Pちゃんズの近江紀行「湖都周遊編」

 

 露時雨 もる山遠く 過ぎきつつ 夕日のわたる 勢多の長橋 「近江八景:勢多(瀬田)の夕照」近衛政家

 

「近江大津宮」

大化元年(645年)、大化の改新を中臣(藤原)鎌足(なかとみのかまたり)らと推進した中大兄皇子(なかのおおえのみこ)は天智6年(667年)、飛鳥から近江の大津に都を移しました。律令国家建設の手本とした唐が朝鮮半島へ侵攻し日本にも危機感が高まった時代で遷都は日本を守る為の防備策とも考えられます。翌年の天智7年(668年)1月、天智天皇として即位し日本最初の法令集「近江令」、戸籍制度「庚午年籍:こうごねんじゃく」、日本最初の水時計「漏刻:ろうこく」などを作り大津京に律令国家の基礎を築きました。中世以降、多くの武将たちが畿内へ通じる街道、湖上交通を掌握する為に琵琶湖周辺に水城を構え「近江を制する者は天下を制する」とまで言われました。

日本最初の銀座発祥地

伏見は豊臣秀吉の城下町として開け、後に天下を統治した徳川家康は、両替町通に銀座を置き、大黒常是(だいこくじょうぜ)を呼び寄せて銀貨をつくらせました。銀座の町名は現在も残り東京の銀座は有名ですが、始まりにおいては伏見の方が古く日本で最初に銀座が置かれました。

日本最初の銀座跡碑

近鉄・準急で京都駅へ

JR京都駅

木曽の四天王・今井兼平墓所

今井四郎兼平(しろうかねひら)と呼ばれ木曽義仲とは乳兄弟にあたる平安時代末期の武将で木曽の四天王とされ巴御前と兄妹です。義仲と共に源頼朝、義経軍と戦い粟津の合戦で破れ義仲が討死した事を知り、この地で自ら刀先を口に逆立て馬から飛び降りて悲壮な最期を遂げました。謡曲「兼平」として現在に語り継がれています。江戸時代、今井兼平を尊敬した膳所藩主・本多俊次が墓を建立したと伝えます。

新快速で石山へ

今井兼平墓所

芭蕉像と蕉門十哲の一?Pちゃん!(*≧m≦) プッ

近江伝説・三上山(近江富士)の大ムカデ退治

近江伝説の「三上山のムカデ退治」では、ある時、橋を渡る平安時代の武将・藤原秀郷の前に大蛇が横臥っていた。秀郷は恐れる事なく跨ぎ通ると呼び止める者があった。青衣を着た女人(乙姫)が「我は瀬田橋水底に棲む龍神(乙姫)である。大蛇の姿になり橋の上に横臥せり、未だ御仁ほどの剛勇の人を見ず。年来、我に仇するムカデあり。願わくば我が為に討て」と頼まれ承諾しました。剣と弓矢を携えて三上山に臨むと、山を7巻き半する大百足が現れた。藤太は矢を射たが大百足には通じない。最後の1本の矢に唾をつけ、八幡神に祈念して射るとようやく大百足を退治することができた。龍神の娘乙姫は、お礼に米が尽きない米俵を手渡し以来、秀郷は俵籐太(たわらのとうた)と呼ばれました。橋の東詰めに藤太や竜宮の乙姫を祀る龍王宮秀郷(りゅうおうぐうひでさと)社や藤太の追善供養に建立された雲住寺があります。藤原秀郷は実在人物で天慶3年(940年)、平将門の乱で秀郷が弓矢で将門の左目を射抜き平貞盛らと征討したのは瀬田の唐橋の龍神の加護によるという由来から、大ムカデ退治伝説が生まれたと伝えます。この近江に伝承される大ムカデ退治の話は御伽草子の「俵藤太物語」の前半部分で、実は隠喩に富んだ伝記で後半部分は、俵藤太の「平将門討伐」のストーリーとなって「関東八州のほとんどを手に入れた将門(三上山を七巻き半した大百足)を、俵藤太が弓矢で討ち、田原郷(俵)と、鐘(報奨金)を授かった」と伝えます。余談ですが、平将門は菅原道真、崇徳上皇と共に日本三大怨霊とされています。藤原秀郷は平氏・源氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を排出してきたが、仮冒の家系も多い。近江国蒲生郡を中心に勢力を築いた戦国大名・蒲生氏は藤原秀郷を祖としています。

