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新高瀬川右岸を北上ing・・・ |
方避けの神・城南宮 |
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名水・菊水若水 |
清々しい境内 |
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本殿 |
新堀川通りを南下ing・・・ |
虫篭(むしこ)窓、格子窓、駒寄せのある町屋 |
角倉了以が開削した高瀬川 |
角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。 |
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角倉了以が開削した旧高瀬川と宇治川派流合流地 |
角倉了以水利記功碑 |
豊臣秀吉が開港した河川内陸港「伏見港」 |
文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっおり春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。 |
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であい橋(濠川・宇治川派流合流地) |
文禄3年(1594年)、豊臣秀吉が伏見城築城の為に開いた河川内陸港の伏見港 |
三栖閘門(みすこうもん) |
伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。 |
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三栖閘門(前扉室) |
閘室と後扉室 |
解説パネル |
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閘室と前扉室 |
後扉室 |
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当時の巻き上げ機のモニュメント |
三栖閘門資料館 |
解説パネル |
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三栖洗堰 |
三栖閘門外側ワンドと宇治川 |
宇治川右岸堤防(京街道)を淀へ・・・ |
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新高瀬川 |
新高瀬川を渡ります・・・ |
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新高瀬川と宇治川合流地 |
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宇治川淀方面 |
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国道1号線・宇治川大橋 |
国道1号線を横断するのには十分な注意と勇気が必要か?!(>_<) |
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淀堤に続く道は京(大坂)街道 |
京阪電車・淀千両松踏み切り |
旧宇治川河川道右岸跡を疾走するおけいはん |
千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 |
淀千両松堤の戦いで戦死した東軍(新撰組隊士など旧幕府軍)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。花なども毎日取り替えられ綺麗に手入れされています。・・・この埋骨地には幽霊伝説があります。千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と旧幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。傍に建立された記念碑に「・・・一瞬の時差により、或る者は官軍となり或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。」と記された一説が鳥羽・伏見の戦の本質だとも言われます。 |
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いつ訪ねても献花、手入れが行き届いている千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 |
新撰組(旧幕府軍)と薩長軍が激戦を展開した千両松 |
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JRA京都(淀)競馬場 |
新高架線と撤去工事中の旧線路 |
かつて宇治川に架かっていた淀小橋跡碑 |
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旧宇治川河川道は宮前橋方面に流れた・・ |
高架駅になった京阪・淀駅 |
京阪・淀駅イメージ図 |
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高架駅になった京阪・淀駅 |
淀駅と競馬場が直結 |
京都(淀)競馬場 |
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京都(淀)競馬場 |
東軍戦死者埋骨地碑(光明寺跡) |
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京街道 |
浄土真宗大谷派・大専寺 |
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戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
浄土真宗本願寺派・文相寺 |
水練鉢にホテイアオイとメダカさん |
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戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
馬匹輸送・・淀らしい看板 |
淀の三軒寺(高福寺、長円寺、東運寺) |
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浄土宗・高福寺 |
浄土宗・長円寺 |
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境内 |
閻魔堂のえんま大王 |
本堂 |
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戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
改葬された旧幕軍歩兵指図役頭取・森田貫輔首級 |
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石仏群 |
曹洞宗・東運寺 |
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薬師堂 |
珍しい?寄木造りの本堂 |
吾唯足知(われ
ただ たるを しる)のつくばい |
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戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
ここから美豆町に旧淀大橋が木津川に架かっていた・・ |
往時の風情を今に伝える風情 |
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木津川旧河道左岸に面していた浜納屋(木田醤油) |
納屋と直接船に荷物を積み降ろしていた石段 |
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安政2年(1855年)創業の木田醤油 |
宇治川に架かる淀大橋 |
男山方面 |
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宇治川右岸を西進ing・・・ |
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行き止まり(>_<)
鉄橋下へ・・・ |
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澱川鉄橋を通過中の京阪特急・3000系は3000系としての運用を終了し8000系30番台へと改番・・設計Max:120
km/h、営業Max:110 km/h |
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御幸橋(宇治川) |
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宇治川 |
御幸橋(木津川) |
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木津川 |
・・・ |
石清水八幡宮(男山) |
