祇園祭で賑う河原町、新京極、錦市場、四条界隈を歩く

 

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな 小倉百人一首56番 和泉式部

 

城南宮→魚市場遺跡・草津の湊→池田屋跡→誠心院(和泉式部)誓願寺蛸薬師堂錦天満宮錦市場→長刀鉾→長建寺

 

京都を代表する繁華街・新京極通り

かつては広大な寺域を誇った誓願寺やなどが並び境内に芝居小屋や茶屋などがあった門前町であった。明治5年(1872年)、維新後の京都再興を図った京都府参事(知事)・槇村正直が各寺地の一部を収公し、京極大路(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、人が多く集まったため、各寺院の境内を整理し、三条〜四条間の寺町通のすぐ東側に新しく道路を造ったのが新京極通りの始まりで寺町通の一つ東側なので新京極と命名された。明治41年(1908年)、南電気館を始め映画館、料亭、飲食店、商店、見世物小屋などが建ち並び繁華街の原型となり、その後は観光客向けの土産物店街となった。南入り口(四条通り)の交番右後方の染殿地蔵(染殿院)は誓願寺と並ぶ大寺で昭和3年(1928年)、鷹ヶ峰へ移転した時宗の四条道場金蓮寺塔頭の一つ。9世紀、文徳天皇の女御・染殿后(そめどのきさき:藤原明子)が、この秘仏に祈って皇子(後の清和天皇)を授かったと伝え、安産の信仰がある。京都方面の修学旅行コースに取り入れられるようになったので修学旅行の中高生の行き来の絶えない所となり、老舗もあり地元の者も訪れる隣の寺町京極に比べて、新京極は観光客向けの通りとなり、地元の者が利用することはほとんどなかった。しかし近年、観光客向けの土産物店の他、飲食店、ファッション洋品店が混在し、若年層向けの店舗が目立つようになり若者で賑わいをみせている。また、松竹座に代表される老舗の映画館が、シネコンへの改装を果たし、新しい繁華街へと変貌しつつある。現在、三条通〜四条通まで路上喫煙等禁止区域である。

伏見城濠を利用した濠川

坂本龍馬避難の材木小屋跡。慶応2年(1866年)1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が長州藩・三吉慎蔵と寺田屋で伏見奉行所の役人に襲撃された時に逃げ隠れた材木小屋跡と伝える。 地図

伏見百景にも選ばれている松本酒造の酒蔵・・カーネーションでも再々登場しました。(*゜▽゜)/ 地図
朝ドラでこの辺で糸ちゃんが号泣していた・・ 新高瀬川と疎水放水路 ・・・
七瀬川と合流 油小路通り 城南離宮(城南宮)道標石碑
城南宮 ☆地図

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を鎮護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。平安時代末期、交通の要衝でもあった風光明媚な当地に白河上皇が壮大な城南離宮(鳥羽離宮)を造営し院政を開始、歌会や宴、船遊びや競馬(くらべうま)が、しばしば行われ王朝文化が開花しました。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が流鏑馬揃えと称して兵を集め「承久の乱」を起こし、慶応4年(1868年)正月、城南宮に陣取った薩摩藩のアームストロング砲が鳴り響き、「鳥羽・伏見の戦」が開戦しました。

鳥羽離宮の名残を今に伝える方避けの社・城南宮
平清盛と佐藤義清(西行)こま札 伏見名水・菊水若水 城南宮
夏越の祓い

平安時代、季節の変わり目に貴族は禊祓いをして、罪、穢れを祓っていました。                                                      古来、一年を二分する考え方では、六月晦日は十二月晦日に対して前の半年の6月の最終日になります。前の半年間の無事を感謝し、収穫までの後の半年の無事を祈るための物忌みの日、祓いの日と考え、十二月を「年越し」、六月を「名越し」と呼ぴました。
「名越し」(ナゴシ)→「夏越し」とも書かれ、この日を「六月祓い」、「荒和(あらにご)の祓い」、「夏越節供」、「輪越祭り」などと呼びます。                                                     ナゴシという名称は、神様の気持ちを和らげるという意味の「和し」に由来するとも言われます。                               夏越祓いの方法は、人形にけがれを託して水に流す方法と、「茅の輪くぐり」があります。                   人形を流す方法は、宮中の大祓いで行われるほか京都・下鴨神社の足つけ神事・御手洗(みたらし)祭が有名です。
息を吐きかけたりなでたりして災いのもとを託した人形に、陰陽師が祓いを行ってから御祓川(みそぎがわ)に流します。     茅の輪くぐりというのは、神社境内に竹で作った直径2、3mほどの輪にカヤを巻きつけたものが置かれ、参拝の人々がそれを    くぐることによって身の穢れや災難を祓います。夏越の祓いは夏の恐ろしい伝染病や水の災難を防ぐ事ができると信仰されています。
一年の節目、節目の神事で今の無事を心から感謝して手を合わせるだけで禊になります・・(-人-)

