幕末維新の道に龍馬の足あとを訪ねる【龍馬と新撰組】

 

寺田屋〜文子天満宮〜東本願寺〜西本願寺〜新撰組伍長・島田魁住居跡〜新撰組ゆかりの壬生屯所界隈〜新撰組不動堂村屯所

 


By 燃えよ剣 

幕末を駆け抜けた新撰組

文久2年(1862年)、黒船来航により徳川幕府への倒幕運動、尊王攘夷の機運が高まった。幕府は最初は反幕勢力への弾圧を行ったが、尊王攘夷派による大老・井伊直弼暗殺(桜田門外の変)により、天皇家との和睦・協調路線(公武合体策)に転換し、孝明天皇の妹・和宮と14代将軍・家茂と結婚させ、会津藩主・松平容保を京都守護職に任命し京都の治安維持にあたらせた。幕府は清河八郎などで浪士隊を結成し京都に入洛させたが、清河八郎が尊攘派と分かり、浪士隊は江戸に返されたが京都に残った浪士達もいました。孝明天皇は公武合体派であったが、朝廷の主導権を握っていたのは尊王攘夷派であり、同調する長州藩と通じていました。文久3年(1863年)8月18日、会津藩は薩摩藩と共に尊攘派の公卿(三条実美、三条西季知、東久世通禧、沢宣嘉、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳の7名)と長州藩を京都、朝廷より失脚させました(八.一八の政変、七卿落ち)。この時、芹沢鴨、近藤勇らが率いる壬生浪士隊も「撰組」と名付けられ出陣しました。正式に京都守護職の配下となり京都の治安維持に努めました。幕府は桑名藩主・松平定敬(容保の弟)を京都所司代に任命し、長州征伐と尊攘派志士の弾圧に乗りだしました。同年9月、以前から対立していた3人の局長で新見錦は、切腹。芹沢鴨、平山五郎共々近藤らの手で暗殺し水戸派を粛清し、以後5年間を局長・近藤勇、副長・土方歳三の体制で京都市中を取り締まりました。元治元年(1864年)7月19日、伏見から進軍した長州藩兵と、守備していた大垣藩兵が伏見街道の伏見稲荷辺り(一本松)で交戦し九条河原に宿陣していた新撰組も黒門辺りで援軍として交戦した「禁門の変」が勃発しました(会津藩の守備した蛤御門が最激戦地だったので、「蛤御門の変」とも言います)。慶応3年(1867年)12月、王政復古の大号令と共に京都所司代が廃止されました。新撰組も「新遊撃隊御雇」と改称して、大阪へ向かいました。同年12月16日、不動堂村屯所から伏見奉行所に布陣、鳥羽伏見の戦いに参戦し奮闘しますが、薩長軍の最新の砲火兵器にはかなわず、多数の死傷者が続出しました。伏見奉行所〜淀〜大阪城へ退却しました。更に大阪・天保山から幕府軍艦・富士山丸で江戸へ東帰する事になり、新撰組は、この鳥羽・伏見の戦いで終焉しました。

伏見長州藩邸跡

長州藩藩祖は毛利輝元で父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当初の藩邸は『豊公伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によると城下西端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に毛利長門守屋敷が記されている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで輝元は西軍大将として参戦し敗戦。徳川家康は戦争責任で輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。江戸時代中期の元禄12年(1699年)の『御香宮文書』には中書島の新地開発を許可されたことが記され、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられている。幕末の元治元年(1864年)7月19日未明、長州藩家老・福原越後は伏見  長州藩邸から約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、伏見長州藩邸は焼け落ちた。※伏見観光協会より

伏見長州藩邸跡 伏見長州藩邸跡碑 三十石船乗り場でもある寺田屋浜
竹田街道の京橋に立つ伏見口の戦い激戦の地碑 坂本龍馬、お龍ゆかりの旅籠「寺田屋」
坂本龍馬像、薩摩九烈士(寺田屋騒動)の碑 伏見らしい酒蔵のある風景
カッパッパ〜(*゜▽゜)/ ♪カッパッパ〜 ルンパッパ〜♪小島 功のカッパのイラスト
お酒の資料館 龍馬の酒『伏見の竜馬』 伏見名水・伏水
風情ある酒蔵の風情 伏見土佐藩邸跡碑
龍馬と伏見薩摩藩邸

