小関越えチャリチャリ近江探訪

 

(じょう)あけて 月さし入れよ 浮御堂  芭蕉

 

大善寺(六地蔵)〜徳林庵(四ノ宮(山科)地蔵尊)〜小関越旧道〜長等神社〜三井寺(園城寺)〜唐崎神社〜坂本城跡〜浮御堂

 

小関越え

近江から京への山越えは逢坂の関越えが知られていますが昔は逢坂越えと背中合わせの小関越えも利用されていました。逢坂の大関に対して小関と呼ばれたという説と、古くからあるという事から古関と呼んだという説があります。

酒蔵 京阪宇治線 山科川と宇治川合流地
大善寺(六地蔵) 地蔵堂 地蔵菩薩立像
本堂 道標石 山科川沿いをチャリチャリと北上
明治天皇御遺蹟碑(奴茶屋跡) 旧東海道碑 京都六地蔵の一・四ノ宮地蔵堂(徳林庵)
徳林庵 六地蔵 人康親王供養塔(蝉丸塔:吉野期)
京都六地蔵の一「四ノ宮(山科)地蔵尊」 飛脚遺蹟・・・飛脚や馬の為に掘られた井戸 小関越道標石(木一丁目)を左折・・・
小関越旧道 JR新逢坂山トンネル
徳丸稲荷大明神 小関越旧道の案内・・・ 道を間違い二度も激坂をチャリチャリ・・・(>_<)
東4号道路へ戻って東へ曲がるとです・・・ 西大津バイパス(R161)の下を通過 小関越旧道(ハイキングコース)の案内パネル
地蔵祠 普門寺・・・
本堂 西大津バイパス(R161号) 小関越旧道(ハイキングコース)へ・・・
小関越旧道(ハイキングコース)のダートな坂道をチャリチャリ・・・暑うぅ〜 峠ピーク手前で小関越新道(自動車道)と合流
峠の水 地蔵堂「喜一堂」 延命地蔵
小関峠・・・快適なダウンヒル あっという間に峠を下って・・・石仏 小関天満宮参道
小関峠旧道標石 地蔵堂(腹帯地蔵)

長等神社

天智6年(667年)、天智天皇が近江大津宮へ遷都の際、都の鎮護の為に須佐乃男命(すさのおのみこと)を志賀の長等山岩倉に祀ったのが始まりと伝え、天喜2年(1054年)に智証大師が現在地に大山昨命を合祀し新たに建立しました。現在の建物は寛永4年(1664年)と慶安2年(1649年)にそれぞれ増改築されたものです。

長等神社 拝殿 本殿

大津絵

江戸時代初期の寛永年間(1624〜1644年)頃に仏画として描かれ始め世俗画、道歌を伴った絵となり松尾芭蕉の「大津絵の筆のはじめは何仏」という俳句にも出てくるように大津絵の画題に「阿弥陀仏」、「十三仏」、「青面金剛」や「不動明王」などの仏画があり、その時代には信仰の上で必要であるとされ、世俗画としては「藤娘」、「文読む女」、「女虚無僧」、「槍持ち奴」、「鬼の寒念仏」、「瓢箪鯰」などがあり大津絵の人気が広まったと伝えます。18世紀末には、教訓的な道歌を伴ったものになり「鬼の寒念仏」には、「慈悲もなく情けも無くて念仏をとなふる人のすがたとやせん」という道歌が描かれています。19世紀には、代表的な10種類の画題が描かれるようになり藤娘は良縁、鬼の念仏は子供の夜泣きに効くとされる護符に用いられるようになりました。

大津絵作房 大津絵「鬼の寒念仏」 三井寺(園城寺)参道

三井寺(園城寺)

天台寺門宗の総本山である三井寺は正しくは長等山園城寺(ながらさんおんじょうじ)と号し西国三十三所観音霊場巡礼の第十四番目の札所(観音堂)です。琵琶湖南西の長等山中腹に広大な敷地を有しています。近江八景の一つ「三井の晩鐘」でも知られています。667年に天智天皇が飛鳥から近江に遷都し近江大津京が開かれました。天智天皇の没後の672年、大友皇子(天智天皇の皇子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が皇位継承を争いった壬申の乱が勃発し敗れた大友皇子の皇子・大友与多王は父の霊を弔う為に「田園城邑(じょうゆう)」を寄進し寺を創建、天武天皇から「園城」という勅額を賜わった事が園城寺の始まりと伝えます。勝利した大海人皇子は再び飛鳥に遷都し近江大津京はわずか5年で廃都となりました。貞観年間(859〜877年)、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、園城寺を天台別院として中興してからは、東大寺、興福寺、延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一に数えられ南都北嶺を担ってきました。円珍の没後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し正暦4年(993年)、円珍門下は比叡山を下り三井寺に入ります。この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。その後、両派の対立、源平の争乱、南北朝の争乱などによる焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、智証大師への信仰に支えられた人々によって今日に至っています。

