若狭街道チャリチャリ大原の里散策

 

思ひきや 深山の奥に すまゐして 雲居の月を よそに見むとは  建礼門院

 

東福寺〜河合神社〜史跡・糺の森(ただすのもり)〜下鴨神社〜寂光院〜三千院

 

若狭街道(鯖街道)

京の七口の一つ大原口〜若狭湾の港町・小浜に通じ、京都への鮮魚輸送路だったので鯖街道とも呼ばれました。かつて大原女が炭や薪、柴などの行商に往来した街道でもありました。京都の北、出町柳付近から高野川沿いに北東方向に進み大原〜滋賀県大津市の伊香立途中(いかだちとちゅう)町を抜けます。更に安曇川(あどがわ)を北上し高島郡保坂(ほうざか)で今津から来た九里半越(くりはんごえ)に合流、その道を一直線に福井県小浜市まで延々約68kmの道程でこれが若狭街道で一に鯖街道と呼ばれます。小浜で獲れた鯖に一塩し、この街道を京都まで運んだ事に因んで人々は鯖街道と呼びました。江戸時代の末期には若狭久々子(くぐし)湖で獲れた鰻を活きたまま京都に運び巨利を得た川渡甚太夫(かわとじんたい)は、その金を元手に船を買い日本海を北上し蝦夷(北海道)の産物を西廻り航路で大坂に運ぶ北前船で更に富を築きました。

風光明媚な洛北

京都市の北部、北区、左京区の一部を含めた広域な地域を言い、専ら山地で占められています。このうち比叡山、桟敷ヶ岳は1000mに近い高山ですが他はそれより低い山々が東西に渡って連なり、その山間を大原川、鞍馬川、雲ヶ畑などの諸川が渓谷を縫って南流し加茂川(鴨川)の源流をなしています。人家は山間渓谷の地に限られ大きく発展する事はなかった。一つは東西を結ぶ交通網がなかった事も一因とされます。しかし、風光明媚の地として早くから着目され多くの寺院や貴紳の山荘が営われ中でも大原は代表的な山荘地です。元来、大原は山林を業とし薪炭を生産する炭窯の里であるが平安時代の中頃、延暦寺の俗化を嫌った一部の僧達が下山し当地に草庵や坊舎を建て仏道修行の場としました。以来、大原は念仏僧の修行地として栄えました。一方、山荘地としては修学院の山荘、石川丈山の詩仙堂に代表されます。特に修学院は後水尾上皇が長年に亘って洛北一帯を探訪し最適地と着目されたので洛北中、風光明媚においては他の追随を許さずと称されています。他に藤原公任(きんとう)、藤原惺窩(せいか)の山荘が知られますが病気療養地としても知られ冷泉天皇皇后は観音を祀って病気平癒を祈願された事があり足利義政も岩倉の長谷殿に滞在し心身の療養に努めました。これは洛北が土地高燥にして空気、水が清澄な為で気候風土に恵まれた環境下にある事を如実に示しています

JR奈良線・稲荷駅

日本最古の鉄道遺蹟・ランプ小屋

稲荷大社表参道

東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。平安中期以来、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺(ほっしょうじ)内に延応元年(1239年)、前関白九条道家が仏殿を上棟、奈良・東大寺、興福寺になぞらえて寺名を東福寺とし開山に円爾弁円(えんにべんねん)を迎えました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり京都五山に列せられました。道家没後も九条、一条家の庇護を受けて仏殿、法堂など多くの伽藍が整備され法性寺を凌ぐ大寺院となりました。その後、応仁の乱や度々の兵火に掛かり荒廃しますが権門勢家の援助により復興されました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と大火でも荒廃しますが現在の法堂が竣工したのは昭和9年(1934年)で塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は日本最古で最大です。

東福寺中門

東司(とんす:室町時代に造られたトイレ)

東司内部の便壺

仏殿(本堂)

三門(国宝・鎌倉期)

偃月橋(えんげつきょう:重要文化財・桃山期)