夏越の祓いの茅の輪くぐり・・・こちらは車輪用ですと神官が言われ、私もキララくん共々祓っていただき輪を潜らせて頂きました!(^-^)v
立派な茅の輪に御幣も吊るされてます! 鳥羽伏見の戦い勃発地の小枝橋界隈と鳥羽伏見戦碑 地図
道標石碑 かつて鳥羽離宮と平安京の羅城門を結んでいた鳥羽作り道(鳥羽街道/大阪街道)
嵐山・木津サイクリングロード 二条城石垣に使われるはすだった鳥羽の大石 ・・・
羽束師橋 いい天気・・・(*^-^*) 魚市場遺跡碑
舟のりば跡碑(草津の湊/柳谷観音道標碑) 草津の湊
淀、天王山方面@桂川の羽束師橋 招徳酒造の酒蔵 地図
一切神社(上三栖) 地図

上三栖の産土神で大国主命を祭神としています。俗に人切宮〔ひときりのみや〕と云われるのは、一切をヒトキリと読み誤った事からで、これに因んで昔は社前を通る者に危害を加えられるとの伝説が生じました。

竹田街道 酒造会社のタンク 一切神社(上三栖)
一切神社(上三栖) 大手筋商店街 風呂屋はないけど風呂屋町通り
納屋町商店街 竜馬通り商店街 宇治川派流
柳と宇治川派流 京阪中書島駅へ・・・ 魔よけの効験があるという鍾馗(しょうき)
風情な建築意匠が今に残る・・・ 中書島駅前通り
昭和チックな銭湯だぜっ!レトロだろっ!!(^^)! 京阪中書島駅 淀屋橋行き・京阪8000系特急
2600系普通電車 4月14日に京阪宇治線(中書島−宇治)を中心に登場した新型車両13000系
 出町柳行き・京阪8000系特急『エレガン都 エクスプレス』に乗車!(*゜▽゜)/ 三条駅
東海道五十三次の西の起点・三条大橋・・・鴨川が増水して濁流と化している。(・o+)  池田屋騒動の刀痕の残る天正年間の擬宝珠
弥次・喜多像の場は生首の晒し場だった(>_<) 旅の無事を願って撫でられた撫で石 三条小橋
新撰組の名を世に知らしめた池田屋騒動

文久3年(1863年)8月18日の政変後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫され、長州・土佐・肥後藩などの尊王攘夷派達が勢力回復をめざして中川宮や京都守護職・松平容保の暗殺計画を企てた。元治元年(1864年)年6月5日(祇園祭宵々山)、近藤、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤周平(養子)、原田の7人は三条小橋西入ルの旅籠・池田屋において会合中の尊王攘夷派達30余名を襲撃。後、縄手付近を探索していた土方歳三らも加勢し2時間ほどの斬り合いだったという。新撰組に襲撃され長州藩の吉田稔麿、杉山松助、土佐藩の望月亀弥太、肥後藩の宮部鼎蔵、松田重助ら多数の死傷者が出ました。会合に参加するはずだった長州藩の桂小五郎は近くの対馬藩邸にいて無事だった。新選組では奥沢栄介、新田革左衛門、安藤早太郎が亡くなり、藤堂平助と永倉新八らが負傷しました。この時に沖田総司が吐血したとも伝わります。主人・池田屋惣兵衛も翌日捕まり、六角獄舎で獄死しました。捕縛された古高俊太郎も、六角獄舎で獄死しました。1ヶ月後の禁門の変を誘発する一因となり、その後の政治情勢に多大な影響を与える事件となった。維新が1年遅れたとも1年早まったとも言われています。世に新撰組の名を一気に高めた事件となりました。