13代将軍・徳川家定の正妻となる島津斉彬の養女篤姫(天璋院)も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年(1853年)9月29日この屋敷に入りました。ここを拠点に、10月2日洛中の近衛家、同4日萬福寺(現宇治市) を訪問、同6日伏見を出立。慶応2年(1866年)1月24日、坂本龍馬は寺田屋において伏見奉行所の捕吏に襲撃されますが、入浴中のお龍が気づき裸で二階へ急を知らせ、龍馬は短銃を発射して、逃走しました。お龍は、急ぎ帯刀町(納屋町)〜風呂屋町〜紺屋町〜御駕町を走り抜け下板橋を渡り伏見薩摩藩邸へ龍馬の危機を知らせました。龍馬は手傷を負っていたので木材倉庫に隠れた後、お龍の知らせを受けた薩摩藩が差し向けた舟で濠川を上り伏見薩摩藩邸へと逃げ込んだと伝える。

寺田屋で伏見奉行所の幕吏に襲われて手傷を負った龍馬が匿われた薩摩藩伏見藩邸跡 悟真寺
戊辰之役東軍戦死者埋骨地之碑 いつ訪ねても手入れが行き届いた境内 戊辰之役東軍戦死者之碑
伏見の戦いで戦死した会津藩士(兵)埋骨地・・浜田藩士の名も刻まれている。
新撰組局長・近藤勇遭難の地

慶応3年(1867年)12月18日、伏見奉行所に陣を移した新撰組局長・近藤勇は京都町奉行所の若年寄・永井玄蕃守との軍議の為に二条城に赴きました。近藤は護衛約20名を伴っての帰り道、伏見街道が屈曲する墨染通り付近で狙撃されました。狙撃したのは御陵衛士の残党・阿部十郎、篠原泰之進、加納道之助、富山弥兵衛らでした。幸いにも弾は左肩に命中したが致命傷には至らず、馬を走らせて伏見奉行所に逃げ戻りました。近藤は治療の為、沖田総司と共に大坂に退き、副長・土方歳三が新選組の指揮を執り、鳥羽伏見の戦いに参戦する事ができなかった。

「この付近、近藤勇遭難の地」碑はこの辺りで近藤勇が銃撃されて負傷したと示しているが・・ 伏見名水「清和の井:せいわのい」
鴨川左岸を正面橋まで走ります・・・川風が気持ちいい\(●⌒∇⌒●)/
任天堂発祥の地・任天堂正面営業所(昭和8年当時のアールデコ調のレトロな社屋) お龍が手伝った七条新地の旅館・扇岩跡
お茶屋さん 京風焼き菓子・・くださいなぁ〜(^^♪ 手作りで美味!!おススメ!!!(^-^)v
ノスタルジックな空間・・・時間が止まったような風情 アオサギくん(*^-^*)
天神信仰発祥の文子天満宮

菅原道真を祭神とする旧村社で創祀沿革は明らかでないが、社伝によると当地は菅原道真の乳母だった多治比文子宅跡と伝える。文子は自分の家の庭に小さな祠を設け、道真を拝んでいました。ある時、天神となった菅原道真が多治比文子に現在の北野天満宮の地に祀って欲しいと託宣しました。北野天満宮に祀られるきっかけが多治比文子だったところから「北野天満宮の前身神社」と称する由縁となりました。天明以来、しばしば火災に罹り今の社殿は明治の再建で小社ながらよく整備されている。洛陽天満宮二十五社の一に数えられている。

鴨川に出ると川風が爽やかで心地よい!☆⌒(*^∇゜)v 北野天満宮前身社・文子天満宮
こま札 文子さまっ(*^-^*) もっと賢くなりますように・・参拝します(^^ゞ爆
本願寺