参道入口(拝観受付) 観月舞台 観音堂(西国十四番札所)
観音堂前からの眺め・・・琵琶湖大橋〜浜大津方面の素晴らしい景色が一望・・・
三井寺俯瞰 遠くに琵琶湖大橋が見えまつ・・・ 大津そろばんの碑
毘沙門堂 霊宝観音像 須磨寺のキンポトン童子を思い出すとです・・・
童地蔵などに心が和みます・・・ 天台大師像
微妙寺 広大な三井寺境内 唐院(灌頂堂、三重塔など)参道

唐院潅頂堂(重文:桃山期)、三重塔(重文:室町期)、一切経蔵(八角輪蔵 重文:室町期)

唐院潅頂堂・・・大師堂の拝殿としての役割を備え内部は前室と後室に分けられ伝法潅頂を行うプランを備えています。仁寿殿下賜の伝えそのままに装飾の少ない堂です。三重塔・・・慶長2年(1597年)、豊臣秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を慶長5年(1600年)、徳川家康が三井寺に寄進しました。一切経蔵(八角輪蔵)・・・一切経を安置する堂で、内部には一切経を納める回転式の巨大な八角輪蔵が備えられます。珍しい禅宗様の堂ですが、元は国清寺の経蔵で慶長7年(1602年)、毛利輝元によって移築されました。輪蔵には高麗版一切経が納められ天井から円空仏七体が発見されました。

左から長日護摩堂、灌頂堂、大師堂 三重塔(重文:室町期) 一切経蔵(重文:室町期)

弁慶引き摺り鐘(重文:奈良期)、弁慶の汁鍋

弁慶引き摺り鐘・・・当寺初代の梵鐘で奈良時代の作とされ承平年間(10世紀前半)、田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したと伝えます。その後、山門(比叡山)との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると 「イノー、イノー(関西弁で帰りたい)」と響いたので弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨てました。鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。この鐘は寺に変事がある時、前兆として不可思議な現象が生じたとされ凶事がある時、鐘が汗をかき撞いても鳴らずまた吉事がある時は自然に鳴ると伝えます。戦国時代の記録「園城寺古記」は、文禄元年(1592年)7月、鐘が鳴らなくなり寺に何か悪い事が起るのではないかと恐れた僧侶達は、様々な祈祷を行ったところ8月にようやく音が出るようになりました。また建武の争乱時に略奪を恐れ鐘を地中に埋めると自ら鳴り響き、これによって足利尊氏軍が勝利を得たと伝え霊鐘に相応しい様々な不思議な事件を伝えます。弁慶の汁鍋・・・武蔵坊弁慶をはじめ多くの僧兵が汁を作って飲んだと伝える大きな汁鍋です。

八角輪蔵(一切経蔵 重文:室町期) 霊鐘堂 弁慶の汁鍋
弁慶の引き摺り鐘(重文:奈良期) 弁慶が引き摺った時の傷痕や破目らしい・・・ 近江八景「三井の晩鐘」

近江八景「三井の晩鐘」(滋賀県指定文化財:桃山期)、金堂(国宝:桃山期)

三井の晩鐘・・・近江八景「三井の晩鐘」として知られ百八煩悩に因んだ数の乳を持つ梵鐘の在銘最古遺品に相当する大鐘です。撞座の位置が低く駒の爪が外に張り出しています。 新しい様式が随所に見られますが模古的な作風を持つ桃山時代の遺品として注目されます。金堂・・・現在の金堂は、豊臣秀吉の正室・北政所によって再建され本尊弥勒菩薩が安置されています。内部は外陣、中陣、後陣に別れ中陣は中心となる内陣の両側に脇陣を設け内陣以外の床は全て板敷ですが内陣は土間床で伝統的な天台系本堂の形式を伝えます。

鐘音は荘厳です・・・ 金堂(国宝:桃山期)・・・改修中!(>_<) 三井の霊泉(閼伽井屋 重文:桃山期)

閼伽井屋「三井の霊泉(閼伽井屋内 重文:桃山期)」、釈迦堂(食堂  重文:室町期)

三井の霊泉・・・三井寺と呼ばれるようになったのは天智、天武、持統天皇の三帝の誕生の際、産湯に用いられたと伝える霊泉があり「御井の寺」と呼ばれ智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いた事に由来し現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井だと伝えます。釈迦堂(食堂)・・・秀吉による破却の後、清涼殿を移築したとの伝えもありますが室町時代に建立されたものと思われます。「園城寺境内古図」には大門を入ってすぐ右手に食堂が描かれており、この堂も食堂として移築されたものと思われますが現在は清涼寺式釈迦如来像を本尊とする釈迦堂として信仰されています。左甚五郎作の龍の彫刻(蟇股)・・・閼伽井屋正面にあり昔、この龍が夜な々琵琶湖に出て暴れた為に困った甚五郎は自ら龍の目玉に五寸釘を打って鎮めたと伝えます。

左甚五郎作の龍の彫刻(蟇股) 釈迦堂(食堂 重文:室町期) 仁王門(大門 重文:室町期)

仁王門(大門  重文:室町期)

三井寺中院の表門で、東面して建ち両脇の仁王像が山内を守護しています。記録によると天台宗の古刹常楽寺(甲賀郡石部町)の門で豊臣秀吉が伏見に移しましたが慶長6年(1601年)に徳川家康が現在地に移築したと伝えます。

