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御影堂(重要文化財:江戸期) |
阿弥陀堂(総御堂/重要文化財:江戸期) |
屯所跡(北集会所)があった宗務総合センター |
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新撰組隊士が剣術、大砲、実弾射撃調練などをしていた広大な境内 |
新撰組屯所の名残を今に伝える太鼓楼 |
新撰組伍長・島田魁(しまだかい) |
新撰組草創期に入隊し、隊随一の巨漢(身長180cm、体重150s)で剣客だったという。鳥羽伏見の戦いでは決死隊になるほどの勇者で五稜郭の戦い降伏後、新政府からの出仕の勧誘があったが、頑として受け入れなかった強い信念の持ち主であった。新撰組終焉後は、土方歳三と共に箱館に行き、土方歳三の死を看取ったとも言われているが、弁天台場で、土方歳三の戦死を聞いたとも伝える。戦後、京都・西本願寺の守衛を勤めました。西本願寺は一時、新撰組の屯所が置かれました。当時、西本願寺での新撰組の評判は悪く、殺生ご法度の寺に新撰組が屯所としたから、評判が良い訳がない。明治33年(1900年)3月20日、西本願寺境内で持病の喘息で没しました。又、島田魁は新撰組の名簿「英名禄」を残しました。京都に戻った島田は、下京区大宮旧丹波口下ルの路地奥に住まいして西本願寺の守衛、太鼓番に通ったと伝える。 |
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阿弥陀門 |
島原商店街 |
この路地奥に新撰組・島田魁の家があった・・ |
島原 |
当地は上古は東鴻櫨(とうこうろ)館の北にあたり、中古には観喜寿院の封境に接し近世は、葛野朱雀野と呼ばれる茫漠たる広野でしたが忽然と不夜城が出現しました。我が国最初の公許遊郭として公認されたのは、天正17年(1589年)と伝え当初は二条柳馬場にあったから柳町と称しました。慶長7年(1602年)、六条に移転し寛永17年(1640年)、現在地に移転しました。当時、肥前国(長崎県)島原に吉利支丹(キリシタン)一揆が勃発し城郭に立て篭っていたが、この郭の造りが似ていたところから戯れに島原と称したのが通名になったと伝えます。一説には急な移転の為に遊郭中が大騒ぎとなり島原の乱の様な騒ぎだったからとも伝える。 |
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島田魁宅は、この辺り? |
出口の柳と常夜灯 |
島原大門 |
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置屋の輪違屋(※現在も営業中なので非公開) |
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格子窓のある旧家(揚屋の松本楼?) |
揚屋の角屋(重要文化財:江戸期) |
久坂玄瑞の密議の角屋碑 |
角屋(重要文化財:江戸期) |
木造二階建て、表全体を格子造りとした揚屋建築の唯一の遺構で表、裏、台所の三部からなっています。表二階は緞子(どんす)の間を主室に翠簾(みす)の間、扇の間があり奥二階には草花の間、馬の間、孔雀の間、囲いの間など諸室があり一番奥に壁を始め随所に青貝を散りばめ数奇を凝らした青貝の間があります。これらの部屋は電灯を用いず行灯を使い階下台所は三十畳敷きの大部屋で古い民家の台所遺構として最も注目されるべきとされます。幕末期、長州の久坂玄瑞などが密談をしたとされます。★置屋とは太夫、遊女などを抱えているので置屋と言います。太夫、遊女など一切に抱えず遊客を上げて遊ばせるから揚屋と言います。 |
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こま札 |
揚屋の角屋(角屋もてなしの文化美術館) |
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説明 |
東鴻櫨(とうこうろ)館跡 |
島原西門跡 |
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島原西門碑とイメージ図 |
島原住吉神社 |
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解説碑 |
社殿 |
歌舞練場跡 |
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解説碑 |
沖田総司が子供らとよく遊んだ壬生寺 |
壬生寺の千体仏塔 |
By
新撰組!