浄土真宗宗祖・親鸞聖人は弘長2年(1262年)11月、洛西善法院にて没し、遺骸は東山延仁寺にて荼毘にふされ墓は東山大谷の法然上人の廟側に築かれた。文永9年(1272年)に親鸞の末娘・覚信尼(かくしんに)が大谷西麓の地に廟堂を移築し御真影を安置して大谷御影堂と言った。後にその子・覚如が寺院化し本願寺と称した事が始まりと伝える。東西本願寺の伽藍が御影堂(祖師堂:大師堂)を中心とし阿弥陀堂(仏殿:本堂)を併設するのは、かかる伝統的本質によるものです。戦国乱世に会して各地を転々とし、天正19年(1591年)に豊臣秀吉が本願寺の武装を解除し六条堀川(現、西本願寺)に寺地を与え伽藍を建立せしめた。江戸時代の慶長7年(1602年)、徳川家康は本願寺の勢力の分割を図り、隠居中の本願寺第12世・教如上人に東六条の方四町の寺域(現在地)を寄進した事により東本願寺が創建され本願寺門徒は二分された。徳川三代将軍・家光も祖父・家康に倣い、寺領(現、渉成園/枳殻邸:きこくてい)を更にその東に寄せ当寺の庇護に努めた徳川家ゆかりの寺院。天明の大火以来、しばしば火災の厄にあったが、その都度に再建され現在は、元治兵火後の建物です。東本願寺は度々の火災にも信徒の信仰力で度々に再建されてきたが、明治に入り防火対策として当時、琵琶湖疏水の工事を進めていた田辺朔郎博士に分水を依頼し明治30年(1897年)、蹴上で分水し地下導水管(本願寺水道)により東本願寺へ導水されたと伺いまし。この本願寺水道は本堂・御影堂の周りを通して防火に備え、また一部を渉成園へ引き込み、庭園東北部から印月池を満たしています。真宗大谷派の大本山で正しくは真宗本廟といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂に本尊・阿弥陀如来を安置しています。・・・私事ですが、東本願寺第24世・大谷光暢法主の奥様の智子(さとこ)裏方に、お世話になりました。昭和天皇の香淳(こうじゅん)皇后の妹様でした。久しぶりに東本願寺を訪ねて智子様に渉成園(枳殻邸:きこくてい)にお招き頂いた事などを懐かしく思い浮かべました。

真宗大谷派本山・東本願寺 堀に大きなコイさんとスイレンの花がチラッとな 御影堂門

文久3年(1863年)正月五日、一橋(徳川)慶喜は入洛し東本願寺を宿とした。十日、将軍・家茂上洛の準備の為に京都所司代・牧野忠恭(ただゆき)らを従えて御所に参内し孝明天皇に謁見し杯を賜った。勤皇派の浪士らは慶喜脅迫の為、正月二十八日の夜、公卿・千種有文の家臣・賀川肇を暗殺しその首を東本願寺の太鼓楼上に晒して攘夷の血祭りだとして一橋殿に献ずるという添状を付した。千種は孝明天皇の近習で和宮降嫁を画した公武合体派の公家で、佐幕派の四奸の一人(岩倉具視もその一人)で勤皇派の浪士に狙われていた。慶喜は、この年に二条城南の若狭・酒井家の屋敷に移った。

京都らしい風景・・・東本願寺境内から眺める京都タワーが灯台ではなくロウソクに見えるでありんす・・・(^▽^;)
境内案内図 平成の大修理中の阿弥陀堂 世界最大級の木造建築物・御影堂
菊の門 大名屋敷や城壁の外壁にも見られるなまこ壁

By 新撰組血風録

新撰組屯所があった西本願寺(世界文化遺産)

