乙訓(おとくに)歴史街道チャリチャリ散策

 

いざさらば わが友岡の 笹の葉を 手毎にとりて 手向にもせん   (神道百首) 兼邦

 

 城南宮〜誕生寺〜久我神社〜向日神社〜光明寺〜乙訓寺〜小倉神社〜天王山(中止)

 

長岡、友岡

長岡・・・向日市の南に接し西部は西山連峰に連なる丘陵台地となり東は低く桂川流域の広漠たる耕野となっています。面積19,022kuで元は乙訓郡新神足村、海印寺村、乙訓村の三ヶ村に分かれていたが昭和24年(1949年)10月に合併し長岡京の旧跡に因んで長岡町と改め昭和47年(1972年)10月、長岡京市となりました。以前、都市近郊の農村地帯でしたが近年は交通の利便など発展し会社、工場、事業場が新設され山を削り、竹林を切り払って住宅化されました。友岡・・・長岡天満宮の南に位置し元は新神足村大字友岡と言ったが今は長岡京市に属しています。古くは鞆岡郷と記し「和名抄」には「乙訓郡鞆岡郷」と見えます。鞆岡郷とは今の友岡を中心とし新神足、奥海印寺、下海印寺一帯(長岡町)を広く称したと思われます。・・・今日はキララのフロントギアチェンジが不調でAサイクルへ・・・ついでにボトルフォルダーなども装着してもらってから羽束師で私用を済ませ強烈な向い風の中、洛西方面へチャリチャリ・・・デザート?に小倉神社から天王山に上る予定だったのですが雨がポツポツ!(@_@) 長岡京市でPちゃん所望のイチゴメロンパンなどを買っていたので濡れるとマズイ!と諦めて急いで帰路についたとです・・・降りませんでした〜!(>_<)

一の鳥居

城南宮

伏見七名水の一「菊水若水」

拝殿

本殿

鳥羽・伏見の戦い勃発地碑

妙覚山誕生寺

正しくは誕生山妙覚寺と号する曹洞宗の寺で曹洞宗の祖・道元禅師生誕地に因んで誕生寺と称します。この地は久我家の旧跡と伝えられ明治初年同家が東京へ移住後、久しく凋落していたが大正8年(1919年)、永平寺貫主の47世・日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって道元禅師誕生地といわれる久我(くが)に越前国(福井県)小松荘にあった華厳山妙覚寺を移して当寺を建立しました。本堂に安置されている道元御尊像、50世玄透(げんとう)即中禅師木像も妙覚寺のままです。一説には道元禅師は鎌倉時代の正治2年(1200年)、母方の藤原基房の宇治山荘で生誕したとされ父は内大臣・久我通親(みちちか)、母は藤原基房(もとふさ)の女・則子と伝えます。幼にして出家剃髪し建仁寺の栄西に禅を学び宋国へ渡って修学しました。帰国後、深草や宇治(興聖寺)において教化に務め晩年、越前に赴き永平寺を創建しました。名門の出でありながら権勢に近寄らず名利に捉われず理論を捨て体験による行の宗教を強く主張した鎌倉時代の偉僧です。建長5年(1253年)8月、西洞院高辻の俗弟子・覚念邸で54歳で没しました。昭和63年(1988年)11月に本堂や庫裡など伽藍の再興もされました。私的に尊敬する僧の一人です。

桂川(久我橋)

誕生寺

道元禅師幼少像

ブッタカヤの仏足跡(水琴窟:すいきんくつ)

道元禅師産湯の井戸

慈母観音像

神川神社

神川座住吉神社と称した 式内社です。鴨川村の産土神で元は住吉神社といわれました。文政年間(1818〜29年)の当社神主・古川為猛の「住吉社之略記」によれば鴨川、桂川の落ち合う瀬の為に度々難破船があり、水運に関した摂津の住吉社の御神霊を勧請したものとされています。

神川神社

久我神社

拝殿

久我(こが)神社

8世紀末、桓武天皇の長岡京遷都の延暦3年(784年)頃に、都の北東の守護神として鎮座されたと云われる。延喜式内社で京都市でも最古の神社の一つです。一説には「山城国風土記」逸文に山城国久我造(みやつこ)として北山城に勢力をもっていた久我氏の祖神で古くは大和の加茂族の流れとされ加茂族の本拠は大和葛城山麓にあったが山城国相楽郡の岡田加茂に進出し木津川、鴨川を遡り久我国に辿り着いたとされ氏神として清和天皇の御代の貞観元年(859年)、従五位下を授けられ延喜式内社に列せられ更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとも伝えます。又、西方から丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、別雷神が生まれたと伝わります。境内には「お唐臼:おからうす」という石臼が奉られている。これを持ち帰った者に祟り、元に戻したと云われています。

本殿

お唐臼(おからうす)

綺麗な花が・・

カキツバタ(杜若)が咲いとるとです・・・

長岡宮東院跡(向日市温水プール)

