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慶雲館・・・盆梅展が開催される・・・
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レトロな長浜浪漫ビールと舟板塀(米川・朝日橋)
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長浜城外堀跡碑(米川)
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舟板塀 |
長浜を縦断する北国街道は中山道と北陸を結んだ交通の要衝でした。長浜は港町として栄え京都、大阪からの船便が到達する港で下ろされる荷物は、北国街道を介して北陸方面へと運ばれました。米川を渡ると、その通りには舟板塀と呼ばれる船の側板など廃材を外壁として使用した家屋が建ち並びます。 |
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風情がある昔の港から続く道沿いにある舟の廃材を利用した舟板塀
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レトロなガス灯
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潤徳安民碑
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徳勝寺(浅井家三代の墓所)
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浅井家三代の墓所 |
浅井氏は、北近江の小谷城主として勢力があった戦国大名でした。浅井亮政が北近江を制圧し子の久政、孫の長政と続きます。元亀元年(1570年)6月、姉川で織田・徳川連合軍に敗れ天正元年(1573年)8月、織田信長に攻められ朝倉氏の滅亡に続いて小谷城も落城し浅井久政、長政父子は自刃して果て浅井家は滅亡しました。落城直前に秀吉の機転によりお市の方と3人の娘(茶々:秀吉側室で後の淀殿、お初:京極高次室、お江:徳川秀忠室)は城を脱しました。徳勝寺は元、小谷城下にありましたが秀吉によって長浜に移され浅井家三代の墓所として浅井久政、亮政、長政の三基の宝篋印塔(ほうきょういんとう)が並んでいます。 |
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浅井家三代の墓所(左から長政、亮政、久政)
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妙法寺(秀吉の子・秀勝の墓所)
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長浜御坊「大通寺」表参道
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長浜御坊「大通寺」 |
真宗大谷派(東本願寺)の別院で正式には無礙智山(むげちざん)大通寺と号します。長浜御坊の名で親しまれています。本願寺12世・教如上人が湖北門徒に仏法を布教する為の道場を旧長浜城内に開いたのが興りです。当時は長浜御堂と呼ばれ安土桃山時代末期、京都に東本願寺が建立され御堂を大通寺とし、その4年後に現在地に移築しました。伏見城の遺構と伝わる本堂や大広間は華やかな桃山文化の名残を感じさせます。山内一豊の時代に長浜城の大手門を移築した脇門(台所門)など建造物の多くが国や市の重要文化財です。県指定の文化財としては、南北朝時代の銘を刻んだ梵鐘など建物やその内部の美術品は国の文化財に指定されています。客室(含山軒、蘭亭)内部の障壁は、狩野山楽・山雪、円山応挙によって描かれました。鑑賞式枯山水の「含山軒庭園」は伊吹山を借景とし鑑賞式池泉庭園の「蘭亭庭園」も優れた名園で共に国の名勝に指定されています。 |
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風情のある大通寺表参道
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大通寺山門(長浜市指定文化財:江戸期)
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鐘楼
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玄関付大広間(伏見城遺構/重文:桃山期)
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本堂(伏見城遺構/重文:桃山期)
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脇門(長浜城遺構・大手門/長浜市指定文化財:桃山期)
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出ました〜?!Pちゃんスペシャルとです・・・
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壱夜門
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どこか伏見に似た町並み
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町中に点在する曳山庫(壽山)
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長浜城大手門跡辺り
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豊国神社 |
安土桃山時代、秀吉の没後に長浜の町民が遺徳を偲んで建立しました。事代主大神、豊臣秀吉、加藤清正、木村重成を祭神としています。大坂夏の陣で豊臣家が滅びると徳川幕府は秀吉を神として祀る事を禁止し神社を取り壊すよう命じました。長浜の町民は、商売の神である恵比須(えびす)神を表向きにし奥殿に秀吉像を密に祀り神社を守り続けました。明治31年(1898年)、秀吉の300回忌に社殿を再興して現在の社容を整えました。 |
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豊国神社
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賤が岳の戦いの「七本槍」の一人、加藤清正像
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本殿
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出世稲荷社
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三献の茶・・・秀吉と三成の出会いの碑 |
長浜城主となった秀吉は、ある日、領内で鷹狩をしました。その帰途に喉の乾きを覚えて、ある寺に立ち寄り茶を所望しました。対応した寺の小姓は、まずぬるめの茶を一杯に入れた大ぶりの茶碗を出しました。喉が乾いていた秀吉は、それを一気に飲み干しもう一杯所望しました。次に小姓は、やや小ぶりの茶碗に、やや熱めの茶を出しました。秀吉がもう一杯所望したところ、今度は小ぶりの茶碗に熱い茶を入れて出しました。小姓の気心配りに感心した秀吉は、その小姓を城に連れ帰り家来としました。この小姓が後に五奉行の一人となった石田三成と伝えます。 |
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長浜城家臣団屋敷跡
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三献の茶に因んだ秀吉、三成出逢いの碑
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JR桃山駅
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Tourist
2005.06.13(M)
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