浄土真宗本願寺派の大本山で正しくは本派本願寺、山号を龍谷山と号します。文永9年(1272年)に親鸞の末娘・覚信尼(かくしんに)が大谷西麓の地に廟堂を移築、御真影を安置して大谷御影堂と言った。後にその子・覚如が寺院化し本願寺と称した事が始まりと伝える。室町時代、8世・蓮如上人は大いに宗風の興隆に努めたので延暦寺の弾圧する事になり文明10年(1478年)山科の地に再興を図ったが上人の没後、打ち続く兵乱は本願寺にも及び、天文元年(1532年)、日蓮宗徒と細川晴元らに攻められ諸堂は再び灰燼に帰した。10世・証如上人は、蓮如上人が晩年に創建した大阪の石山坊社(現、大阪城)に移り教線の伸張に努めた。織田信長にその寺地の提供を迫られた時、毅然と拒絶した為、信長に攻撃された。交戦11年間、よく信長の武断政策に抵抗して本願寺の勢力を誇示した。その後、秀吉は懐柔政策をとって本願寺の武装を解除し、天正19年(1591年)、六条堀川(現、西本願寺)に寺地を与え伽藍を建立せしめた。慶長年間に大谷派分立があったが大きな動揺もなく、その後300余年間宗門体制維持に努めました。特に幕末の動乱、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)後の仏教界の指導的立場にありました。元和3年(1617年)の火災で諸堂を焼失しましたが、伏見城、聚楽第から豊臣秀吉所縁の建造物が移築され、華麗な桃山文化を偲ばせます。唐門(伏見城遺構:日暮門/国宝:桃山期)は、伏見城から移築され御影堂(重要文化財)は親鸞聖人の荼毘(だび)の灰を漆に混ぜて塗ったと伝えられる坐像を安置します。天井や障壁画の絢爛な装飾で知られる書院(国宝)には203畳の対面所、虎渓(こけい)の庭(史跡・特別名勝)、天正9年(1581年)建立の日本最古の能舞台(国宝)がなどがあります。三門前に石橋を架け堀川をもって濠とし太鼓楼を構えていたのは、戦国時代の一向一揆によって作られた城郭寺院の形式によったもので、境内にある茶所は民衆仏教と言われる真宗寺院の特徴を表している。一般寺に見られる観音堂、地蔵堂、鎮守社などの建物がないのも真宗伽藍の特徴とされる。また、幕府は第20世宗主・広如の勤皇姿勢に警戒を強め、元治元年(1864年)の禁門の変に惨敗して逃げ込んだ長州藩兵を匿った事を理由に元冶2年(1865年)、新撰組が寺の北集会所、太鼓楼などを慶応3年(1867年)6月15日まで屯所として使用し西本願寺を牽制しました。

浄土真宗本願寺派本山・西本願寺(世界文化遺産) 金閣、銀閣と共に京都三名閣の一・飛雲閣

新撰組は、蛤御門の変で惨敗して西本願寺に逃げ込んだ長州藩兵を広如上人が法衣を着せて逃がそうとした事に立腹し、会津藩兵と共に西本願寺を焼き払おうとしました。一橋卿の仲裁と隊士が130名を越え壬生の屯所が手狭だった事もあり、元冶2年(1865年)、本堂の北にあった600畳の北集会所、太鼓楼などを占拠し壬生屯所から移転しました。西本願寺と長州藩との関係も牽制した一石二鳥の屯所移転とされ北集会所(現在は姫路市(亀山)本徳寺)、太鼓楼が屯所となり殺生を禁じた寺院内では拷問、切腹、斬首に加え境内では、剣術、大砲の訓練、実弾射撃までもが行われた。また隊士の体力をつける為に鶏、豚を飼い悪臭が漂い屠殺される家畜の声が寺中に響くなど参拝の門信徒、僧侶らを震撼させ困り果てた西本願寺は会津藩公用方に改善要望を再三に出していました。江戸時代末期に姫路市の(亀山)本徳寺が火災で焼失した為、西本願寺から屯所跡(北集会所)などを移築したので柱には刀傷などが多数残っています。明治維新後、新撰組結成時からの隊士・島田魁が本願寺の守衛を勤めて太鼓番をしていたと伝えます。