京阪石山駅から唐橋前駅へ

瀬田の唐橋

俵籐太(たわらのとうた:藤原秀郷)像

日本三大名橋の一「瀬田の唐橋」

安藤広重の浮世絵に描かれた近江八景の一で「瀬田の夕照(せきしょう)」として有名な橋で、古くは瀬田橋または瀬田の長橋として日本書紀始め多くの文学作品に登場し京都宇治の宇治橋、京都山崎の山崎橋と共に日本三大名橋の一とされました。東国から京に入る関所の役割を果たし軍事、交通の要衝とされ「唐橋を制する者は天下を制す」とも言われました。天武元年(672年)「壬申の乱」、承久3年(1221年)「承久の乱」、建武3年(1336年)「建武の戦い」など、幾多の戦乱の舞台になる度に破壊、再建を繰り返しました。橋はもう少し上流にありましたが、天正3年(1575年)、織田信長が現在の位置に新しい橋を建設して以来から今に至りますが、その後も度々、橋は架け替えられ長く木造であった唐橋も大正13年(1924年)6月に鉄筋コンクリートに変わり現在の橋は昭和54年(1979年)に改修され緩やかな反り、旧橋の擬宝珠(ぎぼし)など昔の面影を偲ばせています。

日本三大名橋の一「瀬田の唐橋」

そなたは秀郷?大蛇の頭に立っているとです!(@_@;)

雲住寺(うんじゅうじ:橋守寺)

浄土宗の寺で龍光山と号します。大ムカデ退治で有名な俵藤太(藤原秀郷)の供養の為に創建され瀬田の唐橋の守り寺であり、俵藤太縁起(版木)、秀郷太刀鍔、鎗鉾先など大ムカデ退治に関わる什物も数多く残されています。

雲住寺山門

境内

本堂

龍王宮秀郷社(りゅうおうぐうひでさとしゃ:橋守神社)

瀬田の唐橋には龍神が住み橋を屋代としていたと伝わり室町期の永享12年(1440年)頃に橋を架け替えられ龍神を権殿に遷座した後、龍宮の権殿が本宮となったという。平安時代、平将門の乱を鎮めた俵藤太(藤原秀郷)、大神霊竜王を祭神とします。

龍王宮秀郷社

拝殿

本殿

建部(たけべ)大社

由緒によると1,400年以上前の創建と伝え、建部大社、建部大明神などと称え、延喜式内名神大社に列し、近江国の一之宮として朝野の崇敬篤く、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。 御祭神、日本武尊は御年僅に16才にて熊襲を誅し、更に東夷を平定され、遂に32才にして伊勢の能褒野において崩御されましたが、父君景行天皇は尊の永逝をいたく歎かれ、御名代として建部を定め、その功名を伝えられました(日本書紀にしるされている)これが即ち建部の起源です。景行天皇の46年、神勅により御妃 布多遅比売命(ふたじひめのみこと/父は近江安国造)が、御子稲依別王(いなよりわけのみこ)と共に住まわれていた神崎郡建部の郷(御名代の地)に尊の神霊を奉斎されたのが当社の草創であって、その後天武天皇白鳳4年(675年)、当時近江国府の所在地であった瀬田の地に迀祀し、近江一宮として崇め奉ったのが現在の当大社です。
歴朝の御尊信篤く、武門武将の崇敬枚挙にいとまなく、とくに源頼朝が平家に捕われ、14才にして伊豆に流されるため、京都から関東に下向の折、永暦元年(1160年)3月20日当社に参篭して前途を祈願した事が平治物語に記されています。遂に頼朝は源氏再興の宿願成って、建久元年(1190年)11月右大将として上洛の際、再び社前で祈願成就の神慮に対し、幾多の神宝と神領を寄進して奉賽の誠を尽くされたのです。
爾来当大社が出世開運、除災厄除、商売繁盛、縁結び、医薬醸造の神として広く崇敬される。日本武尊の妃とされる木像・女神坐像(重要文化財)があります。夏には瀬田川を舞台に大祭「船幸祭」が催されます。

