乙訓(おとくに)、八幡歴史街道散策

 

ここにしも 湧きて出けん 石清水 神の心を くみてしらばや   増基法師

 

鳥羽の大石〜長岡天満宮・八条ケ池と霧島ツツジ〜勝竜寺城(しょうりゅうじ)公園〜勝竜寺〜石清水八幡宮(男山)

 

遺蹟探訪の町「乙訓、八幡、男山」

乙訓は向日市、長岡京市、大山崎町の二市一町からなり桂川右岸に位置し京都、大阪を結ぶ交通の要所である事から古来、歴史の舞台となり古事記、日本書紀には「オトクニ(弟国)」という地名の由来が記されています。中でも天応4年(784年)、桓武天皇が「長岡京」に遷都し約10年間、都が置かれ戦国時代には羽柴秀吉と明智光秀が覇権を争った「天下分け目の天王山」は、あまりにも有名です。竹林が多く「かぐや姫」伝説発祥の地とも伝わり四季折々の豊かな自然と由緒ある社寺、長岡京遺蹟、古墳、城跡などの歴史的遺産に恵まれた町です。 八幡、男山は石清水八幡宮の門前町として発展し八幡宮に因んで八幡市と言います。男山丘陵の北側に位置し淀川に面する低湿地で古来、洪水の被害を受ける事が多く人家は山麓に沿って建ち並び平地を盛土としています。元、綴喜郡に属し橋本、奥ノ町、大谷、八幡荘、川口、志水、東林、西山、幣原(しではら)、南山などからなっていましたが昭和29年(1954年)10月、付近の有智郷(うちごう)、都々城(つづき)のニヶ村と合併しました。当地は京阪間の交通の便もよく、都市近郊の野菜供給地でしたが近年はベットタウンとして大きく変貌していますが街道筋には今もひなびた旧家が軒を連ね街道脇には古墳を記した多数の道標があり遺蹟探訪には楽しい処とされます。男山は「雄徳山」、「牡山」とも記し、石清水八幡宮の鎮座に因み一に「八幡山」とも言います。標高142m、山頂を鳩ヶ峰と称し南は生駒山、北は淀川を隔てて天王山に相対しています。

鳥羽の大石

説明碑によると寛文2年(1662年)5月、京都を中心とした大地震が発生し二条城も大被害を受け城郭、石垣の修理を行ったと古文書に記され当時、この辺りに草津の港があり都へ多くの人や物資が行き交う水陸交通の要所でした。この大石も二条城の城郭石材として瀬戸内の石切り場から水運で当地に運ばれ陸揚げ後、修羅なとに乗せ陸路で二条城へ運ばれる途中、何らかの原因で鴨川に沈み最近まで川底に水没していました。二条城の石を調査したところ城門の飾り石に使用されている石と石質、寸法、くさび跡(矢穴痕)などが、この大石と極似し当時の残石と推定されています。

草津湊(鳥羽港)

くさび跡(矢穴痕)が残る鳥羽大石

長岡天満宮

一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。

八条ヶ池

長岡天満宮

霧島ツツジ

霧島ツツジ

八条ケ池と霧島ツツジ

八条ケ池は、寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島ツツジ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田候の寄進と伝えます。

八条ヶ池と霧島ツツジ

霧島ツツジ

ツツジ

二の鳥居

境内

拝殿、本殿

恵解山(いげのやま)古墳

東南を正面とする二段築成の前方後円墳で長さは126m余、周囲に幅約30m余の周濠が造られています。前方部から鉄の刀剣など約700点が発掘されました。内部も既に発掘され破却し遺物も散失していますが石室に用いた石材の一部が神足神社の境内にあります。乙訓屈指の古墳で京都盆地でも三番目の規模の大きさです。現在後円部の1/2は墓地となっています。

ツツジとキララ

燃え盛る霧島ツツジとキララ

恵解山古墳

勝竜寺城(しょうりゅうじ)公園(勝龍寺城跡)

戦国時代、明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)が、細川忠興(ただおき)に嫁いだ城としても知られる勝竜寺城は暦応2年(1339年)、細川頼春によって築城され応仁の乱時に畠山義就が攻略し拠城としたが永禄11年(1568年)、織田信長の近畿平定により細川藤孝の攻撃により落城したが藤孝はこの時の武功により長岡の荘地を賜り城を修築しました。天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦に明智光秀が当城を本陣として秀吉勢を迎え撃った為、城は兵火により荒廃してからは再建されませんでした。平成4年(1992年)、勝竜寺城跡公園として整備され毎年11月に「長岡京ガラシャ祭」が開催されています。

勝龍寺城大門橋跡

勝竜寺城公園(勝龍寺城跡)

高麗門と管理棟(資料館)

カモさんズとです・・・コニャニャちは〜

あらヨッと・・・見事なシンクロ?!(*≧m≦) プッ

管理棟(資料館)

城郭などの石垣に使われていたとされる石仏群(@_@)(鎌倉〜桃山期?)