御影堂(重要文化財:江戸期) 阿弥陀堂(総御堂/重要文化財:江戸期) 屯所跡(北集会所)があった宗務総合センター
新撰組隊士が剣術、大砲、実弾射撃調練などをしていた広大な境内 新撰組屯所の名残を今に伝える太鼓楼
新撰組伍長・島田魁(しまだかい)

新撰組草創期に入隊し、隊随一の巨漢(身長180cm、体重150s)で剣客だったという。鳥羽伏見の戦いでは決死隊になるほどの勇者で五稜郭の戦い降伏後、新政府からの出仕の勧誘があったが、頑として受け入れなかった強い信念の持ち主であった。新撰組終焉後は、土方歳三と共に箱館に行き、土方歳三の死を看取ったとも言われているが、弁天台場で、土方歳三の戦死を聞いたとも伝える。戦後、京都・西本願寺の守衛を勤めました。西本願寺は一時、新撰組の屯所が置かれました。当時、西本願寺での新撰組の評判は悪く、殺生ご法度の寺に新撰組が屯所としたから、評判が良い訳がない。明治33年(1900年)3月20日、西本願寺境内で持病の喘息で没しました。又、島田魁は新撰組の名簿「英名禄」を残しました。京都に戻った島田は、下京区大宮旧丹波口下ルの路地奥に住まいして西本願寺の守衛、太鼓番に通ったと伝える。

阿弥陀門 島原商店街 この路地奥に新撰組・島田魁の家があった・・
島原

当地は上古は東鴻櫨(とうこうろ)館の北にあたり、中古には観喜寿院の封境に接し近世は、葛野朱雀野と呼ばれる茫漠たる広野でしたが忽然と不夜城が出現しました。我が国最初の公許遊郭として公認されたのは、天正17年(1589年)と伝え当初は二条柳馬場にあったから柳町と称しました。慶長7年(1602年)、六条に移転し寛永17年(1640年)、現在地に移転しました。当時、肥前国(長崎県)島原に吉利支丹(キリシタン)一揆が勃発し城郭に立て篭っていたが、この郭の造りが似ていたところから戯れに島原と称したのが通名になったと伝えます。一説には急な移転の為に遊郭中が大騒ぎとなり島原の乱の様な騒ぎだったからとも伝える。

島田魁宅は、この辺り? 出口の柳と常夜灯 島原大門
置屋の輪違屋(現在も営業中なので非公開)
格子窓のある旧家(揚屋の松本楼?) 揚屋の角屋(重要文化財:江戸期) 久坂玄瑞の密議の角屋碑
角屋(重要文化財:江戸期)

木造二階建て、表全体を格子造りとした揚屋建築の唯一の遺構で表、裏、台所の三部からなっています。表二階は緞子(どんす)の間を主室に翠簾(みす)の間、扇の間があり奥二階には草花の間、馬の間、孔雀の間、囲いの間など諸室があり一番奥に壁を始め随所に青貝を散りばめ数奇を凝らした青貝の間があります。これらの部屋は電灯を用いず行灯を使い階下台所は三十畳敷きの大部屋で古い民家の台所遺構として最も注目されるべきとされます。幕末期、長州の久坂玄瑞などが密談をしたとされます。置屋とは太夫、遊女などを抱えているので置屋と言います。太夫、遊女など一切に抱えず遊客を上げて遊ばせるから揚屋と言います。

こま札 揚屋の角屋(角屋もてなしの文化美術館)
説明 東鴻櫨(とうこうろ)館跡 島原西門跡
島原西門碑とイメージ図 島原住吉神社
解説碑 社殿 歌舞練場跡
解説碑 沖田総司が子供らとよく遊んだ壬生寺 壬生寺の千体仏塔


By 新撰組!

