氏は「姉妹の一人を、ぜひ築城の人柱に差し出して欲しい・・」と頼んだところ漁師は、「差し上げましょう・・・」と答えました。妹娘は、しのぶという名で目が見えませんでした。差し出す事を承知したものの、本人にどう話をしようか?と決心がつきませんでした。築城も目前に追り京極氏から、再三の催促が来ます。そして、ある夕食の時「しのぶ、父の願いを聴き入れておくれ。殿様の城の人柱となって、立派に役立ってもらいたい・・・」と言いました。傍で聞いていた姉のきくが「何をおっしゃるのですか?!妹は生まれながら目の見えない可哀相な子です。私は姉として生まれ、体も丈夫で世の中の何事も、充分見せてもらい、味わせてもらいました。妹に比べたら、とても幸せ者です。妹の代わりに私をお役立て下さい・・・」と涙ながらに言いました。漁師は、泣く々姉娘・きくを城の人柱として差し出しました。★「長浜のむかし話」参照 |
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天守閣(歴史博物館)
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長浜城天守閣跡碑
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豊臣秀吉像
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太閤井戸跡(長浜城遺構) |
天正2年(1574年)夏に秀吉が長浜城築城を開始した時に掘らせた太閤井戸跡で石垣の一部と共に数少ない長浜城遺構です。 |
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琵琶湖とです・・・
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太閤井戸跡
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長浜城石垣出土地碑
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長浜城本丸跡碑・・・突然の夕立!(>_<)
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南東長浜領境界跡碑
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南長浜領境界跡碑、旧長浜港跡碑
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長浜鉄道スクエア(旧長浜駅舎鉄道資料館) |
明治15年(1882年)、北陸本線の始発駅とて建設された初代の長浜駅は、現存する日本最古の駅舎として神戸の鹿鳴館と同時期に建設されたと伝えます。この資料館には、貴重な鉄道資料などが多数展示され第1回の鉄道記念物に指定されました。イギリス人技師が設計した洋風2階建て、文明開化を象徴する近代化遺産で館内には、駅長室や待合室など当時の駅舎を再現しています。 |
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毎年、長浜盆梅展が開催される慶雲館
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長浜鉄道スクエア(現存最古の旧長浜駅舎)
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29号分岐器ポイント部分(鉄道記念物)
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JR長浜駅とです・・・
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長浜城内外掘跡碑
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長浜浪漫ビール館と舟板塀(米川・朝日橋)
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舟板塀 |
長浜を縦断する北国街道は中山道と北陸を結んだ交通の要衝でした。長浜は港町として栄え京都、大阪からの船便が到達する港で下ろされる荷物は、北国街道を介して北陸方面へと運ばれました。米川を渡ると、その通りには舟板塀と呼ばれる船の側板など廃材を外壁として使用した家屋が建ち並びます。 |
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長浜城外堀跡碑(米川)
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舟の廃材を利用した風情ある舟板塀
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昔の長浜港から続く道沿いにある舟板塀
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城下町の名残「馬つなぎ石」とです・・・
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JR長浜駅
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Tourist
2005.08.15(M)
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