風格漂う参道

神門(外拝殿)

境内

殿

本殿

瀬田川リバークルーズの一番丸・・・乗船に間一髪、間に合わなかったとです!船が出たぞ〜(>_<)

膳所神社

豊受比売命(とようけひめのみこと)を祭神とし天武天皇時代に創建された古社です。中世には諸武将の崇敬が篤く、社伝には豊臣秀吉や秀吉夫人の北政所(きたのまんどころ)、徳川家康らが神器を奉納したという記録が残っています。表門は、明治3年(1870年)に、明治維新と共に廃城になった膳所城から移築したもので、国指定の重要文化財になっています。

唐橋前駅から膳所駅へ

膳所神社北門(膳所城々門)

膳所神社(膳所城本丸大手門:重文・江戸期)

膳所城跡公園

慶長5年(1600年)、大津城は解体され天守は彦根城へ、他の城材は膳所に移され膳所城の築城が開始されました。徳川家康が東海道、中山道、北陸道の三街道を通す瀬田唐橋と琵琶湖の支配権を制圧する為に関が原の合戦の翌年、慶長6年(1601年)に完成させた城でした。築城は築城の名人の藤堂高虎が任され、城構えは、湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣、白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に美しかったと伝えます。戸田、本多、菅沼(すがぬま)、石川と城主が変わった後、本多6万石代々の居城として長く偉容を誇りましたが、明治維新で廃城になり取り壊されました。城門は重要文化財で、膳所神社や篠津(しのず)神社に移築されて残っています。現在、本丸跡は、膳所公園として整備され、春には桜の名所として花見客を多く集めています。

拝殿

本殿

復興された大手門

城跡碑(本丸跡)

ランチタイム〜\(^o^)/ マイウ〜

三等三角点「膳所(標高:87.39m)」

城石と近江大橋

天守閣跡碑とです・・・

城石に使用され発掘された60体の石鹿地蔵

近江大橋全景

錦駅から浜大津駅へ

浜大津駅

大津城

坂本城が廃城となった後、天正14年(1586年)、豊臣秀吉は浅野長政に大津に築城を命じ、坂本城は城材として利用され住人の移住も促したので坂本の城下町同様の町名が残ります。秀吉は大坂城を政治経済の拠点とし淀川水系、東海道、伏見街道によって大坂に繋がる大津を北国物資の中継地、琵琶湖水運の要衝として坂本以上に重視しました。初代城主に浅野長吉が就き大津百艘船という船持仲間を作り大津の琵琶湖水運の集散地としての基礎を築きました。天正17年(1589年)、豊臣五奉行・増田長盛、天正19年(1591年)に新庄直頼が入城し関が原の合戦当時の城主・京極高次は西軍1万5千の参戦を阻み東軍勝利に貢献しました。合戦後、徳川家康は大津城に入り7日間留まり石田三成、毛利輝元ら西軍の大坂城撤退など一連の戦後処理を遂行し大津城は関ヶ原の戦いを締め括る舞台となりました。激しい篭城戦によって大津城は天守のある本丸以外は消亡したが最後まで落ちなかった天守は、縁起良しとされ彦根城の築城に際し移転され彦根城の本丸として現存しています。