新撰組壬生屯所跡・八木邸

文久3年(1863年)、将軍警護の為に組織された浪士隊(新徴浪士組)として上洛した近藤勇、芹沢鴨ら13名の宿舎として、前川荘司邸、南部亀二郎邸と共に、慶応元年(1865年)2月に西本願寺へ屯所が移るまでの2年間、新撰組屯所として使用されました。現在、八木邸は一般公開されています。門を入って右側の式台のある奥座敷が、芹沢鴨等が暗殺された部屋で、刀傷が鴨居に残っています。慶応元年(1865年)2月頃、西本願寺・集会所に屯所を引っ越す時に近藤勇、土方歳三らは主なる郷士の家々へ挨拶回りを行い二年間の部屋代の謝礼として八木家に金子5両、前川家へ金子10両を差し出し郷士の人達をア然たらしめたと伝える。

この辺りに隊士が通った遊郭があった。 上洛した浪士隊の宿舎になった新徳禅寺 新撰組発祥の地・新撰組壬生屯所跡(八木邸)
こま札 新撰組壬生屯所跡(八木邸)

新撰組屯所跡・前川邸(非公開)

近藤勇、芹沢鴨達は当初、八木邸を宿舎としました。その後、京都守護職御預となり隊士が増え、八木邸だけでは手狭になりました。次に屯所となったのが、近所の前川邸でした。池田屋事件の発端となった、古高俊太郎を拷問した土蔵があります。局中法度に触れ、切腹を命じられた隊士も多く、総長・山南敬介は局を脱走し沖田総司に連れ戻され前川邸で切腹しました。山南敬介は、島原の明里に会いたいと永倉新八に頼み駆けつけた明里と出窓越しに別れを惜しんだと伝わりますが当時の出窓は現在ありません。前川邸は非公開です。総長・山南敬介他2名の墓と松原忠司他11名、副長助勤・大石鍬次郎の実兄・大石造酒蔵(非隊士)の3つの墓が光縁寺にあり何れも些細な事が隊規に触れて切腹、断首の憂目にあった隊士らで新撰組の局中法度がいかに峻烈を極めていたかを物語っています。

新撰組隊士も毎日飲んだと伝える「鶴寿井」 新撰組隊士腰掛の石 旧前川邸
旧前川邸玄関 山南敬介ら新撰組隊士の墓がある光縁寺 武信稲荷神社
武信(たけのぶ)稲荷神社

創祀年月を明らかにしないが延命院の鎮守社と伝え延命院は三条通の勧学院の南にあって平安時代初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将・藤原良相(よしすけ)が私邸の一部を割き勧学院に学ぶ子弟の為に病舎としたもので延命院廃亡後、神社のみが残りました。藤原武信なる人が旧地の近くの当地に勧請奉祀したものと伝え江戸時代には青山播磨守の邸内にあったが明治の廃藩置県後も残って創祀以来、今日まで一千年余に亘り信仰されています。創祀した藤原良相が一族の名付けをしていた事から名付け、命名所縁の神社としても知られます。又、樹齢数百年に及ぶエノキの老木は、平重盛が安芸(広島県)宮島の厳島神社から苗木を運んで植えたと伝え天然記念物に指定されています。エノキの老木は、昔この辺から西を葛野郡朱雀野村と呼んだ往時を偲ばせます。このエノキは、坂本龍馬とお龍は牢獄に囚われた父・楢崎将作の様子を何度か見にきているが、龍馬も追われる身であり面会が叶わない為、このエノキに登って様子を伺ったと伝える。その後も龍馬は命を狙われお龍と離れ、身を隠していたのでお龍は龍馬に会えない。そんな時、二人で何度も訪れた当社のエノキを思い出し訪れた。するとエノキの幹に龍馬からお龍へ「自分も京都にいてお龍を探している」という伝言として『龍』の字を彫ってあった事により二人は再び出会えたという龍馬とお龍の縁結びのエノキとも伝える。