春宮坊跡(かしのき公園)

蓮池跡

延暦13年(794年)10月、桓武天皇は長岡京を廃し、平安京に遷都しました。廃都になった長岡京は、急速に田園風景へと変貌しました。廃都後は長岡京の土地などを国家機関に払い下げる事から始められ、延暦14年(795年)、長岡京左京三条一坊八町、九町、十五町、十六町、二坊三町、四町、六町を勅旨所の藍畑に、三条一坊十町を近衛府の蓮池にした事などが記されています(類聚三代格)。現在、蓮池辺りはJR向日町操車場となっています。

長岡京廃都後近衛府の蓮池だった場所は東海道本線、向日町操車場になっているとです・・・EF651136(電気機関車)、はるかが通過・・・

頻繁に電車が通過しとるとです・・・

日蓮上人の孫弟子・日像上人所縁の説法石

向日(むこう)神社

向日市の土産神として古来最も崇拝される有数の古社で俗に「明神さん」と親しまれています。奈良時代初期の元政天皇の御代、養老2年(718年)の創祀とされ桓武天皇、玉依姫命、向日神、火雷神(ほのいかづちのかみ)の四座を祭神とします。向日神と火雷神は共に大歳神(素戔嗚命:すさのおのみこと)の御子といわれ古くは向日神の社を上社、火雷神の社を下社と称したが建治元年(1275年)、下社が荒廃し上社に合祀されました。応永29年(1422年)建造の三間社流造の本殿(重要文化財)は室町時代の代表的な神社建築様式で東京・明治神宮のモデルとされました。市名でもある「向日」は東山から日が昇り西山に沈む迄太陽光を浴びる土地(日ニ向カウ)から由来し創祀以来、朝野の崇敬が篤く特に祈雨神として崇められ延喜の制には国家の祭祀にあづかり明治になり府社となりました。

向日神社

「君が代」にも出てくる「さざれ石」

清々しい石畳の参道

拝殿

本殿

向日市天文館

粟生光明寺(あおうこうみょうじ)

報国山と号する西山浄土宗の総本山で粟生光明寺と称され法然上人の廟所がある所として最も重んぜられています。法然上人の廟所は初め東山大谷にあったが安貞元年(1227年)、比叡山の僧徒にあばかれようとしたので遺弟らによって遺骸を太秦・来迎院に移し、次いで当地において荼毘に付し遺骨を納めて宗廊を築く時、法然上人の石棺から光明を放ち光明寺と名付けたと伝わります。当地は法然の徒弟・熊谷蓮生房(俗名・次郎直実)が建久年間(1190〜98年)、一宇の草庵をむすび、念仏三昧院と号し浄土往生を広めた所で、後に蓮生の徒弟・幸阿弥陀仏(こうあみだぶつ)に付与され、更に西山証空上人が入寺するに及んで西山派の根本道場となりました。当地は小塩山の支峰・鳥ヶ嶽麓に広大な地を占め、本堂以下多くの建物を有しますが、いずれも江戸時代以降の建造物です。

光明寺

参道入り口

高麗門

石段が続くとです・・・

山門跡の礎石

御影堂(本堂)が見えてきたとです・・・

法然上人袈裟祇之松

御影堂(本堂)

法然上人石棺

おっとPちゃんズ?!(;^_^A心が和むとです・・・童地蔵

阿弥陀堂

立派な越し屋根(煙出し)がある(くり)

茂右ェ門屋敷跡

保元々年(1156年)、法然上人24歳の時、比叡山黒谷を出て南都(奈良)の学匠歴訪の途上、粟生の里長者の茂右ェ門邸に一夜を借り「われ正しく凡夫の往生の道を開いた暁には、まず御身にその悦びを分かとう」と約定し20年後の承安5年(1175年)春、法然上人43歳の時に粟生の里を再訪し茂右ェ門夫婦に念仏往生の教化の第一声を挙げました。その長者屋敷があった所と伝えます。

陣屋風に見える庫裏

法然上人荼毘跡

茂右ェ門屋敷跡

勅使門

清々しい石畳の参道とです・・・

薬医門

赤根天神社

伊邪那美命(いざなみのみこと)、伊弉奈枳命(いざなぎのみこと)を祭神とし古来、今里の産土神として家内安全、五穀豊穣を祈願し古い書物や今里自治会館に保管されている古文書などに多々と記されています。古老伝では昔、今里に神輿が一基あり向日神社のお旅所だったとされ現在は今里の住民が毎月の1、15日に神社の参道、本殿を清掃し献花、御神酒を供えて神社をお守し地域の安全を祈願しています。