三ノ橋川(偃月橋より

即宗院(非公開)

竜吟庵(非公開)

通天橋(臥雲橋:がうんきょうより)

尺八の根本道場・明暗寺(善彗院)

元和キリシタン殉教の地碑

江戸幕府による最初のキリシタン(キリスト教信者)弾圧は、慶長17年(1612年)に始まり慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が起こるまで続きました。二回目の弾圧は、元和年間(1615〜23年)に始まり元和5年(1619年)、徳川秀忠上洛に際し激烈を極め、伏見でキリシタン投獄者の事を知った秀忠は全員を火あぶりの刑に処す事を命じ七条河原で老若男女52人を十字架に磔て火あぶりの刑に処しました。

元和キリシタン殉教の地碑

牛若丸と弁慶が出会ったのは五条大橋と伝えますが本来は右の松原橋(旧五条大橋)とです・・・

出雲の阿国像

南座

鴨川の飛び石(丸太町橋)

河合神社

鎮座の年代は、不詳であるが神武天皇の御代から遠くない時代と伝えられ下賀茂神社の第一摂社で延喜式に記された古社です。古来、鴨河合坐小社宅(かものかわあいにいますおこそやけ)神社が社名と伝えます。鴨河合というのは、古来の地名の事で天安2年(858年)、名神大社に列せられ寛仁元年(1017年)に神階正二位、元暦2年(1185年)には正一位に叙されました。社殿は延宝7年(1679年)、式年遷宮の際のものを修復しました。祭神は神武帝の生母の玉依姫命(たまよりひめのみこと)で玉依姫命は安産、育児、縁結びなどの女性の守護神として信仰されています。「方丈記」著者の鴨長明はこの河合神社の禰宜の家に生まれたが、諸事情によって禰宜を継ぐことができなかった。この事から強い厭世感を抱くようになり、やがて「方丈記」を書くにいたったと伝えられます。

鴨川沿いをチャリチャリと北上(加茂大橋)

高野川の飛び石(加茂大橋)

下鴨神社

河合神社四脚中門

再建された伏見の日野にあった鴨長明が住まいした方丈は釘を1本も使っていないとです・・・

史跡・糺の森(ただすのもり)

糺の森は、高野川と鴨川が合流する三角州地帯の森林を総称します。かつて、約495万u(約150万坪)の原生林でしたが中世の戦乱や明治4年の上知令によって現在の約12万4千u、東京ドームの約3倍に縮小されました。現在、全域を国の史跡として保存されています。旧山代原野の原生樹林の植生を残す唯一の森林で、ケヤキ、ムク、エノキなど約40種、樹齢200年〜600年の樹木約600本が生い茂り樹林の間には奈良の小川、瀬見の小川、泉川、御手洗(みたらし)川の清流があり市民の憩いの場として古くから親しまれています。源氏物語、枕草子を始め数々の物語や詩歌管弦に謳われた名所旧跡です。

拝殿

幣殿、本殿

幽邃な史跡・糺の森

幽邃な史跡・糺の森

神木とキララがキラキラしているとです・・・

下鴨神社

正しくは賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称し祭神は上加茂神社の祭神・別雷命(わけいかづちのみこと)を生んだ玉依姫命(たまよりひめのみこと)と祖父・加茂建角身命(かもたけつぬのみこと)を祀る加茂氏の氏神社です。地勢によって上加茂神社を上社と言うのに対し当社は下社と言いますが行幸、斎王、式年造営などは同日に行われます。両社を称して加茂神社と言います。鎮座地は糺の森の中にあって朱の鳥居や楼門が緑に映えて一しお目立ち、桧皮葺の典雅な社殿と相俟って王朝時代さながらの景観を呈しています。本殿(国宝:江戸期)は三間社、流造り、桧皮葺で上加茂神社本殿と同形式からなる流れ造りの典型で文久3年(1863年)の再建です。他に幣殿を始め55棟からなる多々の社殿(重文:江戸期)は何れも寛永5年(1628年)の造替ですが全体に古式を留め、昔の貴族住宅を偲ばせています。境内には摂社、末社が多く中でも三井神社は「山城国風土記」に記された蓼倉里三身(たでくらのさとみ)社とあるのは当社とされます。井雲井於(いづものいのえ)神社は一に比良木社とも呼ばれ下鴨の地主神ですが厄除けの神としも崇敬され願いが叶うとお礼に柊を献ずる慣わしがあります。御手洗社は井上社とも言い井泉の神瀬織津姫を祀り社前の池で御手洗会、夏越の祓が行われます。河合神社は本社より南、糺の森中に鎮座する摂社の一で玉依姫命と上下加茂社の苗裔(びょうえい)神を祀る延喜式内の大社です。