浜大津港

大津城跡碑

ミシガンが入港

後部外輪(パドル)船「ミシガン」

大津市と姉妹都市のアメリカ・ミシガン州にあるランシング市との国際交流が、きっかけとなり昭和57年(1982年)4月2日に進水し現在までに3000万人もの方が乗船しました。ミシガンはリニューアルされ最上階にスカイデッキが完成し素晴らしいパノラマを楽しめます。ミシガンは水深低下に対応、水質汚濁を防止を兼ねた後部外輪(パドル)船で全長59.0m、幅11.7m、深さ2.1m、喫水1.0m、船質は銅、総トン数939.74トン、最高速力8.65ノット(約18km)のユニークな外輪船です。今回、Pちゃんズは「ミシガン90」で素晴らしい琵琶湖クルージングを満喫しました。

着岸したとです・・・

フラッグパフォーマンス

陽気なバンドマンのWELCOME演奏

おっと鐘が・・・当然、カンコン(;^_^A どもども

出航時のミシガン操舵室・・・船長さんと航海士さん

ビアンカでつ・・・ミシガンスカイデッキより撮影

水車見っけ!じゃなくて・・・ミシガンのパドル全開!!!

フラッグパフォーマンスでお見送り・・・

ハートフルな音色のスチームオルガン

浜大津港を出航

琵琶湖疎水取水口

1着!2着!!・・・琵琶湖競艇場

浜大津方面

柳が崎湖畔公園港に寄港

明智光秀の坂本城跡、七本柳

坂本城は元亀2年(1571年)9月13日、織田信長が山麓の坂本門前町、日吉大社〜山上の延暦寺を焼き払った「山門焼き討ち」の3ヶ月後から築城が開始され翌、元亀3年(1572年)に天守が完成し天正10年(1582年)に小天守が増築されました。来日していたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは坂本城を見て「安土城に次ぐ名城」であると称賛しました。安土城は天正4年(1576年)に完成したので坂本城は近世城郭建築の先駆けと言われます。坂本城以降、大津城、膳所城は、いずれも水城として琵琶湖の水運が軍事的に取り入れられ光秀の智謀が光ります。天下に知れた坂本城も本能寺の変後、光秀の女婿・明智秀光が放火し灰燼に帰しましたが表門は聖衆来迎寺(しょうじゅらいごうじ)に移築され坂本の西教寺には光秀に関わる多くの伝承や遺構や明智一族の墓所があります。七本柳は例年3月の第一日曜から1ヶ月間に亘って繰り広げられる日吉大社の祭礼「山王祭」の終盤に七本柳から七社の神輿は甲冑を付けた山門供人が付き添い唐崎まで華やかな神輿の船渡御が行われ湖畔に鳥居があります。

Please、麦juice give me?(;@_@) おいおい

美しい眺め・・・比叡山と坂本の町

比叡山と七本柳(鳥居)、坂本城跡

近江伝説の「大ムカデ退治」で有名な三上山(近江富士)と烏丸半島の風車(風力発電機)

いよいよショータイムの始まり・・・

おや〜子供たちが集まって何事???なななんと!Pちゃんのお姿が?!(;^_^A

宝箱に閉じ込められたサブレくんを救出するらしい・・・左端の子供さんは中国から来ているようですが皆で無事にサブレくんを救出しました!えがった!エガッタ!☆⌒(*^∇゜)v

ご褒美にミシガンキャンデーをたくさん貰いました!(*゜▽゜)/

陽気なバンドマンの演奏が始まりました!一番前にPちゃんが・・・(;^_^A

ミシガンはパドルで航行するとです・・・

パドル動力室(左右二室)

操舵室

船首から浜大津港方面の眺め

いよいよショータイムもクライマックス!

大津プリンスホテル

水城のような建物の琵琶湖文化館

ビアンカ

90分のクルージングを終え浜大津港に着岸

ミシガン後景(パドル)

またまた鐘をカンコンするとです・・・(;^_^A どもども

再び、出航して行くミシガン(^_^)/~

商都・大津

歴史の流れに翻弄された商都大津の城下町で明智光秀の智謀が光る坂本城、徳川家康が関ヶ原の戦いの戦後処理を行った大津城、膳所城など何れも琵琶湖水運を活かした水城として重要な役割を果たしました。

路面を走行する京阪京津線電車(浜大津駅前)