新撰組壬生屯所跡・八木邸 |
文久3年(1863年)、将軍警護の為に組織された浪士隊(新徴浪士組)として上洛した近藤勇、芹沢鴨ら13名の宿舎として、前川荘司邸、南部亀二郎邸と共に、慶応元年(1865年)2月に西本願寺へ屯所が移るまでの2年間、新撰組屯所として使用されました。現在、八木邸は一般公開されています。門を入って右側の式台のある奥座敷が、芹沢鴨等が暗殺された部屋で、刀傷が鴨居に残っています。慶応元年(1865年)2月頃、西本願寺・集会所に屯所を引っ越す時に近藤勇、土方歳三らは主なる郷士の家々へ挨拶回りを行い二年間の部屋代の謝礼として八木家に金子5両、前川家へ金子10両を差し出し郷士の人達をア然たらしめたと伝える。 |
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この辺りに隊士が通った遊郭があった。 |
上洛した浪士隊の宿舎になった新徳禅寺 |
新撰組発祥の地・新撰組壬生屯所跡(八木邸) |
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こま札 |
新撰組壬生屯所跡(八木邸) |
新撰組屯所跡・前川邸(非公開) |
近藤勇、芹沢鴨達は当初、八木邸を宿舎としました。その後、京都守護職御預となり隊士が増え、八木邸だけでは手狭になりました。次に屯所となったのが、近所の前川邸でした。池田屋事件の発端となった、古高俊太郎を拷問した土蔵があります。局中法度に触れ、切腹を命じられた隊士も多く、総長・山南敬介は局を脱走し沖田総司に連れ戻され前川邸で切腹しました。山南敬介は、島原の明里に会いたいと永倉新八に頼み駆けつけた明里と出窓越しに別れを惜しんだと伝わりますが当時の出窓は現在ありません。前川邸は非公開です。総長・山南敬介他2名の墓と松原忠司他11名、副長助勤・大石鍬次郎の実兄・大石造酒蔵(非隊士)の3つの墓が光縁寺にあり何れも些細な事が隊規に触れて切腹、断首の憂目にあった隊士らで新撰組の局中法度がいかに峻烈を極めていたかを物語っています。 |
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新撰組隊士も毎日飲んだと伝える「鶴寿井」 |
新撰組隊士腰掛の石 |
旧前川邸 |
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旧前川邸玄関 |
山南敬介ら新撰組隊士の墓がある光縁寺 |
武信稲荷神社 |
武信(たけのぶ)稲荷神社 |
創祀年月を明らかにしないが延命院の鎮守社と伝え延命院は三条通の勧学院の南にあって平安時代初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将・藤原良相(よしすけ)が私邸の一部を割き勧学院に学ぶ子弟の為に病舎としたもので延命院廃亡後、神社のみが残りました。藤原武信なる人が旧地の近くの当地に勧請奉祀したものと伝え江戸時代には青山播磨守の邸内にあったが明治の廃藩置県後も残って創祀以来、今日まで一千年余に亘り信仰されています。創祀した藤原良相が一族の名付けをしていた事から名付け、命名所縁の神社としても知られます。又、樹齢数百年に及ぶエノキの老木は、平重盛が安芸(広島県)宮島の厳島神社から苗木を運んで植えたと伝え天然記念物に指定されています。エノキの老木は、昔この辺から西を葛野郡朱雀野村と呼んだ往時を偲ばせます。このエノキは、坂本龍馬とお龍は牢獄に囚われた父・楢崎将作の様子を何度か見にきているが、龍馬も追われる身であり面会が叶わない為、このエノキに登って様子を伺ったと伝える。その後も龍馬は命を狙われお龍と離れ、身を隠していたのでお龍は龍馬に会えない。そんな時、二人で何度も訪れた当社のエノキを思い出し訪れた。するとエノキの幹に龍馬からお龍へ「自分も京都にいてお龍を探している」という伝言として『龍』の字を彫ってあった事により二人は再び出会えたという龍馬とお龍の縁結びのエノキとも伝える。 |