池田屋跡・・・当時は、居酒屋ではありません!(^▽^;)爆 池田屋騒動之碑 地図
祇園祭モードの河原町通り 六角横丁?!昔の屋台村か?(^▽^;) ファッションのメッカだったBALビル
河原町も祇園祭モード 坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡・・当時はコンビニではありません!(爆 地図
ほんとに久しぶりの蛸薬師通り・・カラー舗装になってるやんか〜(^▽^;)どんだけ〜 有名な焼き芋屋は定休日?(>_<)
新京極通り 新日本紀行でも紹介されたヘタな表札屋さん・・なぜか清水焼など陶器も売られている!(@_@)
和泉式部ゆかりの寺・誠心院 地図

以前は、じょうしんいんと申しましたが、先代住職の頃からせいしんいんと呼ばれています。寺伝によると、初代の住職は平安の歌人・和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼と。娘の小式部に先立たれた和泉式部は、書写山円教寺の性空上人に勧められ誓願寺の本堂に籠りご本尊に教えを受けます。女人の身でも六字の名号をお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる事を聞き、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ浄土へ往生しました。上東門院彰子が父・藤原道長に勧め、万寿4年(1027年)、法成寺の中の東北院の傍らに寺を建立させ、東北寺誠心院(現在の京都御所東、荒神口辺り)としました。鎌倉期には小川通りの一条上ル誓願寺の南に移転しました。この頃に泉涌寺の末寺になりました。その後、天正年間に豊臣秀吉の命令で現所在地、寺町六角下ルに移転されました。元治元年(1864年)の禁門の変による大火から立ち直る間もなく、明治4年、京都府参事・槇村正直の命令で、境内に新京極通りが通り境内地は二分されました。山門を始め、堂宇を失い、将に寺門は荒廃を極めました。平成9年の末、山門の建設完成しました。現在、天正年間に建立された阿弥陀如来と二十五菩薩石像を再建。また、百親音巡拝成満を記念して、式部千願観音と百八観音、神変大菩薩の石像が建立されました。

和泉式部ゆかりの寺・誠心院 こま札

和泉式部は恋愛遍歴が多く、彰子の父・藤原道長から浮かれ女と評された。

紫式部歌碑 本堂

幕末の大火で消失した神変大菩薩木像を再興した水かけの行者・神変大菩薩石像

式部千願観音(千人の願いを込めた、万人に利益を施す聖観音菩薩)

和泉式部が女人往生を遂げた事に由来する二十五菩薩来迎石像

和泉式部の古い灯篭の竿と台座を使った知恵授け・恋授け鈴成り輪(すずなりくるま)

和泉式部の墓(宝篋印塔) 新京極通り
牛若丸と弁慶@五条大橋 新京極通り こま札
落語発祥の寺、芸道上達の寺・誓願寺 地図

河原町通りの一つ西が裏寺町で京都の人は「うらでら」と呼び寺が密集する中にある浄土宗西山深草派の総本山です。 創建ははるか遠く飛鳥時代まで遡り、天智天皇の勅願寺として奈良に恵陰が開創し平安遷都の際に伏見深草に移った後、上京の元誓願寺通小川に移った。秀吉の命で現在地に移り秀吉の側室・松の丸殿が造営資金を出したという。寺地も多く塔頭17、三重塔をもった大寺で参拝者も多く境内では様々な興行も行われ本尊・阿弥陀如来は胎内に五臓六腑があったと伝える。その長い歴史の変遷の中、法然上人、西山国師、立信上人と続く浄土門の聖地として、 また深い山間ではなく、街中にあるお寺、暮らしに密着した信仰の場=念仏道場」として人々に愛され続けてまいりました。そのためか誓願寺にゆかりの深い歴史上の人物も大変多く、清少納言、和泉式部、松の丸殿といった女性たちからの深い信仰を集めたため女人往生の寺とも称され、そのほかにも落語の祖と呼ばれる策伝上人や謡曲「誓願寺(世阿弥作)」に謡われるなど、落語発祥の寺、芸道上達の寺としても広く信仰されている。