清々しい参道とです・・・

赤根天神社

本殿

乙訓(おとくに)寺

大慈山と号する真言宗豊山派寺で推古天皇の勅願により聖徳太子の開創と伝わる乙訓地方最古の寺で境内には2000余株のボタンが植えられ4月下旬には華麗な大輪を咲かせ世にボタン寺とも称されています。境内から奈良時代の遺瓦を出土する為、延暦遷都以前に寺院があった事が想像されます。「水鏡」によれば延暦4年(785年)、皇太子・早良(さわら)親王は淡路島に配流される前に当寺にしばらく幽閉されたとされます。弘仁2年(811年)、弘法大師が当寺の別当に任ぜられ鎮護国家の道場となり、宇多法皇が脱履の始め当寺を行宮とされたので一に法皇寺とも号しました。弘法大師がこの寺に在住している時、伝教大師・最澄がこの寺を訪れて真言について教えを乞うたとも伝えられています。中世には禅宗南禅寺派となり応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)、応仁の乱の兵火により焼失衰微しましたが元禄6年(1693年)、徳川綱吉の生母・桂昌院の援助により再び真言宗として再興しました。本堂に安置される本尊合体大師像は弘法大師と八幡菩薩の合作と伝わり毘沙門堂には毘沙門天立像(重文:藤原期)を安置し明応2年(1493年)の修理銘を墨記した狛犬(室町期)が一対あります。中世を延暦13年(794年)、平安京遷都〜慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い迄の時代範囲としています。

神石(天神社、太神宮)

薬医門(乙訓寺)

2000余株のボタンは咲き終わってたとです・・・

ボタンは咲き終わってます・・・残念〜

モチの木

弘法大師所縁のミカンの木

仏石塔

早良親王供養塔

本堂

高麗門(裏門)

八条ヶ池(長岡天満宮)

与市兵衛墓

江戸時代に作られた人形浄瑠璃や歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵:五段目・山崎街道の場」で世に知られる赤穂浪士・萱野三平の養父・与市兵衛は娘・おかるを祇園町に売り郷里(摂津国池田萱野村)に帰らんとし当地にさしかかった時に定九郎なる浪人によって横死を遂げたと言われ、後世その死を悼んで供養塔として建立されたものと伝わります。歌舞伎芝居の遺蹟地の一つです。

水上橋(八条ヶ池)

カキツバタ苑(八条ヶ池の西池)

与市兵衛墓

小倉神社

延喜式内社で乙訓地方で最も古社の一とされ大山崎町(円明寺)の産土神で祭神は建甕槌命(たけみかづちのみこと)他、三神を祀ります。背後の竹林に鳥居前古墳という4世紀末期に築かれた前方後円墳があり、その被葬者が後に神格化されたとも考えられています。社伝によれば養老2年(718年)に勧請され、平安遷都後、皇室の崇敬が篤く、文徳天皇の時、延喜の制に名神大社に列せられ神社として最高位である正一位の神階を与えられ正一位小倉大明神と号しましたが、度々の火災により記録を焼失し社歴は明らかでありません。神社には宮座が多くありますが、宮座毎に行う直会 (なおらい:神事が終わった後、神酒、神饌を頂く酒宴)については、茎座(くきざ)、餅座などと称する独特なものがあったとされます。天王山合戦時に豊臣秀吉は片桐且元を遣わし戦勝祈願をしたとも伝えられます。

小倉神社参道途中を阪急電車が通過!(@_@)

小倉神社

ハンドルにメロンパン!正にパンドル?!(*≧m≦)プッ

二の鳥居

龍の手水

お滝場

御神水

亀さんから水が出ているとです・・・

龍さんからも・・・(^^♪マイウ〜

割り拝殿

拝殿

本殿

円明教寺

天王山の北麓にあって俗に山寺と言われますが正しくは医王山と号する真言宗東寺派の寺で元は円明寺と言ったが明治以降今の寺号に改めました。寺伝によると当寺は九条道家の再建と伝え道家の子・実経(さねつね)は傍らに山荘を構え隠栖しました。往時の規模は明らかにしないが今尚、付近に薬師前、仏生田、大門脇などの地名だけが残っています。

十二支石像(右〜子、丑、寅・・・)

円明教寺

本堂

桂川(宮前橋)

サイクリングロードへ入るとです・・・

魚市場跡碑

鳥羽の大石

説明碑によると寛文2年(1662年)5月、京都を中心とした大地震が発生し二条城も大被害を受け城郭、石垣の修理を行ったと古文書に記され当時、この辺りに草津の港があり都へ多くの人や物資が行き交う水陸交通の要所でした。この大石も二条城の城郭石材として瀬戸内の石切り場から水運で当地に運ばれ陸揚げ後、修羅なとに乗せ陸路で二条城へ運ばれる途中、何らかの原因で鴨川に沈み最近まで川底に水没していました。二条城の石を調査したところ城門の飾り石に使用されている石と石質、寸法、くさび跡(矢穴痕)などが、この大石と極似し当時の残石と推定されています。

鳥羽の大石

舟乗り場跡碑(草津湊)

草津湊(鳥羽港:桂川、鴨川合流地点)

Tourist  2005.5.09(M)

 

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