応神天皇、神功皇后、比(ひめ)神を祭神とする旧官幣大社で男山八幡宮とも呼ばれ伏見稲荷大社と共に京都南郊屈指の大社として崇敬されています。初め男山々中に湧き出る清泉を神社化したとされますが貞観元年(859年)、奈良大安寺の僧・行教が九州の宇佐八幡宮を勧請した事から始まります。創建以来、朝野の崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と崇められ天元2年(979年)、円融天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸数多く特に源氏は、この神を氏神と仰いだので武家間で大いに広まりました、「延喜式」にその名を見ないのは神社としてよりも寺院として栄えていたからで往時は山上、中、下に多くの堂舎僧坊が瓦を並べ江戸末期においても尚23坊を数えましたが明治の神仏分離によって神社一色に改されました。往時を物語る石灯籠は320余基を数え奈良の春日大社の1800余基、大阪の住吉大社の560余基に次いで多いですが江戸時代以降のものが多く関心を持たれませんでしたが近年、鎌倉後期の石灯籠(永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)が見つかりました。社殿(重文:江戸期)は山上と山下の二ヶ所に分かれていますが主なる社殿は山上にあり上院とも言います。何れも創建以来、度々兵火によって焼失したが寛永11年(1634年)、徳川家光の造営によるもので廻廊に囲まれた中に楼門、幣殿、本殿、神庫などが複雑に入り混じっています。本殿は外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ両方の屋根が接する所に織田信長寄進の黄金の雨樋を架けその下を合の間とし三間社を一間ずつ開けて一棟とする八幡造りの形式になっています。石清水社(末社)は山腹にあって当社発祥の所以となった清泉が今も湧き出しています。 |
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男山 |
京阪・八幡市駅と男山 |
石清水八幡宮 |
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八幡五水の一「筒井」 |
頓宮北門 |
頓宮境内 |
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頓宮殿 |
頓宮南門 |
八幡五水の一「藤井」 |
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徒然草ゆかりの高良神社 |
大きさ日本一の五輪石塔(航海記念塔) |
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こま札 |
鉄道ではなく索道ですが男山ケーブルの杉山谷鉄橋は全長111m、高さ50mで日本一の高さ |
杉山谷不動尊 |
平安初期、悪鬼が出没し人々に危害を加え悩ませていました。たまたま、諸国を行脚中の弘法大師がこの話を聞き、法力によって悪鬼を退治しました。そして、十一面観音菩薩と自身の彫像を刻んで安置しました。そして大師のお告げにより人々は大和国から厄除け不動明王を移し祀ったとされます。一説には八幡神を男山に勧請した行教律師が男山の鎮守として建立したとも伝えます。 |
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杉山谷不動堂 |
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杉山谷不動堂 |
お滝場(水行場) |
男山ケーブル |
京阪電車「八幡市駅」と「男山山上駅」を結ぶ路線(全長400m)を2輌の車両で単線中央行き違い方式で運転されています。所要時間は約3分、朝7時40分〜夕方6時45分迄、運転されます。初代男山ケーブルは大正15年(1926年)6月15日に開業され路線は現在と同じでしたが山上駅が当宮北門直下まで延びていました。太平洋戦争で愛宕山ケーブル同様、鉄資材供給の為に撤去されました。昭和30年(1955年)12月3日、男山ケーブルは再興され現在に至ります。路線中程に高さ50mの日本一と称される鉄橋があり車窓から木津、宇治両川を擁した南山城平野が一望できます。 |
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男山ケーブルの離合 |
京都市内俯瞰 |
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ズーム |
宇治など山城方面俯瞰 |
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淀・桃山方面俯瞰 |
神応寺俯瞰 |
淀藩・永井家墓所 |
神応寺 |
当地に八幡宮を勧請した奈良・大安寺の行教(ぎょうきょう)律師が開創しました。文禄元年(1592年)、豊臣秀吉が朝鮮出兵に際し、岩清水八幡宮にて戦勝祈願し、水先案内人の協力を神社に依頼したが拒否され秀吉は立腹したが、その取り成しをしたのが当寺の住職で以来、秀吉から寺領200石を賜ったと伝わり、本堂には衣冠束帯姿の豊臣秀吉の坐像が安置されています。 |
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「百万石の大名を凌ぐ」豪商・淀屋辰五郎一族の墓所 |
神応寺境内 |
鐘楼 |
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神応寺てらこや跡 |
本堂 |
神応寺山門 |
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能蓮法師歌碑)@さざなみ公園 |
安居橋(あんごばし/太鼓橋) |
京阪八幡市駅 |
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男山 |
御幸橋(木津川) |
サイクリングロードへ・・・ |
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・・・ |
・・・ |
・・・ |
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国道1号線・木津川大橋 |
第二京阪道・木津川大橋 |
間もなく流れ橋 |
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台風12号による大雨で橋が流出・・・19回目の流れた橋になっている!(+_+) |
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2009年10月の台風18号の際にも橋が流出、開通までに約8ヶ月かかったが、今現在、復旧目処はたっていません。 |
流れ橋(上津屋橋) |
木津川に掛かる木造の橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為に水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、平成9年(1997年)7月までに通算15回も被災(流失)し9/20現在、増水で被災した為に通行止めになっています。 |
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流れ橋碑 |
サイクリングロード全線案内マップ |
被災した為に通行止め!!!(>_<) |
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藤田まことが寄贈した流れ橋碑 |
流れ橋が流れた橋に?!(>_<) |
石田(いわた)神社 |
岩田村の産土神で神社は東岩田、西岩田、上津屋(こうづや)の三ヶ所に分祀されています。石田君(いわたぎみ)の始祖・五十日足彦命(垂仁帝皇子)を祀る石田氏の氏神です。石田氏に関しては不詳ですが当社が延喜の制に大社に列せられ月次・新書に預かっている事から有力な氏族であったと推察されます。上津屋の石田神社境内には吉野時代作の十三重石塔が一基あります。 |
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上流側に流出物が大量に堰き止められている |
石田(いわた)神社 |
こま札 |
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十三重石塔(吉野期) |
第二京阪道 |
第二京阪道・木津川大橋側道橋 |
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第二京阪道・木津川大橋から見た被災した流れ橋全容・・水の脅威をまざまざと感じます。 |
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ふと見上げた秋空に何を思う・・・ |
久御山JCT |
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久御山JCT |
・・・ |
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第二京阪道巨椋大橋を北上ing・・・ |
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夕暮れが迫る宇治川と西山の稜線 |
新堀川通りを南下ing・・・ |
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伏見百景・酒蔵 |
大手筋商店街 |
風呂屋はないけど・・風呂屋町商店街
(^▽^;) |
Tourist.2011.9.5(M)
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