誓願寺 こま札 本堂
蛸薬師堂(永福寺) 地図

錦小路北の東西通りが蛸薬師通りで河原町通り西側の裏寺町にある浄土宗・妙心寺の本尊・石造薬師如来像の俗称が蛸薬師である。・・・永福寺(えいふくじ)は、浄土宗西山深草派の寺院で、通称を蛸薬師堂(たこやくしどう)と呼ばれる。寺伝によると、正しくは浄瑠璃山永福寺といい、本堂に蛸薬師と呼ばれる石造薬師如来を安置している。豊臣秀吉の時代、都の東端の城壁代わりに、大きなお寺ばかりが集められた時に蛸薬師堂(永福寺)が二条室町にあった頃、付近に池があったことから、水上薬師または澤(たく)薬師と呼ばれ、これが訛って蛸薬師となったと伝える。また、一説には、この寺にいた善光という親孝行な僧侶が、戒律に背いて病気の母のために蛸を買って帰るところを町人に見とがめられ、箱を開けるよう求められた時、薬師如来に「この難をお助けください。」と念じたところ、蛸の足が八巻の妙法蓮華経に変わり、難局を逃れたという。その後、母の病気も薬を飲まずに全治し、これは親孝行の僧侶を守った本尊の霊験であるとして、本尊の薬師如来を蛸薬師というようになったと伝えている。病気平癒のために参拝する人々でにぎわった参道は、蛸薬師通と呼ばれるようになった。

蛸薬師堂(永福寺)
なで薬師(御賓頭盧蛸:おびんずるだこ) 左手で触れると全ての病が癒される!(@_@) 同じく苦患を消除してくれるかざし蛸さん!
ハス花一輪と風鈴の音が涼しい・・(*´ο`*)=3ホッ 七福神
三州法性山妙心寺の梵鐘 阿弥陀堂(三州法性山妙心寺)
錦天満宮 地図

長保5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として天満天神を祀って創建されたのに始まる。天正15年(1587年)、豊臣秀吉の都市計画のため、寺とともに錦小路東端の現在地に移転した。その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残された。境内末社として、源融を祀る塩竈神社・日乃出稲荷神社・白太夫神社などがある。境内には京の名水と言われる錦の水が湧き出しています。

錦天満宮 京の名水・錦の水
お馴染みのなでモーくん 道真さま、モー少し賢くなりたいので、知恵をおくれやす〜?!(^^ゞ爆
鳥居は昭和10年(1935年)に建てられたもので、その後に両側にビルが建てられたためビルの中に鳥居の両端がめり込んでいる。(@_@;)
料亭〜庶民の台所まで京の味を支える京の台所・錦市場(にしきいちば) 地図

京都市中京区の中央に位置する錦小路通の寺町通 〜 高倉通間に約130店舗が軒を連ねる商店街で、魚・京野菜などの生鮮食材や、乾物・漬物・おばんざい(京言葉で惣菜のこと)など京都の食材でないものはないと言われ京都の食材が揃う老舗・専門店が集まる市場。中小企業庁によれば、商店街の類型として超広域型商店街とされ、名称は京都錦市場商店街とされ、2006年5月に「」に選ばれた。400年の歴史を持ち、京都市民からは「にしき」という愛称で呼び親しまれ、かつては「京の台所」として地元の市民で賑わい、現在では新京極商店街や寺町京極商店街とともに、観光客や修学旅行生も訪れる活気のある観光名所としても賑わう市場。スーパーマーケットや百貨店と違い、ここでは新鮮な旬の食材の品質のよさや豊富な品揃えが支持されて市民生活と密着しているところが最大の特徴となっている。そのため価格を高めに設定する店もあるが、高品質や豊富さから「ほんまもん」(本物)を扱っていると信頼し、納得する市民は少なくない。他地域で「錦市場」を銘打つ店が増え、品質を維持するためにも京都府内の商店街で初めて「錦市場」の商標登録を取得している。一方、臨時に「にしき」と銘打った食品コーナーを設ける百貨店も登場している。京都の目抜き通り四条通の一本北の錦小路通に位置し、赤緑黄の色鮮やかなアーケードにおおわれた石畳の道の距離は、東西390m。商店街振興組合に所属する店は約130店舗、道幅は3.2 - 5メートル、道に迫り出して商品や商品棚を並べる店舗が少なくなく実際はもっと狭い。東の端は、新京極と交差し、その先に錦天満宮がある。ここで業務用の食材を仕入れる割烹、料亭、旅館なども多く、一般向けには京都名物の鱧・ぐじ (アマダイ) ・笹かれい・浜焼き鯖・琵琶湖産の淡水魚など鮮魚を扱う店が20店舗以上と一番多い。そのほか伝統野菜とも呼ばれる京野菜、京漬物・や湯葉・麩・・佃煮・蒲鉾・干物・乾物などから茶・菓子・パン・寿司まで京料理の食材はほとんどここで揃うといっても過言ではない。豆乳ソフトクリームや豆乳ドーナツ、あるいはマグロのヅケ串などあまり見かけないものも売られ、また試食品を出す店もあり食べ歩きする人も少なくない。さらに茶房を出店しておむすびを供する米屋や定食を供する八百屋、カウンターで焼きたてのカキを供する魚屋など、市場内で飲食を楽しむこともできる。年の暮れには正月用の食材を求める客であふれる。店舗の営業時間は、店にもよるが、おおむね午前九時〜午後五時までが目安となっている。水曜日と日曜日に休業する店が多い。