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境内 |
龍馬が『龍』の字を伝言に彫ったと伝えるエノキ |
社殿 |
六角獄舎跡、山脇東洋観臓(やまわきとうようかんぞう)の地碑 |
平安時代の獄舎は左獄、右獄の二ヶ所があって右獄は早くに廃され左獄が京都府庁の西側にあったが天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命によって小川通り御池上ル下古城町に移転されました。宝永5年(1708年)、大火に類焼して当地に移転し六角通りに面していたので俗に六角の獄舎と呼ばれました。東西約69m、南北約53m、敷地面積約3640uと伝わり罪科の軽重によって構造を別にし上がり屋、本牢、切支丹牢がありました。天明の大火で類焼し維新後は監獄署と改名し上京区竹屋町通り日暮西入ルに移転し昭和大典にあたって山科に移転したのが現在の山科刑務所です。史上有名になったのが幕末期の元治元年(1864年)7月19、20日の両日に起こった蛤御門の変で牢獄中の平野国臣(くにおみ)ら33名が処刑された事です。この時の兵火は蛤御門付近から生じ河原町・長州屋敷の放火にもよるもので兵火は京都市内の大半を焼き尽くし翌20日には堀川を越えて六角獄舎に及ばんとしました。時の町奉行・滝川讃岐守具挙(ともよ)は「破獄を企てた」として平野国臣始め大和義拳の乾嗣竜(つぐたつ)、足利尊氏の木像を斬った長尾武雄、池田屋騒動の発端となった古高俊太郎や横田精之、大村包房ら33人が切支丹牢の東側に集められ昼〜夕刻にかけて断首されました。当時、勤皇という美儀の元に行われた長州勢の暴挙がいかに京都市民などに甚大な被害を与えたかを物語っている。又、山脇東洋は山脇玄修に医学を学び養子となり宝暦4年(1754)年、六角獄舎で日本で初めて男性刑死人の解剖を行い人体構造を観臓し解剖記録として「臓志」を著しました。 |
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六角獄舎跡、山脇東洋観臓の地碑 |
平野国臣他勤王志士終焉跡、日本近代医学発祥地碑 |
北小路の変跡(油小路、北小路四辻辺り) |
天満屋事件(中井庄五郎遭難之碑)、北小路の変 |
天満屋事件・・・慶応3年(1867年)12月7日夜、宿屋の天満屋で斎藤一ら新選組隊士7名が坂本龍馬暗殺の嫌疑をかけられた紀州藩々士の三浦休太郎の護衛に就き三浦らと酒宴をしていた時、陸奥宗光ら海援隊、陸援隊々士ら16名に襲撃された事件で三浦休太郎が新撰組や見廻組に指示をして竜馬を暗殺させたという情報から坂本龍馬暗殺の報復騒動でした。居合いの達人とされる中井庄五郎が三浦に斬りかかり剣先が頬をかすり三浦は軽症を負いながら屋根伝いに逃げ、激しい乱闘となったが灯が消えると真っ暗で「三浦を討ち取った!」の新選組隊士の機転の一声で陸奥宗光らは一斉に逃げ去り乱闘は短時間で終わりました。新撰組は三浦警護に成功しましたが隊士の宮川信吉(近藤勇の甥)が討死、もう一名の舟津釜太郎も重傷を負って後日に死亡し海援隊々士の中井庄五郎(十津川郷士)も討死しました。三浦は明治になって東京府知事(現、都知事)にもなった。北小路の変・・・天満屋事件の時、天満屋に援軍として向かった新撰組隊士らと紀州藩士らが互いを敵と錯覚し油小路と北小路の四辻辺りで双方が斬り合いになったが、幸いにも死者は出ませんでした。 |
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この辺りに天満屋があった。事件を示す天満屋事件碑(中井庄五郎遭難之碑) |
油小路の変跡(油小路、七条通り四辻辺り) |
油小路の変 |