勝竜寺

寺伝によると大同5年(806)弘法大師空海が、唐長安の青竜寺の名をとって創建し、恵解山青竜寺(いげのやましょうりゅうじ)と号し観音堂始め九十九坊が建てられた伝わります。大干ばつの時に千観和上の雨乞いの祈祷により雨が降り、応和2年(962)千観和上によって竜神に勝ったという意味から勝竜寺と改めたと伝える。往時は多くの子院を擁する大寺であったが中世の兵火に被災し今日に至っています。

細川忠興、玉(ガラシャ)夫婦像

勝竜寺

本堂

男山を目指してチャリチャリ・・・(R478)

背割堤、男山が見えてきたとです・・・

松花堂昭乗の筆「下馬石(石清水八幡宮参道口)

清水八幡宮(男山)

平安時代初期、貞観元年(859年)、奈良・大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に篭られた時、八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安した事に始まります。この年、清和天皇の御命令を承けた木工寮権・允橘良基は、当地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営し、翌年貞観2年(860年)4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座されました。

テチテチ上るとです・・・

三の鳥居

320余基の灯籠が並ぶ参道

永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)

南総門

拝殿・本殿・・・改修中とです!(>_<)

展望台からの伏見〜京都市内の眺めとです・・・

谷崎潤一郎文学碑

涌峯塔(ゆうほうとう:シンボルタワー)

エジソン記念碑

石清水社(石清水井)

参道を下りてきたとです・・・

相槌神社

頼風塚(よりかぜづか:男塚)、女郎花塚(おみなえしづか:女塚)

「藻塩草」によると平城天皇の御代、小野頼風という人が男山に住み京の女性と深い契りを結んでいましたが、いつしか二人の間に秋風が立つようになり京の女性は思いあまって八幡の里に頼風を訪ねました。頼風が他の女性と暮らしている事を知り悲嘆のあまり川の畔に山吹重ねの衣を脱ぎ捨て投身して果てました。やがて衣が朽ち、そこから女郎花が咲きました。女郎花は頼風を恨んだ風情があり頼風が近寄ればなびき退き、離れると元の如くになるのを見た頼風は自責の念にかられ同じように川に投身して果てました。その川を涙川と称し現在の放生川上流にあたると伝わります。人々はこれを哀れみ二人の塚を築いたと伝わり松花堂庭園内西隅にある小さな五輪石塔を女郎花(おみなえし)塚と言います。この悲恋伝説は謡曲「女郎花:おみなえし」にも潤色され世にも有名となりました。

今も湧き出ている八幡五水の一「山ノ井戸」

松花堂昭乗所縁の泰勝寺(昭乗墓所)

頼風塚(男塚)

「山ノ井戸」は八幡五水の一と言われ「寛保3年注進記」によると元禄9年(1696年)9月、幕府御金銀改役・後藤庄三郎長春が井筒を石組みし「藤木井筒」としました。寛保3年(1743年)、刀匠・小鍛冶宗近が焼刃の水に用いたとされます。山ノ井戸は「山城名勝誌」に山井今荘園町南と記され場所も不詳でしたが「男山考古録」の作者は、この藤木井を山ノ井と断定しました。他に高良神社の石段脇に「藤井」、一の鳥居近くに「筒井」があり山上供御所の用水に用いたとされ「竹の下の井」、「桜井」は山腹にあったとされますが不詳とされています。現在、山腹には「石清水井」、「竹雨水」、山上には「供御井」もあります。私的には、「竹の下の井」、「桜井」では???と思うのですが・・・`s(・'・;)

男山合戦(正平の役)

清水八幡宮の歴史中で特筆すべきは、「正平の役」で南北朝時代最大の決戦が男山を中心に60日間もあったとされ「男山合戦」とも言われます。この戦いを契機に南朝は急速に勢力を失いました。正平7年(1352年)春、南朝の後村上天皇は楠正義らと男山に立てこもり、対して足利尊氏の嫡子・義詮(よしあき)は東寺を本陣とし男山を四方から取り巻きました。戦いは激烈を極めたが楠正義の守備する洞ヶ(ほらが)峠が落ちると、後村上天皇はここを見限り大和大路を東大寺へと落ち、足利(室町)幕府は始めて基礎固めができたと伝わります。

正平役園殿口古戦場跡碑(左)、金剛律寺故蹟碑

安居橋(あんごばし:太鼓橋)

酒蔵(高瀬川)

Tourist  2005.5.02(M)

 

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