境内 龍馬が『龍』の字を伝言に彫ったと伝えるエノキ 社殿
六角獄舎跡、山脇東洋観臓(やまわきとうようかんぞう)の地碑

平安時代の獄舎は左獄、右獄の二ヶ所があって右獄は早くに廃され左獄が京都府庁の西側にあったが天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命によって小川通り御池上ル下古城町に移転されました。宝永5年(1708年)、大火に類焼して当地に移転し六角通りに面していたので俗に六角の獄舎と呼ばれました。東西約69m、南北約53m、敷地面積約3640uと伝わり罪科の軽重によって構造を別にし上がり屋、本牢、切支丹牢がありました。天明の大火で類焼し維新後は監獄署と改名し上京区竹屋町通り日暮西入ルに移転し昭和大典にあたって山科に移転したのが現在の山科刑務所です。史上有名になったのが幕末期の元治元年(1864年)7月19、20日の両日に起こった蛤御門の変で牢獄中の平野国臣(くにおみ)ら33名が処刑された事です。この時の兵火は蛤御門付近から生じ河原町・長州屋敷の放火にもよるもので兵火は京都市内の大半を焼き尽くし翌20日には堀川を越えて六角獄舎に及ばんとしました。時の町奉行・滝川讃岐守具挙(ともよ)は「破獄を企てた」として平野国臣始め大和義拳の乾嗣竜(つぐたつ)、足利尊氏の木像を斬った長尾武雄、池田屋騒動の発端となった古高俊太郎や横田精之、大村包房ら33人が切支丹牢の東側に集められ昼〜夕刻にかけて断首されました。当時、勤皇という美儀の元に行われた長州勢の暴挙がいかに京都市民などに甚大な被害を与えたかを物語っている。又、山脇東洋は山脇玄修に医学を学び養子となり宝暦4年(1754)年、六角獄舎で日本で初めて男性刑死人の解剖を行い人体構造を観臓し解剖記録として「臓志」を著しました。

六角獄舎跡、山脇東洋観臓の地碑 平野国臣他勤王志士終焉跡、日本近代医学発祥地碑 北小路の変跡(油小路、北小路四辻辺り)

天満屋事件(中井庄五郎遭難之碑)、北小路の変

天満屋事件・・・慶応3年(1867年)12月7日夜、宿屋の天満屋で斎藤一ら新選組隊士7名が坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられた紀州藩々士の三浦休太郎の護衛に就き三浦らと酒宴をしていた時、陸奥宗光ら海援隊、陸援隊々士ら16名に襲撃された事件で三浦休太郎が新撰組や見廻組に指示をして竜馬を暗殺させたという情報から坂本龍馬暗殺の報復騒動でした。居合いの達人とされる中井庄五郎が三浦に斬りかかり剣先が頬をかすり三浦は軽症を負いながら屋根伝いに逃げ、激しい乱闘となったが灯が消えると真っ暗で「三浦を討ち取った!」の新選組隊士の機転の一声で陸奥宗光らは一斉に逃げ去り乱闘は短時間で終わりました。新撰組は三浦警護に成功しましたが隊士の宮川信吉(近藤勇の甥)が討死、もう一名の舟津釜太郎も重傷を負って後日に死亡し海援隊々士の中井庄五郎(十津川郷士)も討死しました。三浦は明治になって東京府知事(現、都知事)にもなった。北小路の変・・・天満屋事件の時、天満屋に援軍として向かった新撰組隊士らと紀州藩士らが互いを敵と錯覚し油小路と北小路の四辻辺りで双方が斬り合いになったが、幸いにも死者は出ませんでした。