川端康成が「古都」を執筆した葵邸

奈良の小川の御手洗・・・ナラ林を流れる小川に因んで名付けられ右手をさし浸し禊ぎます・・・

手水舎(御手洗:みたらし)

説明札によると手水舎を御手洗(みたらし)と呼び、糾(ただす)の語源として直澄(ただす)と名付けています。手洗石は神話伝承から舟形の磐座(いわくら)石で、左側の樋には糾の森の主と呼ばれていた樹齢600年のケヤキが使われています。覆屋(おおいや)は伝承の記録をもとに再現した透塀(すきへい)です。京都三大祭の一、葵祭の主役・斎王代(さいおうだい)の斎王代禊之儀(みそぎのぎ)が行われる御手洗池は御手洗社(井上社)前にあります。

手水舎(御手洗:みたらし)

樋(左)には糾の森の主と呼ばれていた樹齢600年のケヤキと手水石は舟形の磐座(いわくら)石

下鴨神社参道

国家「君が代」にも出てくる「さざれ石」

縁結びに霊験のある相生社

楼門と東西の楼門廻廊(共に重要文化財:江戸期)

比良木社(柊社)

神服殿

舞殿

橋殿

細殿

輪橋(そりばし)と光琳の梅(御手洗川)

御手洗社(井上社)と御手洗池

中門

幣殿、本殿(国宝:江戸期)

比叡山(松ヶ崎橋)

五山の送り火「妙法」の「法(東山)」

比叡山(三宅橋)

叡山電車・八瀬比叡山口駅

高野川

叡山ケーブル・八瀬駅

八瀬を通過中とです・・・

八瀬トンネル

高野川

生(せりょう)の里、大原女(おはらめ)

芹生の里・・・大原川(高野川)の西岸、草生の南を称したが今はこの名を用いません。小倉百人一首に選ばれている良暹(りょうせん)法師の「淋しさに 宿を立ち出で 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ」は良暹が、この芹生に閑居していた時の詠歌と伝え今も閑寂な風情は昔を偲ばせています。大原女・・・大原の炭窯として古来、和歌に多く詠われました。里人の多くは薪柴を業とし京へ売り歩くのが有名な大原女です。頭に縫模様のある手拭いを被り紺衣に御所染の帯をまとい、二巾半の前だれを腰につけ白の脚絆(きゃはん)に甲掛をはめ頭上に薪や柴を載せて売り歩きます。これは、阿波の内侍(藤原信西の娘)が建礼門院に勤仕していた頃に山中に薪や柴などを刈りに行く時の装束を里人が真似たと伝え風雅清楚な服装は上薦めいています。

大原へ入ったとです・・・大原女がお出迎え?!

のどかな芹生の里(大原)・・・彼岸花が美しい!