仁王門(重文:室町期) 琵琶湖第一疎水・第一トンネル 琵琶湖第一疎水
琵琶湖第一疎水 京阪・石山坂本線「三井寺駅」 琵琶湖第一疎水取水口
琵琶湖周航歌碑 三保ヶ崎(琵琶湖第一疎水)

唐崎神社・・・近江八景「唐崎の夜雨」

日吉大社の摂社で日吉大社の古記によると舒明天皇6年(663年)、琴御館宇志丸宿弥(ことのみたちうしまろのすくね)が、この地に居住し唐崎と名づけ彼の妻で現在の祭神である女別當命(わけすきひめのみこと)が日吉大社から持ってきた一本の松をこの地に植え、持統天皇の頃(697年)、別当姫の遺言によって松の下に神として祀ったのが唐崎神社の縁起と伝え女人の信仰が極めて篤く、遠近の婦人の参拝が多く特に婦人病、下の病に著しい霊験がある事で知られます。近江八景「唐崎の夜雨」としても有名で唐崎神社の湖岸が滋賀県文化財に指定されました。

唐崎神社 近江八景「唐崎の夜雨」
近江富士(三上山)と外輪船・ミシガン 境内からのマザーレーク・琵琶湖の眺め・・・
唐崎の松(滋賀県指定文化財名勝) 拝殿

七本柳

琵琶湖に突き出す鳥居は日吉大社の鳥居で、鳥居の一番上に三角屋根のような形がある独特の鳥居です。毎年4月14日、日吉大社の山王祭において神輿を船に乗せる船渡御(ふなとぎょ)が行われます。

本殿 ヨットハーバー 日吉大社の鳥居(七本柳)

明智光秀の坂本城跡

織田信長の比叡山焼き討ちの後、信長に命ぜられて明智光秀が築いた坂本城跡です。坂本城は、琵琶湖をうまく利用した水城で、豪壮華麗な造りであったと伝えます。この水城の形態は、後の大津城、膳所(ぜぜ)城へと受け継がれました。坂本城は、光秀が織田信長を攻めた本能寺の変のあと、豊臣秀吉軍に囲まれて落城し、後に秀吉により再建されたが、浅野長吉が城主の時に大津へ移され、城跡は田畑になりました。現在は、湖中に城郭跡を残すのみで琵琶湖の水位が下がると一部を見る事ができます。

七本柳 坂本城跡
坂本城遺蹟の石 明智光秀像

浮御堂(海門山満月寺)

近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は平安時代、一条天皇の長徳年間(995年頃)、比叡山の恵心僧都源信(えしんそうずげんしん)が湖上安全と衆生済度を祈願し、自ら一千体の阿弥陀仏を刻んで建立したのが浮御堂の始まりと伝える臨済宗大徳寺派の寺で正しくは海門山満月寺と号します。現在の浮御堂は昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊し、昭和12年(1937年)に再建され往時の情緒を残し観音堂には聖観音座像(重文:平安期)が安置され境内には樹齢約500年と伝える老松があります。

湖族の郷資料館 浮御堂山門(楼門) 湖上に迫出している浮御堂
観音堂(登録文化財) 浮御堂 千体仏(阿弥陀仏一千体)
浮御堂からの琵琶湖(南湖)の眺め・・・左から高浜虚子の湖中句碑、琵琶湖大橋〜近江富士(三上山)
浮御堂・・・近江八景「堅田の落雁」 境内からの琵琶湖の眺め 芭蕉句碑「鎖あけて 月さし入れよ 浮み堂」

伊豆神社

平安時代中頃の寛平年間(878〜897年)に延暦寺の僧・尊意が、伊豆の三島神社から伊豆大権現(祭神・大山祇命(おおやまずみのみこと:和多志(渡し)の神)を分祀して創建されました。古くは京都賀茂社の分霊を祀る神田神社と伊豆神社の二社からなっていました。室町時代には堅田大宮とも言われ湖上水運に特権をもっていた堅田全域の総鎮守として信仰を集めていました。

伊豆神社 拝殿 本殿
黄昏の琵琶湖 近江富士(三上山)が見えるとです・・・ 大津城跡
浜大津 京阪・京津線・・・この辺りは路面を走っています・・・4両編成で路面を走るのは珍しいかと・・・

逢坂山関址

平安時代に不破(岐阜県)、鈴鹿(三重県)と並ぶ三関であった逢坂山関は都と東国、北国を結ぶ東海道、北国街道などが集中する交通の要衝で古来、貴族や武将、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がこの道を通過、この関所や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に多く残っています。また、大津八景「関寺の晩鐘」、「逢坂の暮雪(ぼせつ)」として有名ですが実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りの関寺跡(長安寺)付近ではないかとも思われています

関蝉丸神社(上社) 逢坂常夜灯と逢坂山関址碑(走り撮り) 山科川沿いを伏見へチャリチャリ
日が暮れて月を見ながらチャリチャリしているとです・・・ 酒蔵

 Tourist  2005.9.12(M)

 

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