浜大津駅から近江神宮前駅へ

電車車両基地

近江神宮

天智6年(667年)、飛鳥から近江大津に遷都し大化改新の完成を目指し後世の基盤となる諸政策(律令政治)を展開した天智天皇を祭神とします。皇紀2600年にあたる昭和15年(1940年)に近江大津宮跡に創建した新しい神社です。朱塗りの楼門の他、昭和造や近江造と称される拝殿、本殿が立ち並び国の登録有形文化財に指定されています。天智天皇が日本で初めて水時計(漏刻)を設置したことから、時計の守護神として信仰を集めている。境内には各地の時計業者が寄進した日時計、漏刻などがあり世界の時計約3000点を集めた時計博物館もあります。

参道の石段

楼門

神井「破備貴井」

境内

拝殿

近江大津宮錦織(にしこおりいせき)遺跡

天智6年(667年)、天智天皇が飛鳥から近江へ都を移し、大津宮を造営した遺蹟です。天智10年(671年)12月3日、天智天皇が46歳で没し天武元年(672年)6月24日〜7月23日、天智天皇の息子(大友皇子:おおとものみこ)と弟(大海人皇子:おおあまのみこ)が戦った壬申の乱で大海人皇が勝利し天武2年(673年)2月27日、天武天皇として即位し都を飛鳥浄御原宮(きよみがはら)に遷し近江大津宮は、わずか5年の短命に終わりましたが昭和49年(1974年)から発掘調査が始まり巨大な柱を埋め込む柱穴や回廊跡などが発見され大津宮の規模などが徐々に判明しています。遺跡前を走る道路は、当時の大津宮の南北中軸線に相当し、西近江路と呼ばれた重要な交通路でした。

拝殿、本殿 史跡・近江大津宮錦織遺跡第4地点 史跡・近江大津宮錦織遺跡第9地点
史跡・近江大津宮錦織遺跡第2地点 大津宮遺跡碑(史跡・近江大津宮錦織遺跡第1地点)

史跡・近江大津宮錦織遺跡第1地点

史跡・近江大津宮錦織遺跡第8地点

近江神宮前駅には車両基地があるとです・・・

近江神宮前駅から浜大津駅へ

路面を走るとです・・・

浜大津駅〜京阪山科駅へ

浜大津界隈は路面を走るとです・・・

京阪山科駅

JR山科駅から京都駅へ

京都駅から奈良線で桃山駅へ

桃山駅に着いたとです・・・

ふぅ〜やれやれ・・・(*´ο`*)=3ホッ

御香宮

香宮の大鳥居

Tourist  2005.07.25(M)

 

関連コラム

きらら坂ウォーキング散策

近江紀行「秀吉の城下町・長浜」

近江紀行「秀吉の城下町・長浜」

近江紀行「井伊家35万石の城下町・彦根」

近江紀行「井伊家35万石の城下町・彦根」

Pちゃんズの近江紀行「烏丸からすま半島編」

Pちゃんズの近江紀行「烏丸からすま半島編」

Pちゃんズの近江紀行「竹生島編」

Pちゃんズの近江紀行「竹生島編」

Pちゃんズの近江紀行「太閤さんの城下町・長浜編」

Pちゃんズの近江紀行「太閤さんの城下町・長浜編」

三条大橋〜逢坂山峠越え・・・東海道歩(ほ)っこ〜り探訪

三条大橋〜逢坂山峠越え・・・東海道歩(ほ)っこ〜り探訪

Pちゃんズの延暦寺散策

Pちゃんズの延暦寺散策

宇治川、瀬田川(宇治川ライン)「宇治川編」

宇治川、瀬田川(宇治川ライン)「宇治川編」

宇治川、瀬田川(宇治川ライン)「瀬田川編」

宇治川、瀬田川(宇治川ライン)「瀬田川編」

 

Pちゃんズの古都珍道中記 Pちゃんズの古都珍道中記

 

洛雅記 洛雅記2005年探訪コラム

 

inserted by FC2 system