寂光院(じゃっこういん)

天台宗延暦寺派の尼寺で清香山と号します。寺伝によると推古天皇の御代2年(594年)、聖徳太子が用命天皇の菩提を弔う為に創建、太子の乳人・玉照姫(たまてるひめ)が初代の住職を務めたと伝えるが定かでなく、一説には承徳年間(1097年〜99年)。聖応大師・良忍の開基とも伝えます。「平家物語」によると建礼門院は平家滅亡後、東山長楽寺で出家、次いで大原のこの地に隠栖しひたすら高倉上皇、安徳帝、一門の菩提を弔われた。文治2年(1186年)の夏頃、後白河上皇が夏草の茂みを踏み分けて御幸されたのは此処だと伝えます。寺は中世以降、近江国坂本(滋賀県大津市)の聖衆来迎寺に属し同寺で得度した尼僧が寂光院の歴代住職を務める慣わしになっています。本堂は入母屋造り、柿葺き(こけらぶき)、慶長4年(1599年)、豊臣秀頼の生母・淀殿によって改修され寺領三十石が寄進されました。堂内には2mを越える本尊・六万躰地蔵立像(室町期)を安置し胎内には3417体もの地蔵小像を安置し脇壇には建礼門院坐像、阿波内侍張り子坐像を安置されていましたが平成12年(2000年)5月9日未明の不慮の被災によって本堂が全焼し建礼門院座像、阿波ノ内侍張り子座像なども焼損しましたが焼け焦げた本尊の胎内の地蔵菩薩小像3417体、教典五巻、香袋など重文指定されている品々が奇跡的に無傷で保護されたました。本堂は無事に再建され平成17年(2005年)6月2日に落慶法要が営まれました。

茅葺き家屋の大原耳順庵

寂光院

参道の石段

侘びな門(茶室)

閑寂な参道とです・・・

山門

宝篋印塔(ほうきょういんとう:供養塔)

 玉だれの泉と三段の滝

境内

伏見城から移した南蛮鉄の雪見灯篭

類焼し枯れた樹齢千年と伝えるひめ小松

建礼門院陵(第80代・高倉天皇皇后徳子大原西陵)

女院の名は徳子、法名を真如覚と言い太政大臣・平清盛の次女です。17歳で高倉帝の女御となり次いで中宮となって安徳帝を生みました。大原に隠棲される事28年間、建保元年(1213年)12月13日、59歳で亡くなりました。源頼朝は女院の為に平宗盛の遺領の摂津国真井、島屋両庄を贈ったと伝えます。女院に勤仕した阿波の内侍(藤原信西の娘)、大納言佐の局(平重衡の妻:安徳帝乳母)、治部卿局(平知盛の妻)、右京太夫局(平資盛の愛妾)の墓は寂光院の裏門の南、谷川を隔てた山中にあります。

再建されたばかりの本堂

高倉天皇皇后徳子大原西陵

参道の石段・・・徳子さま〜 σ(^◇^;)

平家物語ゆかりの朧(おぼろ)の清水

建礼門院徳子が朧月夜にこの清水に姿を写されたと伝えます。良暹(りょうせん)法師は「程へてや 月も浮かばむ 大原や 朧の清水 澄むばかりに」と詠み、寂然法師は「ひとりすむ 朧の清水 友とては 月をぞ宿す 大原の里」と詠みました。古来、多くの和歌にも詠まれた名水井です。

高倉天皇皇后徳子大原西陵

草生の里(大原)

平家物語ゆかりの泉「朧(おぼろ)の清水」

遠方(中央奥)に比叡山が見えるとです・・・

草生の里(大原)を流れる大原川

三千院参道(桜馬場)