この辺りに天満屋があった。事件を示す天満屋事件碑(中井庄五郎遭難之碑) 油小路の変跡(油小路、七条通り四辻辺り)
油小路の変

伊東甲子太郎ら「禁裏御陵衛士(高台寺)」が新選組をのっとるために屯所を焼き討ちにして近藤勇ら幹部を皆殺しにする計画を立てた為、間者の斎藤一が、近藤勇、土方歳三らの妾宅に報告しました。伊東一派は近藤ら新撰組幹部殺害を計画していた。斎藤一は、自分が近藤を殺害すると伊東甲子太郎に持ち掛け22日に近藤殺害、屯所襲撃と決まった。近藤勇の密命を受けていた斎藤一は、この情報を持って11月18日、新撰組に帰隊。名を山口二郎(次郎)と改めたとも記されています。新撰組は、11月18日夜、御陵衛士として隊を分離して薩摩藩と連動して尊皇活動を展開していた伊東を罠にかけて暗殺し、その遺骸を油の小路に運び、伊東の同志をおびきよせる囮として放置。19日の午前2時頃、遺骸を引取りに現われた衛士7名と待ち伏せの新撰組隊士数十名の間に死闘が展開され、衛士側は新撰組創設期からの同士だった藤堂平助、二刀流の使い手・服部武雄、毛内有之助の3名が討死したと伝える。12月18日、近藤勇が伏見街道の墨染〜丹波橋北東辺りで高台寺党の残党・篠原泰之進、加納道之助、阿部十郎らに銃撃され肩を負傷しました。

伊東甲子太郎遭難の地(本光寺) 屯所があった不動堂村所縁の明王院不動堂
新撰組不動堂村屯所

新撰組が西本願寺から不動堂村へ屯所を移転したのは、近藤らが幕府直参になった5日後の慶応3年(1867年)6月15日で移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎(映画「壬生義士伝」中井貴一が演じた主人公)が西本願寺との交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担する事になったと伝える。不動堂村屯所は興正寺の下屋敷ともいわれ屯所の広さは1万uの大名屋敷並の規模を持ち、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の部屋、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋を構え大風呂は一度に30人が入れた。ここに居たのは慶応3年(1867年)6月15日〜屯所が伏見奉行所へ移される同年12月12日までの半年足らずでした。近藤勇の妾宅が屯所近くの堀川通塩小路上ル辺りにあった。

山切り模様に誠・・新撰組仕様の提灯 不動堂村屯所跡(リーガロイヤルホテル辺り) 近藤勇妾宅跡辺り
6/4グランドオープンのイオンモールKYOTO

かつて銭取り橋と言われた勧進橋・・・禁門の変に新撰組が宿陣した九条河原辺り

元治元年(1864年)6月24日、新選組は会津・桑名藩兵と共に、長州藩が挙兵し上京するのを竹田街道で阻止する為、勧進橋東側の九条河原に宿陣した。新撰組は大垣・会津藩と共に伏見稲荷から墨染まで追い討ちをかけ長州藩兵を押し返したが、夜明けに御所の方から砲声が聞こえ御所付近に黒煙が上がるのを確認し、すぐさま近藤指揮の元、九条河原から御所へ向かいました。新撰組がここで宿陣したのは7月19日の禁門の変までの約1ヶ月間に及んだと伝える。また、新撰組隊士・武田 観柳斎(たけだ かんりゅうさい)が暗殺された銭取り橋(勧進橋)・・・武田は文久3年(1863年)冬頃に新選組に参加。甲州流軍学(長沼流)を修める軍学者として近藤勇に重用され、元治元年(1864年)に副長助勤に抜擢される。後に五番隊組長や文学師範、軍事方といった地位に就き、甲州流軍学による調練を担当した。池田屋事変では、古高俊太郎を捕縛するなどの功により褒賞金20両を賜り、禁門の変や明保野亭事件、また永倉新八や斎藤一らが近藤の専横を非難した際には仲裁を務めるなど、軍才を背景に存在感を示すが、巧みな弁舌で近藤などに媚びへつらうなど、武田に対して嫌悪を示す隊士も少なくなかったと伝える。そもそも近藤が専横に走ったのは武田が近藤に隊士は家臣として局長を慕っていると吹き込んだからとする説もある。後に新撰組で洋式調練が採用されるようになると、甲州流軍学の武田は隊内での影響力を失い、伊東甲子太郎や薩摩藩との接触を企てるなど、不穏な行動を示し始める。慶応3年6月22日、伏見竹田街道の鴨川に架かる銭取橋で暗殺された。暗殺者は斎藤や篠原泰之進が関与したと伝えるが、当時2人は御陵衛士に参加していたので別人の可能性もある。

Tourist  2010.05.31(M)

 

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