寺町京極 400年もの歴史を持ち、がんばる商店街77選に選ばれている京の台所と呼ばれる錦市場
漬物樽がいい雰囲気の漬物専門店 新撰組ゆかりの屯所餅
凄い人出で賑わってます!(@_@;) 豊富な専門食材などが並んでいます! こんなかわいいお店もあります・・
二足歩行のニャンコが狙ってますよ?!(^▽^;) すごい賑わい アナゴ専門店
美味しそう(^^♪ お友達のショップです!どうぞご贔屓に!!(*゜▽゜)/

・・・ 業者〜一般向けの漬物専門店なので品数が豊富で水なすなど珍しい漬物が多種多様!
カーニバルを髣髴させる商店街 錦市場西口 いい匂いが・・・(^^♪
一番(くじとらず)・長刀鉾(なぎなたほこ/女人禁制) 下京区四条通烏丸東入長刀鉾町

くじとらずで毎年、山鉾巡行の先頭を受け持つ鉾。命名は、鉾頭に三条小鍛冶宗近作の大長刀を飾ることによる。宗近が娘の病気平癒を祈願して八坂神社に奉納したが、鎌倉期にある武人が愛用したが何かと不思議が起こり、返納したと伝える。大永2年(1522年)、疫病が流行した時、神託で長刀鉾町で飾ったところ疫病が退散。創建は、嘉吉元年(1441年)説が有力視され真木は全長20mあり現在、生稚児が乗る唯一の鉾です。

四条通りには山鉾巡行の先頭を受け持つ長刀鉾
一番(くじとらず)・長刀鉾(なぎなたほこ/女人禁制)
全長20mの真木は長刀になっている! 向こうに五番(くじ取らず)・函谷鉾(かんこほこ) 一番(くじとらず)・長刀鉾(女人禁制)
四条大橋 鴨川と禊川の上に夏の風物詩の床 吉本のお笑い芸人さん?が撮影中・・
顔見世で知られる南座 地図 京阪3000系淀屋橋行き特急に乗車!車内はクーラーが効いていて快適でやんす〜(*゜▽゜)/
長建寺 地図

真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年(1698年)、時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。7月下旬の祭礼は、"伏見の弁天祭"と言われています。境内には伏見七名水の閼伽(あか)水が湧き出ています。

京阪3000系特急@中書島駅 駅前通り 島の弁天さんと称される長建寺
境内の木々が夏の暑い日ざしを遮ってくれて涼しい・・(⌒▽⌒) かつて三十石船に時を告げていた鐘楼
本堂 伏見名水の一・閼伽(あか)水 弁天型灯篭(伏見奉行・建部内匠頭奉納)
中書島の歌碑 十石舟弁天橋乗船場 柳と酒蔵
カッパキザクラカントリー、お酒の資料館など 伏見名水の一・伏水が復活してました!(^-^)v
竜馬通り 大手筋商店街 風呂屋はないけど・・風呂屋町通り

Tourist.2012.07.16(M)

 

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