三千院

天台宗延暦寺派の門跡寺院。延暦年間、比叡山東塔南谷の梨の大木の下に一宇を構えたのが起こりと伝え、古くは梨本房、円融院(円融房)、円徳院とも称しました。堀川天皇の皇子・最雲法親王が入寺して以来、代々、法親王の往持するところになり世に梶井宮、梶井門跡とも称し来迎院、勝林院を中心とする魚山大原寺の取締りに当りました。里房は、もっぱら京都市内にあったが明治維新にあたり門主が還俗し梨本宮家を興された為、大原に移り寺名を三千院と改めました。本堂の往生極楽院(重文:平安期)は三間四面、単層、入母屋造り、柿葺き、妻入りの軽快な仏堂で内部は藤原時代の阿弥陀建築の様式を留めています。特に舟底天井は珍しく、二十五菩薩の来迎図を描き本堂背後の来迎板には両界曼荼羅図、外陣の小壁には千仏を描いている。堂内中央に安置する本尊・阿弥陀三尊像(重文:平安期)は、いずれも寄木造り、彫眼入り、金皆色です。中でも中尊は丈六の坐像で上品下生の印相を示し、向かって右脇侍の観音像は蓮台をささげ左の勢至像は合掌し共に膝を屈して跪坐しています。辰殿は宮中で行われた御懺法講(おせんぼうこう)などの法儀を執り行う重要な建物で紫辰殿を模して寝殿造りとし、内部には本尊・薬師瑠璃光如来、救世観音半跏像(重文:鎌倉期)、不動明王立像(重文:室町期)を安置しています。庭園(江戸期)は上段の有清園(ゆうせいえん)と下段の聚碧園からなり前者は池泉廻遊式、後者は池泉観賞式とされ、いずれも池泉をうがち石組み、刈り込を配した幽邃閑雅な江戸初期の庭園です。

御殿門

清浄水

庭園(聚碧園(しゅうへきえん)@辰殿)

苔の絨毯のようでっす・・・有清園(ゆうせいえん)

殿

細波の滝(有清園)

往生極楽院(本堂)

童(わらべ)地蔵

童地蔵

有清園

京都七福神の一・・・弁財天

金色不動堂

二十五菩薩石庭

二十五菩薩石庭

観音堂

石仏祠(売炭翁旧跡)

売炭翁石仏(阿弥陀石仏:鎌倉期)

紫陽花苑と杉木立

苔むした聚碧園(しゅうへきえん)

脇門(出口門)

朱雀門

キララがキラキラ・・・さっ、伏見へ帰ろう!

茅葺の家屋

コスモス

高浜虚子なども逗留した元、旅館のますや

草生の里(大原)

大原川(高野川:若狭街道:R367)

比叡山(松ヶ崎橋)

鴨川沿いをチャリチャリと南下・・・

高野川の飛び石(加茂大橋)

七条大橋

京都タワー

Tourist  2005.9.26(M)

 

関連コラム

Pちゃんズの「大原 One day散策」

Pちゃんズの「大原 One day散策」

近江紀行「秀吉の城下町・長浜」

近江紀行「秀吉の城下町・長浜」

近江紀行「井伊家35万石の城下町・彦根」

近江紀行「井伊家35万石の城下町・彦根」

Pちゃんズの近江紀行「湖都周遊編」

Pちゃんズの近江紀行「湖都周遊編」

Pちゃんズの近江紀行「烏丸からすま半島編」

Pちゃんズの近江紀行「烏丸からすま半島編」

三条大橋〜逢坂山峠越え・・・東海道歩(ほ)っこ〜り探訪

三条大橋〜逢坂山峠越え・・・東海道歩(ほ)っこ〜り探訪

Pちゃんズの近江紀行「竹生島編」

Pちゃんズの近江紀行「竹生島編」

Pちゃんズの近江紀行「太閤さんの城下町・長浜編」

Pちゃんズの近江紀行「太閤さんの城下町・長浜編」

延暦寺「世界遺産散策」

延暦寺「世界遺産散策」

比叡三塔物語・横川散策

比叡三塔物語・横川散策

比叡三塔物語・西塔散策

比叡三塔物語・西塔散策 比叡三塔物語・東塔散策 比叡三塔物語・東塔散策

延暦寺、ガーデンミュージアム比叡散策

延暦寺、ガーデンミュージアム比叡散策

スライドショー「都富士:比叡越え」

スライドショー「都富士:比叡越え」

 

Pちゃんズの古都珍道中記 Pちゃんズの古都珍道中記

 

洛雅記 洛雅記2005年探訪コラム

 

inserted by FC2 system